ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

愛について

2016-08-08 22:30:38 | 試訳
--Sull’amore. Intervista a Jacques-Alain Miller
「愛について:ジャック=アラン・ミレールへのインタヴュー」


Psicologies〔以下、P〕: 精神分析は、愛について何か教えるでしょうか?

Jaques-Alain Miller〔以下、M〕: とても、愛がきっかけである一つの経験ですので。自動的な、そして多くはしばしば無意識的な、分析主体が分析家に抱き、人が転移と呼ぶその愛が問題です。それは一つの虚構の〔偽の、見かけ倒しの〕愛ですが、真の愛の同じ布地にも属します。その力学は明らかです。愛は、私たちの本当の真理について知っていると考えられる人に向かうのです。しかし、愛は、この真理が愛すべきで、心地よいだろうと想像することを許す一方で、事実は、非常に支えることが困難です。

P: それでは、愛は実は何を意味するのでしょうか?

M: 愛は実際は、何か、それを愛しながら、自分自身についてのある真理に人が接近できると信じることです。人は、その返事、または私たちの《私は誰? Chi sono ?》という問いへのある返事を大切にしまう彼または彼女を愛するのです。

P: なぜ、何人かの人は愛することができ、他の人はそうではないのでしょう?

M: ある人たちは、他者の中に愛を引き起こすことができ、それは恋愛関係、いうなれば、男と女です。それらのボタンを、愛してもらうために、彼らは押すことができます。しかし、彼らは必要で愛するのではなく、むしろ彼らの獲物で追いかけっこをします〔訳注:直訳すると、猫とネズミで遊ぶ〕。愛するため、人は固有の〔自己の〕欠如を受け入れ、私たちに欠けている他者が必要であることを認めるべきです。ひとりで完全な存在であると信じる人たち、またそうあることを望む人たちは、愛することができません。そして時折、彼らはそのことを、苦しみで確かめます。彼らは誘導し、集団を魅了しますが、愛の冒険と歓喜は知りません。

P: 《ひとりで完全である》、ただある男のみ、これを信じられる…

M: その通り! ラカンは《愛は持っていないものを与えること》と言ってました。このことが意味するのは、愛することは固有の〔自己の〕欠如を認め、それを他者に贈ること、他者の中にそれを据えることです。人が所有しているもの、幾らかの財産を与えるではなく、幾つかの贈り物は、自分自身の限界を超える、所有していない何かを与えることです。このため、人は固有の〔自己の〕欠如、固有の〔自己の〕《去勢 castrazione》を、フロイトが言っていたように請け合うべきです。そしてこのことは、 本質的に女性的です。人は実はただ、ある女性的なポジションからのみ愛します。愛することは、女性化します。この理由で、男性において、愛は常に少し喜劇的です。でも、もし人が滑稽さ〔馬鹿らしさ、たわいなさ〕から臆病なままなら、それは実際には、自分の男らしさについて自信がないからです。

P: 愛することは男性たちにとって、少し難しいようですね?

M: もちろん、そうです! 恐らく、恋をした一人の男は、この愛は彼を不完全さ、依存のポジションに置くので、彼の愛の対象に対し、傲慢さ〔プライド〕の爆発、攻撃性の振動を持ちます。このため、愛した時に、不確か〔宙吊り〕になった男性的ポジションを取り戻すように、愛していない女を欲望することができます。フロイトが、男性における《愛情生活の堕落〔低俗〕degradazione della vita amorosa》と呼んだのは、この原理です。愛と性的欲望の分裂 la scissione dell'amore e del desiderio sessuale です。

P: そして、女性においては?

M: より一般的ではないです。しばしばよくあるケースでは、男性的パートナーのある分割 un sdoppiamento があります。一方では、彼女らを楽しませ、彼女たちが欲するのは、愛人=恋人 l'amante です。しかし、女性化され、必然的に去勢されているのは、愛する男 l'uomo dell'amore でもあります。しかし、“一つの男性的ポジションを選ぶ女性たちがいる”を命じるその解剖学はありません。それについては常にそれ以上です。家での、愛のための一人の男性 un uomo per l'amore と、インターネット上で、道路で、電車の中で出会った、享楽のための何人かの男性たち degli uomini per il godimento …

P: 《常にそれ以上》?

