徳丸無明のブログ

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偽善とは何か――他人の足を引っぱりたがる人達

2024-08-28 00:54:53 | 雑文
日本は災害が多発する国である。台風がしょっちゅう訪れるし、地震も定期的に起こる。地震には津波が伴うこともあるし、稀に火山の噴火も発生する。梅雨の集中豪雨による水害もある。近年は特に、線状降水帯によるゲリラ雷雨が頻発している。
災害が発生すると、被災者が生まれる。被災者は一時的に自宅に戻れなくなったり、悪くすると住み家を失ってしまう。そこまでいかなくても、自宅が一部損壊したり、家具家電を破損してしまったりする場合もある。困窮した人々が一定数生み出されてしまうのだ。
それら困窮者には、支援が必要になる。政府が救済に動くし、メディアで寄付が呼びかけられる。中には、著名人が多額の献金を行うこともある。人より多く稼いでいるなら、献金の額が大きくなってしかるべきだし、より多くの人を、より素早く助けるためには、寄付の額は多いほうがいい。だから、多額の寄付は肯定されるべきである。
だが、そんな著名人には批判が集まりがちだ。そんなのは偽善だ、と。
とあるサッカー選手が、難病の子供の支援の顔役を買って出たことがある。治療の難しい病で、アメリカでしか手術が受けられない。そのための医療費も、渡航費用も高くつく。なので、その子供に手術を受けさせるために、サッカー選手が呼びかけ人となり、寄付を募ったのだ。元々家族が支援を求めていたのだが、それよりも著名人が呼びかけたほうが、多くのお金が集まるだろうと考えたわけだ。
そうしたら、そのサッカー選手に非難の声が上がった。その子だけ助けるのは不平等だ、と。
同じ病気に罹っている子供は他にもいて、みんな同じように苦しみ、死の間際にいるのに、なぜその子だけにしか手を差し伸べないのだ。それは平等ではない。止めるべきだ。そんな非難の声が上がったのだ。
彼らの言い分は、一見もっともらしく聞こえる。不平等なのはよくない。応対は平等であるべき。議論の余地のない正論に思える。
では、そのサッカー選手は、平等な扱いをすべきだったのだろうか。ちなみにこの場合、平等な対応は2つに分かれる。

①同じ難病の子供全員のサポートに乗り出す
②その難病の子供をひとりも助けない

①は原理的に不可能である。ひとりの人間が、数十人、もしくは数百人いるであろう難病の子供全員のサポートを行うなど、できるはずがない。金銭的にも、時間的にも、物理的にも不可能である。
ならば、平等を達成するには②しかない。ひとりの子供も助けない。誰にも救いの手を差し伸べず、命が尽きるに任せる。これなら確かに平等だ。
では、そのサッカー選手は、平等のために、誰も助けるべきではなかったのだろうか。
そんなことはない。「ひとりも助けない」よりは、「ひとりだけでも助ける」ほうが遥かにマシだ。
つまりサッカー選手は、平等を最優先事項にすることはせず、自分のできる範囲で人助けを行おうとしたのである。平等とは、いついかなる時でも最優先されるべきものではない。平等より大切なものなど、いくらでもある。「ひとりも助けない平等」よりも「助けられるひとりの命」が優先されるのは当然のことだ。そのサッカー選手は、正しい判断をしたのである。なのに何故、批判されてしまったのだろうか。
サッカー選手を批判していた人達は、現実的に可能かどうかをよく考えず、助けるなら全員助けるべきだと主張していたのかもしれない。だが、実際問題として全員を助けることなど不可能であり、そのうえで平等を重視するなら、ひとりも助けるべきではない、という結論に到達してしまうのである。
批判していた人達は、そこまで考えていなかったのかもしれない。だが、そんな考えなしの批判によって、「ひとりの命も救われない」という事態を招いていたかもしれないのだ。もし、このサッカー選手が批判の声に傾き、「平等に反するから誰も助けるべきではない」という誤った考えに落ち込み、サポートを撤回していたら、その子供は助からなかったかもしれない。「平等じゃないからよくない」という非難の声が、ひとりの子供の命を失わせてしまっていたかもしれないのである。
このように、他人を偽善者呼ばわりする人達、他人の足を引っぱりたがる人達というのは、社会に一定数存在する。彼らは、何が目的なのだろうか。何を考えているのだろうか。

