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「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・八重咲き

2010-11-25 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                       情報プラットフォーム、No.251、8(2008)
{八重咲き}


 八重咲きで思い出すのは「七重八重 花は咲けども山吹の 実の(箕)一つだに なきぞ悲しき」の和歌である。後拾遺和歌集(1086年)にあり、詠み人は醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王である。急な雨で箕を借りたいと立ち寄った農家で娘さんに黄金色(やまぶき色)八重の山吹を差し出される。その意味を理解できなかった太田道灌は、教養の無さを痛感し、一念発起するというエピソードである。


  花を構成する各要素、萼片、花びら、雄しべ、雌しべは、組織的に見て葉と同じものであり、それらが花びらに変化しての八重咲きは不思議ではない。雄しべ、そして雌しべまでも花びらになった八重咲きでは、種子が形成されないので、「実の一つだに」ないのは当然である。増やすには、挿し木、接ぎ木、取り木のような栄養繁殖が必要となる。


  バラと言えば一般的に八重咲きを思い浮かべるのは、雄しべや雌しべが見える平咲きよりも気高さを感じるからだろうか。カップ咲き、ロゼット咲き、クオーター咲き、ポンポン咲き、剣弁高芯咲き、丸弁抱え咲きなど、八重咲きの特徴を様々に細分化している。


 兼好法師は八重の桜や梅が嫌いだったようである。徒然草の第139段(1330年頃)に「家にありたき木は、松、桜。松は五葉もよし。花は一重なるよし。八重桜は奈良の都にのみありけるを、この頃ぞ世に多くなり侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたくねじけたり。植ゑずともありなむ」と記している。

解説すれば「八重は、あくどくひねくれており、植える必要もない」となる。牧野富太郎は「人間は全く勝手なもので、自然の摂理をねじ曲げてでも改良を加えてきた。このため草花は立派で美しく、色彩も豊富になったが、花自身にとっては奇形や不具にされてしまったわけである」と述べている。人間は偶然の突然変異を手厚く、保護したのである。


 アサガオほど多種多様な花や葉の変化形態が取り揃えられている園芸植物は珍しい。采(サイ)咲き、獅子咲き、孔雀咲き、牡丹咲き、車咲き、立田咲きなどの名前が付いていると知れば、写真集や図譜で調べたくなる。挿し木では増やせない一年草のアサガオ、種子が採れない突然変異のアサガオの系統の維持は巧妙な方法で行われている。

メンデルの法則に従って簡単に説明する。劣性遺伝子を持つ系統では、自家受粉で作った種子からは、正常個体が3,変異個体が1の割合で発生する。次の代では1の変異個体からの種子は採れないが、3の内の2の正常個体には劣性遺伝子が保存されている。1865年のメンデル以前に江戸時代の園芸の達人たちは経験的にこのことを熟知していたのである。

この時代の日本は世界に類を見ない園芸の豊かな社会を創っていた。武家、僧侶、商人、町民、農民まで、階級・性別を問わず広がっていた。様々な園芸書・本草書・図譜が出版されている。


 幕末の日本に滞在した園芸植物家のロバート・フォーチュンは「日本人の著しい特色は、庶民までもみな生来の花好きなことである。好きな植物を少し育てて、無上の楽しみにしている。もし、花を愛することが人間の文化生活の高さを示すものならば、日本の庶民は、イギリスの同じクラスの人達に較べてずっと優雅である」と感想を記している。


  この時代に皆で花色・花形を愛でたのは、キク、ハナショウブ、シャクヤク、サクラソウ、ナデシコ、ボタン、ツツジ、ツバキ、カエデなど、変わり葉では、オモト、フウラン、セッコク、アオイなどである。数百年前の日本の粋なガーデニングを想像して欲しい。

ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。

鈴木朝夫  s-tomoo@diary.ocn.ne.jp

 高知県香美郡土佐山田町植718   Tel 0887-52-5154 

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・色とりどりの春の庭

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                     情報プラットフォーム、No.250、7(2008)
{色とりどりの春の庭}

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 球根類の芽生えに期待を膨らませ、その開花で春を確認できる。まず、朱鷺色のキルタンサスが、青紫色のムスカリが、青みがかった白の早咲きグラジオラスが花を付ける。房咲きの日本水仙に始まり、10種類もの様々な水仙が出番を待ちながら次々に咲く。色も形も様々なクリスマス・ローズは皆うつむいて、白いカラーは真っ直ぐに咲いている。


 隣の林地に聳える八重咲きの椿が花をポタリと落とし始める。南面する日だまりのような庭には、黄色のオウバイが、白い瀧のようなユキヤナギが、ついでコデマリが咲き誇る。銅葉のトキワマンサクに紅花が咲き、スモークツリーの銅葉も目立ってくる。斜面中段ではミツマタが白い花を付け、遅れて上段の2本の枝垂れ桃が桃色の花を付ける。黄色の花と白の花はヤマブキである。鉢植えの斑入りケヤキ、斑入りカエデ、五色ヤナギには、今年も変わり葉が芽吹いている。玄関脇の大きな鉢には、小鳥の贈り物の種からのシャシャブが、良い香りでその開花を知らせてくれている。


 バラの咲き始めは、八重咲きの黄と白のモッコウバラである。黄は敷地東側のラティスを被い、強い香りを漂わせる白は西境界に沿ったラティスから柿の木を駈け上がっている。続いての見頃を迎えたのはナニワイバラ。アプローチの左手、玄関横の階段上のナニワイバラの花が咲き始めれば、大きなアーチは緑から純白に衣替えする。

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  黒ずんだ赤のグラデーションが綺麗なカーディナル・ヒュームはアプローチの左角のフェンスに立つ見張りである。明るいピンクの花を咲かせるスパニッシュ・ビューティは見上げる中段のラティスに、その後方にはアプリコット・オレンジのロイヤル・サンセットが隠れるように咲いている。ホワイトの縁取りで中が淡いピンクのカップ咲きのピエーる・ド・ロンサールは、紫色のクレマチスと絡んでいる。ホワイト地にピンク縁取りのプリンセス・ド・モナコは花壇の真ん中で自立している。世界初のブルー系つるバラと言われる「すみれの丘」が西側の日陰になるラティスで淡い青紫色の花を咲かせている。


 バラの咲き終わりは、南面の西側のフェンスを彩る四季咲きの中輪の濃いピンクのつるバラ、南面の東の櫓から滝のように流れ下る淡いピンクのバラ、そして、上段から西側斜面に沿って駆け下りる淡いピンクの房咲きのノバラである。どれも名前は分からない。


 グランドカバーは小さな白い花のヒメイワダレソウであり、法面に垂れ下がっているのは桃色の芝桜やナデシコである。木陰に吊したセッコクには赤花(ピンク)、黄花、白花や、覆輪もある。紫、桃、白のタツナミソウが花壇の縁取りになっている。絨毯のように紫色や桃色のアジュガが蔭地を覆う。harunohana 104.jpg

