吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

ポリフォニックな外面を整えるための具体的な作業

2014-12-10 | 音楽制作覚書
ポリフォニックな外面を整えるための具体的な作業はひとことで言ってしまうと、どちらの声部も旋律として聴こえるように作るということである。

しかし、これはいずれの声部も最初から最後まで旋律としての役割が固定されていなければならないというわけではない。

つまりポリフォニックな音楽であっても部分的には主な旋律、そしてどちらかといえば伴奏的な役割を受け持つ声部といった役割分担があっても良いのである。

最初から最後までそういう役割分担をせずに両方の声部に旋律としての役割を持たせるという書法も考えられるが、ここではそこまで厳しくなくとも良いと考えてみることにする。

たとえばJ.S.バッハの鍵盤楽器のための「インベンション」という曲集、あるいはG.Ph.テレマンの2本のフルートのための二重奏ソナタなど、これらなどは非常に良い例になりそうだ。
現代的な様式をとる際であっても、このような楽曲がどのような考え方のもとに成り立っているのか、ということを考えてみるのは面白い。

ポリフォニックであることを善とする価値観

2014-12-10 | 音楽制作覚書
西洋音楽のある時期には音楽そのものがポリフォニックであることを善とする価値観が支配していた時代があった。
いわずとしれたルネサンス期である。

しかし問題はこのような価値観がルネサンス期だけにあり、その後、完全に滅び去ってしまったわけではないということにある。
2014年において新しい音楽を作ろうという状況であっても、作り手によっては(筆者もそうだけれども)このような価値観を考慮せざるを得ない、そのような状況もある。

たとえばふたつの旋律楽器のための音楽。

旋律楽器は旋律を奏することが自然であるように楽器自体が出来上がっている。和音のような響きや打楽器的な使いかたも出来ないことはないけれども、その楽器がその楽器らしく「鳴る」ことを目指すのであればその楽器がかつて生まれて、育って、そしてその楽器が生き生きと音楽の世界のなかで鳴り響いていた、そのような状況における響きを無視することはできない。

ポリフォニックであること自体はその音楽が上質な音楽であることを必ずしも保証しない。
このことを十分、了承したうえで、それでもポリフォニックな音楽として最終的には仕上げたいという時に具体的にどのような点に注意したら良いのだろうか。

以下はルネサンス風の対位法における考え方の引用だけれどもまず何よりも大事なのは複数の声部の間に主旋律と伴奏、というような厳然たる区別が出来てはいけないということ。

つまりふたつ声部があるならばそのふたつの声部がどちらも旋律として成り立っている状態でなければいけない、ということ。
そして、それらふたつの声部を同時に鳴らした時にその様式にふさわしい協和音、不協和音が様式に適った状態で適切に配置されていなければならないということ。

以上の用件はルネサンス、および2014年の現在においても普遍的なものであると考えるならば、おのずからやるべきことが定まってくるではないかと思う。

(補足)
グノーがバッハの平均律プレリュードにもうひとつ旋律を付け加えたことに関してはわかりやすい理由が認められる。グノーはバッハの残したものを「伴奏」とみなし、それに新しく旋律を付け加えたのだった。

それでは今あるものの旋律としての価値を損なわない方法で新しい旋律を付け加えることが出来るならばそこには真の意味でポリフォニックな音楽が現出するのでは。

ポリフォニックであることそれ自体が必ずしも上質な音楽であることを保証しないにしても。

ひとつの声部で完結してしまっているようにみえる曲に・・・

2014-12-10 | 音楽制作覚書
ひとつの声部で完結してしまっているようにみえる曲に何かもうひとつの声部をつける、というのは何だか音楽的にあんまり実りのないことに思われてしまうかもしれないが実はこれは西洋の音楽を作るための訓練として行われている対位法という分野では日常的に行われている作法だ。