僕には、彼らの考えていることが手に取るようにわかる。彼らは、「疚しい」のである。
彼らは普段から、困窮している人達に対して、何も行っていない。被災している人達、難病を患っている人達が今、同じ社会にいることを知りながら、寄付のひとつもすることなく、安穏と暮らしているのだ。だから彼らは、そんな我が身を後ろめたく思っている。困窮している人、被災して家を失った人、病に苦しんでいる人がいるのに、自分は何もしなくていいのかと。
その一方で、多額の寄付をしている人もいる。難病の子供のために、多くの時間と労力を費やしている人もいる。何もしていない自分とは違う。
彼らは、疚しさを感じる。自分が冷血であるかのように、無慈悲な悪人であるかのように思えてくる。この疚しさをなんとかしたい。疚しさを拭い去りたい。そうしないと、いても立ってもいられない。
そこでふと気づく。そうだ、多額の寄付をしている人や、難病の子供を援助している人を、偽善者ということにしてしまえばいい。そうすれば、自分は偽善者よりマシ、ということになる。自分は困っている人がいると知りながら、何もしていない。あまりいい人間ではない。でも、そんな自分でも、偽善者よりはマシだ。自分の下には、偽善者がいる。多額の寄付や、難病の援助は、実は偽善なのだ。偽善をやっている人より、何もしていない自分のほうがよっぽどマシだ。自分の下には、偽善者という、自分より悪いヤツらがいる。だから自分は疚しさを感じる必要などないのだ。偽善者よりはずっとマシなのだから。
これが他人を偽善者呼ばわりする人々の心理である。彼らは、自分の疚しさを帳消しにしたいがために、他人に偽善者のレッテルを貼りつけているのだ。「疚しさを感じたくない」という、ただそれだけの、利己的な理由で。
これは自信を持って断言できる。なんなら、彼らに質問してみるといい。「あなたは他人を偽善者と決めつけているが、「善」と「偽善」を明確に区別したうえで言っているのか。あなたは「善」と「偽善」をどう定義しているのか」と。
間違いなく、誰ひとり答えることはできないだろう。彼らは、「善」と「偽善」について真剣に考えたことなど、ただの一度もないはずだ。何が「善」で、何が「偽善」なのか、きちんと考え抜いたうえで「偽善だ」と指摘しているのではなく、疚しさから逃れるために他人を偽善者呼ばわりしているだけなのだから。何が「善」で、何が「偽善」なのか、その定義もできていないくせに、ただ自分の疚しさを帳消しにしたいがために他人を偽善者呼ばわりしているのだ。
この、自分の疚しさを帳消しにしたいだけの人々こそが、多くのお金や時間を費やして人助けをしようとしている人を偽善者と呼び、足を引っぱっているのだ。

一応、僕が考える「善」と「偽善」の定義を述べておく。まず、人が誰かのためにする行為は、「相手」と「自分」がいて成立するものである。「相手」だけでも、「自分」だけでも成立しない。ゆえに、その行為には、基本的に「相手への思い」と、「自分への思い」が共に含まれるはずである。
ここで議論している行為は「善行」であるが、ひとつの「善行」の中には、「相手への思い」と「自分への思い」が込められている。「相手への思い」は、例えば「苦痛から解放してあげたい」とか、「笑顔にしてあげたい」などがあるだろう。「自分への思い」だと、「モテたい」とか、「お礼をしてほしい」などがあるはずだ。
人というのは、基本的に純粋な善人でも純粋な悪人でもない。善と悪がひとりの中に同居しているのが普通である。ゆえに、純粋に相手のためだけを思って善行を行うのは、ほぼ不可能である。善行には、少なからず「見返り」が込められる。「いい人に見られたい」とか、「あとでウマい目に合いたい」などといった見返りが。それらが「自分への思い」=「偽善」である。
ただしその場合でも、パーセンテージで見ると、「自分への思い」より「相手への思い」の比率のほうが高かったりする。純粋な善人でも純粋な悪人でもない普通の人が善行を成す時、どうしても「見返り」という不純物が紛れ込むのだが、それは比率では低めで、「相手を助けたい」とか、「相手のためになりたい」という、「相手への思い」の比率のほうが高いことのほうが多いはずだ。
つまり、ひとつの「善行」の中には、「相手を助けたい」とか、「いい人に見られたい」などの、複数の思いが混在している。そしてそれぞれ、「相手を助けたい」30%、「笑顔にしてあげたい」25%、「いい人に見られたい」10%、「モテたい」5%というふうに、パーセンテージで比率を表すことができる。とすると、ひとつの「善行」の中に混在している「相手への思い」と「自分への思い」をそれぞれ合計し、「相手への思い」の割合のほうが高ければ、その行為は「善」で、「自分への思い」の割合のほうが高ければ、その行為は「偽善」だと見做せよう。
自我というものがいっさい存在せず、純粋に相手のためだけに行動を起こせるような人であれば、混じりっけなし100%の「善」を行えるし、他人の感情をまったく考慮することができないサイコパスのような人であれば、100%の「偽善」を行いえるのかもしれない。だが、ほとんどの人はそのような、純粋な「善」も純粋な「偽善」も行いえず、その中間の「善=相手への思い」と「偽善=自分への思い」が入り混じった「善行」を行うのが通常であるはずだ。「見返り=自分への思い=偽善」がいっさい含まれていないというのは、自我が存在しないということと同義である。
以上が僕の考える「善」と「偽善」の定義である。もちろん個人的な見解でしかないので、同意してもらえなくてもいっこうに構わない。ここで言いたいのは、他人を偽善者呼ばわりしている人達は、ちゃんとここまで考えたうえで指摘しているわけではない、ということだ。偽善者という言葉を使うのであれば、最低限これくらいは考え抜いて使うべきなのだが、彼らは、何が「善」で、何が「偽善」か、ロクに考えもせずに他人を偽善者呼ばわりしているのだ。

