長女の史がスペインの新聞に載りました。
友人に訳してもらいました。
AS 2012年1月13日
後藤 史(ごとう ふみ)
2012年ロンドンオリンピックに出場する為にラジョで邁進する!
インタビュアー (イサベル ロルダン)
-あなたは、私たちのリーグにおいて最初の日本人であり、未だ唯一の存在ですが、ラジョの何に引き付けられましたか。―
いつも、私は海外でプレイしたいと願っていました。当時在籍していたジェフ ユナイテッド 千葉の2番目のトレーナーが私を推してくれて、2010年の夏、ラジョへ来ました。
このチームはとても理想的でした。過去にチャンピオンになっていますし、今もチャンピオンを目指していたからです。試験を受け、残りました。
-どうしてスペインを選んだのですか。―
いつも、スペインのサッカーが好きでした。なぜなら、日本でたくさんスペインリーグが見られるからです。私が小さい時、レアルマドリードが、トヨタカップ(現在クラブワールドカップに変更)で日本に来た時、ロベルトカルロス選手が大好きでした。なぜなら私と同じポジションだったからです。それに、ジダン、ラウール・・・・いつもレアルマドリードのユニフォームを着て夢見ていたのですが、女子チームがないことを知ってとても悲しかったです。理解できませんでした。
-そして、ラジョに来ましたが、簡単ではなかったと思います。どのように、困難な事を乗り越えてきましたか。―
一番大変だったことは、言葉です。スペイン語は全くわかりませんでしたし、それは、前に進もうとすることを妨げました。とてもつらかったです。しばらく、毎日泣きながらプレイしました。その後、給与が受けられなくなり、何があったのかわかりませんでした。私のチームメイトは、いろいろ助けてくれました。最終的には乗り越えられ、今シーズン私は、プレイに専念できています。
-2011年スペインリーグを制し、チャンピオンになりました。どうですか。―
チャンピオンになることは日本ではとても名誉なことです。今年は、やっと試合に出ることができました。これは、私の目標でした。アーセナルとの一戦で引き分けたバジェカでの試合は一生忘れません。ナタリアは、出場前に「あなたはチームのために仕事できるわ。いつも通り走りなさい」と、言ってくれました。心のままに90分間試合に出ました。
-スペインでは、サッカーで生活していますか。―
ラジョから少し支援を貰っていますが、生活費は、ヤマハ発動機スポーツ振興財団からのアマチュア選手へのスポーツ奨学金を頂き賄っています。私は、日本人女子サッカー選手の中で唯一この環境を楽しみ、私の目標は、ロンドンオリンピックに駆けつけることです。 スペインでは、スペイン語を勉強し、サッカーをします。しかし日本では、プロリーグではないため、仕事をしなければなりませんでした。澤 穂希選手と他5名の選手以外は、サッカーだけでは生活ができていません。日本で私は、事務所で朝9時から夕方6時まで働き、その後練習に行っていました。
-どのようにサッカーを始めたのですか。―
私の町には、女性チームがありませんでしたので、男の子に交じって始めました。15歳の時、勉強とサッカーの練習が両立できる学校に入るために、その町を出ました。
-日本がワールドカップで優勝したことをどう思いますか。―
女子サッカーを国民にとって身近にし、地震という困難な年に明るい話題ができたと思います。
-地震があった日ラジョのメンバーは、あなたのことを心配しましたか。―
その日は、大阪に向けて飛んでいましたので、心配してもらいました。到着してテレビを見たとき地震の映像が途絶えなく流れていましたので衝撃を受けました。向こうで両親が私を待っていてくれたことは幸いでした。私たちは、南の方に住んでいるので影響はありませんでしたが、何人かの友人はすべてを失ってしまいました。
-国際舞台で活躍することで日本に何を伝えたいですか。―
すべてです。私の夢は、ロンドンオリンピックに行くことです。そのためにラジョで一生懸命頑張ります。今までにいくつかの大会で選抜メンバーでしたので、世界的な大会での優勝メンバーを知っています。彼女たちは、「いつ選抜に行くの」と訊ねてきます。私は、「もう行く準備は、できているよ」と答えています。
-澤 穂希選手が、世界最優秀選手に輝いたことは、驚きましたか。―
いいえ。その価値があると思います。彼女はとても良い人であり、代表に必要とされています。彼女抜きでは、ワールドカップで日本が勝つことはできなかったでしょう。
―日本とスペインのサッカーの違いはなんでしょうか。―
精神面ですね。スペインでは、サッカーをしているととても楽しいです。日本では、すべてがもっと固いです。何か1つでもミスをしてしまうと、コーチが怒り、罰として私たちを走らせます。
ミレネからフミ ラジョは、外国人にチャンスを与えた!
