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浪漫飛行への誘(いざな)い

海外旅行は102か国、海外旅行、世界遺産、飛行機、卓球、音楽、歌謡曲、初物、語学、仏教シリーズ等の趣味の世界をブログに

今日は父の命日

2019年02月28日 22時19分14秒 | 人生

父が突然亡くなってからちょうど20年が経った。20年前の早朝、実家から、自宅で父が倒れて亡くなったという電話入った。突然のことでビックリしたが、突然死の場合、警察が検視を行うということで、すぐに実家のある警察に駆け付けた。準備がゼロであったので、それから葬儀、後始末も大変であったが、後妻がいたので遺産相続協議も家庭裁判まで発展し、大変な思いをした。

当日は、姪っ子と観劇に行く予定であったほど元気であったが、虚血性心不全と診断された。85才であったが、まさにピンピンコロリであった。もう少し長生きしてほしかったが、理想的な逝き方であった。あれから早いもので20年。自分もだんだん父の年に近づいてきている。長患いせずピンピンコロリと逝きたいものであるが、なかなかそうは行かないであろう。せめて、家族に迷惑をかけないように、終活準備は始めている。

お墓代わりに永代供養納骨堂も買ったし、戒名、遺影写真、葬儀方法等の希望も書いているし、ホームページ上で自分史も出来上がっている。連絡してほしい人のリスト、預貯金リスト、保険加入リスト(連絡先)、銀行口座リスト、各種パスワードリストも出来ている。皆に見てほしいのは、自分が作成したYouTubeの旅行アルバム、人生アルバム、聴いてほしい音楽は、テレサ・テンの楽曲、特に「問わず語り」、竹内まりやの「人生の扉」、チューリップの「青春の影」、H2Oの「想い出がいっぱい」、バッハの「G線上のアリア」等々。遺書を書く予定はないが、終活準備は着々と進んでいる。終活準備は楽しいものでもある。お墓参りは後日になってしまうが、仏前に手を合わせて、感謝の気持ちを伝えた。
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親鸞聖人の映画と文化講座に行ってきました

2019年02月16日 20時20分16秒 | 人生

マンションの郵便受けに「親鸞聖人と浄土真宗」というタイトルで、親鸞聖人物語の映画と解説及び1から学べる文化講座という1枚ゲラ刷りのチラシが投げ込まれていた。2月16日に若干怪しい感もあったが、会場も近くて、大変興味ある内容であったので、出かけてきた。また、午後の時間帯は同じ建物(部屋は別)で、「終活セミナー」というチラシも新聞広告といっしょに入っていたので、興味ある話題が重なるという事態となったが、両方とも顔を出すことにした。

午前中は、親鸞聖人の映画と解説であった。映画といっても、スクリーンは小さくDVDの鑑賞であった。このDVDは6巻から成る親鸞聖人の激動の生涯を描いたアニメーション映画で、今日はその第1巻を解説付きで鑑賞したものである。親鸞は1173年に京都で生まれたが、4才で父、8才で母を亡くし、前途を悲観して、9才で比叡山の法華経の修行に入ったところから始まる。法然上人のもと20年間修行(苦行)を積んだが、法華経の限界を知り、29才の時に下山し、その後、悟りを開いていくようである。親鸞の名前は有名だが、よく知らないことが多いので、引き込まれるようにDVDに見入ってしまった。その後、彼は浄土真宗の宗祖として、90才まで釈迦の教えを民衆に説いたようである。

午後の部は、はじめは終活セミナーに参加していたが、家族葬等の説明だけで大したことがなかったので、早々に退席して、途中から午後の文化講座に出席した。これまた親鸞聖人の教えの一部を講師がわかりやすく説明してくれたもので、大変勉強になった。『難度の海を度する大船』に乗ることができれば幸せな人生が送れるのだという。我々はやがて必ず死ななければならないのに、難度の海(=人生)の中でどう泳げばよいか、泳ぎ方しか考えていない。いつか必ず溺れ死ぬのに、その先がどうなるかを考えていないのはおかしいというのである。なるほど。。。

2016年5月に、「なぜ生きるー蓮如上人と吉崎炎上」というアニメーション映画が公開されたようであるが、この映画は、浄土真宗の宗祖、親鸞の教えに根ざす生きる意味と蓮如時代の歴史を、ベストセラー「なぜ生きる」を基に描いたアニメと紹介されていた。蓮如とは、親鸞の浄土真宗の教えを全国的に広めた8代目の上人であり、映画ではその声を里見浩太朗が担当している。見損なっているが、今でも細々と上映されているようなので、どこかで是非とも見たいと思う。