紅紫、口紅、青花、白花のシランも、鉢植えの黄花シアンも、紫、桃、白のホタルブクロも次々と開花している。陽の光が強くなるにつれて、斑入りのドクダミの赤と黄の斑が鮮やかになっていく。緑に白と赤の斑の入ったイタドリも勢力をましている。ポット苗から移植の花々も庭にアクセントを与えてきた。とくに、薄紫の2つの花弁が兎の耳のように長い「野うさぎミーモ」のビオラの可愛らしさは印象的である。そして、梅雨を迎えるこの頃、多種類のユリもつぼみを膨らませており、各種の変わり種を揃えたアジサイやノウゼンカヅラがそれぞれの見頃を迎え始めている。


 色とりどりに花々が織りなす模様と、様々な花型と変わり葉の趣向とが組み合わされた庭の移り変わりの早春の頼りである。harunohana 042.jpg

 

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・無重力世界のミケランジェロ

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                     情報プラットフォーム、No.249、6(2008)
{無重力世界のミケランジェロ}

 

 

 

 

                           

出典:ミケランジェロ「天地創造」


  若い助教授の時代に提案し、地上実験を繰り返し、やがて教授になり、定年の60才を迎えようとする1992年9月にようやく宇宙での材料製造実験を行うことが出来た。

この間、1986年1月のチャレンジャー号の事故があり、3年間の遅れが加わった。毛利衛さんによる日本人初の宇宙活動は徐々に遅れていったのである。やっと計画が進み、愛称の公募も済ませた”ふわっと'91”は、さらに”ふわっと'92”へと変更になった。


 無重力下での実験提案の申請書では、地上では作れない新機能の創成が期待でき、科学技術の発展に寄与することを強調する必要があった。これでは足枷を嵌めて、アイデアを出せと云っているようなものであり、良いアイデアなど出てくる筈もないと思った。

馬鹿らしいが楽しいこと、無意味でも面白いことなどと発想を転換したとき、良い考えが湧いてくることを経験した。例えば、宇宙船と地球上との連歌のやり取りで風流を楽しむこと(新々古今和歌集の国際的な編纂)、散弾銃の弾を空気層に打ち込み流れ星を皆で楽しむこと(打ち下ろし花火の世界巡業)などであった。


  それにしても、毛利さん搭乗のエンデバー号の飛行中の8日間、アラバマ州ハンツビルのマーシャル飛行センター(MSFC)で地上支援をした経験は貴重であった。

水もれ事故
 それから2年後の1994年に始めてイタリアを訪れる機会があった。ローマでヴァティカン宮殿を見学したときのことである。システィナ礼拝堂でミケランジェロの「天地創造」の天井画の下に来たとき、古い美術全集で見ていたものとは、大きさ、色合いの点で想像を遙かに越えるものであり、その見事さにまず驚かされた。

1982年から始まった修復作業がようやく9年後の1991年に終了したばかりである。ほこりや後世の補筆が取り除かれ、制作時本来の色彩が現れているとの説明である。天井の平坦な9つの部分、側面の20の部分、それに隅の4つの部分にそれぞれ天地創造の一大叙事詩の各場面が描かれている。

ここに写真をお見せできないのは残念であるが、多くの場面に上下がなく、無重力の世界がそこに存在していることに吃驚したのである。神や佛の世界に重力がないことは容易に想像できるが、次の説明でさらに驚いた。


 ここで用いたフレスコ画の技法とは、一日で描ける分のだけの漆喰壁を塗り、生乾きの間に描く方法である。一日分を描ききる過酷な仕事になる。ミケランジェロは20メートルもの高さに組まれた足場の上で、首が痛くなるような仰向けの状態で描き続けたとのことである。制作中のミケランジェロは重力から完全に開放されていたと確信したのである。


 また、この天井を見上げていると、体重を感じなくなり、天井に吸い付けられるような不思議な気分になってくる。創世記によれば、神は混沌から天と地を、光と闇を創り出したとある。この時、重力場も出来上がったに違いない。

そして、最後に神と似ている姿をした人間を創ったとある。創造性豊かな人間の誕生である。芸術家たちは重力の軛から解き放たれているように思える。上はどちらと判断しようとすることが、芸術の鑑賞を妨げているように思う。本来は創造性豊かであるべき科学者・技術者こそ、常識にとらわれない芸術家たちの自由な発想を見習う必要がある。


 なお、鳴門市の大塚国際美術館に再現されているシスティナ礼拝堂は迫真の勢いがある。近くにあり、一度試して欲しいものである。

 

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・『エントロピー』では読んで貰えないか?

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                     情報プラットフォーム、No.248、5(2008)

{『エントロピー』では読んで貰えないか?}


  「この暑さは地球温暖化の影響?」の小文で藤田祐幸、槌田敦共著の「エントロピー」(現代書館、(1985))を紹介した。(本誌、No.241、10月号(2007)参照のこと)イーハトーブの森で出会った「私」と宮沢賢治の対話が進み、森の中の小さな村で、人々の心豊かな姿を見出す話である。頻繁に出てくるのが「エントロピー」である。

地球環境問題の本質は「熱力学」の理解である。易しい説明を心掛けるので、感覚的な理解に努めて欲しい。


 鴨長明は方丈記に「行く川の流れは絶えずして しかももとの水にはあらず よどみに浮かぶ泡(うたかた)は・・・久しくとどまりたるためし無し」と書き記している。

これを熱力学的に翻訳すれば、「『行く川の流れ』は途切れることのない『定常状態』のように見えるけれども、実際は流入と流出がある『定常開放系』であり、『系外(環境)』も含めた全体を見れば元には絶対に戻らない『非可逆過程』なのだ」となる。「諸行無常」や「いろはにほへと ちりぬるを」も、やり直しのきかないこの世のはかなさを述べている。


  マザー・グースの歌集に「ハンプティ・ダンプティ 塀に座っている  ハンプティ・ダンプティ 塀から転がり落ちた 王様の馬のすべてを集めても 王様の家来をみんな集めても ハンプティを 元には戻せない」という詩がある。「地面に落ちて壊れたことは『エントロピー増加』であり、如何なる術策・権力を用いてもすべてを元通りには戻せない『非可逆過程』なのだ」となる。ハンプティとは何者だろうか? (答は末尾)


 生命体が「定常開放系」として個体を維持する理由は、自分の遺伝子を次代に渡すこと、すなわち種の保存にある。「植物の生存戦略『じっとしているという智恵』に学ぶ」(朝日新聞社、2007)に「動けない植物は、動ける動物以上に、この地球上で繁栄している。

