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「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・中岡慎太郎2

2011-02-05 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・中岡慎太郎2

中岡慎太郎の像

天保9年4月13日、当地柏木に大庄屋の長男として
    生れる。
 徳川の幕政が弱体化し、武家社会の矛盾が怒りとなり
    民衆の心を動揺させていた幕末の時代である。
 庄屋見習い時代の慎太郎は、農民の貧苦を己の
    心の痛みとし、藩権力と対峙した。
 慎太郎が目指した維新回天も、つきつめると不平等な
    武家社会への挑戦であったといえる。
 その魂があったからこそ誰もが着眼いえなかった薩長連合
   を龍馬と共に成し遂げ、倒幕の為の公家どうしの協力
   体制を築くなど、公憤に燃え国事に
    その生涯を捧げつくした。
 この像は、草そうの志士として維新の大道を歩んだ慎太郎
   の真の姿の再来を願い、生誕160年を機に、全国の
    方々からの募金により建立されたものである。
 また、この石碑の中には建立募金者名の記された
   建立記念誌、平成10年度地元、北川小・中学高生徒の
   文集がタイムカプセルとして埋蔵されており、
    生誕二百年(2038)の年に取出される。

        平成十一年四月十三日
           中岡慎太郎銅像建立実行委員会

        徐 幕: 平成11年4月13日
        題 字: 中岡慎太郎の像
        書 体: 岩崎放牛
        規 模: 本体~1.8 ㍍   台座~1.55 ㍍
              総高~3.35 ㍍
        事業費: 2.550万円(寄付金)

所在地:安芸郡北川村柏木
      中岡慎太郎館前

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・中岡慎太郎1

2011-02-05 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・中岡慎太郎1

 

中岡慎太郎

天保9年(1838)4月13日、安芸郡北川郷で大庄屋 
    中岡子伝次の長男として生れた。
 7歳で野友村の島村策吾塾で、詩書・儒学・南学と広く知識
   を吸収し、高知に出て武市半平太に剣術を学び、また
    江戸に出て高島に砲術も学んだ。
 文久元年(1861)、土佐勤皇党に加盟、翌2年五十人組
   に参加して出国、以後諸藩の志士と交わり国事に奔走、
    慎太郎と名を改めた。
 3年9月、土佐勤皇党弾圧が始まり、武市半平太らが
   投獄されると、慎太郎も危険を感じて脱藩、以後石川
    清之介と変名、尊皇攘夷派の指導者として活躍した。
 禁門の変では、遊撃隊に加わって負傷、長州に逃れて
    11月には忠勇隊長となった。

 この頃から、武力討伐の立場に立って
    薩摩・長州の間を周旋した。
 薩長連合の達成は慎太郎の努力に負うところが多い。
 慶応3年(1867)には、岩倉具視と三条実美の提携を
  実現し、一方で薩土倒幕密約の締結を実現、陸援隊を
  組織して自ら隊長で副隊長に田中光顕をすえて、
   倒幕挙兵に備えた。
 しかし、大政奉還後同年11月15日、京都近江屋で
  坂本龍馬と会談中、見廻り組に襲われて龍馬は即死、
   慎太郎は重傷を負い、2日後 絶命した。
 墓は京都霊山墓地にあり、遺髪が北側村に埋葬されてる。

       除 幕: 昭和10年5月7日
       題 字: 贈正四位 中岡慎太郎

説明文

所在地:室戸市室戸岬

天保9年4月、安芸郡北川村に生れる。
 幕末の頃、天下の志士と交友し、陸援隊を組織し
   その長とはり、海援隊長 坂本龍馬とともに、薩長連合
   をはかり、明治維新の大業に尽力したが、慶応3年
   11月15日夜、京都において刺客のため斃れた。
                               満30歳。

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・飛翔の像

2011-02-05 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・飛翔の像

飛翔の像

文久2年3月、高知城下をあとにした坂本龍馬と沢村惣之丞
   (関雄之助)の脱藩ルートは、梼原の宮野々関から
   九十九曲峠を越え、城川町土居を経て、宇和島・長浜
    方面から、長州へ渡ったとされている。
       ~新しい脱藩ルートの確認~
    宮野々関~韮ヶ峠~野村町~河辺村~五十崎町~
                       大洲~長浜~長州
 平成9年4月、龍馬と惣之丞、道案内をした那須俊平の
    群像建立計画が持ち上がり実現した。
 
