世の中にはさほどの悪意はないんだろうけれど、どうも口の軽い人がいる。新刊本を見てたら、その筋書きを説明してくれる人とか、映画を見に行こうとしたら、ストーリーを親切に説明してくれる人など。
妻もそういう所がある。この前にブログでも紹介したケーブルテレビの「ロスト」のファイナル・シーズンが7月から始まるが、すでにアメリカ版で見てしまった妻は誰かにその結末を言いたくてたまらない。
もちろん、僕は言ってほしくないから、妻のありがた迷惑の説明を拒否している。しかし、妻はジグソーパズルのピースのような情報を少しずつ流してくる。
1ピースや2ピースなら皆目分からないが、それが5個も10個も集まってくると嫌でも輪郭が浮かんでくる。
こうなったら、あっさり結末を妻から聞こうかと思うが、それも妻に屈服するような気がして許せない。
それにしても、妻は絶対にスパイにはなれないと思う。
今日はウオーキングの途中で知恩院に寄ってみた。いつも前は通っているが、メイン入り口?の三門から石段を上がって御影堂に向かうのは高校時代から実に45年ぶりだ。
石段で上がるのはCOPDの身体には結構の負荷だったけれど、上がると爽やかな風に迎えられた。
御影堂では自由参加のような形でお説教をされていた。人間の細胞の誕生と宝くじの確率云々の導入でお話が進んでいた。なかなか近代的なお話だ。
僕は「忘れ傘」に直行。網が二重にもカバーしてあるので非常に見にくい。横におられたおばさんも必死に探しておられるが分からない。僕が先に見つけたのでアドバイスしたが、おばさんは分からないようだ。
そのうち、団体客らしく他の人の催促の声で仕方なくその場を離れられた。
「おばさん。別に忘れ傘が見つからなかっても、御利益には影響ないし気を落とさずに」 おばさんの後ろ姿を見送りながら・・・・・
左甚五郎さんか白狐か知らないけれど、もう少し分かりやすい所に忘れてくれてもよかったのでは。
人間はなかなか自分の殻を破れないものだ。まあ、そんなに大層な話ではないけれど、僕の休日のウオーキングも、妻の指摘「他に選択肢はないのか?」のとおり全く変化がない。
という事で、今日も鴨川へ出たが、ふと実家の方に行きたくなって急きょ、松原通から東へ。
松原から一筋北の通りを真っ直ぐ東に行くと、八坂の五重塔に突き当る。その手前に八坂庚申堂がある。この前の道は小学校の通学ルートだったので無茶苦茶懐かしい。
思わず庚申さんに入った。実に50年ぶりだ。昔は「見猿・聞か猿・言わ猿」があったよう思ったけれど、今は「くくり猿」のオンパレードだ。何か昔より賑やかになっているように感じる。
庚申の日に体内に潜む三尺の虫が寝ている間に体から脱け出して、天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行く。天帝は寿命を司る神であるから悪い事をしたら寿命を縮めるという。
昔はそんな謂れなど知らないから、学校の帰り道にこの庚申さんで友達のカバンを隠したり、女の子のカバンにザリガニを入れたりした事がある。
三尺の虫が告げ口を忘れたのか、天帝さんが許してくれたのか、まだ寿命が来ていない。
朝から懸案だった散髪屋さんへやっと行って来た。帯状疱疹になって散髪に行きそびれて、ほぼ一月になる。
すこし後頭部に疱疹の残党が存在するが、あまり長く散髪をしないと精神衛生上よろしくないような気がして思い切って行ってきた。
さすが散髪屋さんはよく知ったもので、「ヘルペスですか。痛かったでしょ」と。
この類のお客さんもたまに来られるのだろう。うまい具合に残党を怒らさずに散髪してもらって、さっぱりした。久しぶりの短髪だ。
家へ帰って、妻に「やっと散髪に行けるようになった」というと、妻「ほんまやね。いつも通りのマッチ棒の先みたいな頭になってるわ」
「何や。そのマッチ棒の先は・・・人の頭をいつもそんな風に思ってるのか」
今日は映画を見に行ったあと、街中をブラブラしてから最近ハマっているコーヒー屋さんへ。
外が眺められる席が空いていた。今日はいい天気で沢山の人が街に出ている。ゆっくり観察できる。
男は仕事着。女性はリゾート着。どう見ても夫婦とは思えない怪しげな中年カップルが歩いている。
女性が怒りながらさっさと前を歩く。後ろから子供を抱えてあわてて追いかける優しい旦那もいる。
約束場所が分からないのか、携帯電話をしながらウロウロしているサラリーマン。
