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per l/a psicoanalisi

精神分析についての緒言

2014-12-02 17:45:53 | 精神分析について
-Φ を考察してきた元に、ここに精神分析についての緒言を記してみよう。


■20141118:精神分析家の様式 modus

精神分析家の様式についての規定。

“剥奪された自己の非存在”を提供する者。

この時、分析家と分析主体の在り方は極めて“不分明な閾”において生起することになる。転移の概念もまた、これにおいて見直しが図られることになるだろう。

ちなみにこの規定は、ラカンの愛についての定義、“自分の持っていないものを与える”をも含意している。


■20141202:精神分析の“経験の場所 topos”について

精神分析とは、〈欲望の空無 vide〉の内的体験(バタイユ)である。

これも、人間が根源的に被る〈剥奪 privation〉の形象の元に据えられる、“プライベート private”な体験であると言える。これは、〈不在 absence〉の体験とも言い換えられる。


■20141205:精神分析特有の次元(経験と思考)

精神分析特有の次元は、精神分析“についての”テクストの次元とは異なります。

そして、精神分析の経験と思考は「形而上学=存在論」に結びついています。

精神分析を“すること”とは、この存在を“言うこと“の経験、そしてそれまでの在り方を“思考すること”の経験です。

そこで問われるのは、貴方自身の在り方なのです。精神分析における「主体」は、分析家ではなく貴方の側にあります。


■20141212:精神分析を「学=訓育 discipline」として組織する行為について(それは最も反精神分析的である)

基本、精神分析は教えることは出来ないです。フロイトも言っているように、精神分析を学ぶ最良の方法は、実際に精神分析を経験することに限ります。あくまでも「学=ディシプリン」は“合目的性”に“調和”するよう組織されますが、精神分析の経験は、そのような“調和”に留まらないです。

学者連中が本を読むように言うのは、それが彼らにとって得であり、有利な位置に立てるからに過ぎないでしょう。ラカン派の精神分析を「学=ディシプリン」としてだけ推進しようとしている人間は、実際に精神分析を経験していないですし、文化に根付いて欲しいとも思っていません。

例えば、『エクリ』を入念に見れば、それは無意識のように書かれていますし(いたるところに穴がある)、フロイトの著作も体系的に読むことを拒むところがあります。

なので、精神分析に興味がある人は、実際に精神分析を経験することがベストです。あれを、合目的性に従い「学=ディシプリン」とすることは、最も反精神分析的な行為なんです。日本のラカン派然り。

ちなみに、ラカンを「学=訓育 discipline」とする行為自体、ラカンは拒否するよう表明しています。