鶴見済の『檻のなかのダンス』(太田出版)を読んでの気付き。
これは社会問題にもなった『完全自殺マニュアル』で知られるフリーライター(当時)の鶴見が、自身の覚醒剤所持による逮捕の体験記を中心に、ダンス、レイヴ、ドラッグ、神経症などにかんするルポとコラムを収録したエッセイ集である。その一節「青少年のための覚醒剤入門」の中に、次のような記述がある。
覚醒剤と言えば「一度手を出したらやめられなくなり、いずれ幻覚・妄想や凶悪犯罪に行き着く」恐怖のクスリのはずだ。(中略)なのに錯乱してるヤツとか、覚醒剤凶悪犯なんて全然いないのはなぜなんだ?
実は「覚醒剤=幻覚・妄想・凶悪犯罪」というのは、世界でも日本だけの“常識”なのだ。ヨーロッパへ行ってドラッグの本や雑誌を見て気づいたが、薬害としての「幻覚・妄想」は「不眠」なんかと一緒に「やめて数日寝れば治る」と軽く扱われていた。これが欧米の研究者の一般的な見方なのだ。
しかし日本の研究者だけが、「幻覚・妄想は少しずつ蝕まれた脳の致命的な損傷のせい」という独自の説を主張しつづけて、国際学会でも孤立しているらしい。しかもその説は、50年代のヒロポン・ブームの頃、つまり脳のことなど何もわかっていない時代に、特に根拠もなく提唱されたものだ。
確かに幻覚・妄想が長引いたり再発する人はいるし、それは欧米でも認められている。「パーセンテージ」の問題なのだ。おそらく使用者全体の1%未満であろう幻覚・妄想例や、さらにその1割程度の「再発(フラッシュ・バック)」の症例ばかりを取り上げて発表しまくり(欧米ではむしろ、覚醒剤によるフラッシュ・バックは否定されている)、専門書をよーく見ると「(幻覚・妄想の)80%を超える大部分の患者は断薬により1ヵ月以内(その多くは10日以内)に精神病像が消褪する」なんて書いてあるわけだ。
「再発」ケースにこだわる理由はまず、最初に「脳の損傷説」を唱えた人が、今も日本の覚醒剤研究の神様扱いで、今さらそれが間違いだとは言えないから。引くに引けず、その説に合うような再発例ばかり調べてるわけ。
さらに大きな理由は、そもそも研究者が撲滅運動をやっているから。それなら「寝れば治る」より「致命的」のほうが都合がいい。これはもう研究というより「撲滅運動」の一環なのだ。世界では相手にされない説でも、何も知らない国民に信じさせるのは簡単だ。こうして悲惨な例ばかり、さらに誇張して徹底的に広め、今あるイメージを作り上げたのだ。
(中略)
では、なぜチェック機能が働かないのか?運動組織の構造を見ればわかりやすい。
撲滅運動は、厚生省、警察庁、研究者集団が三位一体となって推進されている。犯罪に関する情報は警察が握り、医学・薬理学的情報は研究者集団が厚生省の研究費で作り出す。つまり覚醒剤に関する情報はここに集中してしまっているため、外からのチェックができず、それを信じるしかなく、自由自在な世論操作、法改正、捜査・逮捕、重罰化・・・等々ができるようになってるのだ。
ほかにも気になった個所をいくつか抜き出しておく。
・鶴見の計算によると、薬物使用者のうち事件や事故を起こすのは全体の0.1%未満で、しかもその大半が「やり取りをめぐって刺したとか、買うカネほしさに盗んだとか」いう、薬物の直接の影響とは言えないものだそう。
・オランダの大学で一般人を対象に毎年行ってるアンケートによれば、覚醒剤の「生涯使用率」は例年4%くらいで、「ここ1年の使用率」は例年0.1%くらい。つまり、クスリを切らさず使い続けてる人は少数派で、大半は休み休み長期間使っているとのこと。酒と同じように「みんな中毒にもならずに一生」使い続けているらしい。
・戦時中に国が軍と工場で半ば強制的にやらせていた覚醒剤の残りが、戦後民間に放出されヒロポンブームになった、という歴史的事実も紹介されている。初めて聞いたぞ、そんなの。
・覚醒剤の依存度はアルコールより高いものの、アルコールは「中毒になると幻覚・妄想や凶悪犯罪も誘発するし、さらには痴呆になったり、内臓がやられたりする」のに、飲酒は禁止されておらず、社会も乱れていないのはなぜなのか、という問いかけもなされている。
・また、精神依存は思い込みに影響されるため、「手を出したらやめられない」と思えばやめられなくなるし、「被害妄想になる」と思えばそうなるという。薬物を遠ざけるために喧伝されてるイメージが精神依存を作り出しているというのだ。
さて、この主張をどう受け止めたらいいのだろう。
