極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

騎士団長の年金

2017年07月18日 | 時事書評

 

            

         僖公33年:殽(こう)の戦い その2 / 晋・秦・楚鼎立の時代     

                               


   ※ 一日敵を縦(ゆる)せば数世の患いなり:
そのころ晋では、原軫(げんしん=先軫、中
     京の将)が欒枝(らんし:下軍の将)を説いていた。「秦は、蹇叔の意見にもかかわ
     らず、民を犠牲にしてでも領土欲を満たそうというのだ。これこそ天の恵みだ。こ
     のままみすみす秦軍を見逃す手はない。もし見逃せば、わが国に災難がぶりかかるだ
     ろう。天意に逆らうのは不祥だ。ぜひとも秦軍を討とう」
     「しかし、秦から受けた恩義はどうなる。その恩返しをしないうちに秦軍を討つのは、
     亡き先君文公を恥ずかしめることになるのではないか」
     「いや、非難さゐべきなのは、むしろ秦のほうだ。わが国が文公を失って喪に服して
     いるのに、哀悼の意を示すどころか、それにつけこんでわが同姓の滑国を攻めるとい
     う無礼をはたらいたではないか。どうして恩義に報いる恩義があろう。それに、たっ
     た一日敵を見逃したために、数世代にわたって禍いが生じた例だってある。これも子
     孫のためを考えてやることだ。決して先君を恥ずかしめることにはならぬ」

     こうしてにわかに決断が下され、姜戎に対しても、即日、援軍を求める急使が派遣さ
     れた。襄公は縁起をかついで、身につけていた白の悦服を黒く染め変え、腰に白帯を
     しめて出陣した。梁弘が御の役目を引受け、萊駒(らいく)が車右として付き従った。
     夏四月辛巳、百事は晋軍を殽で打ち破り、百里孟明視、西乞術、白己丙(はくいへい)
     の三人の敵将を生捕りにして凱旋した。襄公は、凱旋するとすぐ、黒く染めかえた喪
     服のままの身なりで文公を葬った。晋が喪服に黒を使うようになったのは、このとき
     からである

 

     

● 読書録:高橋洋一 著「年金問題」は嘘ばかり   

           第2章 「日本の年金制度がつぶれない」これだけの理由

  一階部分は、全国民に定額給付する国民年金。すべての国民は強制的に国民年金制度に加入す
 ることになっています。一階部分で給付される年金は「老齢基礎年金」と呼ば
れています,
  老齢基礎年金は、40年間保険料を納めた人には満額が支給されます。平成二十八年四月から
 の例でいえば、年金額の満額は、年78万100円。一ヵ月当たり約6万5000
円の年金額で
 す。所得の高い人も低い人も、保険料を納めた期間によって基礎年
金額は一律です。
  自営業者や農業者(第1号被保険者)には、一階部分の基礎年金しかおりません。会社員・公
 務員等に扶善されている配偶者(第3号被保険者)も、一階部分の基礎年金の
みです,
  二階部分は、国民年金の上乗せとして報酬比例の年金である被用者年金があります。
  サラリーマン(民間企業職員)の場合は厚生年金、公務員と私学教職員は共済年金でしたが、
 平成二十七年十月以降は、共済年金は厚生年金に一元化されました。厚生年金に
加入している人
 は、「第2号被保険者」と呼ばれます。

  会社員・公務員等は、一階部分の基礎年金と二階部分の厚生年金を受け取ります。一階部分は
 保険料を納めた期間に応じて一律ですが、二階部分は報酬比例ですから、所得
が多く保険料をた
 くさん納めた人は、年金を多く受け取ることができます。