植物はじつは、『動けない』のではなく、『動かない』生き方で成功したのだ」とある。植物は、何処にでもある太陽光、炭酸ガス、水を資源とし、贅沢な機能を排除して、必要最少限のエネルギーで種の系統を維持する手段を選んだのである。なお、「切り詰めて生きる」の樹木に関する小文が参考になる。(本誌、No.201、6月号(2004)を参照)


 一方で、「動く」戦略を採った動物は、食料を探すために、餌食にならないために、また交尾の相手との出会いのために、動き回る余分なエネルギーが必要となる。動物としての「動ける」機能を発揮した人類は、やがて自分の筋力も使わずに、生産性や利便性を求めて、さらに速く「動き」回っている。

「エントロピー増大」とは、バラバラ・無秩序・混沌の状態になることであり、具体的には、熱の発散、温排水、CO2の排出、ゴミの排出、各種の汚染、破損などであることを熱力学は示している。

また、変化が速ければ、迂回の経路が多ければ、「エントロピーの増大」はさらに大きくなる。いずれにしても「骨折り損のくたびれ儲け」である。地球環境問題の根源は、経済成長率を必須とする現代社会の「エントロピーの増大」にある。全てを循環させ『系外(環境)』へは何も排出しないという「循環型社会」や「ゼロエミッション」のスローガンは間違った印象を皆に与えている。なお、ビッグバン以来この宇宙のエントロピーは増大し続けていると考えて良い。


  宮沢賢治の生きた時代に戻り、イーハトーブ(岩手、いはて、Ihate、Ihatov)を旅することができれば、切り詰めて生きる暮らしぶりを見ることが出来るかもしれない。せめて「吾唯足知」、「地産地消」、「身土不二」、「医食同源」などを標榜すべきである。(答:卵)

 

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・ヤン坊マー坊の天気予報

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                      情報プラットフォーム、No.247、4(2008)
{ヤン坊マー坊の天気予報}

          出典:ヤン坊マー坊の天気予報


 高知県技術者協会のバスツアーの2日目はヤンマー(株)の長浜サイト(工場)の見学はある。会社案内には「琵琶湖の澄んだ水面に伊吹山が美しく映えるヤンマー創業の地、滋賀県北部」とある。創業者の山岡孫吉の「ヤマ」、豊作のシンボルの「オニヤンマ」に因んだのがヤンマーの社名とのことである。なお、高知にある関連会社のセイレイ工業(株)は蜻蛉(トンボ)と精励の二つの意味を重ねた社名とのことである。


 ヤンマーと言えば天気予報。調べてみると「ぼくのなまえはヤン坊 ・・・」の歌い出しでヤン坊とマー坊のキャラクターが出る天気予報は1959年(昭和34年)6月に始まっていることが分かる。放送は系列に関係なく、その地方で最初に設置された民放が多いようである。高知では高知放送(RKC)で、月~金の18:50頃の放映である。現在でも続いているこの天気予報は、やがて放送開始50周年目を迎える長寿番組である。


 スポンサーの当時の社名はヤンマーディーゼル。「農家の機械から、漁船、発電、ポンプ、建設工事もみな・・・」、「小さなものから大きなものまで 動かす力だ ヤンマーディーゼル」が歌詞の内容で、ヤンマーが6回、ディーゼルが3回でてくる。

このコマーシャルは、高知のような農業・漁業などの生産地域では事業者に対する製品と企業の直接的な宣伝である。しかし、東京や大阪のような消費地では、視聴者に対する教育的・啓蒙的な色合いが濃い。この時代のテレビ・コマーシャルとしては他に類例がなく、企業のイメージ広告の範疇に入るものである。


 この頃にヒットした宣伝広告の幾つかを思い起こしてみよう。「クシャミ3回 ルル3錠」、「カステラ1番 電話は2番 3時のオヤツは文明堂」、「スカットさわやかコカコーラ」のような食品・飲料・薬品類の宣伝、「明る~いナショナ~ル、・・・ラジオ、テレビ、な~んでも、ナショ~ナ~ル」の家電製品の宣伝、「伊東に行くならハトヤ 電話はヨイフロ(4126)・・・やっぱり決めた ハトヤに決めた」では観光・保養の宣伝である。いずれも消費者が直接的に関わる商品のコマーシャルである。

なお、伊豆・伊東温泉のハトヤは首都圏に住む人達にとって、当時は憧れの場所であり、極めて効果的であった。「ぼく、ハトヤに行ってきたの」と嬉しそうに話す隣の小さな男の子、「この子はモダンなホテルはハトヤと思ってるんですよ」と苦笑いのお母さんを思い出す。


  ヤン坊とマー坊の天気予報のお陰で、都会の子供もヤンマーの名前だけは良く知っている。一般の消費者には、ディーゼルは軽油を燃料とするバスやトッラクのエンジンであること、機関車や気動車に使われていることを周知させることに役立ってきた。このコマーシャルソングが、技術的単語を一般化させ、関心を持たせてきた功績は大きい。


  この50年間で天気予報番組も大きく変わっている。昔はアニメ映像であった画面は、気象衛星画像や天気概況図、そして各地の週間予報などに変わっている。

また、予報精度の向上は著しいものがあり、さらに気象衛星写真との組み合わせで立体的に理解できるようになり、天気図は限られた専門家のものから、皆のものになった。山小屋やテントの中で、ラジオの気象通報から天気図を作り、明日の天気を議論したことを思い出す。「石垣島では、北東の風、風力3、曇り、気圧1010ミリバール、・・」の様に、気象通報は今でもNHK第2放送で聴くことが出来る。

 

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・屋上の巨大ブルドーザー

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                    情報プラットフォーム、No.246、3(2008)
{屋上の巨大ブルドーザー}


  昨年の11月中旬に高知県技術者協会の見学ツアーに参加した。訪問先は枚方市の小松製作所(株)大阪工場である。この工場では、中型・大型のブルドーザー、油圧ショベル、そして自走式の各種破砕機や土質改良機など、コマツ(略称)の目玉製品を生産している。リーフレットにはコマツの歴史が短く記されている。

「創業者 竹内明太郎が石川県小松市に小松製作所を設立(1921年)してからおよそ30年後(1952年)、戦後ゆれ動く日本経済の中でコマツの新たなる発展を目指し、大阪工場が誕生しました」とある。情報一元化の組立ラインを見学しながら、乗用車生産ラインとは一味異なる重厚さを感じた。そして、10数年前に工科系大学の創設に関わって、高知の地を踏んだ頃を思い出していた。


 (株)太陽の山田通さんが読んで下さいと「沈黙の巨星~コマツ創業の人・竹内明太郎伝」(北国新聞社出版局、1996)を持ってこられ、母校の高知工業高校へ、正門脇の竹内明太郎の胸像へと案内して下さった。

同校が明太郎によって設立され、この本がコマツ発祥の地の小松商工会議所と明太郎の出身地の高知県の有志の調査により、直近に刊行されたものであることを知った。これにより明太郎の足跡を要約すれば以下のようである。

