本日の鴨川観察ウォーキング第二段。鴨川を歩いていると、二条大橋から五条大橋まで鴨川の西側にずらっと床が建てられていた。明日から六月で床開きである。いよいよ京都も夏本番に近づいてきた。今年も何回かはお邪魔する事になると思うが、床で「ごはん食べ」もよし、人が「ごはん食べ」してるのを鴨川から見てるのもよし。時がゆったりと流れるのが何とも心地よい。散歩から帰って、その話を妻にすると「そうやね。明日から衣替えやね」妻は常から着物を着る事が多いが、明日から着物も袷着物から単衣になるという。ちなみに、七月、八月は薄物と言って、絽とか紗、麻を着るらしい。それに羅という帯もあるらしい。ロやらシャやらラやらややこしい事である。続いて妻「あ~あ。新しい絽か紗の着物がほしいな」何を言うてるんや。この間、麻の着物作ったとこやろ。僕なんか、いつもジ(ジーパン)とティ(Tシャツ)やぞ。
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今日は日曜。朝から気持ちよい天気であったので、皆に迷惑をかけないように早速鴨川へ散歩に。今日はゆっくりと時間をかけてウオーキングした。ベンチに座って川の流れを見たり、歩いている人の姿を眺めていた。鴨川には所々に川の中に置き石が配置してあり、子供たちがその石を行き来して楽しんでいる。今日も、二条橋辺りにある置き石をアラカン世代のおばさんグループが渡っていた。「奥さんみたいに、うまい事渡れへんわ」「そんな事あらしまへん。奥さんも上手に渡ったはるし」心のこもっていない、どうでもいいような会話が続いている。その中で、こんな会話が。「奥さんとこのご主人は何をしたはるんどすか」「仕事に行ってます。元気なうちは働いてもらわんと。で、奥さんとこのご主人は」「うちは、3年前になくなりました」「そうどすか、それは良かったですね」何や、この会話は。どこの奥さんも、うちの妻とおんなじどすか。
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京は雨上がりで空気が澄んでおり、東山から北山、西山ときれいに一望できる。で思わず比叡山方面を我が家の窓からパチリした。「布団きて 寝たる姿や 東山」と東山三十六峰の穏やかな山並みは表現されるが、写真の左端が三十六峰の先頭に位置する比叡山である。さしずめ「寝ている横顔」になるんであろう。それから真ん中のマンションの右側あたりが大文字山になる。「大」の字が写真では映ってないが、八月十六日に送り火が行われる山である。さしずめ、「手を置いている胸」のように見える。三十六峰の足先は伏見の稲荷山のようであるが、我が家からは清水あたりまでしか見えない。それでも、穏やかな姿に気持ちが洗われる。今は昼下がりの4時だ。部屋に戻ると、我が家にも東山三十六峰が堂々と横たわっていた。
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少し小腹がすいたのでクッキーをツマんでいると、妻「もう、あなたは何か食べてるか、何かを飲んでるか、煙草をふかしてるか、パソコンにかじりついてるかやね。ホントに。他にする事ないんかいな」ほかにする事言うけど、残ってるもの言うたら寝るしかあらへん。折角の休日前の夜やから、まだ寝たない。そういう君はどうなんや。炊事、洗濯、掃除以外やったら、お酒飲んでるか、文句タレてるかやで。
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今夜は久しぶりに雷を伴う雨が降った。春雷にしては時期が遅いので何と表現したらいいのか。最近は梅雨も知らぬ間に過ぎ去っていくようで、雨もスコール的に降る。冬もそんなに雪も降らず、季節をあまり感じられなくなってきた。日本には二十四節季というものがあって、時季時季の自然と暦とを合わせて表現しているが、最近はずれ込んでいたり、抜けてみたりしているように思える。最近、季節を感じると言えば、春先の花粉症や梅雨時のО157、冬のクリスマスメドレーなどであることが何とも淋しく思う。ところで、僕も少し花粉症であるが花粉症は草花の花粉に過敏に反応する抗体の仕業のようであるが、我が家には「文句タレコ」の花粉が季節を問わずまき散らされている。幸いな事に僕にはその花粉に反応する抗体が身体の中で誕生する気配がない。