仏教やお釈迦様のことは我々の日常生活の中で大変身近でありながら、わからないことが多すぎる。興味はあるが、ちゃんと教えてくれる人がいないので、チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねーよ」と言われるのは必至である。お釈迦様の生誕地、ルンビニ(ネパール)にも行ったことがあるし、興味もあるので、折角の機会を得た今、少しは、親鸞のことや仏教・お釈迦様のことも勉強してみようかと考えている。

画像は、アニメの親鸞聖人

YouTubeは、「世界の光・親鸞聖人」のアニメ第1巻予告編


https://www.youtube.com/watch?v=C6zY4KwWgqQ
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色づく紅葉を楽しむ

2018年11月30日 22時31分41秒 | 人生

今年も紅葉の季節を迎えた。今年は、遠出はせず、それもイチョウを中心に黄葉を楽しんだ。まずは、東京の紅葉人気ランキング第1位の神宮外苑いちょう並木を初めて歩いてみた。人気No.1だけあって、平日にもかかわらずすごい人出であったが、外国人観光客がものすごく多いことにビックリした。皆、見どころをよく知っているものだと感心する。

約300m続くいちょう並木はまさに黄金ロードと呼ぶにふさわしい。青山通り口から高い順に植えられたイチョウは遠近感が強調され、奥に立つ聖徳記念絵画館との景観美が実に見事で、まるで絵画のような美しい風景が眼前に広がる。さすが人気No.1。

次に、上野恩寵公園に足を運んだ。国立博物館での展覧会を見に行った折に、紅葉も楽しむことになった。もみじの紅葉はあまりなく、イチョウもまばらではあるが、西郷隆盛像の周辺は黄色に色づいて風情があった。

また、その足で紅葉の名所としてリストされていた目黒にある国立科学博物館附属自然教育園と東京都庭園美術館とにも足を運んでみたが、自然教育園はほぼ紅葉ゼロ、庭園美術館の日本庭園は、紅葉が始まりつつあったが、ピーク状態ではなかった。正確な見頃情報の必要性を感じた。

満開の桜や色づく紅葉を見るたびに、竹内まりやの「人生の扉」が口についてくる。まさに「この先いったい何度見ることになるだろう」と感慨にふけってしまう。そう思うと桜も紅葉も真剣に鑑賞するようになっている今日この頃である。「人生の扉」はまさに人生の応援歌で、My Fovorite Songsの一つである。

写真は、神宮外苑いちょう並木、

「人生の扉」   https://www.youtube.com/watch?v=LozxA_hC1RU
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10年ひと昔

2018年11月23日 21時25分12秒 | 人生
現役を退いてすぐカナダのビクトリア大学に語学留学してから早10年が経った。昨日、当時ビクトリアで知り合った30代の女性3人が我が家に遊びに来た。2人は妻と語学学校でのクラスメートで、1人はビクトリア大学でのスクールメートである。

一人はその後韓国人の男性と結婚(5年前ソウルでの結婚式に夫婦で参列)し、ご主人と2才の女の子を連れてきた。本人は、現在、大学院での勉強のため、ご主人と別居して子供と一緒に実家の京都に住んでいる。たまたま、親戚の横浜での結婚式に参列するため、上京してきた折、我が家にも立ち寄ったものである。ご主人は当日ソウルから羽田に到着し、その足で我が家に直行してきた。

もう一人は、昨年結婚(結婚式に夫婦で参列)し、ご主人と8か月の女の子と一緒である。自分のスクールメートは、まだ独身だが、我が家から歩いて5分のところに住んでいる九州出身の女性である。留学後、東京で就職するにあたり、我が家の近くの物件を紹介し、そのまま住み続けている。出会いというか縁は不思議なものである。

今回、子供を入れて7人が来たことになるが、我が家に多人数の客人があったのは、久しぶりのことである。昔は、10人以上ということもあったが、最近では、2~3人のことが多く、おもてなしの食事の準備もいろいろ大変だったようである。久しぶりの同窓会っぽい集まりとなり、カナダ談義やら楽しいおしゃべりのひと時を持ったが、子連れの二人を見ると10年ひと昔というかいろいろな変わるものだと感慨深いものがあった。