     除 幕: 平成10年7月16日
     題 字: 飛翔の像
     規 模: 本体~2,35 ㍍、台座~2,3 ㍍
           総高~4,65 ㍍
     事業費: 1163万円

顕彰碑

新しい時代の予感が28歳の龍馬の心をとらえた。
 脱藩という大罪を犯して、大望のために土佐を捨て、
   河辺村榎ヶ峠に至ったのは、文久2年3月26日。
 近代日本の誕生に命を賭けた龍馬の旅は、
   ここ河辺村から始まった。
 この坂本龍馬脱藩の道は、平成8月11月1日に文化庁
   の「歴史の道百選」に選定された。
 私たち河辺村民は、この道を文化遺産として大切に
   保管することを誓い、ここに龍馬、総之丞、俊平の
     顕彰碑「飛翔の像」を建立する。

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その3)

2011-02-02 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その3)

坂本龍馬

高知の郷士 坂本八平、妻幸の次男として生れる。
 江戸は千葉定吉の門に入り北辰一刀流を修める。
 武市 山と交わり勤皇党に血盟加入、文久2年春同志
   澤村惣之丞と脱藩、勝海舟らに啓発される。
 薩長同盟の締結、大政奉還の推進など、維新の指導者として
   活躍したが、慶応3年11月15日、盟友中岡慎太郎と
   共に京都近江屋で倒れた。

中平龍之介

梼原村地下浪人 中平佐平、妻登根の長男として生れる。
 那須俊平に剣を学び、同士と気脈を通じ、
   勤皇の志を篤くする。
 文久3年脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。
   激闘の末、重傷を負い自決した。

澤村惣之丞

高知潮江村の地下浪人の家に生れる。
 文久2年春坂本龍馬と共に脱藩、勝海舟の神戸海軍塾に
   学び、亀山社中に加わって、
   坂本龍馬の片腕となって活躍した。
 慶応4年1月、幕府軍の敗退を知って長崎奉行は解散した。
   その奉行所を占拠して市中の治安維持に当たっている
   とき薩摩藩士を誤殺、「この大事なときに薩摩と土佐の間
   に溝を生じてはならない」と従容として自決した。

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その2)

2011-01-31 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その2)

吉村虎太郎

芳生野村庄屋 吉村太平、妻雪の長男として生る。
    安政6年、梼原村番人 大庄屋として赴任した。
  武市瑞山らと勤皇党を結成し、文久2年、脱藩して京に
  上つたが、一時捕えられ牢舎に入るも、出所後、再び京に
    上り、翌3年、天誅組を組織し、大和にて兵を挙げた。
   しかし、8・18の政変で孤立無援となり、鷲家口(奈良県)
    にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅する。
     虎太郎も、壮烈な戦死を遂げた。(1837~1863)

掛橋和泉

梼原村 那須常吉、妻歌の次男として生れ、
   同村神職掛橋家に養子として入った。
 すぐ隣の庄屋 吉村虎太郎と親交を重ね、
   勤皇の志を固めた。
 文久3年春、同士が相次いで脱藩、家が裕福であった和泉は、
   家財を費やして彼らを援助した。
 これが養母の知るところとなり、その詰責を受け、同士に
   類の及ぶことを恐れて自決した。(1836~1862)

前田繁馬

松原村庄屋 前田広作の長男として生る。
 那須俊平に剣を学び、吉村虎太郎・
   那須俊平らと交わって勤皇の志を固めた。
 文久3年吉村虎太郎の挙兵を知り脱藩、天誅組に
   入って大和に進撃したが、政変によって隊は壊滅、
   初瀬(奈良県)で戦死した。(1835~1863)

那須俊平

梼原村に生まれ、同村郷士 那須忠篤の養子
 となり、武芸を好み、特に槍術に長じ
   「土佐一の槍の達人」と称された。
 文久2年4月、養子の信吾は藩佐幕派の
   吉田東洋を斬って脱藩した。
 俊平も元治元年脱藩、長州の忠勇隊に入った
   同年、58歳の身で禁門の変に参加し、
   奮戦の末戦死した。(1807~1864)

