極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

ペロブスカイトな秋桜畑

2015年10月22日 | 時事書評

 


 

 

   私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前に
            して坐した。
その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かっ
            て一回転をなしたといえば、
それで私の伝記は尽きるのである。

                              西田 幾多郎

 




 
     
                      秋桜の刈り取る束を差し出してきみが言うから誕生日

 

 

 

近江八幡は野田町に百万万株のコスモス畑を観ようと昼まえに家をでる。お天気は快晴なのだが、微
小粒子状物質濃度が、時折基準値(下図)を超える霞がかかるよな曇り空模様。途中、オリーブキッ
チン近江八幡店でランチをとる。ポルチーニのクリームソースエビのフリットを添えとジェノベーゼ
のカッチャをオーダーしたが、感想?うぅ~ん、それはご想像に任すとして、彼女はあなたの誕生日
のお祝いランチよと言うので、まだそれは先だよと訝しるもそうなのよと止める。ドリンクとデザー
トを頂き店をで、野田町の秋桜畑に向かう。農地と住宅とがオーバラアップする地帯に位置したとこ
ろに広がる。写真撮影や刈り取り花束にして持ち帰る人たちが出入りしていた。心配していた駐車禁
止処置――前もって役所に電話を入れ確認し、駐車させずに通り観ることにしていたが――は特にな
かったので路面駐車させ写真を撮り帰える。これはラッキーであった。
                            

 

● 折々の読書 『職業としての小説家』22 

  また最近の研究によれば、脳内にある海馬のニューロンが生まれる数は、有酸素運動をおこな
 うことによって飛躍的に増加するということです。有酸素運動というのは水泳とかジョギングと
 かいった、長時間にわたる適度な運動のことです。ところがそうして新たに生まれたニューロン
 も、そのままにしておくと、二十八時間後には何の役に立つこともなく消滅してしまいます。実
 にもったいない話ですね。でもその生まれたばかりのニューロンに知的刺激を与えると、それは
 活性化し、脳内のネ″トワークに結びつけられ、信号伝達コミュニティーの有機的な一部となり
 ます。つまり脳内ネットワークがより広く、より密なものになるわけです。そのようにして学習
 と記憶の能力が高められます。そしてその結果、思考を臨機応変に変えたり、普通ではない創造
 力を発揮したりすることができやすくなるのです。より複雑な思考をし、大胆な発想をすること
 が可能になります。つまり肉体的運動と知的作業との日常的なコンビネーションは、作家のおこ
 なっているような種類のクリエイティブな労働には、理想的な影響を及ぼすわけです。

  僕は専業作家になってからランニングを始め(走り始めたのは『羊をめぐる冒険』を書いてい

 たときからです)、それから三十年以上にわたって、ほぼ毎日一時間程度ランニングをすること
 を
あるいは泳ぐことを生活習慣としてきました。たぶん身体が頑丈にできていたのでしょう、そ
 の
あいだ体調を大きく崩したこともなく、足腰を痛めたこともなく(一度だけスカッシュをして
 いるときに肉離れを経験しましたが)、ほぼブランクなしに、日々走り続けることができました。
 一年に一度はフル・マラソン・レースを走り、トライアスロンにも出場するようになりました。



  よく毎日ちゃんと走れますね、よほど意志が強いんですね、と感心されることもありますが、
 僕に言わせれば、毎日通勤電車で会社に通っておられる普通のサラリーマンの方が、体力的には
 よほど大変です。ラッシュアワーの電車に一時間乗ることに比べたら、好きなときに一時間外を
 走るくらい何でもないことです。とくに意志が強いわけでもありません。僕は走ることが好きだ
 し、ただ自分の性格に合ったことを習慣的に続けているだけです。いくら意志が強くても、性格
 に合わないことを三十年も続けられるわけがありません。
  そしてそのような生活を積み重ねていくことによって、僕の作家としての能力は少しずつ高ま
 ってきたし、創作力はより強固な、安定したものになってきたんじゃないかと、常日頃感じてい
 ました。客観的な数値を示して「ほら、こんなに」と説明することはできませんが、自然な手応
 えとして、実感として、そういうものが僕の中にあったわけです。