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妻の大変な矛盾的言動を数題。①妻と歌舞伎を見に行こうと支度をしてジーパンをはいていたら、「何を考えてるの。私が着物を着てるの分かってるやろ。ジーパンなんかで行ったらバランス合わないやろ。着替えて」確かに確かに。で、数カ月後、同じように歌舞伎を見に行くので、常のジーパンを脱いでると、「早くして、何をはいても誰も見てない。ジーパンで良いやないの」見ると妻は着物姿である。○この前のバランスは何やったんや。②ベランダに小ハエが飛んでいた。妻「早く捕って。虫が嫌いやから」僕「嫌いなのはわかるけど、1匹ぐらいほっておいたら何処かへ行ってしまう」妻「私の言う事に、BUTはないの。批判したらあかん。ーそうやね。わかったーでいいの」で、先日、妻「ベランダのここに収納庫を置こうと思うんやけど、どう思う」僕「そうやね。そうしたら」妻「あなたは自分の意見がないの。自分の考えを持たない男はあかんよ」○どうしたらいいんや③妻「男は歳とって痩せてたら貧相になるからあかんよ」僕「そんなもんかな」で、今日はすき焼き。妻「お肉をいくら食べたら気が済むの。ただでもお腹がぶくぶくしているのに。考えて食べなさい」○食べないで、痩せないで、お腹をへこませるのはどうしたらいいんや。最後に。これだけ矛盾だらけであるのに、妻は「私の言うことは理路整然としてるやろ。私の言う事を聞いていたら間違いない」
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人間はホントにつまらない些細なことでイライラすることがある。今日の朝の事である。お年寄りなもんで勝手に早く目が覚めて六時前に起きた。妻は勿論、猛睡中。いつも起きればシリアル+バナナの食事をすぐに摂るんであるが、それにしても早いんで、新聞を先に取りに行く事にした。ひょっとしてまだ来てないかもという心配をしながら、最上階から1階のメールボックスに向かった。蓋を開けると、新聞が入ってない。やっぱり早すぎたか。と思うものの自分に腹が立ってきた。何を急いで取りにきたんや。いつもと同じ時間に来ればよかったんや。といっても、ここでずっと新聞屋さんを待ってるのも馬鹿みたいだ。部屋に戻る。こんなことでイライラしている自分が情けなく腹立たしい。イライラしながら先に朝食を摂る。いつもの新聞を取りに行く時間が来た。ちょっと待て。ひょっとして今日は配達が遅れているかもしれない。もし今行って、入ってなかったら。二度も無駄足を踏んだら自分自身が再起不能になるぞ。もう少し待て。5分経った。よし行こう。エレベーターで1階へ。なんでこんな事でドキドキするんや。入学試験の合格発表みたいやないか。恐る恐る蓋を開ける。あった。意気揚々と部屋に戻る。妻はまだまだ夢の中。
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マンションから比叡山が見える、今の時期は春霞がかかって、すっきりとは見えないが。京都は、東に比叡山、北に北山連峰、西に愛宕山と、大都市では稀有な街中から山並みの見える街である。その中でも僕は比叡山が好きだ。比叡山もその一員であるが、東山三十六峰の懐で育ったせいかもしれない。ところで、比叡山というと、阿闍梨さんと阿闍梨餅を連想する。酒井さんという大阿闍梨さんの修行風景をテレビで拝見したが、到底凡人には理解し難い苦行である。ダ・ビンチコードでオプスデーのシラスを見た時、同じような感覚を覚えた。僕にはそんな苦行は出来ないが、自分を厳しい環境に置くという意味では学生時代に運動部で上手くなりたいという一心で、半ば脱水症になりかけてもトレーニングを続けていたのを思い出す。懐かしい青春のひとこまである。妻にこの話をすると、「しんどいだけやのに、なんでそんな意味のない事してたの。私なら絶対しないけど。若い時に身体ばっかり使ってたから、頭が動かなくなるんよ。もう、なってしまったかもしれないけどね」え?と言うことは、今の僕は頭が働いてないというわけか。わかった。じゃ、今日から身体は動かさへん。阿闍梨さんより阿闍梨餅にする。