単なる訓練としてだけではなくルネサンス期にはこのような方法で既存の楽曲に新たに声部を付け加えたものがひとつの独立した作品として残されている例も多い。時代がかなり新しくなるけれどもJ.S.バッハの平均律クラヴィア曲第1巻第1番プレリュードにグノーがもうひとつ旋律を付け加えた例は有名だ。

単なる訓練として既存の楽曲にもうひとつの声部を付け加えるということであればそれは単なる習作として世に出ることもないかもしれないが、これを自分自身の作品として作ることが出来るのかどうかということを考えてみたい。

素材は例えば中世の舞曲、ルネサンス時代の定旋律、あるいは自分がかつて書いた旋律の断片でも何でも良いかと思う。そういったものにもうひとつあるいはふたつ、みっつの旋律を付け加えてみるということ、書くのは簡単だけれども行うにはほねが折れそうだ。

まずここで問題にしたいのはもとになる旋律をまったく変更しないで素材とするのか、それともある程度変容させた状態にするのかということ。

変容させるならばどの程度まで変容させるのか。もとの原型をなんとなく残しておくようなその程度に抑えておくのか、それとも原型をほとんどとどめないほどまで強く変容させてしまうのか、ということ。もしそうするのならば具体的にどのような方法をとるのか、ということ。

変容・・・文字通り、そのものの在り方を変えてしまうということである。ミューテーションと呼ばれることもある。

ミュータント、といった場合には狭い意味で人造人間というような意味にもなるのだが、ここではもとの音楽を素材にしてそれを変容させることによって新しい音楽を作るということになる。


技法の数

2014-12-07 | 音楽制作覚書
作り手(演奏者や作曲者)にとって技法の数が多いこと自体は自慢できることでも何でもなくて、それらをどう使えることが大事なのだと改めて思う。
むしろ、曲ごとに使う技法を変更するというようなこと自体にどれほどの価値があるのだろうと思う。
それが果たして作り手と聴き手に幸せな結果をもたらすものかどうか。

過去の様々な技法を使える、ということは必ずしも幸せな結果を作り手にもたらさないのではないだろうか。

むしろたったひとつの単純な技で作られたものがより良いものであることが多いように見えてしまうのはどうしたことらだろう。

技法ひとつに熟達する、というのはもしかしたら大変なことなのではないだろうか。

ひとりの作り手が生きている間に習熟できる技法の数なんて本当はもしかしたら非常に限られたものでしかないというのが真であるならば、今の作り手が曲ごとに異なる技法を使うというようなことはいったい何を意味するのだろうか。

たったひとつの技、それに強度を持たせることが出来ないだろうか?

旋律が

2014-12-07 | 音楽制作覚書
旋律が旋律らしく鳴り響く、というのは実はすごいことなんじゃないだろうか!

ということはもうこの世の中にはすごいことを実現してしまっている音楽が沢山、沢山、存在しているということになってしまうのだ!

見た目を気にしない楽譜

2014-12-07 | 音楽制作覚書
楽譜の見た目を気にしない、というのはある意味で作り手としては最強の在り方ではないだろうか。

この間、仕事部屋を掃除していたらずいぶん昔、習作として書いた無伴奏リコーダー曲が出て来た。ものすごく単純な旋律がただ連なっているだけの曲。
リズムも単純で、まるでパート譜みたいに見えた。

でも作る本人(昔の筆者)はそれなりに真面目に作っていたんだろうなと思う。
パート譜みたいに見えてしまう楽譜、ちょっと不利だと思う。

見た目だけで楽譜を判断してしまうという立場に立つならば、たとえばそこには通奏低音のようなものが欠落しているとか、もうひとつの声部があっても良いんじゃないの、というような指摘が出来てしまうからだ。

でも作り手本人がその時、それしかない、と思いながら作る時に生まれる何かは、たとえ、見た目がパート譜みたいな曲であっても、そこには何かがあるのではないだろうか。

すごく極端な話だけれども、もしかしたら、楽譜のみためが文部省唱歌みたいなものであったとしても作り手が、その時に、そのようなものを作りたかったということであれば、それはその作り手の正直な何かが反映されているはず。