M: 女性らしさと男性らしさの社会文化的な諸ステレオタイプは、最大に変化〔変異〕しています。男性たちは、その適切な諸感情〔刺激〕を受け入れ、愛し、自ら女性化するよう促され、それに反し、女性たちは、法制上の名の下に、ある種の《男性への衝動=衝迫 spinta all'uomo》を示し、《私も anche io》を繰り返して言う傾向があります。同時に、同性愛者たちは、結婚や親子関係のような、異性愛者たちの権利と象徴の回復要求をします。ある時代の不変性と対照をなす、多大なる役割の不安定さ(愛の劇場の一般化された流動性)に由来することです。愛は、社会学者ジグムント・バウマン Zygumunt Bauman が認めた、《流体 liquido》になります。各人は、固有〔自己〕の個人的《生のスタイル stile di vita》を発明し、楽しむことと愛することの固有〔自己〕のモードを引き受ける傾向があります。伝統的なシナリオは次第に古くさくなります。彼らに順応するように仕向ける社会的情熱は消滅はしていませんが、減少していっています。

P: 《愛はいつも、交換し合う L'amore è sempre reciproco》と、ラカンは言ってました。それ今日の文脈においても、まだ真実ですね? これは何を意味するのでしょう?

M: このフレーズは、それを理解することなく、あるいは誤解〔勘違い〕しながら繰り返されています。彼〔その人〕が私たちを愛するように、誰かを愛すれば十分という意味ではありません。馬鹿げたことでしょう。こう意味します。《もし私があなたを愛するなら、それはあなたが愛すべきだからです。愛するのは私ですが、あなたも巻き込まれています。何故なら、あなたの中に、私があなたを愛することを引き起こす何かがあるから。一つの堂々巡りがあるので、相互的です。あなたのために私が育む愛は、あなたが私のために存在する愛の原因に由来する効果です。したがって、何かのための余裕〔ゆとり〕があります。あなたにとって私の愛は、ただ私だけの事ではなく、あなたの事でもあります。私の愛は、おそらくあなた自身知らないあなたについて、何かを告げます。》これは一方の愛が他方の愛に返事をするだろうという保証はまったくありません。この事は、生じる時、常に奇跡の配置 l'ordine del miracolo に属し、前もって計算できません。

P: 固有の全ての人、偶然に固有の全ての人には出会われません。何故、彼なのでしょう? 何故、彼女なのでしょう?

M: フロイトが Liebesbedingung と呼んだこと、愛の条件、欲望の原因があります。それは、ある人々のため、愛の選択において一つの決定的な機能を持つ、特別な特徴 un tratto particolare —あるいは諸特徴の集合 un insieme di tratti —です。このことは、各人に固有であり、単独で内密の固有な歴史に依存しているので、完全に神経科学から逃れます。時折、ごく僅かの諸特徴が動き始めます。例えば、フロイトは彼の患者たちの一人における欲望の原因として、一人の女の鼻の上のあるきらめきを識別していました。

P: 愛がこのような些細な事柄の上に基礎〔根拠〕を置かれていることは、信じ難いです。

M: 無意識の現実性は、見せかけ〔虚構〕を超えます。人間的な生においては、また特に愛においては、人が似たような些細なこと、くだらないこと、《神々しい細部 dettagli divini》に根拠を置く、全てのことの理想がありません。私たちが、フェティッシュのような、その現前が愛のプロセスを駆り立てるのに不可欠である、欲望の原因を見出すのは、とりわけ男性において、ということも真実です。私たちが、父、母、兄弟、姉妹、幼年期のある種の重要人物に引き寄せる最少の諸特殊性 particolarità minime は、女性たちの愛の選択における役割のそれらも擁しています。しかし、愛の女性的形象はしばしば、フェティシストよりもエロトマニア的です。女性たちは愛されること、そして関心、私たちが彼女たちに表明する、または彼女たちが他者の中に想定する愛を望み、しばしば、彼女たちの愛、または少なくとも彼女たちの同意を解き放つ、一つの絶対条件です。現象は、男性的牽引から成り立っています。

P: どの役割も、ファンタスムに原因がないのですか?

M: 女性たちにおいて、意識的か無意識的かよりも、愛の選択によってより、彼女たちは享楽のポジションに対して決定づけられています。男性たちに対し、逆が役立ちます。例えば、まさに行為の最中に、叩かれ、汚され、また一人の他の女であること、あるいはまた別のところにいて、放心しているとただ想像するだけで、ある女性が享楽を達成できること—オーガズム、と私たちがいう—が生じます。

P: ところが、男性的ファンタスムは?

