イオの6月号の特集は「在日朝鮮人とマスメディア」です。
朝鮮報道は今も昔も日本のマスコミ界の難問ではないでしょうか。特集の目的のひとつは、戦後の1960年代から、「在日朝鮮人」が大手新聞メディアでどのように報じられてきたのかを検証することです。
私は1972年の生まれですが、そのころ、朝鮮人は国民年金にも健康保険にも入れなったし、児童手当も支給されなかった。このような無権利状態の中で、同胞の暮らしは本当に貧しく、高等教育を修めても就職の道は閉ざされていました。私たちの親の世代は今では想像しがたい苦しい時代を生きていました。
ただマイノリティの当事者が差別に苦しんでいても、マジョリティの日本側がこれを「おかしい」と思って声をあげなければ社会は変わりません。
新聞報道でも在日朝鮮人が置かれた人権状況は長らく問題になりませんでした。報道も差別の一端を担っていたわけです。一方、朝日新聞の宮田浩人記者が書いた「65万人」(1977年)など、在日朝鮮人を本格的に追った連載ルポが日本社会に与えたインパクトは大きく、新聞報道の力を見せつけられます。
特集では、小松川事件(1958年)、金嬉老事件(1968年)、指紋押捺拒否闘争(1980年~)、チマチョゴリ制服切り裂き事件(1994年)など、在日朝鮮人の差別を社会に告発した出来事を取り上げながら、その時々の報道と日本社会の変化を見つめます。
過去の記事で朝鮮人の呼称や事件の扱われ方を見ると、それらの原稿を書いた記者や日本の一般市民が朝鮮人をどのように見つめていたのかがはっきりと伝わってきます。「無意識の意識」をもえぐりだす活字は歴史の残るもので、同じ職業に携わる者として怖いかぎり。大手マスコミの朝鮮報道が地に落ちて久しい今、その流れを見つめることで、「社会の木鐸」たる新聞報道の原点を見つめたいと思っています。(瑛)
朝鮮報道は今も昔も日本のマスコミ界の難問ではないでしょうか。特集の目的のひとつは、戦後の1960年代から、「在日朝鮮人」が大手新聞メディアでどのように報じられてきたのかを検証することです。
私は1972年の生まれですが、そのころ、朝鮮人は国民年金にも健康保険にも入れなったし、児童手当も支給されなかった。このような無権利状態の中で、同胞の暮らしは本当に貧しく、高等教育を修めても就職の道は閉ざされていました。私たちの親の世代は今では想像しがたい苦しい時代を生きていました。
ただマイノリティの当事者が差別に苦しんでいても、マジョリティの日本側がこれを「おかしい」と思って声をあげなければ社会は変わりません。
新聞報道でも在日朝鮮人が置かれた人権状況は長らく問題になりませんでした。報道も差別の一端を担っていたわけです。一方、朝日新聞の宮田浩人記者が書いた「65万人」(1977年)など、在日朝鮮人を本格的に追った連載ルポが日本社会に与えたインパクトは大きく、新聞報道の力を見せつけられます。
特集では、小松川事件(1958年)、金嬉老事件(1968年)、指紋押捺拒否闘争(1980年~)、チマチョゴリ制服切り裂き事件(1994年)など、在日朝鮮人の差別を社会に告発した出来事を取り上げながら、その時々の報道と日本社会の変化を見つめます。
過去の記事で朝鮮人の呼称や事件の扱われ方を見ると、それらの原稿を書いた記者や日本の一般市民が朝鮮人をどのように見つめていたのかがはっきりと伝わってきます。「無意識の意識」をもえぐりだす活字は歴史の残るもので、同じ職業に携わる者として怖いかぎり。大手マスコミの朝鮮報道が地に落ちて久しい今、その流れを見つめることで、「社会の木鐸」たる新聞報道の原点を見つめたいと思っています。(瑛)