逆にどんなに見た目が格好よくても、見た目を格好よくする技術に長けた人がそのように書くことが出来る、ということと、何かものすごく根っこにある何か(もしかしたら、ものすごくドロドロしたようなものでも)を表現するということとは全然違う。

ある程度の技術がなければ表現は成り立たないけれども、でも技術があるからということ自体は何にも保障しない。
楽譜の見た目のよさとか、わるさ、とか、そんなこと、もしかしたらどうでも良いことなんじゃないだろうか。

ちなみにバッハの無伴奏フルートパルティータの第1楽章アルマンド、これを16音符じゃなくて、8分音符にしたら、ものすごく間抜けな感じの譜面ヅラになると思う。でも、たとえそうでも音楽の価値自体は全然、変わってない。

普通に良い曲が欲しい!

2014-12-07 | 音楽制作覚書
普通に良い曲が欲しい!というのは演奏者の切なる願いなんじゃないかと思う。
リコーダーのような楽器だとそういう状況はかなり切実なところがあるのではないだろうか。

普通に良い曲。何かを狙ってすごく何か変わったことがしてある曲とかそういうのじゃなくて(そういう曲があってももちろん良いのだけど。。。)普通に良い曲。

バロックの曲は曲の数が限られているので(新しく発掘されることはあるかもしれないけれども。。。)、やっぱり現代的な作品で、しかも普通に良い曲。

この「普通に良い曲」を作るというの、これ、実はかなりというか、最高水準の力量を要することなのではないかと思う。
何か新しい奏法や記譜法をとりいれたら、それで何かちょっと新しい感じを表現することはできても、そのこと自体はその曲が良い音楽であることを保証しない。

普通に良い曲。
普通の意味で、普通に良い曲、こういうものが欲しいと思うのだ。
なければ作ってしまうしかないのだ。

作れるか、作れないかはまた別の問題かもしれないけれども、とにかくもう何か書き始めてとにかくそれをなんとかして形にするしかないのだ。

ヒントになるのは「旋律」が「旋律」らしい形でそこに存在する、ということ。

こんな当たり前のことをわざわざこんな風に書かなくてはならないほどに何かすごく根本的なところがどうにかなってしまっているということなのだろうか???

そんな状態のまま長い間、年月を過ごして来てしまっているということなのだろうか???

久保 禎 無伴奏リコーダーのための「南風」第1、第2楽章.

2014-12-07 | 音楽制作覚書
Tadashi KUBO "Southern Wind " (Hae# for recorder solo #2003# 1st,2nd mov.

新しさを狙って新しさを出すこと・新しさを狙わなくても新しさが出てしまうこと、これらのふたつには重大な違いがあるように思える。

演奏や作曲において、「新しさ」を狙って「新しさ」が表現出来るような人は、もうこれは並みの水準の作り手では絶対に不可能な境地に到達している人ではないだろうか。

なぜならば普通に想像できてしまうような「新しさ」はすでに新しくも何ともない場合がほとんどだからである。普通に想像できてしまうという点でもうすでにそれは新しさという点においては乏しいものではないか。

それに対して作り手自身が特に「新しさ」というようなものを意図しているわけではないけれども結果として非常に新しく響く場合がある。もちろん受け手のセンスの違いによってあるものが新鮮に聴こえるのか、そうでないかということには違いがあるにしても。

少なくともクラシック音楽の世界では19世紀、18世紀に作られた音楽がプログラムの主流となっていることは否めない。これは何を意味しているのだろうか?