  ここまでが公的年金保険です。一階部分の国民年金も、二階部分の厚生年金も必ず入らなけれ
 ばいけない年金です。
  ここから先は、個人の任意、あるいは組織の任意の年金保険ですから、いろいろな仕組みがあ
 ります,
  自営業者は、一階部分しかおりませんので、「付加年金」と「国民年金基金」という制度があ
 ります。付加年金は、毎月の国民年金保険料に400円プラスして納めると、40年の満額で、
 年間9万6000円基礎年金額が加算されます。
  国民年金基金は、国民年金に上乗せする「私的年金」です。自営業者の二階部分、三階部分の
 ようなものです。
  サラリーマンの場合、一階部分は基礎年金、二階部分は厚生年金ですが、会社によっては三階
 部分を持っているところもあります。先述のように以前は厚生年金基金という仕組みかおりまし
 たが、問題が多いため、解散が相次ぎ、新規には設立されません。厚生年金基金は、確定給付企
 業年金、確定拠出年金(企業型)に移行しています。このほか、個人が入る確定拠出年金(個人
 型)があります。

               第2章2節 日本の年金制度の基本的な枠組みを知っておこう


  前述したように、年金には「賦課方式」と「積立方式」があります。
 賦課方式は、現役の人が納めた保険料は、すぐに高齢者の年金給付に回されます。今の若い人が
 高齢者になったときには、その時代の若い人から集めた保険料を年金として
受け取ることができ
 ます,

  世代間で年金がやりとりされますから、「世代間の助け合い」といわれています。若い人が高
 齢者の年金を支払っていることになりますので、「親への仕送り」と呼ばれる
こともあります,
 個人で仕送りするのではなく、社会全体で仕送りをする仕組みです。

  賦課方式は、集めた分をすぐに支払いますので、原理的に積立金を必要としていません。支払
 い準備のために少額の積立金は必要になりますが、それ以上に積立金を持つ必
要のない制度です,
  日本の公的年金(一階、二階)の根幹は、賦課方式です。ただ、積立金も持っており、国庫か
 らも税金が役人されている部分がありますので、少し複雑化していますが、
ほぼ「賦課方式」で
 運用されています。

  一方、「積立方式」は、保険料を積み立てていって、それを将来受け取る方式です。
  積み立てた保険料は運用され、保険料と運用益が年金支給に充てられます。私的年金保険料を
 自分の老後のために積み立てる「積立方式」で運営されています。

 《年金の仕組みの追い

   一階、二階 公的年金(ほぼ賦課方式)
   三階    私的年金(積立方式)

  一階、二階の公的年金と、三階の私的年金の関係は、日本はアメリカなどに比べて公的年金部
  分のウェイトが高いという特微かあります,

                            第2章3節 日本の年金は「賦課方式」か「積立方式」か?

  すでに本書では何度か紹介していますが、平成二十八年(2018年)に年金改革遵法が成立
 し、改正年金機能強化法では、受給資格を得られる保険料納付期間が25年
から10年に短縮さ
 れました。
同じタイミングで、次のような改正が行なわれました。

  ・短時間労働者への被用者保険の適用拡大の促進
  ・年金額改定ルールの見直し
  ・GPIFの組織見直し

  年金給付額は、物価や賃金が上がるとそれに連動して増えていきますが、現役人口の減少や平
 均余命の伸びを加味して、給付水準を自動的に調整(抑制)する仕組みが導入されています。
 「マクロ経済スライド」であり、世代間格差を少しずつ埋めていく措置です。
  マクロ経済スライドは、物価下落時には適用されないことになっていました。しかし、マクロ
 経済スライド導入後、長くデフレが続いたため、平成二十七年度のI回しか適用されていません
 でした,

  そこで平成二十八年の改正では、将来世代の給付を確保するために、適用ルールを少し変更し
 ました。物価下落時にはマクロ経済スライドを適用しないものの、その分を物価上昇時にまとめ
 て取り戻すというルールです。
  景気が良くなったときにまとめて調整をする仕組みですから、そのときに年金支給額は減りま
 す。これに対して、民進党が「年金カット法案だ」とレッテルを貼って批判したのでした,
  しかし前述のとおり、もともと平成十六年(二〇〇四年)の改正で「マクロ経済スライド」が
 導入されており、ある条件になったら給付の調整が行なわれることは決まっていたことです。そ
 れを「給付カット」と呼ぶのは、どう考えても正しい表現とは思えません。