ふと、この夏からケーブルテレビで放映される「フラッシュ・フォワード」を想像した。全人類が一斉に2分ほど意識を失うという設定のドラマだが。
コーヒー屋さんから眺めているこの一瞬、見ず知らずの人の人生の一こまが僕の人生に登場しているわけで、それだけでも何故かワクワクする。「人生の一こま・拝借」という言葉がぴったりか。
「絵馬覗き」という、人が願をかけた絵馬に何が書いてあるのか見るという、あまり勧められない趣味があると聞いたが、それよりは僕の観察趣味の方が健全で罪がないように思う。
ジョン・トラボルタの「パリより愛をこめて」を見てきた。題名は007の「ロシアより愛をこめて」のパロディーみたいだが、中身はなかなかどうして、痛快娯楽映画だった。
往年の「サタデ―ナイトフィーバー」の面影を微塵も見せない?スキンヘッドに中年太りのトラボルタだったが、さすが鍛えた身体は違うという所をアクションで見せていた。
とりわけ、撃ち合いのシーンで、相手が5発ほど撃ってもトラボルタに当たらず、トラボルタのは1発で相手に命中するのは素晴らしく痛快で面白い。
007を意識していて、トラボルタの相棒がジェームス・ボンドの「ジェームス」だったり、劇中にトラボルタが「この曲が好きで」という曲は、「ロシアより愛をこめて」を歌ったマット・モンローの持ち歌だったり。
内容は失礼なので紹介しないが、トラボルタのいい所が全部出ている痛快映画だ。
キャッチ・コピーの「人生の引き金をひけ」も、よく内容を表現している。
ところで、僕は人生60有余年 人生の引き金を何回位 ひいただろう。
晩御飯を食べている時に、妻からマジマジと言われた。「いつも黙々と食べているけれど、何か「おいしい」とか「まずい」とかの反応はないの?」
「おいしい」とか「まずい」とか(「まずい」は口が裂けても言えないけれど)の反応を期待しているのか。
妻の小言が続く。「いつも決まった時間になったら、「御飯食べんならん」とか「もう御飯の時間や」とか言ってるけれど、給食やないんやから時間通り食べなくてもいいでしょ」
更に「私はライオンやからね」・僕「うん。ライオンって何や」・妻「ライオンって、お腹が空いたら獲物を探しにいくでしょ。私もお腹が空いたら御飯を食べるの。時間が来たら食べんならんみたいに食べるような事はしないの」
僕もライオンでいいけれど、そうなったら、おそらく「自分で獲物探して来て」と言うんだろう。まだ、小言を受けながら御飯食べてる方が・・・・
今日は嫌な自分を見てしまった。仕事の関係で少し遅がけに退勤したら、ちょうど世間の退勤時間とバッテイングして地下鉄に沢山の人が並んでいる。
案の定、やってきた地下鉄もいっぱいで、「これは立ってないとダメか」と思った。自慢ではないけれど、行きも帰りも立ってこの地下鉄を乗った経験がない。(まあ、それだけ地下鉄が空いているという事で)
「今日、始めてそれが破られるのか」と思ったが、ふと見るとシルバーシートが一人分空いている。
いつもシルバーシートは、もう座ってもおかしくない年齢だと思うけれど、どうもまだ早い気がして座らない。
しかし、今日は反射的に座ってしまった。座った後、もう一人の僕が「何を座ってるんや。しんどくないなら遠慮せえ」と非難する。そして「歳とったおばあさんが前に来られたらどうするんや」と問いかける。
歳とったおばあさんが前に来られない事をひたすら祈りながら、張りのムシロに座り続ける。「あーあ。こんな事やったら座らなかったら良かった」
「嫌な自分」ではなく、「ちっちゃい自分」を見つけたという事で。
今日は2カ月に1回のCOPDの受診日だ。待合室で待っていると、看護師さんに声をかけられた。「どうですか。痛みはなくなりましたか」
見ると、帯状疱疹の時の看護師さんだった。総合病院で、ちょうど隣が皮膚科になっている。「おかげさんで、後頭部の一部にまだ疱疹が残っているくらいで後は傷が治るのを待つだけです」
そんな会話をしていて、よくお年寄りが色々な診療科を渡り歩いて、沢山お薬を持っておられる姿を想像した。
いよいよ、僕もその仲間入りしそうな年代というか病気持ちになってきたのか。考えると、病気が完全に治癒する場合はともかく、歳を重ねるに比例して病気の治りも悪くなるし、病気に重ねて罹患する事は当然ありうる話だ。
しばらくしたら、僕もお昼ごはんの代わりになる位の沢山の薬を持って病院をうろうろする事になりそうだ。趣味が病院に?