写真は、ビクトリアのシンボル、エンプレスホテル









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まだできる

2018年11月11日 10時46分58秒 | 人生
年々、体にガタがくる年になっているが、最近は、ある動作や行動をしながら、「まだできる」とか「まだ一人でできる」とか考えることが多くなった。外に出ると車椅子の人、杖をついている人とか高齢者弱者を目にする機会も多いし、回りには病に倒れている人、亡くなってしまった人も増えてきている。

最近は、歩きながら「まだ歩ける」、階段を上りながら「まだ階段が使える」、自転車に乗りながら「まだ自転車に乗れる」、卓球やテニスをやりながら「まだスポーツができる」、家では、トイレに入って「まだ一人でトイレに行ける」、風呂に入りながら「まだ一人でお風呂に入れる」、料理を作りながら「まだ料理が作れる」、食事をしながら「まだ一人で食事ができる」、テレビを見ながら「まだテレビが見られる」、旅に出て「まだ一人で旅行ができる」とか。。。日常のなにげない動作や行動がまだできていることに感謝を感じることが多くなった。

年を重ねるとともに、だんだんできなくなることも多くなると思うが、今現在、それができているとしたら、感謝の気持ちで一杯になる今日この頃である。好きな歌に「人生の扉」(竹内まりや)があるが、その歌詞にいつも胸が打たれる。

「春がまた来るたびひとつ年を重ね、目に映る景色も少しずつ変わるよ。。。。信じられない速さで時が過ぎ去ると知ってしまったら、どんな小さなことも覚えていたいと心が言ったよ。。。。満開の桜や色づく山の紅葉をこの先いったい何度見ることになるだろう。 ひとつひとつ人生の扉を開けては感じるその重さひとりひとり愛する人たちのために生きてゆきたいよ。。。。」と

いつかできなくなる時が必ず来るであろうが、今現在、「まだできる」ということに感謝して
ひとつひとつ「人生の扉」を開けていきたい。

人生の扉:

 https://www.youtube.com/watch?v=LozxA_hC1RU
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就職先の選択

2018年07月28日 20時59分51秒 | 人生
50年近く前の話であるが、大学での就職活動の時期は、まさに学園紛争真最中の頃だったので、大学での就職案内、求人案内などは全くなく、すべて個人で就職先を探すしかなかった。自分で調べて、いくつかの会社を受験することにしたが、合格したのは3社、不合格は3社であった。合格した中に、第一志望の会社があったので、そこにお世話になることになった。他に合格した2社は、電機メーカーと重工業メーカー、不合格は、大手旅行会社と繊維メーカーと商社であったが、今考えると何と志望業界がばらばらであったことか。合格した他の会社に入っていたら、今頃どうなっていたかと考えることもあるが、自分の選択は間違っていなかったと信じている。

当時、学園紛争はあったものの、団塊の世代の就職時期に当たり、求人の人数も大幅に増えたような気がする。それでも、倍率は厳しかったが、第一志望で、何とか当時の学生就職希望ランキング第一位の会社に滑り込むことができたのは幸いであった。倍率は、20倍位であったと記憶する。

会社は決まったものの、学園紛争のあおりで3月に卒業できず、3か月遅れの7月1日入社となった。総合職の同期は250人位いたと思うが、東大を中心に7月入社組は30人以上いた。入社教育の最終日に配属先の発表があったが、北から順番に発表された。最初に呼ばれたのは自分一人で、勤務地は千歳。皆行きたくなかったようで、大きな拍手が沸いた。それまで北海道には行ったこともなく、全く馴染みがなかったので、正直なところショックは隠しきれなかった。地図を見ても地名が小さく表示されているだけなので思わす訊いてしまった、家具など身の回り品は向こうでも売っているのかと。 冗談で先輩から、赴任する時は、トンカチを持っていけと言われた。それは、冬に外で用を足すとそのまますぐに凍り付いてしまうので、トンカチで氷を叩く必要があるからと。。。。 実際、そこまで寒くはなかったが、寒さに弱い自分にとっては、試練の社会人生活のスタートであった。

