徳丸無明のブログ

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フェミニズムの正しい復権のために――男と女のアレやコレ⑤

2018-03-23 21:31:32 | 雑文
(④からの続き)

言葉の問題にも検討を加えたい。酒井は、今時の女子高生が使う男言葉にも触れているが、これには小生も思うところがある。
1966年生まれの酒井自身が若い頃には、女同士で会話するときには下品な言葉を使うことはあっても、男の前では女言葉に切り替えていたそうだが、ここ10~20年ぐらいの傾向として、誰が相手であっても男言葉で話すのが女の子にとって当たり前となっている。小生が20代の頃には、10代の女の子が「お前マジ死ね」などど口にするのを聞くにつけ、頑固爺のごとく「やれやれ、世も末だ」と嘆いていたのだが、段々これは望ましい傾向なのではないかと考えるようになっていった。
望ましい、というのは男女平等という観点からの話である。ただ単に、男女ともに同じ言葉を話していれば平等だ、ということではない。男言葉というのは攻撃力が高いが、それに比べて女言葉は弱い。男言葉と女言葉で口喧嘩になれば、男言葉のほうに分があるので、女言葉の使い手のほうは、相手をうまく遣り込める話術がないと勝てない。
また、口喧嘩をする状況だけに限らない。使用する言葉がその話者の言動――コミュニケーション能力・態度・礼節・人当たりの良し悪し・声の大きさなど――を左右する面は大いにあるわけで、女言葉が男言葉より弱いということは、女言葉の話者はその弱さを内面化している、ということである。なので、必然的に女言葉の話者は、男言葉の話者より「一歩下がった存在」になってしまう。
同じ言葉を内面化していれば、日常の至る場面で男女が関わり合う際、「話し言葉の違いからくる不平等」に直面しなくてすむ。だから女の子が男言葉を使うのは男女平等に適うのではないか、と考えるようになったのだ。
女が男言葉を話すことを、品がないなどとことさら問題視する必要はない。英語には男言葉・女言葉の違いなどないが、そのことで英語話者の女がとりわけ下品になっているとは言えない。(ただし、男女共通の言語である英語は、父権社会の維持・存続のために高度に男性化された構造を備えており、そのため英語の話者となることは無自覚的に父権社会の加担者となることを意味するので、女は、自らの言語を新たに創出していかねばならない、という議論が欧米のフェミニストの間にはあるらしいのだが)
ただ、『男尊女子』の中でも言及されているのだが、最近は「女言葉を使う男」も少なくない。オネエなどの同性愛者だけの話ではない。「異性愛者でありながら女言葉を使う男」がいるのである(オネエタレントの増加がこの傾向に拍車をかけている面もあるのだろうが)。
小生は、女の子がみんな男言葉を話すようになり、女言葉の話者の消滅によって、「男言葉と女言葉」という区分自体がなくなり、日本人の話し言葉はひとつに統一される・・・というふうに進展すると思っていた。だが、事はそれほど単純ではないようだ。男の中に、女言葉を使う者がいる。それはつまり、彼等が女言葉に何かしらの使用価値を見出した、ということだ。ならば、女の側にもその価値を保持しておこうとする動きがあっていいはずで、男であろうが女であろうが各個人の価値観や狙いに応じて男言葉・女言葉の使用を選択する、というのが今後の趨勢になるはずである。
うん、それこそが本当の男女平等に適うのかもしれない。ではなぜ女言葉を話す男がいるのか。これは何らかの社会的動向を反映しているのか。
これに関しては、少し個人的な話をする。実は小生自身も、女言葉を使うフシがあるのである。小生は小さい子が好きで、特に1,2歳ぐらいの子が好物なのだが(保育士資格所有者でもある)、小さい子を見ると「キャッ」となって、オカマと化してしまうのである。このオカマはいつの頃からか小生の中に住み着いていたのだが、年々存在感を増しており、表に現れる頻度が高まってきている。なので、いずれはオカマに体を乗っ取られる予感がしているのだが、その時はその時、受け入れる覚悟はできている(たぶん尾木ママみたいになるのだと思う)。
そのオカマと同居している実感から言わせてもらうと、女言葉を使うのはある種の戦略というか、宣言のようなものなのだと思う。では、その戦略・宣言とは何かというと、「私は男ですけど、男性原理には興味ありません」という一言に集約される。