ところで、COPDは順調で、今日は薬が1種類減った。これが吉と出るか凶と出るか。
帯状疱疹がほぼ完治に近くなっているが、後頭部にできた疱疹の跡がどうなっているかが心配だ。
今度の土日にはやっと散髪に行けそうだが、その疱疹跡が短くした髪のすきまからどのように現れるか。以前のように長髪なら隠せるが今は短髪で、妻が「短い方がいい」と譲らない。
何も妻のいいなりになる義理も厄介もないが、短くしてから朝の整髪もしなくていいし、いつも頭上がすっきりして爽やかな感じがする。
したがって、短くしたいが、10年キズ?になっているかもしれない跡が醜く表に出てくるんではと心配だ。
妻がいつもの如くに「誰もあなたなんか見てない」と言う。確かにそうだと思うが・・・・・
妻に・・・「君は自分の旦那が、月面みたいな後頭部を見せて歩いてもいいのか」
最近、無性においしいコーヒーが飲みたくなる時がある。家にコーヒーメーカーはあるが、たてるのが煩わしくいつもインスタント・コーヒーを飲んでいる。
で、土日のウオーキングなどの合間にコーヒーを飲みにいく事にしている。といっても昔ながらの喫茶店にはどうも行く気がせずに、気楽に行けるスターバックスとかそういう類の所にしている。
行くと大体3,40分はゆっくりしたいが、そのためには僕の密かな趣味である「外が見える席に座って表を通る人を観察」するのが一番なのだが、そんなに都合良く席が空いているわけでもなく。
そこで本を持って行く事にしている。本を読みながらであれば1時間位はゆっくりできる。その本も文庫本サイズでジーンズの後ろポケットに入るのがいい。
本の中身だが、小説はダメだ。僕は小説は作家名で買っているが、やっぱり当たりはずれがある。これが曲者で面白いと、そりゃ読み終わるまで一気に行かないと気がすまない。すると1時間やそこらではおさまらない。
反対に面白くないと、5分も持たずに寝てしまう。これではコーヒーの友にはならない。
そんなわけで、本の種類は随筆本とか紀行本とか、何処から読んでも大丈夫なものにしている。
これだとあらかじめ決めた時間どおりに切り上げられる。おいしくコーヒーも飲める。
本当は家で、妻曰く「三流品のコーヒーメーカー」でたてて飲むのが一番ゆっくりできるのだが・・・・・何故かそれでは面白くない。不思議だ。
以前に、妻がケーブルテレビのアメリカドラマ「ロスト」にはまっていると紹介した事があるが、いよいよそのロストがファイナルシリーズに入る。日本では7月に始まるらしい。
という事は当然、アメリカではすでに始まっており、その映像がアメリカのネットに流れているらしい。
妻が毎日、アメリカのネットから流れている映像をPCにむかって見ている。断片的につかんでは、親切にも僕に説明してくれる。
僕もロストのファンだが、僕は7月まで楽しみに待っていようと思っているのに、妻がつかんだ情報を耳打ちしてくれる。聞きたくもないが、聞こえてしまう。頭に入ってしまう。
ただ、断片的なので一貫性がないのが救いといえば救いになるが。
妻に少し苦情をいうと、「何を言っているの。いくら話しても明日になったら何でも忘れてるやないの」
「そんなわけないやろ」と内心、反発してみたものの「うん。確かにすっかり忘れてしまったものもあるなあ」
今日は仕事の帰りにちょっといい事をしてきた。実は今年の4月から「応急救護分団」に入って応急手当の消防団活動(ボランティア)を始めた。
前の職場を退職した後、何か世の中に役立つ事をしたいと漠然と思っていたが、ちょうど自分のできる内容で社会貢献できるものを見つけたという事だ。
で、今日は初めての活動だった。活動の内容は実のところ、今の職場でもやっている内容で殊更新たな挑戦でもないけれど、ただ肩書きが「応急救護分団員」という事で、その若干の緊張感を感じた次第だ。
まあ、緊張感をもって色々な事ができるというのはありがたい事だ。特にこの年齢になると目新しい事や緊張する事が日に日に無くなって来る。
そういう意味ではボランテイアとか偉そうな事を言っているが、僕がボランテイアを受けているようなものだ。
「草食男子」とか最近、やさしい男がもてはやされている。僕も「草食爺さん」と思っているが。
最近、新聞で「ソフリエ」なる単語を見つけてガックリきた。最近は長寿で元気なジジババが多く、また夫婦共稼ぎもあってか孫の世話をジジババがする事が当たり前になってきているという。
まあ、子育ては親の責任とはいえ、祖父母の知恵も時には必要だろうし、この事自体は納得ではあるが・・・・
何もジジが「ソフリエ」てな言葉まで作ってもらって、孫の世話をする事もないのではと思う。
僕自身は結構マメな人間で何でもやれるけれど、孫の「ソフリエ」になろうとは決して思わない。
そもそも、孫にとって厳しい親の避難場にジジババが存在するわけで、そこにジジババの存在意義がある。
ところで、それはババの母性を中心に対応するもので、許容力のないジジが出来るわけがないと思うのだが。いかがでしょうか。