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今、夜の11時過ぎである。ふと思って妻に訊ねた。「明日の僕のシリアルに入れる牛乳はあるね」妻「ないかもしれない。(台所へ)なかったよ。欲しいなら今から買ってきてよ。」僕「パジャマ姿で買いに行けない」妻「何を気にしてるの。シリアルを乾燥したまま食べるか、パジャマで買いに行くか。サンドウィッチか何か作ってもいいけどね」-今の妻が朝起きてくれてパンを加工するとは思えない。と言って、夜のうちに作るといっても夜更かしテレビを見続ける妻の事である。邪魔くさくなって寝てしまう可能性もある。妻の言葉を信じるか、パジャマで買いに行くか。答はパジャマに決まっている。一緒に生活していると、相手の言葉の裏が見えてくる。「誰も見てないから、早く買っておいで。子供も牛乳飲むんだから」
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僕はいたってザっつい男?であるが、妻は几帳面だと思う。特にあるべき場所にものがあるとか、あるべき位置にものがある事に几帳面な所がある。例えば、帰って来た時に、靴を玄関に向けて脱がないと「ちゃんと並べて脱ぎなさい」と注意される。それは僕にも非があるわけで仕方ないけど、机の上にある二つのテレビのリモコンも並べておかないと「ちゃんと並べて置いて」と注意される。(斜めに置いてあってもテレビはしっかり映ると思うけど)食卓の椅子も食べ終わった後、元に戻しておかないと「何でもやりっぱなしやね」と言われる。ある時、妻の食卓の椅子が元に戻っていなかったので、「あなたの椅子が元に戻ってないよ」と少し反発した。すると妻「食事の片づけが大変なの。誰の椅子であっても気が付いたら元に戻したら良いやないの」と逆切れされた。(食事の片づけって言うけれど食洗機に入れるだけやと思うけど)ついでに、一気に幕し立てられた。「あなたは早く帰ってくるし、子供は遅いし、食事の準備を何度もしないといけない。何とかならないの」と。若干、被害妄想であるが、暗に僕に、もっと遅く帰って、子供たちと同じ時間に御飯を食べてって言われてるように感じた。遅く帰れば、家に帰って唯一とも言える僕の至福の時間(ベランダでゆったりとしたひと時)がなくなる。で、僕「御飯は子供たちが帰ってからでもいいよ。お腹が空いてても我慢するから」徐々にではあるが、確実に妻の術中にはまりつつある僕がいる。
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妻の少し良いところを。妻は文句タレコであるが、料理は上手である。手早くおいしいものをーただしアメリカ仕込みのものが多いー作ってくれる。今日は、ミートローフであった。大変、美味であった。(まあ、よそであまり食べた事ないけれど)食事の後に、チョコレートブラウニーを出してくれた。アメリカあたりの手作りお菓子だろうと思うが、これがまた美味であった。甘い物好きの僕には絶品である。ところで、ブラウニーというと、スコットランド辺りで言い伝えられている妖精?も、そんな名前であった。日本でいうと、座敷童子みたいな存在で、家の隅に住み着き、時々悪さはするが、常は働き者で、よく家事を手伝うという。今日のデザートは、美味しかったけど、自分を食べているようであった。