入社即、寮生活が始まり、花の独身生活がスタートすることになった。札幌・千歳地区は、夏はゴルフ、冬はスキー天国なので、両方をやる人にとって、転勤先希望人気NO.1であったようである。しかし、両方ともやらない自分にとっては何のメリットもなかったが、独身寮にテニスコートがあったこともあって、生まれて初めてテニスをすることになった。幸い、海上保安庁にテニスの大変上手な人がいて、基礎から習うことができた。当時、その人からテニスを習った仲間が何人かいて、その一人とは今でもお付き合いが続いている。職場は違うが、テニス仲間の私的結婚式のために、わざわざ函館まで行ったこともあった。会社でテニスをやる人もいたが、なぜか多くは職場の違う人達と仲良くテニスを楽しんでいた。懐かしの天地真理の「恋する夏の日」(あなたを待つのテニスコート。。。)の世界である。支笏湖、定山渓、室蘭等でテニスの合宿もやっていた。全国ベースの社内のテニス大会(クラス別団体戦)で、札幌を代表して、優勝や第3位の経験もした。一度旭川で行われた道内の社会人テニス大会(B級)では第3位になったこともあった。まさにテニスは青春時代の楽しい思い出となっているが、今でも週1回楽しんでいる。男子寮の他に、歩いて15分位のところに女子寮もあって、若き独身の男女が入り乱れて生活していた4年間は、まさに花の独身生活だったといえる。

写真は、テニスの合宿(1972年 小樽 皆白いウェアで時代を感じますね)

恋する夏の日 (天地真理)  https://www.youtube.com/watch?v=F1SX2IqG3Xs
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思い出残る大学時代

2018年07月08日 08時04分17秒 | 人生
中高校時代から英語が好きな学科であったので、大学受験の第一志望校は早い時期から決まっていた。そこは、英語、国語、世界史の3教科で受験できたように記憶しているが、数学、化学を含めた5教科となると自信はなく国立1期校はほぼ諦めていたが、結果的には、試しに1期校も受験したが、うまくは行かなかった。当初、私立大学を受験することも考えたが、結果的には、失敗したら浪人する覚悟を決め、私立大学は受験しなかった。

大学は第一志望校に幸運にも合格したので、一浪せずに済んだが、同級生は優秀な人が多く、入学当初はかなり劣等感を感じていた。ある教授による入学してすぐの試験は、出題範囲なしという実力テストであったが、あまりにできないのでショックを受けた苦い思い出がある。いっぱい難問があったが、覚えているのは、「旧約聖書」を英語に直せという問題で、正解は、“Old Testament” であるが、できの悪い自分は、Old Bible としか書けなかった。恐らく30点位しか取れなかったものと思われる。

大学での授業は、ほぼ真面目に出ていたので、専攻科目でも一般科目でも、大半が優か良で、可は一つもなかった。授業内容はあまり覚えてないが、専攻科目で印象に残っているのは、”American English”である。アメリカ英語はシェークスピア時代のアメリカへの移民が使っていた英語で、その後、イギリス英語は、どんどん変貌、進化を遂げるが、アメリカに渡ってしまった英語は、それに取り残され昔のままの英語が定着してしまったようである。要するに、シェークスピア時代の英語とアメリカ英語は似ているということである。アメリカ英語の形成は、大変興味深く、他にも比較言語というかloan word とかいろいろ言語を比較してみると面白いことも学んだ。

大学では、勉強はさておき、卓球部に入り、クラブ活動を一生懸命やっていた。卓球を始めたのは、大学が初めてであったので、経験者もいる中、最初は低いレベルであったが、4年間でかなり上達することができた。団塊の世代らしく、同期は女性3名を含め、12名もいた。学園紛争の最中で、授業はなくても、卓球の練習だけは続けていた。国立大学なので、卓球レベルは低く、関東学生リーグの中では、5部に留まっていた。それでも、合宿はじめ楽しい思い出がいっぱい残っており、今でも同期や仲間との交流は続いている。

大学で卓球をやっていた関係で、会社に入ってからも、ドイツ駐在中も、定年後の今でも、卓球とは深い関わりを持っている。卓球を通じて、国際交流したり、中国に遠征したり、自分の人生の中で大きな要素を構成しており、卓球をやっていてよかったと回想している。

写真は、卓球の合宿
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暗黒の高校時代

2018年06月30日 23時07分22秒 | 人生
小中学校は、地元の公立の学校なので、選択肢はなかったが、高校受験から選択戦争が始まった。自分の学区における都立高校受験には失敗したが、地元にある難関校の一つである私立の高校に補欠ながら入学することができた。今考えると、その都立高校より自分の私立高校の方がレベルが高く、当時でも東大入学者は15名以上いて、全国ベスト10内外にもランクされていた。小中高一貫の学校だったので、1年生は、高校からの入学者のみで3クラス編成されていた。残りの5クラス中学から上がってきた生徒だけで構成され、2年時に初めて合流したものである。受験に強い中高一貫校なので、中学3年の時に、すでに高校1年レベルの勉強は終えていたようである。

