「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・屋上の巨大ブルドーザー

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                    情報プラットフォーム、No.246、3(2008)
{屋上の巨大ブルドーザー}


  昨年の11月中旬に高知県技術者協会の見学ツアーに参加した。訪問先は枚方市の小松製作所(株)大阪工場である。この工場では、中型・大型のブルドーザー、油圧ショベル、そして自走式の各種破砕機や土質改良機など、コマツ(略称)の目玉製品を生産している。リーフレットにはコマツの歴史が短く記されている。

「創業者 竹内明太郎が石川県小松市に小松製作所を設立(1921年)してからおよそ30年後(1952年)、戦後ゆれ動く日本経済の中でコマツの新たなる発展を目指し、大阪工場が誕生しました」とある。情報一元化の組立ラインを見学しながら、乗用車生産ラインとは一味異なる重厚さを感じた。そして、10数年前に工科系大学の創設に関わって、高知の地を踏んだ頃を思い出していた。


 (株)太陽の山田通さんが読んで下さいと「沈黙の巨星~コマツ創業の人・竹内明太郎伝」(北国新聞社出版局、1996)を持ってこられ、母校の高知工業高校へ、正門脇の竹内明太郎の胸像へと案内して下さった。

同校が明太郎によって設立され、この本がコマツ発祥の地の小松商工会議所と明太郎の出身地の高知県の有志の調査により、直近に刊行されたものであることを知った。これにより明太郎の足跡を要約すれば以下のようである。

父は宿毛の土佐上級藩士の竹内 綱であり、吉田 茂は異母弟になる。実業家・竹内明太郎は、掘り尽くして鉱山が廃坑になる時に備え、地域社会が寂れないような経営転換を考えて小松製作所を設立している。さらに、欧米の高い工業水準と科学技術を支えているのは実践教育との信念から、早稲田大学理工学部や高知工業高校の創設に関わっている。


 読み進むうちに、私が高知で工科系大学設立に関わることは宿命であったと感じるようになっていた。高知、コマツ、工科大学の三角形が組み上がっているように思えた。


 明太郎は工科大学設立の構想を持って東京高等工業学校校長・手島精一に相談した。結果として、理工学部設置の悲願を持つ大隈重信を紹介されて、早稲田に理工学部ができることになった。この東京高等工業学校は私の学んだ東京工業大学の前身であり、手島精一の銅像が大岡山の正門横にある。

私が東工大金属で学んだ1950年代は、テレビの放映とともに力道山のプロレスに熱狂していた時代である。吉田宰相由来のワンマン道路と呼ばれる日本初の高速道路の建設や、川崎製鉄の千葉製鉄所の着工に象徴される巨大設備投資が始まっていた。コマツもこの頃、大阪工場を起ち上げ、本社を東京に移して、大企業への道を歩み始めていた。私にとって、本社ビルの屋上のブルドーザーはコマツの象徴であり、魅力的だった。このこともあってか、多くの教え子がコマツに行っている。


 終わりに一言、蛇足を。愚息は横浜国立大学工学部金属を卒業し、コマツに就職している。公務員一家だった我が家に、身内の関わる初めての応援企業が誕生したのである。道路脇の工事現場でブルドーザーを見ると「あ、コマツだ!!」と気にするようになっていた。

ところで、明太郎の長男、強一郎は横浜高等工業学校の教授を務め、その後小松製作所に移っている。なお、この工業学校は横浜国立大学工学部の前身である。


 「ブルドーザーは1991年に撤去しました。巨大なコンクリート製でした」と工場案内の方が教えてくれた。明太郎が「これこそが夢」と言うであろう高知での工科系大学の創設に参画できたことは望外の喜びである。山田通さんの夢もそれであったと思う。

 

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鈴木朝夫  s-tomoo@diary.ocn.ne.jp

 高知県香美郡土佐山田町植718   Tel 0887-52-5154 

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