  しかし僕がそんなことを言っても、まわりの多くの人はまったくとりあってくれませんでした。
 むしろ嘲笑されることの方が多かったみたいです。とくに十年くらい前までは、人々はそういう
 ことにはほとんど無理解でした。「毎朝走っていたりしたら、健康的になりすぎて、ろくな文学
 作品は書けないよ」みたいなこともあちこちで言われました。ただでさえ文芸世界には、肉体的
 鍛錬を頭から小馬鹿にする風潮がありました。「健康維持」というと、多くの人は筋肉むきむき
 のマッチョを想像するみたいですが、健康維持のために生活の中で日常的におこなう有酸素運動
 と、器具を使っておこなうボディー・ビルディングみたいなものとでは話がずいぶん違います。
  日々走ることが僕にとってどのような意味を持つのか、僕自身には長い間そのことがもうひと
 つよくわかりませんでした。毎口走っていればもちろん身体は健康になります。脂肪を落とし、
 バランスのとれた筋肉をつけることもできますし、体重のコントロールもできます。しかしそれ
 だけのことじゃないんだ、と僕は常日頃感じていました。その奥にはもっと大事な何かがあるは
 ずだと。でもその「何か」がどういうものなのか、自分でもはっきりとはわからないし、自分で
 もよくわからないものを他人に説明することもできません。

  でもとりあえず意味が今ひとつ把握できないまま、この走るという習慣を、僕はしっこくがん
 ばって維持してきました。三十年というのはずいぶん長い歳月です。そのあいだずっとひとつの
 習慣を変わらず維持していくには、やはりかなりの努力を必要とします。どうしてそんなことが
 できたのか? 走るという行為が、いくつかの「僕がこの人生においてやらなくてはならないも
 のごと」の内容を、具体的に簡潔に表象しているような気がしたからです。そういう大まかな、
 しかし強い実感(体感)がありました。だから「今日はけっこう身体がきついな。あまり走りた
 くないな」と思うときでも、「これは僕の人生にとってとにかくやらなくちゃならないことなん
 だ」と自分に言い聞かせて、ほとんど理屈抜きで走りました。その文句は今でも、僕にとっての
 ひとつのマントラみたいになっています。「これは僕の人生にとってとにかくやらなくちゃなら
 ないことなんだ」というのが。

  何も「走ること自体が善である」と考えているわけではありません。走ることはただの走るこ
 とです。善も不善もありません。もしあなたが「走るなんていやだ」と思うのなら、無理して走
 る必要はありません。走るも走らないも、そんなのは個人の自由です。僕は「さあ、みんなで走
 りましょう」みたいな提唱をしているわけではありません。街を歩いていて、高校生が冬の朝に
 全員で外を走らされているのを見ると、「気の毒に。中にはきっと走りたくない人もいるだろう
 に」とつい同情してしまうくらいです。本当に。

  ただ僕個人に関して言えば、走るという行為は、それなりに大きな意味を持っていたというこ
 とです。というか、それが僕にとって、あるいは僕がやろうとしていることにとって、何らかの
 かたちで必要とされる行為なんだというナチュラルな認識が、ずっと変わることなく僕の内にあ
 りました。そういう思いが、いつも僕の背中を後ろから押してくれていたわけです。酷寒の朝に、
 酷暑の昼に、身体がだるくて気持ちが乗らないようなときに、「さあ、がんばって今日も走ろう
 ぜ」と温かく励ましてくれました。

  でもそういうニューロンの形成についての科学記事を読むと、僕がこれまでやってきたこと、
 実感(体感)してきたことは本質的に間違ってはいなかったんだなと、あらためて思います。と
 いうか、身体が素直に感じることに注意深く耳を澄ませるのは、ものを創造する人間にとっては
 基本的に重要な作業であったのだなと痛感します。精神にせよ頭脳にせよ、それらは結局のとこ
 ろ、等しく僕らの肉体の一部なのです。そして精神と頭脳と身体の境界は、僕に言わせてもらえ
 れば――生理学者がどのように述べているかはよく知りませんが――それほどくっきりと明確な
 線で区切られているものではないのです。




  これはいつも僕が言っていることで、「またか」と思われる方もおられるかもしれませんが、
 やはり重要なことなのでここでも繰り返します。しつこいようですが、すみません。

  小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下
 部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです。大きな物語を語ろうとすれ
 ばするほど、作家はより深いところまで降りて行かなくてはなりません。大きなビルディングを
 建てようとすれば、基礎の地下部分も深く掘り下げなくてはならないのと同じことです。また密
 な物語を語ろうとすればするほど、その地下の暗闇はますます重く分厚いものになります。
  作家はその地下の暗闇の中から自分に必要なものを―――つまり小説にとって必要な養分です
 ――見つけ、それを手に意識の上部領域に戻ってきます。そしてそれを文章という、かたちと意
 味を持つものに転換していきます。モの暗闇の中には、ときには危険なものごとが満ちています。