  これを「給付カット」と呼ぶのであれば、「給付カット」は10年以上前から決まっていたル
 ールです。しかも、民進党の場合は、その10年のあいだに政権も担当しているのですから、何
 をかいわんやです。
  自分が政権を担当していたときには「マクロ経済スライド」について何もしないでおいて、自
 民党が行なえば「年金カット」などというのでは、「批判のための批判」をしていると指摘され
 ても、反論できないはずです。むしろ、滑稽でさえあります。

  そもそも、現役世代の賃金が下がったときに給付額を調整するのは、制度の持続可能性の点か
 ら当然のことです。なぜ平成二十八年に、まとめて年金給付額を減らさなければいけなくなった
 のか。それは、デフレが続いていたためです。本来は、世代間格差を埋めるために、毎年少しず
 つ調整していくのが一番いいのですが、デフレが続いたために調整できませんでした。その「ツ
 ケ」を解消するルールに変更したというわけです。
  安倍政権になってからは、金融政策を行ない、政権を土げてデフレ解消に取り組んでいます。
 しかし、民主党政権の時代は、デフレに対して有効な手がまったく打たれませんでした。その結
 果、デフレが続き、給付の調整ができず、「ツケ」がたまってしまったのです,

  民進党は「年金カット」といいますが、これまでデフレでカットすべき年金給付をカットして
 こなかったのが悪いのです,それを遅ればせながらやるのですから、カットになるのは当然とい
 えば当然です。自分たちが政権をとっていた時期にはデフレを放置して、年金カットをやらなか
 った民進党が、年金カットと反対するのは笑止千万です。

  民進党が改正法案を批判したのは、まったくもって筋違いといわざるをえません。デフレが続
 いたために、世代間格差解消の措置をとれなかったのであり、責められるべきは、民進党の「経
 済政策」です。民進党の主張は、自分たちの経済政策が失敗したことを良しとしているかのよう
 です。
 「経済政策の失敗に起因する問題」を、年金の「制度の問題」にすり替える議論はよく出てきま
 す。そこをきちんと見極めておかないと、制度に問題があるかのように思ってしまって、不安を
 あおられてしまいます。後ほどまた触れますが、年金問題の大半は、制度の問題ではなく、経済
 政策の問題なのです。

  そこを隠そうとしたり、ただ与党を攻撃するためだけに「年金」について「批判のための批判
 」をするのは、政治家として、許すべからざる無責任です。その批判を真に受けて、年金保険料
 を払わなかったり、ハイリスクな投資に手を出して大損をしてしまう人も出かねないのですから。
 人ロ減少が起こることは、ずっと前から予測されていることであり、それに伴って給付額が減る
 ことも、予測されていることです。問題はその額です。人口減少は急激に進むわけではなく、ゆ
 っくりと進むと予測されていますから、人口減少が起こっても、給付額が大幅に減ることはあり
 ません。ゆっくりと進む人ロ減少に合わせて、毎年少しずつ調整していけば影響は少なくて済み
 ます。その仕組みが「マクロ経済スライド」です。

                第2章5節 「給付カット法案」などという批判は笑止千万




  社会保障の議論の中で、必ず出てくるのが「現役世代何人で一人の高齢者を支えるか」という
 考え方です。内開府が「高齢社会白書」を発表していますが、その平誠二十八年版によれば、今
 後、高齢者(六五歳以上)一人を、現役世代(15~64歳)が何人で支えるかについて、次の
 ようなデータが書かれています(図4参照)。
  このデータでは「現役世代」を生産年齢人口(労働力の中核をなす15歳以上、65歳未満)
 としていますが、最近の日本では15歳から働く人は多くはないですから、実際にはもう少し厳
 しいデータになるでしょう。
  この数字だけを見ると、「大変なことになる」と思って不安になる人が多いと思います。
  もちろん、このような状況はけっして楽なものではないことは確かです。しかし、先ほど述べ
 たように、政府がこのような数字を出しているということは、逆にいえば、このような人口減少
 状況は、すでに十分予測されているということです。年金数理の計算でも、このような状況は(
 「完全に」とまではいわないまでも)織り込まれているのです。

