ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「現代思想」8月号

2007年12月30日 | 読書
 「ゆきゆきて、神軍」を夏に見て以来、「責任」という言葉が頭の中をめぐっていた。一億総無責任といわれる日本人の心性は江戸時代からあったようで、忘年会を開く民族は世界中で日本人だけらしい。江戸の末期に武士が始めた「年忘れの無礼講」が起源ということだが、一年の総括を一切せず、困ったことやいやなことは酒を飲んで忘れようという上役にとって都合のいい、「部下をまるめこむ会」だったという。誰も責任を追及されたりしないようにあらかじめ予防線を張るための会だったということで、それがあっという間に日本中に広がる習慣になるのだから恐ろしい。(出典は『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』2007年、光文社新書)

 『現代思想』を買ったのは何年ぶりだろう、実に久しぶりのことだ。読みたかったのは磯前順一さんの論文「外部とは何か? 柄谷行人と酒井直樹、そしてクリスチャン・ボルタンスキー」だったのだが、偶然にも東京裁判特集だったので、ここでも戦争犯罪と戦犯について考えるヒントを仕入れることができた。

 さて、磯前さんの論文は、柄谷行人と酒井直樹というポストモダニスト二人の「内部/外部」」のとらえかたの違いについて述べている。ここでいう内部/外部とは日本におけるそれを指す。柄谷にとって外部とは共同体の外部であり、他者との出会いも外部で実現する。柄谷はしばしばアメリカに滞在するようになって、「日本には外部あるいは他者と出会う空間が存在しない」と気付いた。磯前さんの問題意識は、「柄谷のいうように、日本において、本当に外部は存在しないのだろうか? そもそも外部と内部とは何か?」というものだ。ガヤトリク・スピヴァク、ホミ・バーバ、エドワード・サイードといったポストコロニアル知識人の間には戦略的差異はないのか? 彼らを参照するだけでよいのか?と、磯前氏は問う。

 磯前論文の課題は靖国神社A級戦犯問題なのだが、磯前さんの論文は戦犯問題を越えてわたしに「他者」と「外部」を問うテーゼを示してくれる。だが残念なことに、この論文は興味深い示唆に富むにもかかわらずどこか隔靴掻痒の感がぬぐえない。だが、いくつかメモしておきたい言葉があるので引用。

かつて、タラル・アサドは私にこう言った。「なぜ日本人はアラブ人やインド人と同じようなかたちで、ポストコロニアルの問題を語ろうとするのだ。植民地を経験していない日本人は、西洋的近代化の受容の固有性においてこそ、私たちには出来ない問題提起が可能になるのではないか」。(p182)

 かつて、わたしはホミ・バーバに面談を求めたさいに、彼に認められようと、どれほど自分が彼の思想を的確に理解しているかを勢い込んで喋った。しばらく、黙って聞いていた彼は、こういった。「私をよく理解してくれていることはよく分かった。しかし、お前はホミ・バーバではない。おまえ自身の考えは一体何なんだ。私に無くて、お前に在るもの。それが私にとってお前と話す価値だ」。それは、まぎれもなく内部に同質化する欲望を拒絶する思考であり、柄谷言葉を借りるなら単独者として人が向き合う対話への姿勢である。すでに述べたように、柄谷にとって、日本は閉ざされた内部として否定的なかたちで存在する。そのような閉鎖性を打破するために、彼は交通の場としての外部を措定する。(p.184)>


 
 そして、書店で立ち読みした『喪失とノスタルジア』がとても面白そうだったので、読んでみたいと思っている。「現代思想」という雑誌に掲載された論文だけではこの人の思想の核の部分は読み取れないのではなかろうか。

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