徳丸無明のブログ

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絵のような現実・写真のような現実

2018-12-29 21:21:53 | 雑考
前回に引き続き飯沢耕太郎の『写真の力〔増補新版〕』より。
本書収録の「旅の眼・旅のテクスト――「横浜写真」をめぐって」の中で、飯沢は「横浜写真」に触れている。横浜写真とは、「幕末から明治末に至る時期に、主に横浜にスタジオを構えていた写真家たちによって撮影・製作され」、「旅行者(特に外国人)向けの土産物として売り出されたもの」である。その中の一人「イタリア・ヴェネチア出身の帰化イギリス人フェリックス・ベアト」によって撮影された「その一枚一枚の写真には横浜在住の軍人ジェイムズ・ウィリアム・マレーによる解説シートがつけられていた」という。
以下に引用するのはその解説シートの特徴分析。文中にはルビがふられている箇所があるが、ここではルビ入力ができないので、その文字の後に括弧〔 〕で記載する。


マレーの文章に特徴的なのは、ひんぱんに「絵のような」〔ピクチュアレスク〕という形容詞が登場してくることである。たとえば「ビケット・フォースター(イギリスの風景画家)がじっと見つめたくなるような緑の小道が見え、簡素な鄙びた橋と全体が絵のように美しい前景がある」(飯山 VIEW AT EIYAMA)、「この素晴らしい場所の絵のような美しさは、間違いなく、夏に訪れる多くの人々を魅了する」(十二社の滝 CASCADE AT JIU‐NI‐SO)といった具合である。
高山宏の詳細で華麗な分析を引くまでもなくピクチュアレスクは十八世紀から十九世紀にかけての大英帝国の美意識を支配した「感受システム」であった。この「文字通り絵になる風景を自然の中に見出していこうとする――つまりはつくり出していこうとする――アントロポモルフィックな〈視〉のモード」は、写真という新しい視覚システムの中にも浸透していた。ベアトの写真の風景は、幕末の日本をそのままコピーしたものではなく、あらかじめピクチュアレスクの美学に適合するように選択され「つくり出された」ものなのである。


そもそも絵や写真のほうが現実の模倣としてあるものである。それなのに、人は現実の風景を見て、「絵のようだ」「写真のようだ」と感じてしまう。(そしてここには、現実そのものではなく、現実を切り取った風景写真に「絵のような風景」という解説が付されているという転倒もある)
以前「爆笑レッドカーペット」というお笑いネタ番組があって、ある時、誰だったか忘れてしまったが、一組の芸人がネタ披露した後、ゲストの矢口真里が「衝撃映像でしたね」と感想を漏らしていたことがあった。目の前で起きた出来事に対して、である。
もちろんタレントの愚かしさを言挙げしているのではない。人間の認識能力とはそのようなものだという話をしているのである。(ただし、矢口が肉眼ではなく、モニターでネタを鑑賞していた可能性も排除できないし、意図的に視聴者の立場に合わせた言葉使いをしていたのかもしれない)
我々は新しいメディアに接することで、それまでになかったフレームワークを手に入れる。絵画に触れることで「絵画の見方」を、写真に触れることで「写真の見方」を身に付ける。そして、そのフレームワークで現実を眺めるようになるのだ。映画やテレビのなどの動画もまた人類にフレームワークを提供した。
人間は絵画や写真に触れてのち、絵画や写真を見る目で現実を見るようになり、映画やテレビに触れてのち、映画やテレビを見る目で現実を見るようになる。だから、「絵画を見る目で現実を見る」のみならず、「絵画を見る目で映画を見」たり、「映画を見る目で絵画を見」たりすることだって日常当たり前のように起こっている。
多くのメディアに接するほどフレームワークは増えてゆき、その視点は重層化・多層化されてゆく。今では「ニコニコ動画のフレームワーク」や「Tik Tokのフレームワーク」もあるだろうか。
視点が増えるということは、現実を見る目が豊かになるということである。「虚構と現実の区別がつかない云々」といった、退屈で非生産的な繰り言をつぶやいている暇があったら、増えた視点をどう有効に扱うかを考えたほうが遥かに前向きだろう。