男性原理。強いものが勝ち上がり生き残る、力の理論が支配する世界。弱者に同情が寄せられることはなく、「もっと強くなれ」という叱責だけがある。この原理の中では、人は物事を深く考えることはなく、気合や根性といった精神論が幅を利かせる。
これを一言にまとめると「ビビったらおしまい」となる。そう、男性原理を体現する者はビビってはいけないのである。その一つの典型的な表れが、ドナルド・トランプと金正恩のチキンレースのごとき軍事挑発合戦である。ビビってはいけないから、止めることができない。相手が仕掛けてきたことよりも一段上の行為を仕掛け返さねばならない。たとえその先に破滅が待ち構えていることがわかっていたとしても。
ドナルド・トランプにせよ金正恩にせよ腹の中は冷静で、ここから先は踏み込んではいけない、という一線はちゃんとわきまえており、本格的な軍事衝突・戦争に至ることなどありえない、という意見もある。それはもちろん承知しているし、同意見である。しかしながら、ボタンの掛け違いというのも起こりうる。国際政治のような、無数のファクターが複雑に絡み合う場においては殊更だ。キューバ危機だって、あと少し条件が違っていたらどうなっていたかわからない。破局というのは、そのようにして訪れるのだ。
そもそも戦争は男が起こすものである。歴史を端倪してみれば、戦争のほとんどが男の発端によるものであったことがわかる(例外的に戦争を起こした女は、男性原理を内面化した女である)。戦争もまた「生きているだけでは不安」な心理の捌け口となっているのだろうが、男はビビってはいけないから戦争をするのである。
ビビらない男は、とかく尊敬を集めがちである。女にもモテるし、組織の中で高い地位を獲得しやすい。しかし小生は――これはビビりの遠吠えと受け取ってもらって差し支えないのだが――、ビビらない男というのは、決して強いのでも優れているのでもなく、ただ単に、人間として当然備わってなくてはならない感情の一部が欠落しているだけではないか、と思っている。ビビるというのは、言い換えれば危機を察知・回避するということであるが、ビビらない男は危機があってもそこに突っ込んでいく。実際、つまらないケンカで10代のうちに命を落とす者は少なくない。
小生は、ビビることは大事だと思う。男であっても適切にビビるべきだし、ビビらないことを崇める風潮をどうにかすべきだとも思う。ブレーキが付いていない車は、そんなに魅力的だろうか。
では、「ビビらない」ことで守られるものとは、一体なんだろう。それは、プライドである。
プライド。この、あるのかないのかよくわからないものに、男は命をもかけるのである。小生は、これほど馬鹿らしいことはないと思う。だから、若いときにはプライドにこだわっていた時期もあったのだが、今はもう捨てている。プライド、ゼロである。
他にもプライドには問題点があって、ひとつは、それが内側を向いている時には自らを律する役目を果たすのだが、ひとたび外側に向けられると、他人を平気で見下す態度に繋がるということ。また、プライドは「自分はこのようなものである」という自己規定でもある。なので、プライドがある者はこの自己規定に沿って行動する。何らかの選択をしなければならない時、前もってこちらを選べば有利、こちらは不利、という結果がわかっていたとしても、有利な選択肢がプライドに反するのであれば、彼はそれを選べない。プライドが、不利な道へと進ませるのである。
そんなのはつまらないし、損だと思う。だからプライドには否定的なのである。そして、男性原理にも興味がない。
「私は男ですけど、男性原理には興味ありません」。女言葉を話す男は、言外にそう訴えている。小生は、彼等と協調関係にありたい。
このように述べれば、それでは男言葉を話す女は男性原理を内面化しているのか、と思われるかもしれない。だが、それは違うと思う。酒井も、男言葉を使う女子高生のことを「若くて勢いがある年代だからこそ、彼女達は言葉の男装をしているのです」と分析しているが、エネルギーに満ちている年頃だから、その年頃の感覚を表出するのにふさわしい言語として男言葉を選んでいるだけで、男性原理に魅入られているというわけではないだろう。男言葉を話す女子高生が、ケンカに明け暮れたり、盗んだバイクで走りだしたりしているという話を聞くことなどないのだから。
男言葉と女言葉には、一応「男らしさ/女らしさ」の指標が残ってはいるものの、それよりも「攻撃力の高さ/低さ」、あるいは「融和性の高さ/低さ」の違いのほうに主眼が置かれており、それらの価値観の表出のためにそれぞれの使用の選択がなされているのだろう。

(⑥に続く)