父は宿毛の土佐上級藩士の竹内 綱であり、吉田 茂は異母弟になる。実業家・竹内明太郎は、掘り尽くして鉱山が廃坑になる時に備え、地域社会が寂れないような経営転換を考えて小松製作所を設立している。さらに、欧米の高い工業水準と科学技術を支えているのは実践教育との信念から、早稲田大学理工学部や高知工業高校の創設に関わっている。


 読み進むうちに、私が高知で工科系大学設立に関わることは宿命であったと感じるようになっていた。高知、コマツ、工科大学の三角形が組み上がっているように思えた。


 明太郎は工科大学設立の構想を持って東京高等工業学校校長・手島精一に相談した。結果として、理工学部設置の悲願を持つ大隈重信を紹介されて、早稲田に理工学部ができることになった。この東京高等工業学校は私の学んだ東京工業大学の前身であり、手島精一の銅像が大岡山の正門横にある。

私が東工大金属で学んだ1950年代は、テレビの放映とともに力道山のプロレスに熱狂していた時代である。吉田宰相由来のワンマン道路と呼ばれる日本初の高速道路の建設や、川崎製鉄の千葉製鉄所の着工に象徴される巨大設備投資が始まっていた。コマツもこの頃、大阪工場を起ち上げ、本社を東京に移して、大企業への道を歩み始めていた。私にとって、本社ビルの屋上のブルドーザーはコマツの象徴であり、魅力的だった。このこともあってか、多くの教え子がコマツに行っている。


 終わりに一言、蛇足を。愚息は横浜国立大学工学部金属を卒業し、コマツに就職している。公務員一家だった我が家に、身内の関わる初めての応援企業が誕生したのである。道路脇の工事現場でブルドーザーを見ると「あ、コマツだ!!」と気にするようになっていた。

ところで、明太郎の長男、強一郎は横浜高等工業学校の教授を務め、その後小松製作所に移っている。なお、この工業学校は横浜国立大学工学部の前身である。


 「ブルドーザーは1991年に撤去しました。巨大なコンクリート製でした」と工場案内の方が教えてくれた。明太郎が「これこそが夢」と言うであろう高知での工科系大学の創設に参画できたことは望外の喜びである。山田通さんの夢もそれであったと思う。

 

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・のいち動物公園と旭山動物園

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」             情報プラットフォーム、No.245、2(2008)
{のいち動物公園と旭山動物園}

*

画像出典:のいち動物公園 (チンパンジー双子の成長記録より

旭川市旭山動物園


 昨年末に旭川市旭山動物園に行くのが目玉の2泊のパックツアーに出かけた。バスは園の一番高いところの東門に着く。怖々と雪の坂道を降りて、まもなく始まるペンギンの散歩を見る。続いてアザラシの「もぐもぐ」タイムに駆けつける。ほっきょくぐま館では、横や下から、歩く、泳ぐ、潜るシロクマを眺める。「雪の中の動物園~雪の中に生きる力」と記してある園内マップの二次元バーコードは見せ場の時刻を教えてくれる。


  正月番組で「奇跡の動物園2007~旭山動物園物語~」の再放送を見た。津川雅彦が園長、広末涼子が獣医で出演している。キリンを受け入れるその日にゾウの死に立ち会う物語である。

「命と向き会う勇気、そこから目をそらさない」がドラマの根底の思想である。一方で、6日の高知のニュースは「のいち動物公園」の平成3年開園以来の入園者数累計が300万人に達したことを報じていた。旭山は平成18年度だけで300万人である。


 検索から得られる統計によれば、昭和41年に開園した旭山の夏期入園者数は40万前後であった。冬期開園を始めた平成11年以来、H15は80万、H16は140万、H17は200万、H18は300万と驚異的な増加を示している。知人の動物サポーターを通じて頂いた情報から、「のいち」の年間入園者数は15~17万人台であることが分かった。


 敷地面積は旭山が約15ha、「のいち」が約16ha、飼育点数は旭山が137種(ほ乳類43種、鳥類83種、は虫類11種)に対して、「のいち}は97種(ほ乳類35種、鳥類26種、は虫類と両生類7種、魚類28種、昆虫類1種)である。

旭山は動物園定番の大型ほ乳類が揃っており、カバ、キリン、サイ、シロクマ、ヒグマ、ライオンなどが居る。これに対して「のいち」は「絶滅のおそれのある動物」が多く、適切に表示されていることが特徴と言える。オオアリクイ、ワオキツネザル、タマリン、シロテテナガザル、マンドリル、レッサーパンダ、オセロット、ウンピョウ、オオコウモリ、アロワナなどが見落とせない壺である。


 年明け早々に「のいち」動物公園に行ってきた。広々としたサバンナ展示広場には、キリン、シマウマ、アンテロープが悠然と遊び、アフリカハゲコウが彫像のように止まっている。並んで展示の3種のカワウソは新庄川に居た日本最後のカワウソを思い出させる。


  「のいち」は名前のように公園を意識して作られていると思われる(注)。動物園、水族館、植物園であり、公園でもある。園内には家族で寛げるピクニック広場があり、様々な樹種の並木の自然散策路にもなっている。

樹木に付けたネームプレートは植物に親しむに効果的である。真冬の今、ピラカンサが赤や橙の実を盛大に付けている。早春のフサアカシア(ミモザ)の黄色の花、晩春のブラシノ木の赤い花などは見応えがあるだろう。


 「のいち」と旭山の規模は似ているが、それぞれが独自の特徴を創り出している。入園者の内訳は不明だが、旭山は、道外そして国外からの観光客が大部であろう。「のいち」は、子供からお年寄りまで家族ぐるみで、幼稚園から高校までの情操・実践教育でも、自然に親しめる県民公園なのである。

「あなたの五感のアンテナを伸ばしてゆっくり観察してください」が園スタッフからのメッセージである。地域の人々の加わるボランティアーズや友の会が園を支えていることも見逃せない。高知県立のいち動物公園は、県民のための、県民による動物公園である。まだの人は是非一度、すでに行った人は何度でも是非。 注)なお、英語表記では両者ともZoological Parkである。

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鈴木朝夫  s-tomoo@diary.ocn.ne.jp

 高知県香美郡土佐山田町植718   Tel 0887-52-5154 

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・ステークホルダー

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                      情報プラットフォーム、No.244、1(2008)
{ステークホルダー}

有座の器

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画像出典:これは「宥座の器(ゆうざのき)」というものです。


 昔からなじみのあるグンゼ(郡是)の社名が気になりだした。その答えは「宥座の器~グンゼ創業者 波多野鶴吉の生涯」(四方 洋著、あやべ市民新聞社)にあった。

宥座(ゆうざ)は座右の意味であり、その器とは、U字型の容器が二本の柱に紐で|-U-| のように吊してあり、机上に置く道具である。鶴吉はこれを常に眺めながら、「この器は通常は傾いている。水を注いで水が器の半ばに達すれば、正しく真っ直ぐになる。さらに注いでいっぱいにすればこんどは引っくり返る。ほどほどがよい」と自分を戒め、人に説いたのである。