  少子高齢化の状況は、きちんと踏まえておく必要はあります。しかし、必要以上に不安をあお
 るロジックにダマされてはいけません。
  「一・X人で一人の高齢者を支えなくてはいけない」というロジックの最大の問題点は、「人
 数」だけで計算しているところです。 正しい議論するには、「人数」に「所得」を掛けた「金
 額」を使わなければなりません。年金は「人数」の問題ではなく、「金額」の問題です。そこを
 押さえておかないと、不安をあおられることになります。
  昔は、6~7人で1人を支えていましたが、一人ひとりの給料はたいしたことはありませんで
 した。今は、その当時よりは給料が上がってきています。給料が2倍になれば、昔の人の2人分
 になります。年金財政から見ると、頭数より、一人ひとりがどのくらい稼いでいるかが重要です。

  人口が減少しても、それを上回る成長をして所得が伸びていれば、人口減少はあまり大きな問
 題ではなくなります。
  前章で、「年金をもらえる額は、生涯を通じて平均の給与額の四割と考えましょう」と中しあ
 げました。たとえば若かった頃の平均月給が10万円だったとしましょう。その人の「生涯の平
 均給与額」はその10万円時代も計算に含んだものになります。その4割を年金としてもらうの
 です,
  一方、もし経済成長の結果、現在の平均月給が3倍の30万円になっているとしたらどうでし
 ょうか。これはつまり、納められる保険料も3倍になっているということです。その保険料収入
 を、かつて平均月給が10万円だった人に支払うわけです。
  これはわかりやすくするために乱暴なまでに単純化した例です。実際には年金給付額は、物価
 や賃金が上がるとそれに連勤して調整されるわけですが、ともあれ、このように経済成長してい
 るならば、制度がもつであろうことがイメージできるはずです。
  しかし、この20年間、デフレによって初任給は劇的に上がっていません。そうなるとなかな
 か難しいことになってしまいます。マイナス成長が続いて、所得が伸びなければ、人口減少がモ
 ロに効いてきて、年金制度は厳しくなります。
  
  仮に、人口増加社会であったとしても、経済が落ち込み、所得が伸びなければ、年金今後、人
 口が少しずつ減少していくと予想されている中で重要なことは、「所得を増やすこと」。経済を
 成長させて、所得を増やしていく。それが年金制度を安定させる一番のポイントです。
 「経済成長は不要だ」などという議論を好んでする人がいますが、この年金の問題一つを考えて
 も、そのような発想がいかに間違いかがわかります。また、デフレを放置、あるいは助長するよ
 うな経済政策をすることがどれほど罪深いかもわかります。

  子供の数が少なくなっても、その子たちが完全雇用状態になり、稼ぎが良くなれば、年金制度
 は成り立ちます。現在では女性も、以前と比べればけるかに大勢が働くようになりましたので、
 女性の所得も増えてきています。
 
 《間違った計算と正しい計算》

  ・間違った年金計算 →「人数」で計算
  ・正しい年金計算  →「金額」で計算

  人間の数だけで議論するのは、間違っています。「何人で一人を支えるか」を示すイラストが
 よくありますが、イラストのイメージにダマされないようにしましょう。やせ細った人が支える
 のと、筋骨隆々の人が支えるのでは、まったく違います。経済成長を果たして所得を高めれば、
 筋骨隆々の人が高齢者を支えることになります。

          第2章6節 「一・X人で一人の高齢者を支える」という脅し文句の真実

                                                         この項つづく 

   

読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』    

    第41章 私が振り返らないときにだけ 

  私は『騎士団長殺し』のことをぼんやりと考えながら、家の周辺をあてもなく散歩した。雑木
 
林の中の小径を歩いているとき、白分か背後から誰かにじっと見られているような奇妙な感覚が
 あった。まるであの「顔なが」が地面の四角い蓋を押しあけて、画面の隅から私を密かに観察し
 ているみたいな。私はさっと振り向いて背後に目をやった。でも何も見当たらなかった。地面の
 穴も開いていなかったし、顔ながの姿もなかった。落ち葉の積もった無人の小径が沈黙の中に続
 いているだけだ。そういうことが何度かあった。しかしどれだけ素早く振り向いても、そこには
 やはり誰の姿もなかった。

  あるいは穴も顔ながも、私か振り返らないときにだけそこに存在しているのかもしれない。私
 か振り返るうとした瞬間、それらは気配を察して素早く姿を隠してしまうのかもしれない。まる
 で子供たちの遊びのように。