那須信吾

佐川村浜田宅左衛門、妻悦の第三子として生れる。
 梼原村郷士那須俊平の養子となり、
   その娘為代と結婚した。
 文久2年4月、土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、
   その足で脱藩し京都に潜伏した。
 翌3年、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵するも、幕軍に
   阻まれ壊滅。 鷲家口(奈良県)で戦死した。(1829~1863)

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その1)

2011-01-23 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その1)

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 梼原町出身の維新の志士を顕彰するため、町内には吉村

   虎太郎の居住した庄屋跡と掛橋和泉邸が保存されて

   おり、前田繁馬、中平龍之介、那須俊平・信吾の招魂碑

   のほか、一ヵ所にまとめて建立した六志士の墓もある。

 また吉村虎太郎らが脱藩した宮野々関には記念碑が

   建てられている。

 文久二年(1862年)澤村惣之丞とともに脱藩した

   坂本龍馬も、3月25日夜那須俊平宅で一泊、翌日

   那須俊平・信吾父子の案内で国境を越えたことが

   明らかになっている。

 郷土出身の六志士とゆかりのある坂本龍馬・澤村惣之丞

   を加えて八人の群像建立計画が、橋本大二郎知事を

   名誉会長にすすめられた。

 銅像は特徴を持ったそれぞれの姿態で、自然石を

   組み上げた台座に建てられている。

 製作者の浜田氏は「ただ立っているだけでなく、未来に

   向かって駆ける志士をイメージし、竜馬は旅たちへの

   覚悟や決意をこめた姿にしました。」と語っている。

 

     除 幕: 平成7年11月11日

     題 字: 維新の門

     字   : 橋本大二郎高知県知事

     事業費: 1億373万5,000円(全額寄付)

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 幕末の風雲急を告げる文久二年春、坂本龍馬は勤皇郷

   梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友

   澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢みて脱藩した。

 この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之介が

   国境を越え、維新動乱の渦中に身を投じた。

 また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。

 それから年を経ること六年、明治維新は成り、

   近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は

   壮烈な死を遂げていた。

 いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の

   到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を駆け抜けた

   男たちの決意が偲ばれる。

 ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て

   「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。

 近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。

 その郷土を誇りとする青年達の情熱と維新の里の発展を

   希求する町内外の数多くの有志の熱き想いが、

   この群像を建立する。

                     梼原町長 中越準一

 

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・片岡直輝・直温

2011-01-22 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・片岡直輝・直温

  

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片岡孫五郎直英は土佐勤皇党に加盟し、資金面で
   志士たちを援助した。
 吉村虎太郎脱藩時には、資金を調達してその活動を助け、
   また坂本龍馬脱藩の道案内をした人物である。
 自らも再度長州に密行し、その兵制を取り入れて有志隊の
   組織作りに奔走中、慶応三年57歳で死亡。
 父の没後、兄の直輝(1856~1927)は内務官僚から
   大阪ガス社長等関西財界の重鎮となり、
   1920年貴族院議員に勅撰。
 弟の直温(1859~1934)は官界から大阪財界に転じて、
   日本生命の創立の一員からのち社長に、
   1930年貴族院議員に勅撰。
 昭和十年十二月十二日、碑文は徳富蘇峰、台座の文字は
   斉藤内大臣で、銅像を造るも戦争で金属回収された。
 平成八年葉山村四十周年を記念して、銅像に代わるもの
   として写真版が取付けられ、別に兄弟の写真を
   取付けた顕彰碑が造られた。

 

   顕彰碑文は橋本大二郎知事、顕彰碑は吉良史子村長

 

 