  この本によれば、創業の地は京都府何鹿郡(いかるがぐん)綾部町である。今は綾部市である。当時の日本は日清戦争後の好景気に湧いていた。

しかし、この地方の生糸は「粗の魁」と言われる位に最低に粗末な品質のものであった。その理由は、この地の人々の島国根性にあり、足の引張り合いで、製糸業のまとまりを欠いていたためである。

この状況を打開するために、蚕糸業組合の結成の機運が高まり、それが郡是製糸株式会社に発展したのである。設立の趣旨は養蚕奨励を第一とし、会社の利益よりも「郡内の養蚕戸数を5割増に、1戸あたりの収繭額を2倍に」を目標に、地域を良くすることを優先した。


 郡是の株主は月賦を利用した1株・2株の貧しい養蚕家が多い。鶴吉は「養蚕家は大切な株主であり、また可愛い娘の親である。決して繭を安く買い叩かないように」「工女たちは株主で、養蚕家の大事な娘さんであり、身内と思いなさい」「人は叱ったり、見て使ったりするようではどうにもならない」とし、「郡是の社員が社内の教育によって向上すれば、何鹿郡全体の家庭の勤勉さや道徳にも好影響がある」と考えていた。このことから、郡是は工場の顔をした学校であるとも言われたのである。


 安値で売りに出た製糸場を買取るとき、鶴吉はその目的は何かと悩み、「利益や名誉本位では怨みを招く、広く養蚕業を愛することが目的である」と自分を納得させた。

また「従業員100人の会社の社長が10の人格者であるならば、その会社が発展して1000人の従業員になれば、社長の人格も100にならなければならない」が彼のモットーであった。


 ステークホルダー(stakeholder)とは、英和辞典によれば「賭け金を預かる第三者」とある。今では、「企業を取り巻く利害関係者」を意味し、出資者(株主)だけではなく、顧客も、関連業者(ビジネス・パートナー)も、全部の従業員も、地域住民も、そして国民も、過去・現在・未来の人々(人類)も、さらに地球号のすべての乗組員(生き物たち全部)がステークホルダーなのである。


 「白い恋人」と「赤福」のどちらがより許せないかの電話投票による調査がラジオで行われていた。老舗であることや餡の日持ちのことからか、赤福の方が分が悪いようである。

多くの食品偽装だけではなかった。防衛省の商社との癒着や社会保険庁の杜撰な年金管理などの行政の不祥事、介護事業のコムスンや英会話のNOVAの儲け一辺倒なども社会の糾弾を受けた。鶴吉のような人材は絶滅危惧種になってしまったのだろうか。


 「お蚕さん」(情報プラットフォーム、No.212、5(2005))で述べたように、郡是製糸は1950年代半ばに高知県から撤退している。その工場跡地は「お世話になりました」と高知県に寄付をした。その鴨部の土地は高知西高等学校となって現在も有効に生かされている。


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・続々 シベリアンハスキー

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                       情報プラットフォーム、No.243、12(2007)
{続々 シベリアンハスキー}

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 いつものように、散歩して、ご飯を食べて、「はな」は普段と変わりはなかった。いつものように、孫の暖(ひなた)を保育園に迎えに行き、我が家へ。お店から帰った一枝(ばんばちゃん)と、勤め先から帰る娘の明日香(かあさん)を待つ。皆での夕食が7時過ぎ。

「明日は貿易センタービルが破壊された日だね」、「『一枝さん、大変なことが起こっています。テレビを見て下さい』と電話をかけたよ」、「デートの翌々日だから、火曜日だった」、「2001年と2007年は全く同じカレンダーになるね」と6年前の思い出に花が咲く。


 帰り際の明日香が「はな」の様子のおかしいことに気付いた。横になった「はな」のお腹が波打っている。3人が座り込んで交代で体をさする。頭を持ち上げようとする。「無理しなくてもいいよ」と、さするうちに呼吸は穏やかになる。

ちょっと家に入り、戻ってみると息がない。体の暖かさは、まだ沢山、沢山に残っている。一枝は「『はな』もういいよ。楽におなり。ありがとうね」と言い続けている。2007年9月10日、23時、「はな」は永眠。享年15才半、羨ましいほどの大往生である。


 生まれて直ぐの「はな」が南国の山岡さんちに来たのは、明日香が高1の時である。目が茶色のお犬好しの感じのハスキー犬である。その後、一枝が結婚し、明日香も結婚し、山岡さんちを出た。「はな」も2年前に土佐山田の鈴木さんちへ転居して来た。


 翌朝、「はな」は子犬の時から13年半を暮らした山岡さんちにお別れに行く。一枝の父母の正勝さん、潔江さんは「しばらく会わんかったな。涙が出てくる・・・」、「『はな』は眠っちゅう・・・」とそれぞれが涙でお別れを告げる。夕方、ペット霊園に一枝と2人でお骨を拾いに行く。口を少し開けた横顔の寝姿は「はな」のままである。


  一週間後、「はな」の散歩道、お座りしてご褒美を待ったところに散骨した。山田では土生川の改修記念碑の近く、南国では滑走路先端の誘導灯の近くである。ここを通るとき「はな」とお話しができる。

そして、朝夕の散歩の2時間が、今では「はな」からの時の贈り物である。「はな」のお家は花壇近くで小人さん達のお家に、跡地は居間からのウッドテラスになっている。

すべて「はな」の贈り物であり、想い出である。「こんにちわ」、「おはよう」と挨拶を交わすご近所さんを増やしてくれたのは「はな」である。暖に「『はな』のお口は」と聞けば得意げにハアハアと舌を出す。彼は1才半になろうとしている。


  注:情報プラットフォーム 、No.219、12月号(2005)の「シベリアンハスキー」、情報プラットフォーム、No.234、3月号(2007)の「続シベリアンハスキー」を参照。

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・生命と文明の源、水と鉄に例外の性質

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」


 「ぷらっとウオーク」                  情報プラットフォーム、No.242、11(2007)
{生命と文明の源、水と鉄に例外の性質}


 「水」の温度を下げると、0℃で氷になることは誰でも知っている。この時に体積が増加する。「鉄」の温度を下げると、910℃でfcc(面心立方)固体鉄からbcc(体心立方)固体鉄へと変態し、この時に体積が増加する。温度の低下とともに、体積が減少するのが通常の物質である。

「水」と「鉄」はこの点で例外的挙動をする物質なのである。「水」は温度の低下に従って、水蒸気→水⇒氷と変態し、「鉄」は蒸気鉄→溶融鉄→bcc固体鉄→fcc固体鉄⇒bcc固体鉄と変態する。「→」は粗な構造からより密な構造への通常の変化を示し、「⇒」は前述の例外的な変化を示す。fcc固体鉄から温度の低下で再びbcc固体鉄が出現することが「鉄」の異常なのである。これは「鉄」の磁性と深く関連している。