M: 一目惚れにおいて、とても顕著です。ラカンによって注釈された古典的な例は、ゲーテの小説の中における、彼女を初めて見た時、彼女を取り巻く悪漢を心に抱きながらの、若きウェルテルのシャルロットに対する突然の情熱です。ここに、愛を爆発させる女性の母親的態度の身分があります。私の実践で扱われた、ある他の例はこうです。ある50歳のボスが、秘書のポストのため、候補者たちと面会します。20歳の若い女性が現れます。彼はすぐに自身の愛を打ち明けます。何が急ぐ原因か彼に尋ねられ、分析に入ります。そこで全てこのことが突発したということを発見します。彼において、彼が最初の就任のために出席した時、彼自身20歳の時だったということを呼び起こす、いくつかの特徴を再発見しました。ある種のやり方で、彼は自分自身に恋をしました。この二つの例において、私たちはフロイトにより区別された二つの斜面を再発見します。人は、自分または保護する人物(この場合、母親)を愛する、さもなければ自分のナルシスティックなあるイメージを愛する。

P: 操り人形 le marionette である印象が持たれます。

M: いいえ、一人の男と一人の女のあいだには、前もって何も書き込まれてませんし、何の羅針盤も、予め定められた関係もありません。彼らの出会いは、精子と卵子のそれのようにプログラムされていません。遺伝子とすら関係は何もないです。男たちと女たちは、ディスクールのある世界 un mondo di discorso で話し、生き、決定的であるのはこれです。愛の諸様相は周囲の文化にとても敏感です。それぞれの文明は、それが関係を構造化する方法によって、性別の間を区別します。目下、西洋文明で、同時に私たちの自由主義的、商業的、司法〔法制〕的社会において、《多数性 molteplice》が《一 uno》を退位〔失脚〕させています。《全ての生の偉大なる愛 grande amore di tutta la vita》の理想的模範は、speed dating、speed loving と選択的で、連続的、同時的でさえある愛のシナリオの全盛を前に、劣勢になっています。

P: では、継続する愛は? 永遠のは?

M: バルザックは言ってました。《永遠であると信じられない、どうな情熱も残酷極まりない。》しかし、情熱の調子による全ての活気で、絆は支えられるでしょうか? 一人の男が、ただ一人の女に献身すればする程、彼女は彼のために、ある母性的意味作用 una significazione materna を引き受ける傾向があります。彼女が愛されれば愛される程、崇高で触れることができなくなります。女性のこの崇拝をより多く発達させるのは、移された〔遷移された〕同性愛です。アラゴンはエルザのための固有の愛を歌います。死ぬやいなや、何とまあ! ところが、一人の女がただ一人の男にしがみつく時、彼を去勢します。故に、道は狭い。要するに、アリストテレスが言っていた、夫婦の愛のよりよい道は友愛です。

P: 問題は、男性たちは女性たちが何を欲するか分からないことを語り、そして女性たちのそれは、男性たちが彼女たちから期待していること…

M: そう。アリストテレス的解決に反対することは、ラカンが嘆いていました、他者との一つの性についての対話 il dialogo di un sesso con l'altro は不可能ということです。事実、恋人たちは、もがきながら、(常に取り消しできる)解読のキーを探しながら、際限なく他者の言語を習得することを余儀なくされています。ラカンが、《愛は、持っていないものを与えること L'amore è dare ciò che non si ha》と明言していたように。

(Psychologies Magazine, 2008年10月, n. 278)

転移関連のリンク(イタリア語)

2016-08-08 02:00:37 | Link
「21世紀における転移」

IL TRANSFERT NEL XXI° SECOLO, di Antonio Di Ciaccia (Dibattito preparatorio Convegno SLP Ravenna)

「愛と享楽のあいだの転移」

TRANSFERT TRA AMORE E GODIMENTO. 14 e 15 giugno a Roma, XII Convegno nazionale della Scuola Lacaniana di Psicoanalisi.
Tema del XII Convegno Nazionale della SLP, Domenico Cosenza


「分析的転移における現実界の出現」(フォーラム)
EMERGENZE DI REALE NEL TRANSFERT ANALITICO, Domenico Cosenza
フォーラムの目次

(ニュース記事)
Tutto tranne che amore. Il transfert, tema del convegno della Scuola Lacaniana. Roma.
Il transfert tra amore e godimento (14 e 15 Giugno)



Il transfert da Freud a Lacan, Mauro Milanaccio