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昭和十一年四月に下半山村民の手によって、兄直輝が
   椅子に腰をかけ弟直温が寄り添って立つ銅像が建立
   されたが、第二次世界大戦中、金属回収のため銅像
   は供出され、台座のみを残して今日に至った。
 顕彰碑の建立はこれに代わるものである。
 昭和三十一年九月三十日葉山村の発足にあたり、
   片岡家より贈与された土地に当時の役場庁舎が建設
   されたが、この場所はかって坂本龍馬、中岡慎太郎が
   脱藩するにあたって、片岡孫五郎直英にかくまわれて
   雌伏したと伝えられている。
 顕彰碑の建立にあたり、故人の歴史に対する献身と
   その勇気を称えるものである。

         平成八年九月二十八日
                       吉良史子葉山村長

 

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・吉村虎太郎

2011-01-21 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・吉村虎太郎

 

yosimura-t4.jpg天保8年、芳生野村庄屋吉村太平の長男として生れた。
 文久元年に武市瑞山とともに「土佐勤皇党」を組織して
   勤皇に奔走するようになりました。
 文久二年には防長を歴訪、九州に渡り平野國臣にあい、
   「島津久光の入京を機に挙兵する。」ことを約束して
   帰藩、武市瑞山を説得すれど断られ、坂本龍馬に脱藩
   をすすめつつ、自らは宮地宜蔵と二人で脱藩、平野の
   義挙に加わろうとしたが、寺田屋の変にあい、舟牢で
   高知に送り返され十二月まで獄窓で過ごしました。
 文久3年、明治天皇の叔父中山忠光卿にすすめて
   大和義挙を計画、忠光卿を隊長に自らは総裁となって、
   いわゆる「天誅組」を組織し、天皇の大和行幸に
   先駆けて、大和を平定して錦旗を迎え奉ろうとし、
   奈良県の江戸幕府直轄五条代官を襲撃しました。
 その後朝議が一変し、大和行幸がとりやめになったが、
   初志を貫徹しようと、高取城を焼討をはかりましたが
   負傷し惨敗に終わりました。
 辞世の句『吉野山風に乱るるもみじ葉は、我が打つ太刀の
   血煙とみよ』を残し、二十七歳の若さで散華しました。
 この義挙は、数多い維新の動きの中で、千余の兵力を
   持って堂々たる倒幕第一陣であり、この烽火により
   全国に倒幕の運動はくり広げられることになり大政奉還
   を見、四民平等の維新は成就された。

 

虎太郎の顔は弟の写真と姉の話から、原田画伯が書いた
   肖像画をもとに川島三郎製作者のイメージで造られた。

       除 幕: 昭和43年12月22日
       題 字: 吉村虎太郎先生像
       規 模: 本体4㍍・台座5㍍・総高9㍍
                   事業費: 6,000万円

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・ジョン万次郎(その3)

2011-01-20 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・ジョン万次郎(その3) 

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この群像は、強い意志と忍耐力で自らの運命を切り
   開いた、若き日の万次郎とその仲間をモデルとして、
   遭難して辿り着いた「鳥島」において、米国の捕鯨船
   ジョン・ハウランド号に救助を求めている様を描いた
   大群像であり、絶体絶命の状態から未知の世界に
   踏み込む万次郎の意思の強さを表現しています。
 
   除 幕: 平成8年3月28日
   題 字: 万次郎少年像
   規 模: 波像~鉄筋コンクリート
            高さ:11㍍ 幅:6㍍ 重量:60㌧
           群像~中心に万次郎像、右後に五右衛門
             左後に寅右衛門、その後ろに筆之丞
             と重助の五体。
                     事業費: 7,329万円 

 


   船  頭: 筆之丞  38歳(後にハワイで伝蔵と改名)
   漁労係:      重 助  25歳(5年後ハワイで病死)
   櫓  係: 五右衛門 16歳(以上3人は日本に帰還)
         :     寅右衛門 26歳(ハワイに移住)
   炊  係: 万次郎  14歳(アメリカ本土に渡る)

 後に日米親善の橋渡しと文化の発展
        に大きく貢献した万次郎と仲間達
        の漂流時の群像である。

 

 「土佐藩より万次郎等への申渡書」

 『・・・前略・・・吟味遂げられ候処、外国にて切支丹等の邪宗
   勧めに逢い候儀之無く、疑わ敷筋も聞かず、依て他国
   住居御構い之上御国許へお渡に相成、今七月帰著に
   付、御詮議之上、向々他国往来は勿論、海上業等之を
   差留められ、元居浦へ差遣わされ候。
 然るに仕馴の生業に相放たれ候ては迷惑顕然之義に付、
   一生之中壱人扶持之を遣わさる。
         以後神妙に罷り在り候様之を仰付けられる。』