  「水」が例外物質でなければ、氷が水に浮かないならば、氷は海底に堆積し続け、太陽に照らされる海面は沸騰しているだろう。この様な過酷な海で生命の発生があったとは考え難い。

また、地球規模の物質の大循環が起こるとは考えられない。「水」が例外的な物質だからこそ、生命が発生し、進化して来た。そして、その生命活動が今の地球環境を作り上げた。それがなければ、地球は金星のような大気のままだったに違いない。


  「鉄」に例外的な性質があるからこそ、文明が勃興し、技術の発展が可能となったのである。炭素を固溶したfcc鉄を高温から水中に急冷すれば、結晶格子がズレて過剰な炭素を含んだままでbcc鉄に変態する。

これが焼入れ硬化である。「鉄」が例外物質でなければ、硬く切れ味の良い刃物はこの世に存在せず、また人類は靱性と強さの絶妙のバランスを自在に作り出せる材料を手にすることはなかった。「鉄」が金、銀、銅のような並の金属であったならば、船も鉄道も車も、機械も、橋も高層ビルもあり得ない。文明は青銅器時代のままで止まっていただろう。


  「水」と「二酸化炭素」を原材料、太陽光をエネルギー源、葉緑素を触媒として、「炭水化物」などの栄養素を生産しているのが植物である。この光合成では、必然的に生成する「酸素」を廃棄物として放出する。また、光合成を行う葉の温度を一定に保つために「水」を水蒸気として蒸散させて廃熱している。

この地球という星に葉緑体を持つ藻類が発生して以来、大気の酸素濃度を増加させるにつれて、海水中に溶けていた鉄分は「酸化鉄」となり海底に沈殿・堆積していった。これが鉄鉱石の由来である。


  「鉄」は、溶鉱炉で「酸化鉄」を植物が生産した化石燃料の「炭素」で還元して得られる。必要とする高温は「炭素」と吹き込んだ空気中の「酸素」による燃焼で得られる。排出物は「二酸化炭素」、「鉱滓」、そして余熱の除去に使った温廃「水」である。


  「水」はこの様に熱の吸収・蓄積の能力が高く、また多種類の物質を溶かし込む許容性も大きい。これも地球を生命のゆりかごと名付けるに相応しい環境を作り出す一因になっている。多量に存在することも「水」と「鉄」の共通点であり、現代社会を構築する原動力になっている。しかし、今、その人類が、あらゆる資源を浪費して加速度的に環境を変えていることが地球・水の惑星の危機なのである。 

     
  注:佐川町で「水の国際会議」(11/26~11/30)が開かれることから、高知新聞に「水その不思議な世界」が連載されている。これは9/24掲載の(39)を基にしている。

 

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・この暑さは地球温暖化の影響?

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                    情報プラットフォーム、No.241、10(2007)
{この暑さは地球温暖化の影響?}


 今年の夏は「それにしても暑いですね。地球温暖化でしょうかね」が当たり前の挨拶だった。「言うまいと 思えど 今日の暑さかな」(読み人知らず)の川柳を思い出す。

今年の5月に出た気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第4次評価報告書では「地球全体の温暖化には疑う余地はない。この50年間の世界平均気温の上昇は、人間活動による温室効果ガスが原因である可能性がかなり高い」と記している。

注目点は2001年の第3次報告の「高い」から、「かなり高い」に表現が格上げになっていることである。(特集 地球温暖化をよむ(IPCC報告書から);科学, Vol.77, No.7(Jul), 2007.を参照のこと)


 高知放送から3月25日の日曜日に放映された「たかじんのそこまで言って委員会」を見た人は。司会は、やしきたかじんと辛場治郎で、ゲストは武田邦彦さん。「環境問題のウソ」がテーマである。ついで、動画配信ポータルサイト「ミランカ」とそこの時事トークショー「博士も知らないニッポンのウラ」をご存じだろうか。

水道橋博士と宮崎哲弥の対談を柱にゲストを招く形式の番組である。第5回「環境問題のウラ」、第10回「環境問題のホントのウラ」のゲストは武田邦彦さんである。なお、ダウンロードは無料である。


 武田邦彦著の「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」(2007)を紹介して番組の趣旨を伝えよう。帯書きには「錦の御旗と化した『地球にやさしい』環境活動が、往々にして科学的な議論を斥け、人々を欺き、むしろ環境を悪化させている」、「京都議定書ぐらいでは地球温暖化は止められない。・・・・官製リサイクル運動が隠してきた非効率性と利益誘導の実態とは」とある。

なお、高知エコメッセ2003(高知エコデザイン協議会主催)では武田さんに「二つの環境~いのちは続いている」で基調講演をお願いしている。


  放送後のある時点でのキーワード「武田邦彦」でのウエブ検索結果は、Googleで252,000件、Yahooで133,000件以上にも達していた。ブログを拾い読みで眺めると賛否両論、議論沸騰である。揚げ足取りや誹謗中傷の議論や記事も多く見受けられる。


 視点を変えて見るには「豊かな石油時代が終わる-人類は何処へ行くのか」(社)日本工学アカデミー編(2004)が参考になる。石井吉徳担当の「人類は持続可能か-安く豊かな石油時代が終わる」では、温暖化はエネルギー問題そのものであること、ピークを過ぎ石油が乏しく高価な時代が近づいていること、代替エネルギーのエネルギー利得率(EPR)が石油に比べて極端に低いことなどを論じている。

そして結論とするかのように「エネルギーが豊富な時、エネルギーを多く使う生物種が優位に立つが、エネルギーが乏しい時はエネルギー消費が最小の種のみが生き延びる」の言葉を引用している。


 今、我々が生きている時代の先を考える参考として藤田祐幸、槌田敦共著(1985)の「エントロピー」,フォー・ビギナーズ・シリーズ(現代書館)のあとがきの一部を取り出してみる。「私たちは、今人類の歴史のなかで、最も『豊かな』生活をしていると思い込んでいます。

昔の生活ときたらそれはひどかった、とみんなそう思っています。宮沢賢治はそうではないと、はっきり言っています。・・・・・賢治は自然をいつくしむ目をもち、そして、自然に対して畏敬の念をいだいていた、と言うことでしょう」
 それにしても今年は暑かったですね。

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・年輪を刻む

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                    情報プラットフォーム、No.240、9(2007)
{年輪を刻む}

   

        焼き上げ風景                                  本場ドイツのバウムクーヘン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 バウムクーヘンと聞けば木の年輪に模したドイツ由来のお菓子のことと思い当たるだろう。木の幹の輪切りである。作り方は次のようである。中心の空洞に相当する軸棒にケーキ生地を塗り、回転させながらオーブンで焦げ目を付ける。再びケーキ生地を塗り、焦げ目を付けて年輪を一つ増やしていく。