スペインサッカー女性リーグが外国人女性サッカープレイヤーに扉を開いたのは、ミレネドミンゲスが、2002年にラジョに来てからだ。スペインに彼女が来たのはその時の夫であるロナウドがレアルマドリードと契約をしたからだ。二人の間に生まれた子どもも連れてきていた。最初の年は、試合に出られなかった。それは、スペインサッカー連盟の規約があったからで、そこには、外国人プレイヤーの参入不可が書かれていた。
しかし、彼女は、なんとかその扉をこじ開け、翌年には、禁止条項が取り払われた。ミレネの後、後藤 史が来るまでの間に来た外国人はブラジル人2人しかいない。2004-2005シーズンのシモネ ゴメスと、タニア ロドリゲスだ。
後藤 史は、スペイン女子サッカーリーグに来た初めての日本人だ。2009年夏にラジョに加わろうとし、2010年に再度挑戦し入団できた。彼女のトレーナーであるホセラ エルナンデスは、初めて彼女がチームに合流した時の衝撃を覚えている。「彼女は全くスペイン語が分からなかった。しかしすぐに私にチームの穴をふさいでみせると伝えてきました。私は間違っていなかったです。彼女の練習を見ているとサッカーの能力の高さ、献身さ、苦しんでいる姿はなにか見せ物を見ている様でした。」
史は、サッカーによって、また、サッカーのために生きている。昨年は言葉が障壁となり、悪いシーズンだった。しかし、スペイン語力が高まったとき、彼女の成長は目を見張るものがある。信じられないほど、すべての行動に情熱をかけている。ロッカールームでは、すべてのメンバーが彼女に代表で1分でもいいので、プレイしてほしいと願っている。彼女にはその値打ちがある、そして、勝ち取ってほしい。 I.Loldan
親として、サッカーマンとしてとてもうれしい記事でした。
育てていただいている事に、感謝しています。
友人に訳してもらいました。
AS 2012年1月13日
後藤 史(ごとう ふみ)
2012年ロンドンオリンピックに出場する為にラジョで邁進する!
インタビュアー (イサベル ロルダン)
-あなたは、私たちのリーグにおいて最初の日本人であり、未だ唯一の存在ですが、ラジョの何に引き付けられましたか。―
いつも、私は海外でプレイしたいと願っていました。当時在籍していたジェフ ユナイテッド 千葉の2番目のトレーナーが私を推してくれて、2010年の夏、ラジョへ来ました。
このチームはとても理想的でした。過去にチャンピオンになっていますし、今もチャンピオンを目指していたからです。試験を受け、残りました。
-どうしてスペインを選んだのですか。―
いつも、スペインのサッカーが好きでした。なぜなら、日本でたくさんスペインリーグが見られるからです。私が小さい時、レアルマドリードが、トヨタカップ(現在クラブワールドカップに変更)で日本に来た時、ロベルトカルロス選手が大好きでした。なぜなら私と同じポジションだったからです。それに、ジダン、ラウール・・・・いつもレアルマドリードのユニフォームを着て夢見ていたのですが、女子チームがないことを知ってとても悲しかったです。理解できませんでした。
-そして、ラジョに来ましたが、簡単ではなかったと思います。どのように、困難な事を乗り越えてきましたか。―
一番大変だったことは、言葉です。スペイン語は全くわかりませんでしたし、それは、前に進もうとすることを妨げました。とてもつらかったです。しばらく、毎日泣きながらプレイしました。その後、給与が受けられなくなり、何があったのかわかりませんでした。私のチームメイトは、いろいろ助けてくれました。最終的には乗り越えられ、今シーズン私は、プレイに専念できています。
-2011年スペインリーグを制し、チャンピオンになりました。どうですか。―
チャンピオンになることは日本ではとても名誉なことです。今年は、やっと試合に出ることができました。これは、私の目標でした。アーセナルとの一戦で引き分けたバジェカでの試合は一生忘れません。ナタリアは、出場前に「あなたはチームのために仕事できるわ。いつも通り走りなさい」と、言ってくれました。心のままに90分間試合に出ました。
-スペインでは、サッカーで生活していますか。―