  私は雑木林の中を抜けて、いつもは行かない小径の突き当たりまで足を運んだ。そして秋川ま
 りえの言っていた「秘密の通路」の入り口がそのあたりに見つからないかと注意して探してみた。
 しかしいくら捺しても、それらしきものは見当たらなかった。「普通に見ていたのでは、通路は
 見つからない」と彼女は言っていたが、よほどうまくカモフラージュされているのだろう。いず
 れにせよ彼女は、暗くなってから一人でその秘密の通路を通って、隣の山からうちまで歩いてや
 ってきたのだ。茂みをくぐり、雑木林を抜けて。

  小径の突き当たりは小さな丸い空き地になっていた。頭上を覆っていた樹木の彼が途切れ、見
 上げると小さく空か見えた。そして秋の太陽の光がそこからまっすぐ地面に向けて差し込んでい
 た。私はそのささやかな目だまりの中にある平らな石の上に腰を下ろし、樹幹のあいだから谷間
 の風景を眺めた。そのうちにどこかの秘密の通路から秋川まりえがひょっこり姿を現すのではな
 いかと想像しながら。でももちろん誰もどこからも現れなかった。鳥たちがときどきやってきて
 彼に止まり、また飛び立って行くだけだ。鳥たちは常に二羽ずつで行動し、お互いの存在を良く
 通る短い声で知らせ合っていた。ある種の鳥はコ伎パートナーを見つけるとその相手と一生行動
 を共にし、相手が死ぬとその片割れは、残りの一生を孤独の内に暮らすのだという記事をどこか
 で読んだことがあった。言うまでもないことだが、彼らは弁護士事務所から内容証明付きで送ら
 れてきた離婚届の書類に署名捺印したりはしない。

  ずっと遠くの方から、何かを巡回販売するトラックのアナウンスがいかにも物憂げに聞こえ、
 やがて聞こえなくなった。それから近くの茂みの奏でごそごそという、正体不明の大きな音がし
 た。人間が立てる音ではない。野生の動物が立てる音だ。イノシシではないかと思って一瞬ひや
 りとしたが(イノシシはスズメバチと並んで、このあたりでは最も危険な生き物だった)、音は
 ぱったり止んでそれっきり聞こえなかった。

  私はそれを機に立ち上がり、歩いて宮号戻った。宮に戻る途中で祠の裏手にまわり、穴の様子
 を確かめてみた。穴の上にはいつもどおり根がかぶせられ、重しの石がいくつもその上に並べら
 れていた。見る限り石が動かされた形跡はなかった。蓋代わりの根の士には落ち葉が厚く積もっ
 ていた。落ち葉は雨に濡れて、既に鮮やかな包を失っていた。春に若々しく生まれたすべての葉
 は、晩秋の静かな死を避けがたく迎えていた。

  じっと見ていると、今にもその蓋が持ち上げられ、中から「顔なが」がその細長い茄子のよう
 な顔をひょいとのぞかせそうな気配があった。しかしもちろん蓋は持ち上げられなかった。それ
 に「顔なが」が潜んでいたのは、四角い形をした穴だ。もっと小さな、もっと個人的な穴だ。そ
 してこの穴に潜んでいたのは「顔なが」ではなく、騎士団長だった。というか、騎士団長の姿を
 借用したイデアだった。彼が夜中に鈴を鳴らして私をここに呼び、この穴を開けさせたのだ。

  いずれにせよ、この穴がすべての始まりだった。私と免色が重機を使って穴をこじ開けて以来、
 私のまわりでわけのわからないことが次々に起こり始めた。それともすべては私が『騎士団長殺
 し』を屋根裏部屋で見つけ、その包装を解いたことから始まったのかもしれない。ものごとの順
 番からいえばそうなる。あるいはその二つの出来事は最初から密接に呼応し合っていたのかもし
 れない。『騎士団長殺し』という一枚の絵が、イデアをこの宮に導き入れたのかもしれない。私
 か『騎士団長殺し』という絵画を解き放ったことへのいわば補償作用として、騎士団長が私の前
 に現れ出てきたのかもしれない。しかし考えれば考えるほど、何か原因であり何か結果であるの
 か、判断することができなくなった

