フランス文学者の鹿島茂は、書評本『暇がないから読書ができる』の中で、「商品には使用価値と交換価値があるとマルクスは言ったが、もうひとつ「催夢価値」と呼ぶべきものがある」と述べている(書評の対象はロザリンド・H・ウィリアムズの『夢の消費革命――パリ万博と大衆消費の興隆』)。
鹿島は具体例を挙げて、催夢価値を次のように説明している。
われわれが子供の頃、リグレーのチューインガムやハーシーのチョコレートは、たんなるチューインガムやチョコレートではなく、「豊かで明るいアメリカ」というドリーム・ワールドを連想させる商品であった。われわれは、これらのチューインガムやチョコレートを買うと同時に「豊かで明るいアメリカ」の幻影も買っていたのだ。
マルクス経済学においては、商品の価値は「交換価値」と「使用価値」の二つからなるとされる。
交換価値とは、その商品がいくらで取引されるか、つまり「値段」のことであり、使用価値とは、その商品の使い勝手、すなわち「実用性」のことである。交換価値よりも使用価値のほうが高い物を手に入れた時、我々は「いい買い物をした」と言う。
小生は、子供の頃から高級ブランドという存在が不思議でしょうがなかった。10万円のハンドバッグ(高級)は、5千円のハンドバッグ(ノーブランド)と何ら変わりがないように見える。なのに、多くの人は高級ブランドのほうに引き寄せられるし、その値段に見合った価値があると信じて疑わないようだ。
高級ブランドとノーブランドの違いは何なのだろう。9万5千円の差額はなぜ生じるのだろう。そのことが長らく疑問であった。
しかし、ここに催夢価値という概念を導入すれば、その成り立ちを理解することができる。使用価値と交換価値の落差を、催夢価値が埋めることによって高級ブランドは成立していたのだ。9万5千円の差額は、催夢価値によって占められている。
それでは、高級ブランドにおける催夢価値の源泉はどこにあるのか。それは、「10万円という値段設定それ自体」だろう。10万円で売られていることそれ自体が、その値に見合った価値が備わっているのだという幻惑を人々に喚起させる。だから、より正確に言えば「10万円の値がついたハンドバッグ」と「その値段設定に魅惑された人」との往還運動の間に催夢価値は発生する、ということではないだろうか。そしてそれとは逆に、10万円という値段設定に引き付けられない(小生のような)人々にとっては、それはぼったくりにしか思えない。
10万円のハンドバッグは、もちろん購入後には腕にぶら下げて街を闊歩し、「私は10万円のハンドバッグを所有している女です」とアピールする示威行為に用いられるのだが、それよりも一番催夢価値が喚起されるのは、支払いの瞬間なのではないだろうか。10万円を差し出したということ、10万円とハンドバッグが交換されたということ、10万円の値段設定を自分が認め、そのうえで市場において正式に取引が行われたということ。それこそが最も強く催夢価値を感じる瞬間なのではないだろうか。
購入後の高級ブランドの交換価値、つまり、質屋などにおいてはじき出される値段は、年々減少するものとされているが、同じく催夢価値もまた、支払いの瞬間をピークとして日々逓減してゆく。だからこそ、「買っただけで満足してしまい、後は押し入れにしまいっぱなし」という人がいるのだろう。
また、高級ブランドの所有アピールによって得られるのが「対外的催夢価値」で、純粋にそれを所有することによって得られるのを「対内的催夢価値」とするならば、高級ブランドの贋物を安値で購入する人は、「対外的催夢価値」だけを求めている、ということになるだろう。
そして、高級ブランドの贋物を通して見てみると、催夢価値の原理がより立体的に見えてくる。コラムニストの小田嶋隆は、『ポエムに万歳!』の中で、「偽装は偽装犯が一から捏造したものではなく、偽装の余地がある状況そのものに、あらかじめビルトインされている」として、次のように説明している。
たとえば、シャープの液晶テレビだとか、トヨタのカローラだとかには、ニセモノが発生しない。なぜかといえば、そもそもそうした本物の一流品は、贋造業者みたいな連中の手に負える代物ではないからだ。(中略)仮によく似たニセモノを作ったにしても、トヨタが200万円で売っているカローラをフェイク業者が作ったら、どうやっても500万はかかってしまう。(中略)逆に言えば、200万でカローラを作れる業者がいるのだとしたら、その業者は、ニセモノなんか作らなくても、立派にオリジナルのクルマメーカーとしてやっていける。
ところが、相手がヴィトンのバッグみたいなものだと(中略)ウデのある業者なら、ほとんどそっくりのニセモノを、10分の1の原価で作ることができる。つまり、ああいう世界のモノでは、そもそも値段のつけられ方が間違っているわけで、なればこそその「真の価格と実際の売値」の差額を埋めるべく、フェイクが発生というわけなのである。
小田嶋の高級ブランドに対する口調はいささか揶揄的ではあるのだが、彼の理論を違う言葉で言い換えるならば、高級ブランドとは「催夢価値によって交換価値が底上げされたもの」となるだろう。
