音楽教室を運営し始めてから24年目となります。
コンクールにも参加したこともありました。
中には国際コンクールに上位入賞するような生徒さんも在籍しました。今は皆それぞれの場所で活躍しています。
あらためていろいろなこと、思い起こしています。
是非は置いておいて、生徒さんが国際コンクールに参加となると審査員にアピールする曲目を選ばなくてはいけませんでした。
譜読みの段階では到底、無理かと思われそうな楽譜をこちらが提示するのですが、その際、す~~っとそれを受け入れてそのまま練習に入ってゆく、そんな風景を思い出します。
20世紀の作品の場合だと楽譜の読み方それ自体わからないことも多いので、こちらが手取り足取り、教えてあげる必要こそありましたが、家で取り組む際は必ずしも「音楽的」とは言えない音が沢山あったのではないかと想像します。
楽譜そのものが読めないし、読めたとしても難しくて思い通りのテンポで吹くことは到底かなわず、メトロノームのテンポが半分あるいは半分以下の超スローテンポでやらなければいけない箇所も多くなります。
これは現代的な曲でもバロックの曲でも同じです。
多分、ひとりの練習の際はもしかしたら、かなり億劫なところを乗り越えてやって来たのではないか、と今では想像します。
良い奏者の条件、沢山あるのですが、そのひとつは練習の際にどれだけ「非音楽的」な時間を向き合うことが出来るかどうか、ということです。
その人がその人自身をどれだけ信じられるのか、と言う点が問われるところです。
練習の際は、同じ箇所をゆっくりやってみたり、リズムを変えてみたり、強弱やアーティキュレーションを変えるくらいの変化はつきますが、実際の楽曲の表現とはつながりのない、抽象的な音の連続をつなげる練習、になることに変わりありません。
これは西洋音楽に奏者として、携わる場合に是非は置いて、避けられません。
あまりにも楽曲自身の表現とかけ離れてしまうので、つまらないのです。音と音をただつなげる、なんてそんなことは作曲者の表現意図とは関係なく、奏者が自分の技術的な都合を優先させて、自分の都合で練習してるだけです。
ある程度の規模を超える曲になると、必ず難しい箇所があります。その箇所を克服するためにはそこだけ、取り出して技術的な練習を別に行う必要があります。
往々にして機械的な無味乾燥なものとなります。
いわゆる「メカニック」な練習というものです。
感受性の強い奏者ほど、苦しい練習となりかねないやり方です。
でも、そこを通過しないと絶対にそういう曲は吹けるようになりません、コツは自分自身で自分の感受性のスイッチをオフにすることくらいしかありません。
かつての生徒諸君、今は各地で活躍しています。
そんな道を通って来ました。
今日は鹿児島地方、一日、雨模様でした。なんだか昔のこと、思い出されました。