ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「見たくない思想的現実を見る」ノート

2004年05月04日 | 読書
■第1章 沖縄

 大澤真幸は金子勝と共に沖縄に行き、30代前半の女性活動家と話をするうち、彼女の逆鱗に触れ、激しく怒りを向けられる。
 先進国知識人がみせる、後進国のサバルタンへの同情と共感のまなざしのうさんくささを厳しく指摘されたのだ。

「絶対に安全な場所に立って、犠牲者=サバルタンの苦難に同情する者の能天気な気楽さを見ないわけにはいかない。」27頁


■第2章 高齢者医療

 「なぜ老人を殺してはいけないのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」

 レイプはなぜ悪いのか。売春はなぜ悪いのか。

「性行為において、われわれは、相手が、まさに<他者>であることを――私の透明な意志に服しきることがない者であることを――欲しているのである。」

「レイプの悪の理由を、通念とはまったく逆に考えるべきではないか。人は、ある意味で、自身の身体が「暴力」的に扱われることを望んでいる。だからこそ、その欲望を文字通り実現するレイプは悪なのである。殺人についても同様である。」p76

「つまり、<私>は、<他者>の自分自身への能動的な働きかけを――言い換えれば(<他者>)の受動的対象となることを――欲望しているのだ。だが、これは、単純に、<私>が、「物」のような対象性へと転ずることを意味してはいない。<私>は、同時に、<私>の<他者>への受動的従属自身が、この<私>の能動的な思考を前提にし、それに支持されていることを欲望しているのである。つまり、<私>は自ら、<他者>の<私>への能動的な働きかけ――<私>の受動性――を、能動的に引き起こそうとするのだ。レイプや殺人が悪であるのは、この後者の能動性が契機が――つまり<他者>の<私>への能動性自身を支える<私>の側の能動性が欠けているからである。同じ欲望を<他者>の側にも仮定するならば、受動性/能動性をめぐる<私>のこうした錯綜した欲望は、実際に満たされると考えることができる。<他者>の方もまた、<私>のその<他者>への能動性を欲望しているのだ。言い換えれば、<他者>は、<私>のその<他者>への能動的な志向に触発されて、自らの<私>への能動的な働きかけが引き起こされることを望んでいる、と考えることができるのだ」p77

■第3章 過疎地の想像力

 秋田県鷹巣町(たかのすちょう)の老人福祉「ケアタウンたかのす」の実践報告

 岩川町長の「徹底民主主義」
  →ワーキング・グループの活用

「われわれの問いは、住民が喜びと誇りをもってこの知に住むことを選択しうる共同体に、鷹巣がなるりえたのはなぜなのか、ということであった。リーダーが有能だったから? 一方では、無論、その通りだが、他方では、この解答はまったく間違ってもいる。……(略)…このことを理解するには、ヘーゲルの『精神現象学』における、「主人と奴隷の弁証法」からストア主義への移行の部分を参照するのがよい。主人と奴隷の弁証法において、知は奴隷の方に属している。それは、まずは、労働のためのノウハウ、技術的な知という形態をとっている。これは、まだ真の「思想」とは言えない。「技術的な知」から「思想」への転換は、奴隷の「(個々の)労働の概念」が反転して「概念の労働」になったときにもたらされる」p108-109

■第4章 韓国を鏡に日本のナショナリズムを見る

 韓国ポストモダンの思想家は、金芝河のことを「ファシスト」呼ばわりまでしている。最近の金芝河は「万有生命論」を唱えているのだが、それが宗教がかっているというか、民族主義ナショナリズムだと『当代批評』文富軾(ムン・プシク)は批判する。

 韓国では左翼がナショナリストだったが、「97年に創刊された『当代批評』は、民族主義を積極的に斥ける、多文化主義的な左翼を標榜する」p142

「近代化は、本質的に植民地化なのかもしれない。一般に、近代化は規範の普遍化の過程、すなわち特殊な規範が支配する有機的な共同体から、普遍的な規範のもとに活動する「自由な個人」の集合よりなる社会への移行である。重要なことは、この過程で、単純に特殊性が放棄されて普遍性が採用されるわけではない、ということだ。特殊性は普遍性への通路として再編成されるのである。」p148

「植民地の権力への闘争は、常に、何らかの普遍性の名において――人権や民主主義の名において――遂行される。だが、真の普遍性は不可能なのだから、植民地の闘争を正当化するその「普遍性」もまた、何らかの特殊性に彩られている。こうして、真の平等や自由への闘争が、結局、ある種の差別や排除を不可避に伴う、特殊性への支持へと回帰してしまうのである。たとえば、光州抗争は、そしてその後の韓国での反体制運動は、それ自身、再び、「アメリカ」という特殊な文化と理念の支配を貫徹させる過程へと収斂してしまったわけだ。こうして、普遍性を希求する闘争は、挫折せざるをえない。この難局をいかにして乗り越えるのか」p150

 日韓の和解とは何か?
「和解は、われわれが共通の普遍性へと到達しえないということ、互いに徹底的に特異であるということ、そうした否定性の交換であるほかないだろう」p156

第5章 仕事がない?

 フリーター問題にふれて、金子は現在の競争社会が、「弱者同士の争い」だと看破する。「弱い者がより弱い者を叩く」

 大澤は労働の本質について考察する。若者は、労働と遊びと一致させたいと欲している。大卒後2年ほどの間に転職した若者を例に引く。

「そもそも、labor とは、「苦痛」という意味である。労働は、快楽とは独立の義務であったはずだ。それに対して、これらの若者達が転職するのは、楽しいということが労働の本質的な属性として想定されているからである」p179

 疎外されない労働を求める若者たちは、社会主義ユートピアを実現した存在か? いや、彼らは実は生の空虚にとらわれている。

「誰も自由から逃走していない」
「「生の空虚」は、自由の過剰が帰結する逆説的な閉塞である。」p185

 
■対論

 大澤の「第三者の審級」について、金子勝は批判的だ。批判点は、「第三者の審級」という概念が幅広く使われすぎているということと、「絶対的他者の存在」があって初めて究極の自由や寛容がありえる、と大澤は言うのに、結論部分では「絶対的他者(第三者の審級)という位置は空席になっている」と言ってしまうと、小泉純一郎や石原慎太郎のようなカリスマの登場を防げない。

金子「キリスト教やユダヤ教の一神教的な問題を、どこかで引きずってしまうポスト・モダン的な「第三者の審級」という議論に僕はどうしてもなじめない」

金子「大澤さんの場合、「普遍性は特殊性の結晶化」と言いながら、西洋近代=普遍性ではないと言うための文脈で、「普遍性は無である」という言い方をする。これは禅問答に近いんじゃないか」

大澤「厳密に言うと、僕は「普遍性」と<普遍性>
とを区別しているはずです」


また、金子は、大澤の「合意されたレイプ」論にも疑問を呈する。

「身体の自己所属という前提を否定した上で、それをベースにして、別のタイプの他者との関係性が抗争できるのではないか」p255

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