 そこに生息するものは往々にして、様々な形象をとって人を感わせようとします。また道標もな
 く地図もありません。迷路のようになっている箇所もあります。地下の洞窟と同じです。油断し
 ていると道に迷ってしまいます。そのまま地上に戻れなくなってしまうかもしれません。その闇
 の中では集合的無意識と個人的無意識とが入り交じっています。太古と現代が入り交じっていま
 す。僕らはそれを腑分けすることなく持ち帰るわけですが、ある場合にはそのパッケージは危険
 な結果を生みかねません。

  そのような深い闇の力に対抗するには、そして様々な危険と日常的に向き合うためには、どう
 してもフィジカルな強さが必要になります。どの程度必要なのか、数値では示せませんが、少な
 くとも強くないよりは、強い方がずっといいはずです。そしてその強さとは、他人と比較してど
 うこうという強さではなく、自分にとって「必要なだけ」の強さのことです。僕は小説を日々書
 き続けることを通じて、そのことを少しずつ実感し、理解してきました。心はできるだけ強靭で
 なくてはならないし、長い期間にわたってその心の強靭さを維持するためには、その容れ物であ
 る体力を増強し、管理維持することが不可欠になります。

  僕がここで言う「強い心」とは、実生活のレベルにおける実際的な強さのことではありません。
 実生活においては、僕はごくごく当たり前の出来の人間です。つまらないことで傷つくこともあ
 れば、遂に言わなくてもいいことを言ってしまって、あとでくよくよ後悔することもあります。
 誘感にはなかなか逆らえないし、面白くない義務からはできるだけ目を背けようとします。些細
 なことでいちいち腹を立てたり、かと思うと油断してうっかり大事なことを見過ごしてしまった
 りします。なるべく言い訳はするまいと心がけているのですが、時にはつい口に出てしまうこと
 もあります。今日はお酒を抜いた方がいいかなと思っていても、つい冷蔵庫からビールを出して
 飲んでしまったりします。そのへんのところは、世間の普通の人とだいたい同じようなものじゃ
 ないかと推測します。いや、ひょっとしたら平均を下回るくらいかもしれません。

  しかし小説を書くという作業に関して言えば、僕は一日に五時間ばかり、机に向かってかなり
 強い心を抱き続けることができます。その心の強さは――少なくともその多くの部分はというこ
 とですが――僕の中に生まれつき具わっていたものではなく、後天的に獲得されたものです。僕
 は自分を意識的に訓練することによって、それを身につけることができたのです。更に言うなら、
 もしその気にさえなれば、それは「簡単に」とまでは言わないまでも、努力次第で、誰にでもあ
 る程度身につけられるものではないか、という気もします。もちろんその強さとは、身体的強さ
 の場合と同じように、他人と比べたり競ったりするものではなく、自分の今ある状態を最善のか
 たちに保つための強さのことです。

  何もモラリスティックになれ、ストイックになれと言っているわけではありません。モラリス
 ティックになり、ストイックになることと、優れた小説を書くことのあいだには、直接的な関係
 性はとくにありません。おそらくないんじゃないかと思います。僕はただ、フィジカルなものご
 とにもっと意識的になった方がいいのではないかと、ごくシンプルに、実務的に提案しているだ
 けです。

  そういう考え方、生き方は、あるいは世間の人々の抱いている一般的な小説家の像にはそぐわ
 ないかもしれません。僕自身こんなことを言いながら、だんだん不安に襲われてきます。自堕落
 な生活を送り、家庭なんか顧みず、奥さんの着物を質に入れて金を作り(ちょっとイメージが古
 すぎるかな)、あるときには酒に溺れ、女に溺れ、とにかく好き放題なことをして、そのような
 破綻と混沌の中から文学を生み出す反社会的文士――そんなクラシックな小説家像を、ひょっと
 して世間の人々はいまだに心の中で期待しているのではないだろうか。あるいはスペイン内戦に
 参加し、飛び交う砲弾の下でぱたぱたとタイプライターを叩き続けるような「行動する作家」を
 求めているのではないだろうか。穏やかな郊外住宅地に住み、早寝早起きの健康的な生活を送り、
 日々のジョギングを欠かさず、野菜サラダを作るのが好きで、書斎にこもって毎日決まった時刻
 に仕事をするような作家なんて、実は誰も求めていないんじゃないか。僕はただ人々の抱くロマ
 ンスに、ろくでもない水を差してまわっているだけではあるまいかと。