 取調べの内容が主としてキリシタン信仰にあり、生業の
   漁業に出るのを禁止され、その代わりに終生一人扶持
   を給するのである。
 万次郎の場合は二ヵ月後土佐藩の士分に取り立てられ、
   以後旗本へと出世していく。

 

   

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・ジョン万次郎(その2)

2011-01-19 | 羽迫博己さんの世界

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中浜万次郎は、鎖国から開国に揺らぐ激動期の歴史の
   かげで大きな役割を果たし、ついで興った明治文化の
   開花に著しい貢献をした一人であった。
 万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の
   次男に生れた。
 14歳のとき出漁中、嵐に逢い遥か南方の無人島、鳥島に
   吹き流されたが、半年ののち運よく通りかかったアメリカ
   の捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。
 ウイリアム・H・ホイットフィールド船長は万次郎少年の人柄
   を深く愛して本国に連れ帰り、3年間正規の学校教育を
   さずけた。
 万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第一号
   となった。
 彼は十年に及ぶ国外生活中 John Mung と呼ばれ
   英語・航海術・測量術・捕鯨術等を習得し、二度に
   亘って七つの海を周航した。
 しかし万次郎は既に二十四歳の青年となっており、
   祖国とそこにのこしてきた母親を忘れがたく、意を決して
   鎖国令下の日本に帰ってきた。
 1851年2月、かの黒船の来航に先立つこと2年であった。
   このような時期も幸いして、彼は罪に問われなかった
   ばかりか、名字帯刀を許され幕府の直参に
   取り立てられた。
 これより万次郎は外国事情の講和やアメリカ航海術とか
   公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日を送った。
 洋式船の操縦や捕鯨にも長じ、実地の指導にもあたった。
 日本人による初の太平洋横断、かいりん丸の成功の陰
   には彼の優れた航海術が大きな力となっている。
 帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸
   で初めて写真の撮影をしたのは万次郎だといわれてる。

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・ジョン万次郎(その1)

2011-01-18 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・ジョン万次郎(その1)

所在地   土佐清水市足摺岬

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1827年1月1日(文政10年)、幡多郡中ノ浜村谷前
   (土佐清水市中浜)の漁師の次男として生れる。
 十四歳の時、宇佐浦(土佐市宇佐)から漁船に乗込み
   出漁中暴風に巻き込まれて「鳥島」に漂着、143日間の
   無人島生活の後、アメリカの捕鯨船に救出された。
 先輩漁師4人はハワイに残り、万次郎はウィリアム・H・
   ホイットフィールド船長に見込まれて、アメリカ本土の
   フェアセブンで学校教育を受け、測量術や航海術を学ん
   で、捕鯨船の乗組員となって世界の海を廻った。
 1849年には、ゴールドラッシュのカリフォルニアに行き、
   金山に入って資金を造り、上海行きの船に先輩漁師
   2名と便乗し、1月沖縄に上陸して保護された。
 8月には鹿児島に送られ、藩主島津斉彬に外国事情を説明
   するなど優遇されたが、9月に長崎で獄舎に繋がれた。
 1852年6月、土佐藩に引渡され、7月11日高知城下に
   帰着したあと、10月故郷中ノ浜に帰るも間もなく藩に
   呼び出され、定小者という軽格の武士の資格を与えられ
   藩校教授館に出仕していた。
 1853年6月ペリーが浦賀に来航したため、万次郎は幕府
   に呼びされ、旗本普請役格の待遇を受けて外国奉行の
   顧問役を務めた。
 1860年にはかいりん丸の渡米に通訳として同行し、以後
   鹿児島に迎えられ、教授を務めたり、数々の本を出版す
   るなど、44歳で健康を害するまで、多方面で活躍した。
 1898年(明治31年)没、72歳 墓は雑司ヶ谷霊園に
   あり、中浜の大覚寺に空墓がある。

 