高級ブランドの製造・販売者は、そこで取引されている商品の開発者であるよりもむしろ、催夢価値という人間の心理を衝いた、一種の幻想の創造者と言えるのではないだろうか。
鹿島は具体例を挙げて、催夢価値を次のように説明している。
われわれが子供の頃、リグレーのチューインガムやハーシーのチョコレートは、たんなるチューインガムやチョコレートではなく、「豊かで明るいアメリカ」というドリーム・ワールドを連想させる商品であった。われわれは、これらのチューインガムやチョコレートを買うと同時に「豊かで明るいアメリカ」の幻影も買っていたのだ。
マルクス経済学においては、商品の価値は「交換価値」と「使用価値」の二つからなるとされる。
交換価値とは、その商品がいくらで取引されるか、つまり「値段」のことであり、使用価値とは、その商品の使い勝手、すなわち「実用性」のことである。交換価値よりも使用価値のほうが高い物を手に入れた時、我々は「いい買い物をした」と言う。
小生は、子供の頃から高級ブランドという存在が不思議でしょうがなかった。10万円のハンドバッグ(高級)は、5千円のハンドバッグ(ノーブランド)と何ら変わりがないように見える。なのに、多くの人は高級ブランドのほうに引き寄せられるし、その値段に見合った価値があると信じて疑わないようだ。
高級ブランドとノーブランドの違いは何なのだろう。9万5千円の差額はなぜ生じるのだろう。そのことが長らく疑問であった。
しかし、ここに催夢価値という概念を導入すれば、その成り立ちを理解することができる。使用価値と交換価値の落差を、催夢価値が埋めることによって高級ブランドは成立していたのだ。9万5千円の差額は、催夢価値によって占められている。
それでは、高級ブランドにおける催夢価値の源泉はどこにあるのか。それは、「10万円という値段設定それ自体」だろう。10万円で売られていることそれ自体が、その値に見合った価値が備わっているのだという幻惑を人々に喚起させる。だから、より正確に言えば「10万円の値がついたハンドバッグ」と「その値段設定に魅惑された人」との往還運動の間に催夢価値は発生する、ということではないだろうか。そしてそれとは逆に、10万円という値段設定に引き付けられない(小生のような)人々にとっては、それはぼったくりにしか思えない。
10万円のハンドバッグは、もちろん購入後には腕にぶら下げて街を闊歩し、「私は10万円のハンドバッグを所有している女です」とアピールする示威行為に用いられるのだが、それよりも一番催夢価値が喚起されるのは、支払いの瞬間なのではないだろうか。10万円を差し出したということ、10万円とハンドバッグが交換されたということ、10万円の値段設定を自分が認め、そのうえで市場において正式に取引が行われたということ。それこそが最も強く催夢価値を感じる瞬間なのではないだろうか。
購入後の高級ブランドの交換価値、つまり、質屋などにおいてはじき出される値段は、年々減少するものとされているが、同じく催夢価値もまた、支払いの瞬間をピークとして日々逓減してゆく。だからこそ、「買っただけで満足してしまい、後は押し入れにしまいっぱなし」という人がいるのだろう。
また、高級ブランドの所有アピールによって得られるのが「対外的催夢価値」で、純粋にそれを所有することによって得られるのを「対内的催夢価値」とするならば、高級ブランドの贋物を安値で購入する人は、「対外的催夢価値」だけを求めている、ということになるだろう。
そして、高級ブランドの贋物を通して見てみると、催夢価値の原理がより立体的に見えてくる。コラムニストの小田嶋隆は、『ポエムに万歳!』の中で、「偽装は偽装犯が一から捏造したものではなく、偽装の余地がある状況そのものに、あらかじめビルトインされている」として、次のように説明している。
たとえば、シャープの液晶テレビだとか、トヨタのカローラだとかには、ニセモノが発生しない。なぜかといえば、そもそもそうした本物の一流品は、贋造業者みたいな連中の手に負える代物ではないからだ。(中略)仮によく似たニセモノを作ったにしても、トヨタが200万円で売っているカローラをフェイク業者が作ったら、どうやっても500万はかかってしまう。(中略)逆に言えば、200万でカローラを作れる業者がいるのだとしたら、その業者は、ニセモノなんか作らなくても、立派にオリジナルのクルマメーカーとしてやっていける。
ところが、相手がヴィトンのバッグみたいなものだと(中略)ウデのある業者なら、ほとんどそっくりのニセモノを、10分の1の原価で作ることができる。つまり、ああいう世界のモノでは、そもそも値段のつけられ方が間違っているわけで、なればこそその「真の価格と実際の売値」の差額を埋めるべく、フェイクが発生というわけなのである。
小田嶋の高級ブランドに対する口調はいささか揶揄的ではあるのだが、彼の理論を違う言葉で言い換えるならば、高級ブランドとは「催夢価値によって交換価値が底上げされたもの」となるだろう。
高級ブランドの製造・販売者は、そこで取引されている商品の開発者であるよりもむしろ、催夢価値という人間の心理を衝いた、一種の幻想の創造者と言えるのではないだろうか。