ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「恥の文化再考」

2004年05月04日 | 読書
葉っぱ64さんが、『文明の内なる衝突』の読解にあたって、「恥」にずいぶんこだわっておられる。

実は、この本を読むにあたり、わたしにとってはこの「恥」の部分がいちばんわかりにくかった。わかりにくい部分にこそなにか重大なメッセージが込められているものだ。

そこで、サブテキストにちょっと古いけど作田啓一『恥の文化再考』を読むべく、図書館で借りてきた。これ自体はおもしろい本だけど、今回のサブテキストにはならないみたい。

以下に、抜粋ノートを書き留める。


「集団の自立性を弱めるような仕方で社会の有機的構成が進み、しかも善悪基準よりも優劣基準が人間の行動を強く規制する社会こそ、羞恥のとりわけ発生しやすい基盤である。その意味で工業化のいちじるしく進行した大衆社会は、その外見にもかかわらず、羞恥をひき起こしやすい状況を生み出す。」

「太宰がある意味で国民的作家になりえたのは、かれがどんな集団にも根拠地をもちえなかったからである。彼は一つの有の立場から世界を裁断する主体としてではなく、種々の有の立場から裁断される客体として自己を位置づけた。」

「恥=外面的制裁、罪=内面的制裁というベネディクトの図式にはかなりの無理がある」

 ところで、作田さんの論の中に、「負け犬」ということばが出てくる。太宰治について論じた部分だ。太宰は負け犬の役割を自ら選んだという。

「恥には二つの社会的機能がある……(略)…公恥としては達成や自己主張の動機を強化する力を持っているが、その恥じらいの側面は人を孤独な内面生活に引き込む。しかし羞恥は、太宰がサロンと呼んで罵倒したところの自己主張を助け合う徒党よりも、もっと広汎な連帯を可能にする作用をもつといえる。自己の内部の劣等な部分が八方から透視されている人間、集団という甲羅の一切が剥奪され、有としての自己を主張しうる根拠を失った人間、そういう人間同志の連帯は、集団の砦を越えた連帯だからである。疑いもなくそれは、現在の時点では生産的・創造的な機能をもつことはできない。だがこの連帯は、生産力の高まりによって競争の価値が低下し、有機的な構成が階級・階層の壁を徹底的にこわすまで進んだ未来の社会において、結合の重要な一形式となることは確かだ。はにかみがちな日本人は事大主義や権威主義にたいして、無為の立場から消極的に抵抗してきた。その伝統は未来につながるものとして再評価に値するだろう。」p26

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『恥の文化再考』作田啓一著 筑摩書房 1967

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