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少し僕の話をさせてもらうと、生まれ育ったのは、京都の祇園のはずれであった。最近は観光地域が増殖し、知らないうちに僕の育った所が観光名所の真ん中になってしまっている。家は今はやりの京町屋であった。出格子の横に玄関があり、長く続く通り庭は土間で、おくどさん(かまど)があり、その上方に天窓があった。そして奥に坪庭。今は、立て替えてしまったが、少し我慢して使い続けていたら、今なら何をしても流行るような町の雰囲気になっている。ところで、通り庭の真ん中あたりに大黒柱があった。黒くて太い柱であった記憶がある。世の中が分かってきた年頃になって、この大黒柱が家を支え、一家の主を「大黒柱」と呼んでいるのかと理解できた。ところで、大黒柱の横に小黒柱というものがあるのをご存じだろうか。玄関側にあり、大黒よりも短く、少し細いと記憶している。大黒柱が主人なら小黒柱は一家の奥さんになるのかもしれない。家の構造から言えば、大黒だけでは家は耐えきれず、小黒があってこそ大黒が大黒柱となるわけである。ところで、我が家の大黒柱は誰になるのか。それを支えている小黒は。妻なら、きっとこう言うだろう。「私が大黒柱に決まってるやないの。小黒柱?そんなのいらん。大黒柱で十分。あなたは奥の坪庭にある手水鉢やね。今は重いだけで何の役にも立たへん」
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誰しも「至福の時」があると思う。僕も最近、極々ささやかであるが「至福の時空間」を持っている。それは仕事から帰ってきて、ベランダに出て煙草を吹かし?いや吹かし煙草をしてビールを飲む。陽が傾き、暮れゆく大空に変わって、夜風が僕を包んでくれる。この時間帯は晩御飯の支度が忙しく、妻も口サンデーで一日で唯一静かな時だ。ところが今日は僕のつまらない一言が誘い水となり、妻の口が「たて板に水」になってしまった。帰ってきたら、車が少し動いていたので、僕「今日は何処かへ出かけたんか」妻「スーパーへいった。今日は30円引きやったのよ」30円引きって何や。僕「100円が30円引きか、1万円が30円引きかわからへん。言うなら3割引きと違うか」ムッとして妻「誰が1万円のものが30円引いただけで買いに行くの。一を聞いたら十を悟る。わかった。」そんなもんかいなって思っていると、話を変えて、妻「ミニトマトの苗が一つ枯れてしまった。」確かに、三苗あったうちの一つが枯れている。しかし他の二つが元気だったので、僕「二つは元気に育ってるよ」すると、妻「誰も元気な苗の話をしてない。こういうときはーそうやね。枯れてしまったねーで言いの。ピンとがずれてるよ。しっかりして」それからは妻の口から機関銃のように言葉が出てきて、至福の時が台無しになってしまった。浜の真砂は尽きるとも、妻の悪口雑言尽きることなし。
実態はともかく、世相的には新型インフルも少し峠を越して終息に向かいつつあるのだろうか。今日の地下鉄でも、マスク姿の人が随分減ってきているように思う。しかし、まだ若い子を中心にマスクをしている姿が見える。ふと思ったが、僕の若い頃は風邪を引くと、人にうつらないようにマスクをしていたように思う。今のマスクは予防で、他人が風邪にかかっていても、自分にうつらないようにとのためにしている。別におかしくもないが、時代の変化を感じる。ところで、新型インフルで観光都市・京都も随分打撃を受けているようであるが、我が家の僕も少なからず影響を受けている。前にも言ったが、子供たちは今、新型インフルの影響で休校である。したがって、妻は子供たちのために早く起き、朝御飯やお弁当を準備しなくてもよい。ということで、今まで理由は兎も角、僕が出かける時に声をかけると起きていた妻が今はいない。それでも昨日はベッドの中から手を振ってくれていたが、今日は声をかけても、死んだように反応がなかった。このまま新型インフルが流行を続けると、妻が「新型インフル性寝たきり」になりそうだ。
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