ただし上の考えを前提とすると、次のような問題が起こる。定義上、「相手への思い」が51%で「自分への思い」が49%の行為は「善」で、「相手への思い」が49%で「自分への思い」が51%の行為は「偽善」となるが、比率がほとんど変わらないのに、明確に峻別してもいいものだろうか。また、「相手への思い」と「自分への思い」がちょうど50%ずつだったらどう判断すればいいのか。パーセンテージで捉えようとすると、このような問題が発生してしまうのである。
この問題はどうすれば解消するだろうか。もっと明瞭に「善」と「偽善」を峻別することはできないだろうか。
僕は、それはできないと考えている。「善」と「偽善」は、ひとつの「善行」の中にグジャグジャと入り混じっているものであり、明確に峻別することはできない。パーセンテージによる比較も、あくまで便宜的なものであって、人の思いが目に見えず、数量化もできない以上、それは確固として存在しているものではなく、そのように考えることもできるという、方便のようなものだ。だから、明確に「善」と「偽善」を峻別することはできない。
しかしそうすると、ひとつの「善行」が「善」であるか「偽善」であるか、正確に指摘することはできなくなってしまう。でも、僕はそれでいいと思う。そもそも他人の心の中を見ることなどできないわけで、「善行」の中に「相手への思い」と「自分への思い」がそれぞれどれだけ込められているかなど、本人以外にわかりようがない(自分で自分の気持ちがわからないこともよくあるので、自身でも判断がつかなかったりするだろう)。だから、人様の行為に対して、偽善だのなんだの、知ったように指摘することがそもそも間違いなのである。
そして、僕が「善」と「偽善」を峻別する必要がないというのは、「善」か「偽善」かを見分けること自体が無意味だと考えているからである。どういうことか。例を挙げて説明しよう。とある人が、誰かのために「善行」を行ったとする。その人の行為の中身は、「お礼をしてほしい」という「自分への思い」が90%で、「助けてあげたい」という「相手への思い」が10%だった。圧倒的に偽善的な行為だったわけだ。だが、「お礼をしてほしい」という願いは叶えられなかった。相手が自己中心的な人だったのか、思いがうまく伝わらなかったのか、ただその行為だけが達成され、見返りはいっさい発生しなかった。
こうなったらどうだろう。その行為は「偽善」として出発したにも関わらず、目論見は挫折し、行為だけが「善行」として相手に受け止められた。つまりその行為は、純粋に相手のためだけに働き、行為者は見返りを受け取ることはなかったのである。そうなると、その「善行」は、目論見としては「偽善」であったにも関わらず、「偽善」が挫折したことによって、純粋な「善」として終わってしまったことになる。
こういうことだってよくあるのだ。行為が「偽善」として出発しても、結果的に純粋な「善」になってしまうことが。もちろんその逆もあるのだが、いずれにせよここで言いたいのは、「善」の目論見も「偽善」の目論見も、必ずしも果たせるとは限らないということである。
だから、ひとつの行為を「善」か「偽善」かという水準で議論することに意味はないのだ。哲学的、もしくは形而上学的になら、「善」か「偽善」かを議論することは、学問的価値があるのかもしれない。だが、日常生活の基準に、そんな七面倒くさい議論を持ち込む必要などない。
だから、「善」か「偽善」かではなく、その行為が「相手のためになっているか否か」という水準で判断するべきなのである。この点を踏まえ、もう一歩踏み込んで考えると、「相手のためになった行為」を「善」、「相手のためにならなかった行為」を「偽善」と見做すこともできるかもしれない。だが僕としては、あくまで行為者の内面の水準で「善」と「偽善」を見定めるべきで、「相手のためになったか否か」は、「有益」か「無益」(もしくは「有害」)かという分類で見るべきだと思う。
つまりまとめると、「「善」と「偽善」は、ひとつの「善行」の中に同居しているのが普通であり、純粋な「善」も、純粋な「偽善」も、ごく一部の人にしか行いえない。ゆえに、ひとつの「善行」を、「善」なのか「偽善」なのか判断しようとするのは、意味がない。そうではなく、その「善行」が、「相手のためになった」か、「相手のためにならなかった」かで判断するべきである」ということだ。

