還暦男の徒然日記

還暦過ぎの余生を楽しもうとの魂胆?が覆えさせられそうな日々の奮闘記

頑張れ・ピーポーサイレン

2011-02-13 19:32:50 | 日記

今日、夕方に用事があって車で外へ出た。国道を走っていると何処からか救急車のピーポーサイレンが聞こえてきた。

ピーポーサイレンは方向性がわかりにくく、「匂いはすれども姿は見えず ほんにあんたは屁のような」(スミマセン)ではないが、どうも救急車は神出鬼没だ。

まあ、それはそれとして、しばらくすると反対車線の前から姿が現れてきた。こちらも信号待ちで動かずしばらく救急車を観察していると、反対車線は結構スムースに動いており、ほとんどの車が左側に避けて救急車を先に行かせようと譲っていた。

ところが1台・ちょうど僕の車に一番近いところにいた反対車線の車が左に譲らずにそのまま走行車線上で停車した。見るとおじいさんが運転している。おじいさんはにこにこしながらじっと止まっている。

救急車は左には避譲した車に、右の走行車線上はじっとしているおじいさんの車に行く手を阻まれ、立ち往生した。

しばらくして、左に避譲した車たちが前に行ったり、さらに左へ少しづつ譲りあい、なんとか2車線の真ん中が空いたようで、救急車が「車と車の真ん中を走ります。動かないでください」とアナウンスしながら走り去って行った。

道路交通法で緊急車が来たら避譲するようにとなっているだろうに・・・ニコニコじいさんの気持ちがわからない。

それにしても、ピーポーは患者に優しい音色になっているのだろうが、元気な人には緊迫感がないのか、横断歩道で譲らない人もいる。困ったものだ。

そんなことに負けずに、頑張れ・ピーポーサイレン

 

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カルタゴの子孫がローマに

2011-02-13 16:04:25 | 日記

イタリアでは、ベンアリ政権が崩壊したチュニジアから大量の難民が地中海を挟んだイタリア南部ランペドゥーザ島に入っていると言う。イタリア政府は非常事態を宣言し、難民を国内の他の施設に移動させるなど、人道支援を積極的に行っているらしい。

漁船などで不法に入国した難民が3000人近くに達し、今も増え続けている。

チュニジアといえば、闘将ハンニバルで有名なカルタゴを祖とする民の国だ。

ハンニバルは紀元前200年頃、当時のローマ帝国に果敢に攻め入り、ローマを震撼させた。アルプス山脈越えの攻撃をローマは予想もしなかったという。

そのハンニバルの子孫が、ローマを祖とするイタリアに救いを求め、イタリアもそれに反応している・・・

歴史の流れは興味深い。

 

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六角堂・へそ石の謂れ

2011-02-13 15:19:38 | 京都ウロウロ

家から歩いて15分ほどのところに六角堂がある。

以前に、人に慣れ過ぎている六角堂の鳩に襲われて?ヒチコックの「鳥」を思い出したことがある。本願寺にも鳩は沢山いるが、境内の面積が違うので、それほどに「いっぱいいる」感覚にはならない。

今日も、ブログで六角堂の「へそ石」を紹介しょうと六角堂に入った途端、鳩に取り囲まれた。こういう時はじっとするにかぎる。へたに動くとその動きに鳩が反応して余計にざわつく。で、うまい具合にやリ過ごした。

六角堂の謂れは、聖徳太子がこの六角堂のあたり(当時は林の中だったのだろう)の池で水浴するために、持ってきた如意輪観音像を箱に入れ、傍に置いたところ、箱の中から如意輪観音像が動かなくなってしまった。

そして夢の中で、観音がこの地にとどまり民衆を救うことを希望したということで、それを祀る六角堂を建てたことによるという。だから、平安京よりも先に六角堂は存在したわけで、後に平安京を作る時に、堂が道路に引っ掛かるので、移転を余儀なくされ(今で言えば強制執行みたいなもので)、記念に残したのが、元の堂の基礎である「へそ石」といわれ、以後この場所が京都の中心だといわれている。

六角形は、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲のことを表す。人間の欲望(煩悩)を脱して角を無くし円満になること。即ち「六根清浄を願う」という祈りを込めて、六つの角を造ったということです。

堂はもちろん六角形だが、へそ石も六角形でした。

この六角堂(正式には頂法寺という)の南面の通りを六角通という。

 

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京都の通り名の歌の歴史と松原通りの謂れ

2011-02-13 13:59:43 | 京都ウロウロ

京都の人間なら誰もが知っている例の「通り名の歌」・・「丸・竹・夷・二・押・御池・・・・」というやつだが、いつ頃から歌われているのかを御存知だろうか?

文字として最初に出てきたのは、1723年に三浦庚妥という人の著書『便用謡(びんよううたい)』(享保8年・1723刊)に出典の記述が見られるということだ。三浦庚妥という方は謡曲の節回しを教えていた方のようで、言わば作曲家みたいな人のようだ。

その『便用謡』は、江戸時代以降、町会所で使われていた教本で、九九や日本の地名、社会生活上のマナーなど、実用的な知識に節をつけた謡(うたい)曲が収められており、その中に「九重」というのがあって、それが「京の通り名」のオリジナルであろうと云われている。

この事から元々の原曲?は、室町末期あたりと思われ、貴族だけではなく、広く武家や町衆に普及し始め、必須の教養であったと考えられ、江戸時代の中頃にはメロディやリズムを付けて謡う覚え方が常識になっていたようだ。(
南北だけでなく東西の歌もあるが、東西の歌もおそらくこの時期に完成したと思うがよくは知らない。)

謡に歌われたのは室町時代だが、通り名自体はほとんどが平安京時代と言うからビックリする。それぞれに謂れのある名前がついているのだろう。この前も蛸薬師通りと錦通りについてブログで紹介したが、他も調べなくてはと・・・

謂れが不詳のものもあり、分かったものからブログで紹介したいと思う。

 

先ずは「松原通」から。元々今の松原通りは平安京時代は五条通(五条松原通)だったのだが、豊臣秀吉が二筋南に五条通(現在の五条通)を建設したため、松原通という通り名になったようだ。

したがって、牛若丸と弁慶の出会った五条大橋は今の松原橋あたりということになる。蛇足だが、「義経記」では義経と弁慶の出会いは五条大橋でなく五条天神で、その後、五条通りをまっすぐ東に向かい清水寺の舞台で弁慶が「まいりました」になったとある。五条天神は今も松原通り近くの街中に楚々と存在する。

話を元にもどして、「松原通」だが、その名前の謂れは、この街道の松並木が綺麗だったことに由来するが、特に今も松原通りにある新玉津島神社の松並木が見事だったようだ。この神社は1186年に藤原俊成が歌道の神といわれる衣通郎姫を祀ったことに始まるという。

今も命名当時、見事と言われた松が境内の奥にひっそりと存在している。

 

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