60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

社会との関り

2015年10月30日 08時05分55秒 | 日記
 9月の初めに大学時代の同級生が上京してき、それに合わせて在京同級生が集まった。その席で幹事が、「12月に忘年会をやろう」と提案する。先日その幹事から、「前回話していた忘年会を12月○日にする予定だが、どうだろう?」という内容の留守電が入っていた。
  「さてどうしよう」、本音としてはあまり気が進まない。私の学生時代は部活も積極的ではなく交友関係も少なかった。従って今回の出席メンバーとはあまり接点が無く、何年かに1度の同窓会で声を交わす程度だったからである。予定日が間際であれば用事を作って断っても良いのだが、2ヶ月先ではそうも行かない。折角誘ってくれたのに断ってしまえば角が立つような気もする。留守電だったから、こちらから電話しないとまた電話がかかってくるだろう。悩みどころである。
 
 翌日幹事に電話をかける。「折角誘ってくれたのに申し訳ないが今回はパスしたい。自分は学生時代あまり皆とは親しくなかった。だから同窓会的な集まりは数年に一度で良いと思っている。次回又集まる時があればぜひ声を掛けてほしい」、そんな言い方で断った。会話の中で彼は、「昔の仲間とワイワイ話すのは楽しいではないか」と言う。しかし私自身はあまり楽しくないのである。いつも話題は学生時代の思い出と、社会に出てからの武勇伝、そして病気の話である。しかし基本的に私はこの3つを持っていない。学生時代の仲間との思い出に乏しく、社会では何度かの転職で出世栄達の武勇伝もない。そして幸いにして、今までに大きな病気の経験も持っていないのである。
 
 
 今年の1月末に65歳で会社を辞めた友人と、その後も定期的に会っている。彼は今、週3回水泳に行き、週2回健康麻雀クラブの代打ち(メンバーが不足の時に加わる)をしている。あとは家でプランターで野菜を育てて楽しんでいる。したがって会えばいつもその話になる。水泳でプールを何往復できるようになったとか、麻雀のメンバーにこんな人がいるとか、プチトマトが見事な実をつけたとかの話である。最初は「ほおう~」と聞いていても、いつもいつも同じ話だと飽きてくる。こちらが仕事でのトラブルや株の話をしてもあまり乗ってこない。なんとなく彼は別の世界に行ってしまったようである。

 このブログにも書いたが、夏に会った83歳の人と話していた時、「年寄りが年寄りと話しても、ちっとも面白くない。やはり今現役の人と話すと、自分もそのエネルギーを貰うようで楽しい」、そんな話をしていたのを思い出す。

 人はリタイヤして社会との関わりが少なくなると、最大の関心事は自分の健康のことになる。そして将来に可能性が無いから、過去の中に生きるようになってくる。現実に社会の真っ只中にいる人たちは、子供であれ、子育ての主婦であれ、サラリーマンであれ全力で生きている。そして社会の中で一生懸命生きていれば、当然トラブルや悩みや願望が出てくる。そんな人達と接していると、自分も連れて同じ社会の中に生きているのだと実感させてくれる。だから年寄りが年寄りと話すより、若い人と話すほうが魅力があるのだろう。
 
 私ももう片足は年寄り世界に足を突っ込んでいる。間近に迫った老後、できればダラダラとしたものではなく、張りのある生活にしたいものである。それには篠田桃紅(103歳)の本に書いてあった、「自分が夢中になるものを持つと、生きていて人は救われる」ということが真理なのだろうと思っている。仕事に変わって何か一生懸命になれるものが必要なのである。そのためには目標が持てるものが良い。今はそんなものを一つでも二つでも持てるようにともがいている。