徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

赤城乳業 シャビィ 濃厚オレンジ

2024-06-15 23:48:55 | 
今日は人の名前のようでもあるものです。




これからの季節はこれです。サッパリかき氷。子供のころなんかいつも喉乾いてたから、いくらでも食べられました。
そう、子供のころ・・・。あのころの話をしましょう。
子供というのは、基本的におバカです。愛すべきおバカな子供の話。
小学校一年のとき、学校の授業で、先生が「魚の名前を言ってみましょう」と提案したことがありました。みんなどれだけ魚の名前を知っているか、どれだけたくさん魚の名前を挙げられるか、という提案でした。
みんな、サバとかサンマとかイワシとか、身近な魚の名前を次々挙げていきました。いかにも小一レベルの、食卓に上がることのある大衆魚中心の答えが並びました。
そんな中、B君が手を上げました。B君はネアカなムードメーカーで、人気者ではありますが、あまり物事を深く考えないところがあります。
B君は立ち上がると、大きな声で「刺身ー!!」と言いました。
僕は「こいつ間違えやがった」と気づきましたが、ほかの生徒は気づいておらず、シーンとしていました。先生は笑いをかみ殺していたのか、無言でした。
今にして思えば、あれはなかなかいい答えだったと思います。

なんかエラそうなこと言っちゃってますが、僕も子供のころはそれなりにおバカでした。
子供のころは外出時、よくバスを利用していまして、特に同居していた母方のおばあちゃんとおでかけするときは、だいたいバスに乗っていました。
保育園の年長さんだったある日、「回送」という文字を掲げたバスが目にとまりました。通常バスのフロントには行き先が掲げられており、それらのバスはバス停に止まるのに、「回送」のバスは止まらないということに気づいたのです。
気になった僕は、おばあちゃんに「なんであのバス止まらんと?」と尋ねました。おばあちゃんは、「止まらんバスもあるとよ」と答えました。
僕は、「悪いバスがおるねぇ」と、腹立たしげにつぶやきました。
みんなバスに乗りたくて待っているのに、悪意を持って客を乗せずに走り回っているバスがいる、というふうに解釈してしまったのです。頭の中では、「お願いだから乗せてちょうだーい」と泣きながら訴える客がいるのに、「グヘヘヘヘ、知ったことかよー」と高笑いしながら、ひたすら街中を疾走する極悪バス、みたいにイメージしてました。
あまりにもおバカな発想です。客を乗せずに走り回っていたら、まったくお金は稼げないわけだから、なんの意味もありません。第一、バス(の運転手)はバス会社に所属しているので、好き勝手走り回るなんてこと、できるはずがない。
しかし子供だった僕は、そこに思い至ることはできませんでした。世の中には、「回送」という悪いバスがいる、というふうに理解してしまい、しばらくの間はその誤解をかかえていたのです。

あと、1日24時間と聞いて、日中と夜間がそれぞれ24時間あると思ってたんですよ。太陽が昇って沈むまで24時間あって、太陽が沈んでまた昇るまで24時間あると。
で、1日のタイムスケジュールを記した、円グラフみたいなのあるじゃないですか。あれを小二ぐらいで作ったことがあったんですけど、よくわかってないもんだから、夜のところに「ねる(24じかん)」って書いたんですよ。なかなかでしょ?
それを見た母親は、訂正せずに「ふぅーん」って言ってました。

それと、近所の長屋の敷地に咲いている花を見て、おばあちゃんに「これなんていうと?」と訊いたら、「ドクダミ」という答えが返ってきて、これは毒なのだと思い込んだこともあります。
まあありがちですよね。それにしても、なんでドクダミはドクダミというのでしょうか。名前の響き、だいぶ強いですよね。
ドクダミの名前の由来、ご存じの方はご一報ください。