  たとえばアンソニー・トロロープという作家がいます。十九世紀の英国の作家で、数多くの長
 編小説を発表し、当時とても人気があった人です。彼はロンドンの郵便局に勤務しながらあくま
 で趣味として小説を書いていたのですが、やがて作家として成功を収め、一世を風廉する流行作
 家となりました。しかしそれでも彼は郵便局の仕事を最後まで辞めませんでした。毎日仕事前に
 早起きして机に向かい、自分で定めた量の原稿をせっせと書き続けました。そのあと郵便局に出
 勤しました。トロロープは有能な役人であったらしく、管理職としてかなり高いポジショソまで
 出世しました。ロンドンの街頭のあちこちに赤い郵便ポストが設置されたのは、彼の業績である
 とされています(それまではポストなんてものは存在しなかったんですね)。郵便局の仕事がこ
 とのほか気に入っていて、執筆活動がどんなに忙しくなろうと、勤めをやめて専業作家になろう
 なんて思いも寄らなかったようです。たぶんちょっと変わった人だったんでしょうね。

  彼は一八八二年に六十七歳で亡くなったのですが、遺稿として残されていた自伝が死後刊行さ
 れ、彼のそのようないかにも非ロマソ的な、規則正しい日常生活の様子が初めて世間に公表され
 ました。それまではトロロープがどういう人なのか、人々はよく知らなかったのですが、実情が
 明らかになって、評論家も読者もただがく然とし、あるいは落胆失望し、それを境に英国におけ
 る作家トロロープの人気や評価はすっかり地に落ちたということです。僕なんかそういう話を間
 くと、「すごいなあ、ほんとに偉い人だな」と素直に感心し、トロロープさんを尊敬しちゃうわ
 けですが(本を読んだことはまだないんですが)、当時の人々は全然そうではなかった。「なん
 だよ、おれたちはこんなつまらないやつの書いた小説を読まされていたのか」と真剣に腹を立て
 たみたいです。あるいは十九世紀英国の普通の人々は作家に対して――あるいは作家の生き方に
 対して――反俗的な理想像を求めていたのかもしれません。僕もこんな「普通の生活」を送って
 いると、ひょっとしてトロロープさんと同じような目にあわされるんじやないかと思うと、思わ
 ずびくびくしてしまいます。まあ、トロロープさんは二十世紀に入ってから再評価を受けました
 から、それは良かったといえば良かったわけですが・・・・・・

  そういえば、フランツ・カフカもプラハの保険局で公務員の仕事をしながら、職務のあいだに
 こつこつと小説を書いていました。彼もかなり有能な、真面目な官吏であったようで、職場の同
 僚たちにも一目置かれていたようです。カフカが休むと、局の仕事が滞ったという話です。トロ
 ロープさんと同じように、本業も手抜きなしでしっかりやるし、副業の小説も真剣に書くという
 人だったんですね(ただ本業を持っているというのが、彼の小説の多くが未完に終わっているこ
 とへのエクスキューズになっている節があるような気はするのですが)。でもカフカの場合は、
 トロロープさんと違って、そういうきちんとした生活態度が、逆に「偉い」と評価されていると
 ころがあります。どこでそういう差が出てくるのか、ちょっと不思議ですね。人の毀誉褒貶とい
 うのはなかなかわからないものです。

  いずれにせよ、作家に対してそういう「反俗的な理想像」を求めておられるみなさんには本当
 に申し訳ないとは思うのですが、そして――何度も繰り返すようですが――あくまで僕にとって
 はということになるのですが、肉体的に節制をすることは、小説家であり続けるために不可欠な
 ことなのです。 

  僕が思うに、混沌というものは誰の心にも存在するものです。僕の中にもありますし、あなた
 の中にもあります。いちいち実生活のレベルで具体的に、目に見えるようなかたちで、外に向か
 って示さなくてはならないという類のものではありません。ごはら、俺の抱えている混沌はこん
 なにでかいんだぞ」と人前で見せびらかすようなものではない、ということです。自分の内なる
 混沌に巡り合いたければ、じっと口をつぐみ、自分の意識の底に一人で降りていけばいいのです。
 我々が直面しなくてはならない混沌は、しっかり直面するだけの価値を持つ真の混沌は、そこに
 こそあります。まさにあなたの足もとに潜んでいるのです。