  家に戻ったとき、玄関の前に駐めてあった免色のジャガーは既に姿を消していた。たぶん私か
 外に出ているあいだに、免色がタクシーにでも乗って取りに来たのだろう。あるいは業者を寄越
 して回収させたのかもしれない。いずれにせよ車寄せには、私の埃まみれのカロ土フ・ワゴンが
 どことなく心細げに残されているだけだった。免色が言っていたように、コ伎タィャの空気圧を
 側らなくてはなと私は思った。しかしまだ空気圧計を買ってはいなかった。たぶん一生買うこと
 もないだろう。

  昼食の用意をしようと思ったが、調理台の前に立ったとき、さっきまで旺盛だった食欲がすっ
 かり消え失せていることに気づいた。そのかわりひどく眠かった。私は毛布を持って居間のソフ
 ァに横になり、そのまま眠りについた。眠りの中で私は短い夢を見た。とても明白で鮮やかな夢
 だった。しかしそれがどんな夢だったのかまったく思い出せなかった。思い出せるのは、それが
 とても明白で鮮やかな夢だったということだけだった。夢と言うより、何かの手違いで眠りの中
 に 紛れ込んできた現実の切れ端のようにも感じられた。目覚めたとき、それは逃げ足の速い俊
 敏な動物となって跡形もなくどこかに消え失せていた。

 
EineKleineNachtmusik  Dorothea Tanning

       第42章 床に落として割れたら、それは卵だ

  その一週間は予想もしなかったほど素早く過ぎていった。午前中ずっと集中してキャンバスに
 向かい、午後には本を読んだり散歩をしたり、必要な家事をこなしたりした。そのようにして、
 気がつかないうちにI日いちにちが移り変わっていった。水曜日の午後にはガールフレンドがや
 ってきて、我々はベッドの中で抱き合った。古いベッドはいつものように派手な音を立てて軋み、
 彼女はそれを面白がった。

 「このベッドはきっと遠からず解体するわよね」と彼女は性交の途中、一息ついているときに予
 言した。「ベッドのかけらなのか、グリコ・ポッキーなのか見分けがつかないくらい見事にばら
 ばらに砕けると思う」
 「我々はもう少し穏やかにそっと、ことをおこなうべきなのかもしれない」
 「エイハブ船長は鰯を追いかけるべきだったのかもしれない」と彼女は言った。
  私はそれについて考えた。「世の中には簡単に変更のきかないこともある――君の言いたいの
 はそういうこと?」
 「だいたい」
  少し間を置いてから我々は再び、広い海原に白い鯨を追い求めた。世の中には簡単に変更のき
 かないこともある。

  毎日少しずつ、私は秋川まりえの肖像画に手を加えていった。キャンバスに描いた下絵の骨格

 に、必要とされる肉付けをおこなっていった。求められるいくつかの色を作り出し、それを使っ
 て背景をこしらえていった。彼女の顔が画面に自然に浮かび上がってくるための土台作りだ。そ
 うやって、日曜日にまた彼女がスタジオにやってくるのを待った。絵の制作には実際のモデルを
 前にして進めるべき作業があり、モデルが前にいないときに準備しておくべき作業がある。私は
 どちらの作業もそれぞれに好きだ。様々な要素について一人で時間をかけて考えを巡らせ、いろ
 んな色や手法を試しながら環境を整えていく。そういう手仕事を楽しみ、またその整えられた環
 境から自発的に即美的に実体を立ち上げていく作業を楽しむ。

  秋川まりえの肖像を描くのと並行して、祠の裏手にある穴の絵を、私は別のキャンバスに描き
 始めた。その穴の光景は私の脳裏に鮮やかに焼きついていたから、絵を描くために実物を前にす
 る必要はなかった。私は記憶の中にあるその穴の要かたちを、徹底して細密に描いていった。私
 はその絵を、掛け値なしのリアリズムで、きわめて写実的に描いた。私か写実的な絵を描くこと
 はまずないが(もちろん営業としての肖像画の場合は別だ)、そのような種類の絵を描くことが
 決して不得意なわけではない。その気になれば写真と見間違えるような、精密でリアルな具象画
 を描くこともできる。たまにそうしたスーパー・リアリズムに近い絵を描くことは、私にとって
 気分転換になったし、基礎技術の洗い直し訓練にもなった。しかし私が写実画を描くのは、あく
 まで自分の楽しみのためであって、作品を外に出すことはまずない。