オーバーシーズ サラトガスプリング ケトルクックチップス ソルト・ブラックペッパー・ディルピクルス

2024-06-07 23:39:32 | 
今日はケトルのクッキングです。








アメリカ産の、堅あげポテトチップス。噛みしめるのです、厚みと旨みを。
なんだかなぁ、と思うことを話します。いちいち言挙げするほどではないけど、どうしても引っかかってしまう話。
最近よく、「勇気を与えたい」って言い回し聞きますよね。ダンスとか歌とか披露する人が、観客に対して言うじゃないですか。観客は被災者とか、困窮している立場の人だったりします。
そーゆー弱っている人相手なら、パフォーマンスや娯楽でもって勇気を与えるというのは、スジが通っています。当然のことです。
でも、この言い回しが社会に定着しすぎたために、手軽に使われてしまっているのです。今や小学生ですら「勇気を与えたい」と言うのですから。
小学生ですよ、小学生。
オメーまだほとんど人生経験積んでないだろってコドモが言うんですよ、「勇気を与えたい」って。
そりゃま、小学生であっても勇気を与えることはできますよ。パフォーマンスがそれなりに素晴らしければね。あるいは、パフォーマンスがイマイチでも、一生懸命さが伝わることで感じるものもあるかもしれません。
でもね、自分から言うかって思うんですよ。「勇気を与えたい」なんて。
それを言っちゃうってことは、自分はそれなりの人間だって言ってるのと同じことですからね。小学生でありながら、ひとかどの人物だと自称しているのと同じことですよ。
本人は定型文を使っているだけで、そのような自覚はないんでしょうけど。

あとは「励ますつもりが励まされた」っていうのもありますよね。やはり被災者のところに慰問に行った人が、インタビューにそう答えているのを聞いたことがあるはずです。プロ野球選手あたりが言いがちですよね。
これも「なんだかなぁ」ですよね。
別におかしなことは言ってないんですよ。傲慢ではないし、誰かを侮辱しているわけでもない。謙虚な言葉です。
被災者の気持ちの強さを称賛したいのでしょう。自分が励ますほどではなかった。励ますまでもなく、強さを持っていた。むしろ自分より強かった。だから逆に励まされた。そう言っているのでしょう。
でも、なんか引っかかる。うまく言えないけど、「それってどうなの?」と思ってしまう。
これもまた、定型文のひとつであって、あまり深く考えずに口にしているのでしょうから、いちいちツッコむべきではないのかもしれません。
でも、なんだかなぁですよね。なんだかなぁと思わずにはいられない。

それとあと、「丁寧な暮らし」ね。インスタグラムで、「丁寧な暮らし」ってハッシュタグ付けて投稿している人いるじゃないですか。料理とか、部屋とか、観葉植物なんかの写真を撮って、「#丁寧な暮らし」で投稿する人。家事とか、日常の雑事に時間をかけてます。毎日の家事を手を抜かず、実直に取り組んでいます、という投稿です。
あれ、「自分で言うか?」って思いますよね。
いや、丁寧な暮らしを否定するわけではないですよ。家事を丁寧にこなすこと、それ自体は素晴らしいと思います。
でも、自分で言うことじゃねえと思うんですよね。そーゆーのは、人に言ってもらうことであって、自分で言うことじゃねえだろうって。
自分で「丁寧な暮らし」ってハッシュタグ付けちゃうっていうのは、「私は丁寧な暮らしをしてます」って自称するってことでしょ。すごくいばってるように見えるんですよね。「どうだ、私は丁寧だろう」って。
だから、「よう自分でそんなハッシュタグ付けるなぁ」って思っちゃうんですよ。あきれるというかね。
そりゃ人の勝手ではありますよ。僕が口を差しはさむ筋合いのことではない。自由にやったらいい。
それはわかってるんですけど、それでも「なんだかなぁ」と思わずにはいられないのです。よく自分から「丁寧な暮らししてまっせ」なんて言えるなと。
ほんと、どうでもいいことですよ。みんな好きにやればいいんです。
でも引っかかる。どうしても「なんだかなぁ」と思ってしまうのです。
まあ、アナタが「丁寧な暮らし」というハッシュタグを付けるのが個人の自由であるように、僕がそれに対して「なんだかなぁ」と思っちゃうのも個人の自由ということで、ひとつよろしく。
なんだかなぁ~!(by.阿藤快)