僕は以前の時事「これが薬物中毒者の生きる道?」(2・15)の中で、薬物の使用が「もし刑法で罰せられることなく、野放しにされているならば、大酒飲みやギャンブル狂いなんかと同じように、「ちょっと困ったところのある人」と認識される程度で、よっぽどの社会的逸脱がない限りは周囲に許容されてなんとか生きていけるはず」だと述べた。その考えは、基本的に変わらない。
著名人を例に見ればいい。清原和博、ピエール瀧、沢尻エリカ。この3者は、種類は違えど、薬物を長期間使用していた点で共通している。そして、長期間の使用にもかかわらず、錯乱することなく、社会人としてまともな活動を続けていた(キヨとエリカ様は言動に困ったところのある人だったが、それは彼らの性格に起因するもので、薬物の影響ではない)。もし逮捕されていなければ、芸能活動・音楽活動を今も変わらず続けていて、それでなんの問題もなかったはずだ。
ただこれまでは、「薬物使用者」と「薬物中毒者」を混同していたので、そこは訂正したい。お酒が好きな人がみんなアルコール中毒ではないように、薬物使用者の全員が薬物中毒なわけではない。
以上の議論を踏まえても、にわかに「覚醒剤OK!」とは言えまい。鶴見の見解も、あくまで特定の立場の意見に過ぎない。
ただ、ひとつだけはっきり言えることがある。法律だから、決まり事だからといって、無批判的に正しいと信じこむのは馬鹿げている、ということだ。
「悪法も法」と言ったのはソクラテスだが、法律は人為的に作成されたものであり、だからこそ人間と同じように誤りうるし、なんらかの偏向が入り込むことがある。法律で禁止されているというだけで、絶対にその禁を犯してはならず、反した者はみな非難に値すると考えるのは、法律を盲目的に崇拝しているに等しい。
僕は法律の奴隷ではない。国家の奴隷でもない。法律を、法律だからというだけで信奉するつもりはない。
何も考えずに法律を受け入れている人たちは、法律の隷従者である。「法律様、法律様」とペコペコしているのだ。拝跪したい人はしていればいいと思うが、僕はついていけない。
鶴見も指摘していることだが、覚醒剤の使用は50年くらいの間で「強制→合法→微罪→重罪」と変化しているわけで、つまりは為政者の思惑次第でいくらでも改正しうるものなのだ。
麻薬を合法化するか否かといった議論は議論として、それとは別に、法律を批判的・懐疑的なまなざしで注視することは忘れるべきではないだろう。
これは社会問題にもなった『完全自殺マニュアル』で知られるフリーライター(当時)の鶴見が、自身の覚醒剤所持による逮捕の体験記を中心に、ダンス、レイヴ、ドラッグ、神経症などにかんするルポとコラムを収録したエッセイ集である。その一節「青少年のための覚醒剤入門」の中に、次のような記述がある。
覚醒剤と言えば「一度手を出したらやめられなくなり、いずれ幻覚・妄想や凶悪犯罪に行き着く」恐怖のクスリのはずだ。(中略)なのに錯乱してるヤツとか、覚醒剤凶悪犯なんて全然いないのはなぜなんだ?
実は「覚醒剤=幻覚・妄想・凶悪犯罪」というのは、世界でも日本だけの“常識”なのだ。ヨーロッパへ行ってドラッグの本や雑誌を見て気づいたが、薬害としての「幻覚・妄想」は「不眠」なんかと一緒に「やめて数日寝れば治る」と軽く扱われていた。これが欧米の研究者の一般的な見方なのだ。
しかし日本の研究者だけが、「幻覚・妄想は少しずつ蝕まれた脳の致命的な損傷のせい」という独自の説を主張しつづけて、国際学会でも孤立しているらしい。しかもその説は、50年代のヒロポン・ブームの頃、つまり脳のことなど何もわかっていない時代に、特に根拠もなく提唱されたものだ。
確かに幻覚・妄想が長引いたり再発する人はいるし、それは欧米でも認められている。「パーセンテージ」の問題なのだ。おそらく使用者全体の1%未満であろう幻覚・妄想例や、さらにその1割程度の「再発(フラッシュ・バック)」の症例ばかりを取り上げて発表しまくり(欧米ではむしろ、覚醒剤によるフラッシュ・バックは否定されている)、専門書をよーく見ると「(幻覚・妄想の)80%を超える大部分の患者は断薬により1ヵ月以内(その多くは10日以内)に精神病像が消褪する」なんて書いてあるわけだ。
「再発」ケースにこだわる理由はまず、最初に「脳の損傷説」を唱えた人が、今も日本の覚醒剤研究の神様扱いで、今さらそれが間違いだとは言えないから。引くに引けず、その説に合うような再発例ばかり調べてるわけ。
さらに大きな理由は、そもそも研究者が撲滅運動をやっているから。それなら「寝れば治る」より「致命的」のほうが都合がいい。これはもう研究というより「撲滅運動」の一環なのだ。世界では相手にされない説でも、何も知らない国民に信じさせるのは簡単だ。こうして悲惨な例ばかり、さらに誇張して徹底的に広め、今あるイメージを作り上げたのだ。