僕がこんなことをくだくだと書き綴っているのは、他人を偽善者呼ばわりする行為が、本人の疚しさを帳消しにするのみならず、公共の福祉を減少させてしまいかねないからである。百歩譲って、「あいつは偽善者だ」という言葉を、心の中で呟くだけなら黙認してもいいと思う。その場合は、本人の疚しさが解消されるだけだからだ。だが、その言葉が直接相手に向けられたらどうだろう。その相手は、たじろぐかもしれない。自分がやろうとしていることは、間違っているのだろうかと戸惑うかもしれない。迷った挙句、寄付や援助を取り消してしまうかもしれない。
そうなったらどうだろう。多額の寄付があれば新しい住まいを手に入れられていたはずの被災者が、体育館での避難生活を長引かせることになってしまうかもしれない。著名人のサポートがあれば多額の寄付を集め、手術を受けられたはずの難病の子供が、目標の金額を集めることができず、そのまま亡くなってしまうかもしれない。
他人を偽善者呼ばわりする人達のせいで、被災者はより困窮し、難病の子供は命を落としてしまいかねないのだ。自身の疚しさから逃れたいという、そんな身勝手な動機によって、他人を不幸に陥れてしまうかもしれない。他人を偽善者呼ばわりする行為は、それほどの問題を孕んでいるのである。
だから、他人を偽善者呼ばわりしている人には、たったひとこと、こう言ってやればいい。
「そんなことを言っているヒマがあったら、お前もお前のできる範囲で誰かを助けてやれ」
難病の子供のサポートを行ったサッカー選手は、「平等じゃない」と批判された。だが、そのサッカー選手ひとりだけでは、できることに限りがある。難病の子供全員を救うことなどできるはずがない。
では仮に、サッカー選手を批判していた人達が、他の難病の子供の支援に動いたらどうだろう。そうしたら、サッカー選手だけではひとりしか救えなかったのが、ふたりさんにんと、救える子供の数を増やしていけるかもしれない。その援助の輪がどんどん大きくなっていけば、難病の子供全員を救うことだって可能になるのだ。そうなれば、事実上「平等な援助」の達成となる。
だから、他人を批判しているヒマがあったら、自分で援助に乗り出すべきなのである。できる範囲でいい。寄付するだけでもいい。お金にゆとりがないのであれば、100円でも10円でもいい。やらないよりはやったほうがいいのだ。その一助によって、命が助かる子供がひとりだけでも増やせるかもしれないのだから。
だから、他人を偽善者だの不平等だのと批判するより、できる範囲の援助をすべきなのである。
そのうえで、さらにひとこと付け加えるならこうだ。
「それができないのなら、せめて他人を偽善者呼ばわりするようなマネだけはするな」
どうしてもお金と時間に余裕がなくて、寄付もサポートもできないというなら、それは仕方ない。援助は無理強いするべきものではない。
だがそれなら、せめてものマナーとして、他人の足を引っぱるマネだけはすべきじゃない。足を引っぱるというのは、これまで散々繰り返してきたように、他人を偽善者呼ばわりすることである。「偽善だ」という指摘によって、指摘された人は、寄付を取り止めるかもしれない。サポートを中止するかもしれない。そうなれば、助かるはずの人も助からなくなってしまう。他人を偽善者呼ばわりすることで自分の疚しさを帳消しにしたいという卑しい願望によって、助けを逃してしまう人が出てくるかもしれないのだ。それは場合によっては命にかかわる。疚しさを帳消しにしたいという身勝手な動機のせいで、最悪人の命を奪ってしまうことになるのだ。だから他人を偽善者呼ばわりしないというのは、せめてものマナーとすべきなのである。
上のふたつの言い分を、どちらも聞き入れられないというなら、最後にこう言わなければならない。
「どうしても自分の疚しさを帳消しにしたくて、他人を偽善者呼ばわりせずにはいられないというのなら、最低限のルールとして、誰にも聞こえないように言え」
「それは偽善だ」という指摘は、本人の耳に届くと、寄付やサポートをキャンセルしてしまいかねない。世の援助を減少させる、極めて有害な行為なのだ。だから厳に慎まれなければならないのだが、それでも疚しさをなんとかしたくてしょうがないという人もいるだろう。その願望は、人間らしいといえばあまりに人間らしいものだ。僕はその人間らしさそのものを否定するつもりはない。
だから、どうしてもというのなら、疚しさを帳消しにすることそれ自体は黙認されるべきである。しかしだとしても、それが援助の減少に繋がるようなことになってはならない。だから、「誰にも聞こえないように言う」。これが譲ることのできない最終ラインだ。最低限度、これだけは弁えておかねばならないルールなのだ。
いっさい寄付をしない(誰も助けない)のは認めてもいい。疚しさを帳消しにするのも、まあいい。だが最低限、誰の足も引っぱらない形で疚しさを帳消しにするべきだ。それだけは守ってもらわねばならない。
「偽善だ」という指摘が――直接的であれ間接的であれ――援助をしようとしている人の耳に入ると、援助が取り消されてしまうかもしれない。だからその指摘は、本人の耳に入れてはならない。いや、本人以外の耳にも入れてはいけないのだ。今はしていないけど、将来的には寄付をするかもしれない人の耳に、「寄付は偽善」という声が入ったらどうなるか。それを真に受けて、これから先もずっと寄付をするまいという判断を下してしまうかもしれない。つまり、「偽善だ」という声は、現在だけでなく、将来の寄付まで取り消しにしてしまいかねないのである。今現在でも「偽善だ」という指摘を真に受けている人、真に受けながら生きてきた人は一定数いるはずで、それによって失われてきた寄付の総額はかなりの額に上るであろうことは、想像に難くない。
だから、誰にも聞かせてはならない。地面に掘った穴に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫ぶがごとく、誰にも聞こえないように言わなければならないのだ。それこそが、「いいことなど何ひとつしてなくて、自分は自分のことしか考えていないのではないかという疚しさを抱えている人」が弁えるべき、最低限のルールなのである。