多くを試食してはいないが、各ブランド毎に考え方が異なるようである。綺麗な同心円模様と考えるケースから、自然なユラギをより重んじるケースまである。いずれにしても年輪の平均的な間隔は一定のようである。間隔を一定と仮定すれば、ケーキが太くなるにつれて、一回りの年輪を作るに要するケーキ生地の量は多くなる筈である。


  実際の樹木の成長はどうだろうか。杉や檜のような針葉樹では、春から夏の成長の旺盛な時には、柔らかい早材部分が、夏から秋のゆっくり成長時には。堅い晩材部分が形成される。晩材部分は細胞壁が厚く目が詰むほどに強くなっている。

欅や桐のような広葉樹(環孔材)では、年輪幅に関係なく導管が分布するので、中空部分が多くなり、目が詰むほどに柔らかくなる。「ぬか目」と呼ばれる部分である。


  木口(輪切り)を見ると、樹齢を重ねるに従って、年輪幅は徐々に狭くなっている。しかしながら、面積(または体積)は樹齢を重ねて出来る外側ほど大きいようである。バウムクーヘンが太くなるにつれて、ケーキ生地の量を多くするのと似ている。


  樹木に一年間で蓄積される木質部の量(生長量)は、光合成の活動量に比例し、そして葉の全面積に比例するだろう。葉の面積は樹形や周囲の環境に依存することは当然である。


「この木なんの木、気になる木」は、周囲と争う必要のない独立樹であり、理想的に成長するモデル木のように思える。この樹種、モンキーポッド(アメリカネムの木)の木口には年輪が見えるので、樹齢との対応を調べてみたいものである。

どのように枝分かれをして成長するかも知りたい。混合った原生林や密植の人工林では、日の当たる樹冠が年ごとに大きく変わるとは思えない。樹齢による光合成の量の変化分は殆どないのかも知れない。


  実際には、気象条件、環境条件、病害虫の発生、山火事などの影響を受けて、年輪幅は変動している。樹齢による影響を除いたものを標準年輪曲線という。一つの地域で共通した年輪幅の環境変動を発見できれば、正確な年代を決定できる。

この方法は過去の樹木標本や輪切りの置物が残っていれば、そこに気候変動が記録されていることになる。また、既知の年輪曲線と重ね合わせ、接続すれば暦年標準パターンが出来上がる。長期間に亘る年代決定の物差しとなる。出土した柱がその遺跡の年代を教えてくれることもある。


  バウムクーヘンで検索するうちに、「ばーむくーへん会津桐」が見つかった。地域おこしの一つと思われる。会津桐や南部桐が有名だが、冬の寒さと夏の蒸し暑さが木目の美しい年輪を作り出すと言われている。桐材のようにフワアッとしているのだろうか。


 高知特産のお菓子「バーウムクーヘン魚梁瀬杉」は作れないだろうか。赤い心材、白い辺材、そして樹皮もあるお菓子はどうだろう。味を変えていくのも特徴の一つである。

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・自然遺産、マデイラ島の照葉樹林

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                 情報プラットフォーム、No.239、8(2007)
{自然遺産、マデイラ島の照葉樹林}

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 リスボンの南西約1000km、モロッコの東600kmの大西洋上に、総面積797km2 のマデイラ諸島がある。ポルトガルの自治領であり、首都のフンシャルは本島のマデイラ島にある。

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                                           (出典:ポルトガル・マディラ諸島観光情報)

 

観光案内は「海に浮かぶ庭園の島」、「大西洋の真珠」と宣伝している。「温暖な気候と豊かな自然、火山島ならではの特異な景観、青い海と輝く太陽、年間を通じてのカラフルな花やフルーツ、そして、マデイラワインと新鮮なシーフード料理」と聞けば行きたくなる。そして、1999年にはマデイラ島の照葉樹林が世界自然遺産に指定された。島全体の20%弱の面積である。真の自然豊かな南の楽園とは何かを考えよう。


  今から600年ほど前の1420年にポルトガル人がこの無人島を発見した。これが大航海時代の幕開けである。大西洋に船出する際の補給基地として、大きな役割を演じたのである。コロンブスの西インド諸島到達(アメリカ発見)は1492年、パスコ・ダ・ガマのインド西岸到達が1498年、マゼランの世界一周は1519-1522年、種子島への鉄砲伝来は1543年へと続くことになる。


 この島の発見当時の記録には「巨大な樹木がいたるところに生い茂っており、足の踏み場もないほどであった」、「木が摩天楼のように林立していた」とある。

マデイラ(Madeira、木材)の命名は、この鬱蒼たる高木・巨木が金を生む木材としか見ることが出来なかった紛れもない証拠である。定住者は水に恵まれたこの土地でサトウキビ栽培を始めた。動力源の水車、搾什器などの機械類、樽や箱の容器材料、液汁濃縮の燃料などは現地の調達である。サトウキビ畑が増え、樹木は木材へと変わり果て、製糖工場が栄えた。


 また、豊富な、良質の木材は大西洋を航海できる大型船の建造を可能にした。新造船のメインマストはより遠くまで見通せるように高くなっていった。コロンブスはそのような大型船でカリブ海の島々を発見したのである。

航海日誌には「千種類の樹木が一面に育っており、その聳え立つ様はまさに天まで届きそうである」と記されている。スペインはここ西インド諸島を含む北米で、ポルトガルは南米のブラジルで、サトウキビ栽培を始めることになる。そして、これらの地域では、原生林が破壊されてからは「汲めども尽きない泉が涸れ、川の氾濫が破壊的被害を及ぼし始めた」、「激しい嵐の後、サトウキビ畑一面が『走り去る』ように滑り落ちた」となるのは当然の帰結であろう。


  世界自然遺産の照葉樹林には昔の面影が残っているのだろうか。垂直分布の植生の中の手の届かない高山帯に広葉樹と針葉樹の複合林が幸いにも残ったと想像できる。ホテルの並ぶ海岸付近にはどのような樹種が茂っていたのだろうか。「アトラスシーダー、ニセアカシアは豊富で大型材に最適である」、「薪や樽材となった木はシナノキである」の記述から想像するしかない。ほんまもの「大西洋の真珠」はすでに消滅しているのだろう。


  マデイラは、「砂糖、木材、ラム酒、毛皮など」、「工業製品など」、「黒人奴隷など」の大西洋の三角貿易、そして植民地支配の原点となったことを忘れてはならない。
  「森と文明」、ジョン・バーリン著、安田喜憲ら訳、晶文社(1994,9)を参照


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・人口密度、50人/km2

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                 情報プラットフォーム、No.238、9(2007)
{人口密度、50人/km2}


