南国土佐にやって来て
情報プラットフォーム、No.303、12月号、2012、掲載
20年程前に縁もゆかりもなかった土佐の高知に深く関わるようになった。東京工業大学を定年退職して、北海道大学に赴任した直後のことで ある。新千歳-羽田-高知と乗り継いで往復することが多くなった。工科系大学計画策定委員会委員になったのである。そして、高知工科大学に本 格的に関わることが濃厚になった時点(1993年)で、見ておかなければの思いで、第2回を迎えるYOSAKOIソーラン祭りを見に行った。 その迫力に圧倒された。仕掛け人の長谷川岳さん
にもお会いし、その思いを伺う機会も持てた。
翌年には本場の土佐の高知のよさこい鳴子踊りを見ることができた。委員会の開催日程をよさこいの祭りに合わせてくれたのである。開学した らすぐに工科大連を作ろうと決心した。開学の1年前には、高知から橋本大二郎知事を団長とする使節団がアメリカに向かった。同行した私の役割 はMIT(マサチュセッツ工科大学)との姉妹校提携の予備交渉だった。よさこい踊り子隊の指導に付いてきた荒谷深雪さんに教わり、ボストンの マーケット広場で踊ることになった。
よさこい踊りを踊りながら、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」との関係が分からなくなっていた。
ペギー葉山さんの生演奏を聴いたのは、高校3年生か、大学1年生(1950年か1951年)の時と思っている。そのとき「南国土佐を後にして」が曲目に あったかどうかは定かではない。ご経歴を検索してみると1952年にキングレコードから
デビューとある。それ以前は米軍キャンプ回りをしてい たとのことで、その時代にも歌っていたのだろうか。私が生演奏を聴いたのは府中刑務所の講堂であった。戦後の混乱が収まり始めた頃であり、コ カコーラ、リグレイのチュウインガム、ハーシーのチョコレートに憧れていた時代でもある。父は府中刑務所長であった。規律を保ちながらも、収 容者には心のゆとりが必要との考えから、娯楽・観劇やスポーツを取り入れる先駆的な活動をしていた。その手始めがペギー葉山の公演だったよう に思う。大勢の受刑者が規則正しく整然と床に座っている。その最後尾に、隠れるように座った。
共学の経験もない男の子にとっては、憧れの人であり、初恋の人と言っても良い位である。その後、ご活躍の様子をテレビで拝見し、「ペギー葉山」とアナウン スが聞こえるたびにあの講堂を思い起こしていた。しかし、四国に行ったこともない私には、「よさこい節」も「南国土佐」も「ペギー葉山」と同 様に遠い存在であった。
それから時が経ち、松尾徹人氏の後を受けて、昨年の暮れに高知県高坂学園生涯老人大学の学長に就任することになった。昨年発行された設立30周年記念誌「30年の歩み」によれば、記念式典にペギー葉山さんをお迎えしている。先日の
老大役員会の際に「南国土佐の歌碑を建てる会」に学内募金で集 まった基金の送呈式を行った。そして、歌碑モニュメントの除幕式の招待を受けた。11月3日(土)にペギー葉山さんをお迎えしての式典に出席 できた。あれから60年、この
機会が持てたことは夢のようであり、大感激である。
第1回のよさこい祭りは1954年(昭和29年)である。本歌は「よさこい節」であり、多くの替え歌があり、「よさこい鳴子踊り」や「南 国土佐を後にして」に歌い継がれていったようである。そして名誉県民としての「ペギー葉山」が盛り上げて呉れた。日本各地に拡がった「よさこ い踊り」は数知れない。今年はペギー葉山さんの歌手生活60年の記念すべき年である。デビュー当時のお若い葉山さんを知っていることが私の自 慢の種である。
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高知県香美郡土佐山田町植718 Tel 0887-52-5154
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