60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

物忘れ

2014年12月18日 10時02分47秒 | Weblog
 歳とともに物忘れが激しくなっていることを痛感するようになってきた。今週月曜日、通勤で池袋まで出てきたときに携帯(スマホ)を忘れたことに気がついた。昔なら「ああ、何てことをしてしまったのか」と、後悔と自分の不甲斐なさに地団駄踏むところである。しかし今は「ああっ、またやってしまったか」と、その後のことを考えて憂鬱になるぐらいである。会社にくる電話やメールは全てスマホに転送されるようになっているから、会社に居なくても仕事はこなせる。しかし反対にスマホが中心になっているから、これが無ければ仕事にならない。池袋から自宅にスマホを取りに帰ると往復2時間弱かかってしまう。しかし「面倒でも仕事にならなければ帰るしかないだろう」、そう自分を納得させてUターンした。
 
 先週はジャケットを着替えたことで、胸ポケットに入れていた定期券を忘れてしまった。この場合は駅で気づくから折り返せば良いのだが、それでも往復で40分のロスになってしまう。「まあ、歩くのだから健康のためには良いだろう」、そう自分に言い聞かせて駅に向かう通勤の人とすれ違いながら歩いて帰った。下の写真はある雨の日の通勤駅の写真である。キップの販売機の側に折りたたみ傘が置いてあった。推測するに、キップを買おうとして傘を畳んで脇に置いた。しかしキップを買ってから傘をさして来たことを忘れ、そのまま改札を入って電車に乗ったのだろう。これはたぶん60代以降の女性だと思う。
 
     

           
                      
 物忘れには二とうりあるように思う。一つは人の名を思い出せないとか、約束をわすれるとかの記憶力の衰え、もう一つが実際に物を忘れてしまうとか、風呂のお湯を出しっぱなしにするとか、自分の行動に対して意識低下から起こる物忘れである。どちらも加齢に伴い起こることなのかも知れないが、被害や危険度は後者の方が大きい。
 
 最近読んだものに、物忘れは「病的な物忘れ」と「生理的な物忘れ」という二種類に分ける事ができ、食事をしたこと自体を忘れてしまう場合は「病的な物忘れ」、食事をしたことは覚えているが、何を食べたかを忘れてしまった場合は「生理的な物忘れ」になるそうである。医学的な観点で以前は「病的な物忘れ」ばかりが重要視され、「生理的な物忘れ」は歳を重ねる毎に起こる、いわば「仕方のない事」で片付けられていた。しかし最近の研究では物忘れの種類の垣根が取り払われ、結局は「物忘れのレベルが違うだけ」、という風に捉えられるようになっているようである。だから、今まで軽く見られていた生理的な物忘れも、そのまま繰り返し放置していると軽度の認知症になり、さらにそのまま放っておくとアルツハイマー型認知症になる可能性が高いと言われるようになったそうである。
 
 では自分の物忘れレベルはどのぐらいかと考えてみる。20代の全盛期を10とすれば、今はレベル6ぐらいではないだろうかと思う。昔はスマホのデュアルコアではないが、2つのことを同時にこなすことは簡単にできていたように思う。例えば「自転車を漕ぎながら携帯電話で話す」ようなことである。しかしそれがだんだん難しくなってくる。だから出勤の準備をするという行為に付随して、定期券は?スマホは?財布は?と同時平行での処理がスムーズにできなくなって、物忘れの頻度が多くなってきたのであろう。上の写真のようにキップ売り場に傘を置き忘れるのもこのためだろうと思う。
 
 TV番組で認知症のバロメーターとして、歩きながら傘を差せなくなったら初期の認知症だと言っていた。そうなればレベル5以下なのかもしれない。そしてもう少し進むと、ドアノブをまわして引くとか、ネクタイが結べないとか、同時に2つの動作が混じった行動ができなくなるそうである。こうなればレベル4以下なのだろう。私の認知力も年々歳々衰えていく。それを少しでも食い止めるために「何をすれば良いのか」、そろそろ真剣に考えておかないと、認知障害は目の前に迫っているように感じるのである。






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