自らの卑小な自尊心を慰めるため、疚しさを払拭するために他人を偽善者呼ばわりし、公共の福祉を減少させている人達。いい加減気づいてもらわねばならない。自分がどれだけ卑しいことをしているのかを。何が「善」で何が「偽善」であるかの区別すらついていないということを。知ったふうに偽善だと指摘することで、どれだけ害悪を撒き散らしているのかを。
自分が世の中のために何もしておらず、そのことを疚しく感じているのなら、せめてその疚しさに向き合い、受け入れ、耐えるだけの度量を持つべきである。どうしようもなく存在する疚しさは、他人の足を引っぱることで解消するものではなく、己の卑小さを自覚するために共存すべきものだ。「自分は何もしていない」という自覚とともに、謙虚に生きていく。それが分別ある大人の在り方というものだ。
僕は人の卑しさそのものを否定するつもりはない。そもそも人間というのは卑しい生き物であり、だからこそ愛おしいとすら思っている。問題は卑しさの在り方だ。卑しさとどう向き合うか。どうやって卑しさを飼い馴らすか。率直に「自分は卑しい」という自覚を持ったうえで、いかに謙虚に生きていくか。
「謙虚に生きる」という境地に辿り着けない人が、他人を偽善者呼ばわりするのである。自分の卑しさを自覚することも、卑しさと共存することもできない未熟な人が。