(中略)
では、なぜチェック機能が働かないのか?運動組織の構造を見ればわかりやすい。
撲滅運動は、厚生省、警察庁、研究者集団が三位一体となって推進されている。犯罪に関する情報は警察が握り、医学・薬理学的情報は研究者集団が厚生省の研究費で作り出す。つまり覚醒剤に関する情報はここに集中してしまっているため、外からのチェックができず、それを信じるしかなく、自由自在な世論操作、法改正、捜査・逮捕、重罰化・・・等々ができるようになってるのだ。
ほかにも気になった個所をいくつか抜き出しておく。
・鶴見の計算によると、薬物使用者のうち事件や事故を起こすのは全体の0.1%未満で、しかもその大半が「やり取りをめぐって刺したとか、買うカネほしさに盗んだとか」いう、薬物の直接の影響とは言えないものだそう。
・オランダの大学で一般人を対象に毎年行ってるアンケートによれば、覚醒剤の「生涯使用率」は例年4%くらいで、「ここ1年の使用率」は例年0.1%くらい。つまり、クスリを切らさず使い続けてる人は少数派で、大半は休み休み長期間使っているとのこと。酒と同じように「みんな中毒にもならずに一生」使い続けているらしい。
・戦時中に国が軍と工場で半ば強制的にやらせていた覚醒剤の残りが、戦後民間に放出されヒロポンブームになった、という歴史的事実も紹介されている。初めて聞いたぞ、そんなの。
・覚醒剤の依存度はアルコールより高いものの、アルコールは「中毒になると幻覚・妄想や凶悪犯罪も誘発するし、さらには痴呆になったり、内臓がやられたりする」のに、飲酒は禁止されておらず、社会も乱れていないのはなぜなのか、という問いかけもなされている。
・また、精神依存は思い込みに影響されるため、「手を出したらやめられない」と思えばやめられなくなるし、「被害妄想になる」と思えばそうなるという。薬物を遠ざけるために喧伝されてるイメージが精神依存を作り出しているというのだ。
さて、この主張をどう受け止めたらいいのだろう。
僕は以前の時事「これが薬物中毒者の生きる道?」(2・15)の中で、薬物の使用が「もし刑法で罰せられることなく、野放しにされているならば、大酒飲みやギャンブル狂いなんかと同じように、「ちょっと困ったところのある人」と認識される程度で、よっぽどの社会的逸脱がない限りは周囲に許容されてなんとか生きていけるはず」だと述べた。その考えは、基本的に変わらない。
著名人を例に見ればいい。清原和博、ピエール瀧、沢尻エリカ。この3者は、種類は違えど、薬物を長期間使用していた点で共通している。そして、長期間の使用にもかかわらず、錯乱することなく、社会人としてまともな活動を続けていた(キヨとエリカ様は言動に困ったところのある人だったが、それは彼らの性格に起因するもので、薬物の影響ではない)。もし逮捕されていなければ、芸能活動・音楽活動を今も変わらず続けていて、それでなんの問題もなかったはずだ。
ただこれまでは、「薬物使用者」と「薬物中毒者」を混同していたので、そこは訂正したい。お酒が好きな人がみんなアルコール中毒ではないように、薬物使用者の全員が薬物中毒なわけではない。
以上の議論を踏まえても、にわかに「覚醒剤OK!」とは言えまい。鶴見の見解も、あくまで特定の立場の意見に過ぎない。
ただ、ひとつだけはっきり言えることがある。法律だから、決まり事だからといって、無批判的に正しいと信じこむのは馬鹿げている、ということだ。
「悪法も法」と言ったのはソクラテスだが、法律は人為的に作成されたものであり、だからこそ人間と同じように誤りうるし、なんらかの偏向が入り込むことがある。法律で禁止されているというだけで、絶対にその禁を犯してはならず、反した者はみな非難に値すると考えるのは、法律を盲目的に崇拝しているに等しい。
僕は法律の奴隷ではない。国家の奴隷でもない。法律を、法律だからというだけで信奉するつもりはない。
何も考えずに法律を受け入れている人たちは、法律の隷従者である。「法律様、法律様」とペコペコしているのだ。拝跪したい人はしていればいいと思うが、僕はついていけない。
鶴見も指摘していることだが、覚醒剤の使用は50年くらいの間で「強制→合法→微罪→重罪」と変化しているわけで、つまりは為政者の思惑次第でいくらでも改正しうるものなのだ。
麻薬を合法化するか否かといった議論は議論として、それとは別に、法律を批判的・懐疑的なまなざしで注視することは忘れるべきではないだろう。