  そのようにして私の眼前に、「雑木林の中の穴」が日ごとにありありと生々しく再現されてい
 った。数枚の厚板が蓋として半分だけかぶせられた、林の中のミステリアスな円形の穴。そこか
 ら騎士団長が現れ出てきた穴だ。両面に描かれているのはただの暗い穴だけで、人の姿はない。
 まわりの地面には落ち葉が積もっている。どこまでも静謐な風景だ。しかしそこには、今にもそ
 の中から誰かが(何かが)這い出してきそうな気配がうかがえた。見れば見るほど私はそのよう
 な予感を抱かないわけにはいかなかった。自分で描いた造形でありながら、そこにふと肌寒さを
 感じてしまうことがあった。

  そんな具合に毎日、午前中の時間をスタジオの中で一人で過ごした。そして絵筆とパレットを
 持ち、『秋川まりえの肖像』と『雑木林の中の穴』の絵を――まるで性格の異なる二種類の絵画
 を――
気が向くまま交互に描いていった。雨田典彦が日曜日の真夜中に座っていたスツールに腰
 掛け、並べて置いた二枚のキャンバスに向かって集中して仕事をした。あるいはそのような集中
 のおかげだろう、月曜日の朝に私かスツールの上に感じた雨田典彦の濃厚な気配は、いつの開に
 か消え失せていた。その古びたスツールは再び私のための現実的な道具に戻ったようだった。雨
 田典彦はおそらくは白分か本来いるはずの場所に戻っていったのだろう。

  その週、私は夜中にときどきスタジオに行ってドアを小さく開け、隙間から中をのぞいてみた。
 しかし部屋は常に無人だった。雨田典彦の姿もなければ、騎士団長の姿もなかった。古いスツー
 ルがひとつ、イーゼルの前に置かれているだけだった。窓から射し込む僅かな月の光が部屋の中
 にある事物を静かに浮かび上がらせていた。壁には『騎士団長殺し』がかけられていた。描きか
 けの『白いスバル・フォレスターの男』が裏向きにして置かれていた。二つ並んだイーゼルの上
 には、制作途中の『秋川まりえの肖像』と『雑木林の中の穴』の絵が置かれていた。スタジオの
 中には油絵の絵の具やテレビン油やホビーオイルの匂いが漂っていた。どれだけ長く窓を開けて
 おいても、それらが混じりあった匂いが部屋から消えることはない。私がこれまでずっと吸って
 きた、そしてこれからもたぶんずっと吸い続けるであろう特別な匂いだ。私はその匂いを確かめ
 るように、夜のスタジオの空気を胸に吸い込み、それから静かにドアを閉めた。


ここで4つの絵が揃ったことになる。これらの絵が何を物語るのか?それはこれから楽しみだ。この
筋書きとは別に、騎士団長なら、生命保険・傷害保険と公的年金・私的年金の4つはきっちり掛けて
いたのだろうかと縦断半分に思うことがあった。
   

                                      この項つづく

 ● 今夜の一曲
Mozart "Eine kleine Nachtmusik" I. Allegro

『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』ト長調 K.525は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作
曲したセレナードのひとつで、楽曲の中でも最も有名な曲の一つ。1787年8月10日にウィーンで作曲が完了。
この期日はオペラ・ブッファ『ドン・ジョヴァンニ』の作曲中の時期にあたる。ドイツ語でEineは女性形の
不定冠詞、kleineは「小さな」の意の形容詞kleinの女性形、Nachtmusikは、Nacht(夜)+Musik(音楽)の合
成名詞で、「小夜曲」という意味で今ではほとんど使われなくなっている。この題名はモーツァルト自身が
自作の目録に書き付けたもされる。

 

 

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