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per l/a psicoanalisi

転移についてのラカンの教えと逆転移の概念への批判

2016-08-05 19:44:58 | 試訳
--L'INSEGNAMENTO DI LACAN SUL TRANSFERT E LA CRITICA ALLA NOZIONE DI CONTROTRANSFERT


■ラカンにおける転移の理論
LA TEORIA DEL TRANSFERT IN LACN

ラカンの教えにおいて、(フロイトの理論に合致して)転移の基礎知識は精神分析の基本的諸概念の一つを構成する。実際、その中で転移は治療の開始についての必要条件として明らかになる。確かに、精神分析家の任務は、転移が治療の原動力になり障害物にならない試みの中で成り立つ。1960年に、ラカンは(『転移 Le transfert』と題された)8番目のセミネールを開催し、その中で分析的転移の彼の理論をより組織的な形で発展させる。このパースペクティヴにおいて、転移は私たちを間-主観〔主体〕性 l'intersoggettività の彼岸に結びつける構造の現象として見なされるべきである。分析的転移の構造が挿入されるのは、もはや“主体から主体への da soggetto a soggetto”間-人間的関係の枠組みにおいてではない。本質なものにおいて、転移は愛であるのだから、(セミネール『転移』を貫く)キーテーゼは、分析的転移の本性 la natura を明らかにするために、愛の本性 la natura とそれが含む謎を問いただすことに存する。その上(分析的転移のラカン的理論において)、愛の次元は知の次元に構造的に結びつく。その証拠に、分析家は分析主体の謎(彼の欲望の原因)を含む対象 (a) になることにより、分析主体の苦しみに関する真理について何らかの知を想定されている限りにおいて、分析主体の分析的転移の中でエロティックに投資されている。知の想定された主体 il soggetto supposto sapere は、その周りで転移と見なすことの全てが分割されるボルト il perno を代理する。ラカンにとって、フロイト以前に(愛の経験の論理を照らす)西洋的思考の伝統についてのあるテクストがある。プラトンの『饗宴 il Simposio』である。『転移』の第1部の全ては実際に、プラトンの『饗宴』への、そしてその登場人物たちによる愛について述べられた諸言説へのある詳細な注釈とともに提示される。ラカンは把握してもらうよう、『饗宴』は、アルキビアデスの(彼の愛の言説とソクラテスへの嫉妬を通過する)闖入がその内容の全てが回転する周りの点を表象する、分析的セッションの報告書〔経験談〕の一種のように考慮されるべきだと主張する。プラトン的な対話におけるソクラテスの機能は、ラカンによって分析家の機能に結びつけられ、その機能は転移の中で、主体を自身の欠如との遭遇に結びつける。ラカンは『饗宴』において、欠如としての愛のある理論を浮き彫りにし、それによれば、本質的なものにおいて“愛は人が持っていないものを与えることである l'amore è dare ciò che non si ha”。事実、(ある愛する人 un amante の経験において)愛が欲望に結びつき選ぶ〔好む〕、彼を彼に欠けている対象にしつつ、自身の欠如を贈ることのできる人としての一人の他者 un altro(愛される人 l'amato)は、人が持っていないものの水準に特有〔固有〕のものである。愛する人とは欲望の対象であり、それに反して、愛される人はこのカップルにおいて、何かを持っている唯一の人として経験される。『饗宴』において、アルキビアデスは愛する人の形象を体現し、一方、ソクラテスは彼にとって愛される人のポジションを体現する。愛の本性を解説するためラカンは、愛をあるメタファー、すなわち(その場所に愛する者が生まれる、愛される者の位置への)置換〔代入〕として定義しながら、“愛のメタファー metafora dell'amore”を考案する。(そこにおいて愛する者が愛される者に姿を変える)このような変転は、ラカンによれば、この変形〔変換〕が愛の現象を、また分析的転移の始動さえも生じさせないことはないのだから、分析的経験において本質的であると示される。したがって、転移愛 l'amore di transfert はこのように、むしろ患者が彼に想定するある真理の保有者の機能に向いているので、治療者への愛ではない。治療者はこの転移による愛 amore da transfert をしっかりと掌握し、それをその無意識的な諸起源に送り返されるべき、非現実的な何かとして見なすべきである。


■知の想定された主体としての転移
IL TRANSFERT COME SOGGETTO-SUPPOSTO-SAPERE

分析的転移のラカン的理論において、愛の次元は知の次元に結びつく。分析家は養成のあいだ、無意識についてのある知を持つ誰かであるが、彼にその要求を向ける人の欲望については、何も知らない。このため、彼の知は、ただ想定されたある知である。
分析主体が分析家は自分の苦しみの真理について何かを知っていると想定することなしには、真の分析の開始はないでだろう。


■転移は反復ではない
IL TRANSFERT NON È RIPETIZIONE

転移は過去の純粋な反復には減じない。反対に、フロイトにとって転移は単純なかつてあった反復である。


■無意識の性的現実性の発動としての転移
TRANSFERT COME MESSA IN ATTO DELLA REALTÀ SESSUALE DELL'INCONSCIO

〔訳注:この項目については、タイトル末に (?) が付され、割愛されている。〕


■転移のアルゴリズム(より少ないアルゴリズムで)
L'ALGORITMO DEL TRANSFERT (fare algoritmo a meno)

アルゴリズムの上部には、シニフィアンの一連のものがある:他のシニフィアンの間で選択された S=SIGNIFICANTE DEL TRANSFERT=転移のシニフィアン(謎めいた仕方で、ある Sq=SIGNIFICANTE QUALUNQUE=ありふれたシニフィアンによって主体 (s) を代理する)
下部には、私たちはシニフィアンの様々な効果を持つ。それら諸効果は、分析主体のディスクールのシニフィアンのシークエンスを通る。
アルゴリズムはラカンに、分析の開始と終結を形式化することをできるようにする。
開始に関しては、人は転移の謎めいたシニフィアンと、彼の苦しみについて分析家に尋問するための分析家への要求 (Sq) との間の関連を設ける。
終結に関しては、主体が欲する〔望む〕ことを言い知ることについて応答可能になる限りにおいて、知の想定された主体の失墜が生ずる。


■治療における逆転移の利用へのラカンの批判
CRITICA DI LACAN ALL'IMPIEGO DEL CONTROTRANSFERT NELLA CURA

ラカンは、逆転移にとっての転移の現象の必然的な帰結を解釈する。
セミネール『転移』の中で、逆転移の利用に関するラカンの気がかりが際立つ。
逆転移的な眺望において、分析家は治療の中で、彼を主体としての試練にかけることの危険を侵すことをしないで、だが分析主体を固有の無意識的な知、すなわち大他者の場所に近づきやすくしつつ、彼の位置を占めることができる。ラカンのこの眺望では、分析家は彼のポジションを脱主体化すべきで、このことは彼は非情動的 anaffettivo であることを意味しないで、それに比べてセッションで彼は他者のより強いある欲望 un desiderio più forte degli altri、分析家の欲望 il desiderio dell'analista によって動かされていることを意味する。ラカン派の分析家は、患者へのあるシニフィアン的な応答の座である。(患者はそのことを、彼を苦しめさせるそれらシニフィエの周りでの、象徴的練り上げの作業へと返送する。)


DOMENICO COSENZA