あまり難しく考えなくとも、それらは現代的な作品よりも、聴き手に大してより強く訴える力を備えているからということがあるのではないだろうか。言い替えるならば魅力と言っても良いかと思う。

割合としては高くないかもしれないが同時代に書かれた音楽であっても、意図的な新しさは前面に出てこないけれども、結果として非常に新鮮な響きを持つような、そんな性格を備えた音楽があるように思う。

それらの曲は少なくとも楽譜の見かけ上はかなり伝統的な外見を備えている。
とりたてて新しさを狙ったような記譜はどこにもない。
しかし、結果としてひとたび、それを音にしてみると、それは聴き手にとっては非常に新鮮なものとして聴こえてくる、そんな音楽があるのではないだろうか。

久保禎作曲の無伴奏リコーダー作品「南風」(2003)は筆者にとってはそのような位置にある音楽である。
2003年に作曲されたこの曲はいまだに筆者にとっては稀有な作品だ。
ここには何かものすごく大事なものが隠されているような気がしてならないのだ。

新しさを狙って新しさを出すこと・新しさを狙わなくても新しさが出てしまうこと

2014-12-07 | 音楽制作覚書
新しさを狙って新しさを出すこと・新しさを狙わなくても新しさが出てしまうこと、これらのふたつには重大な違いがあるように思える。

演奏や作曲において、「新しさ」を狙って「新しさ」が表現出来るような人は、もうこれは並みの水準の作り手では絶対に不可能な境地に到達している人ではないだろうか。

なぜならば普通に想像できてしまうような「新しさ」はすでに新しくも何ともない場合がほとんどだからである。普通に想像できてしまうという点でもうすでにそれは新しさという点においては乏しいものではないか。

それに対して作り手自身が特に「新しさ」というようなものを意図しているわけではないけれども結果として非常に新しく響く場合がある。もちろん受け手のセンスの違いによってあるものが新鮮に聴こえるのか、そうでないかということには違いがあるにしても。

少なくともクラシック音楽の世界では19世紀、18世紀に作られた音楽がプログラムの主流となっていることは否めない。これは何を意味しているのだろうか?

あまり難しく考えなくとも、それらは現代的な作品よりも、より強く聴き手の大多数の訴える力を備えているからということがあるのではないだろうか。

割合としては高くないかもしれないが同時代に書かれた音楽であっても、意図的な新しさは前面に出てこないけれども、結果として非常に新鮮な響きを持つような、そんな性格を備えた音楽があるように思う。

それらの曲は少なくとも楽譜の見かけ上は非常に伝統的な外見を備えている。
しかし、結果としてひとたび、それを音にしてみると、それは聴き手にとっては非常に新鮮なものとして聴こえてくる、そんな音楽があるのではないだろうか。

ある楽器を打楽器として

2014-12-02 | 音楽制作覚書
ある楽器を打楽器として扱うという考え方が一時期音楽の歴史のなかで盛んになったことがあったかと考えてみます。
たとえばピアノを打楽器として扱ってみる、あるいまた弦楽器を。
このような流れのなかでリコーダーを打楽器として扱ってみるという考え方があったとしてもおかしくありません。

ただ・・・・それらはほとんどの場合、失敗に終わったのではないだろうか。

このように考えてみると、少なくともリコーダーという楽器は昔も今も旋律楽器であるということになります。
であるならば、旋律楽器が旋律楽器として成り立つための書法はどのようなものか、ということを考えることになります。

考えるのは自由なので、この場合、音楽の歴史に関して豊富で、しかも客観的な知識が必要でなければならない、ということには必ずしもならないところが助かるところです。

音楽を作る際には、今から作りたい音楽がどのようなものであって、それがどのような考え方のもとに生まれるのかということをほんの少しだけ、自分のなかで明らかにしておきたい、こんなときに改めて過去、起こった出来事を自分のなかで考え直してみることがチカラになる時があります。

この場合客観的な知識よりも、自分の知っている分量だけの情報を自分自身がどのように解釈出来るのか、ということが大事になって来ます。

やり方しだいでは自分自身のあまり正確ではないかもしれない知識、しかも、それに対する主観的な解釈さえも何かを作り出すチカラにすることが出来るかもしれません。

締め切りが迫っている時にはもうなりふりかまわず、チカラになりそうなものはチカラにするしかありません。