  そしてそれを忠実に誠実に言語化するためにあなたに必要とされるのは、寡黙な集中力であり、
 挫けることのない持続力であり、あるポイントまでは堅固に制度化された意識です。そしてその
 ような資質をコンスタソトに維持するために必要とされるのは身体力です。実に面白みのない、
 本当に文字通り散文的な結論かもしれませんが、それが小説家としての僕の基本的な考え方です。
 そして批判されるにせよ、賞賛されるにせよ、腐ったトマトを投げつけられるにせよ、美しい花
 を投げかけられるにせよ、僕にはとにかくそういう書き方しか――そしてまたそういう生き方し
 か――できないのです。


                     「第七回 どこまでも個人的でフィジカルな試み」
                             村上春樹 『職業としての小説家』


うぅ~んと、ここはコメントなしで、次回はこのつづきと「第八回 学校について」。


                                       この項つづく

 
【ペロブスカイト太陽電池技術最前線】

● ペロブスカイト太陽電池のコスト低減に最有力の銀電極材料

現在、ペロブスカイト太陽電池の最も一般的な電極材料は金だがコストが非常に高い。金に代わる安
価な材料が銀であり、コストはおよそ65分の1。沖縄科学技術大学の研究チームは、さらにコスト
を下げるため、高価な真空蒸着法に代わる溶液処理法を用い層状太陽電池を製作しようと試みている。
ところが、銀電極と溶液処理法を用いると、太陽電池製造後の数日間に銀が腐食してしまうという問
題があり、腐食により電極が黄色に変色し、電池のエネルギー変換効率が低下。ヤビン・チー准教授
率いる同研究チームは、劣化の原因を検証しひとつの解釈提示した(「銀:ペロブスカイト太陽電池」
のコスト低減に最有力の電極材料」沖縄科学技術大学 2015.10.14 )。

ペロブスカイト太陽電池は、光を電気に変換するサンドイッチ状の層で構成される。ペロブスカイト
材料で吸収された光により電子が励起され、電子と正孔のペアが生成される――正孔とは、励起され
て自由になった電子の抜け穴。励起電子と正孔は、太陽電池の隣接する層により逆方向に移動する。
この層は、電子輸送体である二酸化チタン層、spiro-MeOTAD ホール輸送層、透明な導電材料で被覆
されたガラス層と銀の上部電極で構成されこのメカニズム全体によって電流が生じる――太陽電池の
各層が適切に機能できなければ、効率的に電力を生み出すことができない。



そこで、ひとつでも機能しない層があれば、全体が影響を受ける。研究チームは変色した銀電極の組
成を分析し、変色の原因がヨウ化銀の生成にあることを突き止め、変色原因が、銀の酸化によるヨウ
化銀の生成にあった。また、乾燥窒素ガスと比べて、空気にさらした場合に腐食が進み、外気の気体
分子がペロブスカイト材料に達し、ヨウ素含有化合物の生成でペロブスカイト材料が劣化すると、劣
化のメカニズム――このようにヨウ素含有化合物が銀電極に付着し、腐食を引き起こす。気体分子と
ヨウ素含有化合物はいずれも spiro-MeOTAD ホール輸送層にある小さなピンホールを通過して移動す
ることが予想される(上図クリック)。溶液処理法を用いて作製されたspiro-MeOTAD ホール輸送層に
あるピンホールの存在を数ヶ月前に突き止めた。

太陽電池のコスト抑制には、金を銀で代用できるか鍵を握る。腐食のメカニズムを理解することが電
極の寿命を延ばす第一歩になる。太陽電池の寿命を延ばすには、spiro-MeOTAD ホール輸送層にピン
ホールをできないようすることが不可欠。すでに真空蒸着法によるピンホールの除去に成功。現在は
ペロブスカイト太陽電池は、次世代の太陽電池技術として商業利用が期待されている。最適なホール
輸送層及び被包材を用いることで、寿命が長く、大面積に対応した低価格の太陽光電池モジュールを
設計・作製することを目指す。

※銀変色のメカニズムの動画では、ペロブスカイト太陽電池の層構造における銀電極腐食メカニズム
 のひとつの解釈を提示。水分子がspiro-MeOTAD 層のピンホールを通過後、ヨウ素含有化合物の生
 成によるペロブスカイトの分解を引き起こし、ヨウ素含有化合物が銀の層に移動し腐食を起こす。
 

 ● 今夜の一品

ハチドリが花の蜜を吸っていることを再現してくれる彫刻「Colibri」。

 

 

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