ラジョから少し支援を貰っていますが、生活費は、ヤマハ発動機スポーツ振興財団からのアマチュア選手へのスポーツ奨学金を頂き賄っています。私は、日本人女子サッカー選手の中で唯一この環境を楽しみ、私の目標は、ロンドンオリンピックに駆けつけることです。 スペインでは、スペイン語を勉強し、サッカーをします。しかし日本では、プロリーグではないため、仕事をしなければなりませんでした。澤 穂希選手と他5名の選手以外は、サッカーだけでは生活ができていません。日本で私は、事務所で朝9時から夕方6時まで働き、その後練習に行っていました。
-どのようにサッカーを始めたのですか。―
私の町には、女性チームがありませんでしたので、男の子に交じって始めました。15歳の時、勉強とサッカーの練習が両立できる学校に入るために、その町を出ました。
-日本がワールドカップで優勝したことをどう思いますか。―
女子サッカーを国民にとって身近にし、地震という困難な年に明るい話題ができたと思います。
-地震があった日ラジョのメンバーは、あなたのことを心配しましたか。―
その日は、大阪に向けて飛んでいましたので、心配してもらいました。到着してテレビを見たとき地震の映像が途絶えなく流れていましたので衝撃を受けました。向こうで両親が私を待っていてくれたことは幸いでした。私たちは、南の方に住んでいるので影響はありませんでしたが、何人かの友人はすべてを失ってしまいました。
-国際舞台で活躍することで日本に何を伝えたいですか。―
すべてです。私の夢は、ロンドンオリンピックに行くことです。そのためにラジョで一生懸命頑張ります。今までにいくつかの大会で選抜メンバーでしたので、世界的な大会での優勝メンバーを知っています。彼女たちは、「いつ選抜に行くの」と訊ねてきます。私は、「もう行く準備は、できているよ」と答えています。
-澤 穂希選手が、世界最優秀選手に輝いたことは、驚きましたか。―
いいえ。その価値があると思います。彼女はとても良い人であり、代表に必要とされています。彼女抜きでは、ワールドカップで日本が勝つことはできなかったでしょう。
―日本とスペインのサッカーの違いはなんでしょうか。―
精神面ですね。スペインでは、サッカーをしているととても楽しいです。日本では、すべてがもっと固いです。何か1つでもミスをしてしまうと、コーチが怒り、罰として私たちを走らせます。
ミレネからフミ ラジョは、外国人にチャンスを与えた!
スペインサッカー女性リーグが外国人女性サッカープレイヤーに扉を開いたのは、ミレネドミンゲスが、2002年にラジョに来てからだ。スペインに彼女が来たのはその時の夫であるロナウドがレアルマドリードと契約をしたからだ。二人の間に生まれた子どもも連れてきていた。最初の年は、試合に出られなかった。それは、スペインサッカー連盟の規約があったからで、そこには、外国人プレイヤーの参入不可が書かれていた。
しかし、彼女は、なんとかその扉をこじ開け、翌年には、禁止条項が取り払われた。ミレネの後、後藤 史が来るまでの間に来た外国人はブラジル人2人しかいない。2004-2005シーズンのシモネ ゴメスと、タニア ロドリゲスだ。
後藤 史は、スペイン女子サッカーリーグに来た初めての日本人だ。2009年夏にラジョに加わろうとし、2010年に再度挑戦し入団できた。彼女のトレーナーであるホセラ エルナンデスは、初めて彼女がチームに合流した時の衝撃を覚えている。「彼女は全くスペイン語が分からなかった。しかしすぐに私にチームの穴をふさいでみせると伝えてきました。私は間違っていなかったです。彼女の練習を見ているとサッカーの能力の高さ、献身さ、苦しんでいる姿はなにか見せ物を見ている様でした。」
史は、サッカーによって、また、サッカーのために生きている。昨年は言葉が障壁となり、悪いシーズンだった。しかし、スペイン語力が高まったとき、彼女の成長は目を見張るものがある。信じられないほど、すべての行動に情熱をかけている。ロッカールームでは、すべてのメンバーが彼女に代表で1分でもいいので、プレイしてほしいと願っている。彼女にはその値打ちがある、そして、勝ち取ってほしい。 I.Loldan
親として、サッカーマンとしてとてもうれしい記事でした。
育てていただいている事に、感謝しています。