  大陸から3,000kmも離れた太平洋上に、面積163.6km2、小豆島はどの小さな島、イースター島がある。1722年の復活祭の日に発見された。極めて原始的な暮らしの中で、戦闘に明け暮れる島民が住んでいた。「ヨーロッパからの最初の訪問者を驚かせたのは、みじめな未開状態であるにもかかわらず、かってはこの島に進んだ文明が繁栄していたらしいことである。そのことは島の中に散在する600体以上、高さは6mを超えるモアイ像、巨大な石像群が物語っていた」とある。

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 高知県香美郡土佐山田町植718   Tel 0887-52-5154

 

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  イースター島にポリネシア人が移住してきたのは5世紀頃、20~30人程と推定されている。食料の種類は豊富とは言えないが、サツマイモと持ち込んだ鶏が主体だった。大家族が社会の基本単位となり、祭祀と戦闘に明け暮れていた。最盛期の人口は7,000~10,000人と推定され、人口密度は約50人/km2程に達している。


 像は石切場で、黒曜石製の石鑿(いしのみ)だけを用いて彫り上げられた。高度に様式化されたそのデザインは、男の頭と胴を象ったものである。頭の上には赤色の石の「髪飾り」が載せられているが、それだけで10tもある。


 重さ数十トンの石像を、如何にして運び、祭祠場で引き起こしたかは謎である。丸太をコロにしたとか、浮かべた丸太の下に吊して海中を運んだなどの説を実証する実験も行われた。


 人口が増えるに従って、開墾道具、生活用具、武器、家屋、船などを造るために、豊富にあった森林が伐採された。絶頂期を迎えると同時に、その文明は突然に崩壊し始める。300以上の未完成の石像が石切場に残されていることがその証拠である。森林破壊による裸地の増加によって、土壌の流出が起こり、作物の収量の低下を招いたと想像される。


 「1600年を過ぎるとイースター島は衰退期に入り、次第に未開状態へと逆戻りしていった。木をなくし、したがってカヌーも作れない中で、島民は自ら招いた環境破壊から逃れることもできず、遠く隔絶した島に閉じこめられた」、「奴隷使役が普通になり、さらに蛋白源が少なくなるに及んで喰人が始まった。戦争の目的の一つは、敵対する氏族の石像を倒すことであった」とある。モアイ倒し戦争である。


  初めてヨーロッパ人が訪れたときには、死火山ラノカオの一番深い火口の底に一握りの茂みがあるだけで、一本の木も見いだせなかった。土壌の中の花粉分析から、移住が始まった5世紀頃のイースター島は、高木を含む豊かな植生に覆われていたことが証明できる。


 「他の世界から隔絶されていることを知っている島民であれば、小さな島の有限の資源に依存していることは百も承知していたのに違いない。にもかかわらず、彼らは環境と間で適切な均衡を維持するシステムを作ることが出来なかった。必須の資源を完全に枯渇させるまで消費し続けたのである」と記されている。


  地球上の陸地面積は1億5千万km2、5年後の人口は70億人に達すると予測していうる。人口密度は約50人/km2になる。人類はこの数字に気付いているのだろうか。今の森ではなく、古代の森(化石燃料)を浪費し、モアイ倒し戦争を繰り返している。
 *「緑の世界史、上」、クライブ・ポンティング著、石 弘之ら訳、朝日選書(1994,6)を   参考


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・出会うチャンスが多い造りほど良い

2010-11-24 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

「ぷらっとウオーク」                 情報プラットフォーム、No.236、5(2007)
{出会うチャンスが多い造りほど良い}

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  高知工科大学の基本的構想の中で特に重要視したことがある。誰とでも、何処でも、何時でも、出会う機会、挨拶の機会の多いキャンパス構造にしたいとの思いである。


 私の育った東工大・大岡山キャンパスは極めて平面的である。4階建ての本館以外は、実験棟・研究棟はすべて平屋である。イチョウ並木や芝生広場があり、出会いが多く、挨拶が自然に出てくる仕組みが温存されている。

昭和40年代に始まる学科増や大学院化の中で、横浜市郊外に新キャンパスが誕生した。この長津田キャンパスは9階建ての高層ビルが主流である。エレベーターは人との遭遇の可能性を極端に減少させる。他所の階を横に歩けば「何か用事ですか」、「久しぶりですね」と尋ねられることになる。立体的構造が人間関係を著しく阻害することを体感した。


  工科大のキャンパスでは、境界線に区切りの塀を設けず、研究棟・講義棟を可能な限り集中した建物にまとめようとした。二つの研究棟は4階の渡り廊下で接続しており、教員の部屋は平面的に連続している。

教室と実験室は1階の幅広い通路(廊下)を挟んで右側と左側に配置している。受講する1年生が実験室を身近に感じ、先輩と遭遇するチャンスが増えることを見込んでいる。幅広い廊下は3階まで吹き抜けである。

エレベーターとそのシャフトはガラス張りである。このような配慮が工科大生の人格形成にどのように役立ってかを示すことはできないが、挨拶のチャンスを増やしていることは確かである。


  高知に来て気が付いたことがある。大きな石積みに白い漆喰と瓦葺きの塀、そして威圧感のある門構えのお屋敷がご近所にある。しかし、この門と玄関が開くことは滅多にない。正月と法事の時だけである。私は「建前の入り口」と名付けた。

そのお家を普段に訪ねるときは勝手口や縁側に廻る。生活の息吹が感じられる「本音の入り口」である。それぞれが役割を分担しているのである。思い当たるのは今の一般住宅の間取りである。


  戦後の住宅難の時代に、2LDKや3LDKの公団住宅を作るに当たって、入り口を一つに決める必要があった。この時、日本人は「建て前の入り口」を選び、「本音の入り口」を捨てたのである。格式張った玄関ホールのある住宅を望んだのである。

玄関と奥のダイニングルームが廊下で結ばれている。廊下の両側には主寝室や子ども部屋が並んでいる。以後、日本人はこれが当然の、理想の間取りであると信じ込んでしまった。

そして、新興住宅地の戸建ち住宅も、高層マンションも、横並びの構造になってきたのである。これを読んだ皆さんも「それ以外に何があるのだ。冗談じゃない」と思うのは当然であろう。多くを知るわけではないが、アメリカでも、韓国でも、入り口とダイニングルームはほとんど一体である。アメリカの家庭ドラマのシーンを思い出して欲しい。


 子どもが玄関(入り口)からダイニングルームを通って、子ども部屋へ行く造りをイメージして欲しい。心のかよう家族の絆がもっと豊かに培われたと思われる。引きこもりとは無縁だったかも知れない。そして、ご近所の方とのお付き合いも変わっていただろう。ご近所と連携の採れる地域社会が素直に出来ていただろう。


 出会えるチャンスの多い造りが必要である。挨拶のチャンスが多いほど良い。

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鈴木朝夫  s-tomoo@diary.ocn.ne.jp

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