  除 幕:昭和43年7月11日(高知城下 帰着を選んで)

総経費:2465万円(補助50万、他は寄付金)
  銅像建設実行委員:吉田茂元総理、八田一郎、県知事等

 

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土佐の銅像と 津江美和さんの写真

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羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・雛祭 はりまや橋

2011-01-16 | 羽迫博己さんの世界

四万十川の原風景を守る会」の代表・羽迫(ハサコ)博巳さんが、四万十川流域のひなまつりの2009年と2010年の変化などを紹介しながら、教訓的な総括をしています。

四万十川流域のひなまつり 羽迫博己さんの世界 

県下各地で盛んに行われているひなまつりが、年を重ねるごとにややもするとマンネリ化の傾向が出ている中で、地域の生活に根ざした取り組みが、その地域に新しい風を呼んで、流域を代表する観光資源となりつつある事を報告しています。

 

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・雛祭 はりまや橋

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羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・いの幸町の雛祭り

2011-01-15 | 羽迫博己さんの世界

四万十川の原風景を守る会」の代表・羽迫(ハサコ)博巳さんが、四万十川流域のひなまつりの2009年と2010年の変化などを紹介しながら、教訓的な総括をしています。

四万十川流域のひなまつり 羽迫博己さんの世界 

県下各地で盛んに行われているひなまつりが、年を重ねるごとにややもするとマンネリ化の傾向が出ている中で、地域の生活に根ざした取り組みが、その地域に新しい風を呼んで、流域を代表する観光資源となりつつある事を報告しています。

 

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・いの幸町の雛祭り

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2010 いの幸町の雛祭り

 お雛さまの豪華さ、保存状態の良さでは感服させられました。千年の歴史を誇る和紙の産地として、また近世椙本神社を中心に江戸時代から繁栄し続ける町並みが、お雛さまを展示することで観光の起爆剤になり、他地区の人たちへの取り組みの参考になりさらには地元の元気印にもなるのではないだろうか。

 神社・古い町並みでの展示、さらに紙漉き・産品の実演と販売風景、食の体験・・・等々、他では出来ない事が伊野では出来そうな・・そんな気がします。

でも今年は、どこにでもあるお祭り風景で、また行きたいなという衝動には・・かられませんでした。

 

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羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・北川村のひなまつり

2011-01-13 | 羽迫博己さんの世界

四万十川の原風景を守る会」の代表・羽迫(ハサコ)博巳さんが、四万十川流域のひなまつりの2009年と2010年の変化などを紹介しながら、教訓的な総括をしています。

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羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・北川村のひなまつり

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2010 北川村のひなまつり

 お雛さまの豪華さ、保存状態の良さに感服。中岡慎太郎生家では、昔のお姐さんのご接待と案内で、心が満腹になりました。集会所でのお雛ご膳とお雛さまの展示・・ふるさとの匂いぷんぷんぷんでした。

 

 

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羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・奈半利町

2011-01-08 | 羽迫博己さんの世界

四万十川の原風景を守る会」の代表・羽迫(ハサコ)博巳さんが、四万十川流域のひなまつりの2009年と2010年の変化などを紹介しながら、教訓的な総括をしています。

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県下各地で盛んに行われているひなまつりが、年を重ねるごとにややもするとマンネリ化の傾向が出ている中で、地域の生活に根ざした取り組みが、その地域に新しい風を呼んで、流域を代表する観光資源となりつつある事を報告しています。

 

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・奈半利町

 

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naha7-5.jpg2010 奈半利・田野の土佐の町屋雛まつり

 お雛さまの豪華さではさすが一級品と関心しました。観光ボランティアも動員して、林鉄跡・一部古民家の説明があり、さわやかでした。さらに感激したのは、幼稚園・保育園等を迎え、ひなまつり教室をしている姿でした。そこでかいまみた子供たちの笑顔と大人達の無心さ。

 田野町の「屋号めぐり」は斬新で、あとひとつソフトがあれば町並みが楽しくなるのにと・・・余計な事を考えてしまいました。田野町の昔の繁栄と歴史を背に立ち上げた「屋号めぐり」きっとビツグになるし、他地域の参考になればと写真にしました。

 

 

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