2年の時に、中学組の連中とも同じクラスになったが、その実力の差は歴然としていた。英語の授業も実力レベル分けされていて、教科書も異なっていた。英語だけは、途中で上のクラスに入れてもらえた。東大受験だけがすべてではないが、現に、同期では、現役で15人位東大に合格したが、その全員が中学からの連中であった。同期には、作家の赤川次郎、さだまさしの「償い」を引用して有名になった裁判官やフォーセインツというフォークグループのメンバーなどがいた。

高校生活は、男子校でクラブ活動にも入っていなかったので、正直言って、あまり楽しい思い出は残っていない。どうしても大学受験が控えていたので、勉強中心にならざるを得ない状況であった。中学時代は、人気の野球部(サッカー部はまだ出来立ての頃)に所属していたので、女子生徒からモテモテという楽しい思い出がいっぱい残っているが、高校時代はその延長線での交流が細々と続いていた程度である。

受験勉強のお蔭か無事、現役で第一志望校に合格できたことに感謝したい。受験の合間にラジオで音楽番組もたくさん聴いたので、印象に残っている音楽はいっぱいあるが、自分史の高校時代を象徴する音楽は、高石ともやの「受験生ブルース」かもしれない。毎晩聴いていた音楽番組にニッポン放送の「ザ・スペイスメンアワー」という番組があり、ゲストによく出ていた「南不二子」という歌手が大好きであった。人生にはこういう時期も必要かもしれない。

画像は、恐らく誰も知らない南不二子さんのレコード
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100歳人生を生き抜くヒント

2018年04月14日 16時43分58秒 | 人生
先日、「五木寛之“100歳人生”を生き抜くヒントとは」というテーマのNHKのTV番組(ごごナマ-おしゃべり日和)を見た。

これは、最近、彼が「百歳人生を生きるヒント」というタイトルの本を書かれ、それに関連してのトーク番組であったが、 大変含蓄があって面白く、つい番組に引き込まれた。

85歳になる五木寛之さんの人生の極意が語られていたが、彼によると前半50年は上り坂、後半50年はゆっくりした下り坂であり、登山より下山が大事だという。

50代 下り坂を見据えた事始め、

60代 「リセット再起動」孤独を味わう

70代 「人生の黄金期」下山の途中を楽しむ

80代 「自分ファースト」社会的しがらみから身を引き、自分ファーストで生きる

90代 「想像力より妄想力」培った想像力で時空を超えた楽しみにひたる

詳細は本を読みたいと思うが、やっと人生の黄金期に入ったということで、勇気付けられる想いである。自分ファーストの世界まで行けるかどうかわからないが、これから下山の途中に現れるいろいろな出来事を十分楽しみたいと思う。

書籍: https://books.rakuten.co.jp/rb/15251042/
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健康寿命に思う

2018年03月18日 09時09分46秒 | 人生
3月9日、厚生労働省から最新の健康寿命が発表された。男性が72.14歳、女性が74.79歳であった。健康寿命とは介護を受けたり寝たきりになったりせず、健康な生活を送れる期間を示す指標で、3年毎に算出しているという。3年前が男性71.19歳、女性74.21歳であったから、若干延びているが、想像以上に低い数字である。

最新の日本人の平均寿命は、男性80.98歳、女性87.14歳であるので、その較差は男性が8.84歳、女性12.35歳である。要するに、平均寿命との差の期間は、長生きはしているが、健康な日常生活を送ることはできないということを示している。自分の場合、もうあと2年しか残っていないことを意味している。

一般論として長生きしたいとは思うが、寝たきりや健康生活が送れない状況で長い間生きていても家族や周りの人に迷惑をかけるだけであり、寝たきりで平均寿命の80.98歳まで生きるよりは、健康生活を送って72.14歳でぽっくり逝くほうがいい。

AKB48の「365日の紙飛行機」という歌にも、「人生は紙飛行機 願いを乗せて飛んで行くよ 風の中を力の限り ただ進むだけ その距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのか それが一番大切なんだ さあ心のままに365日」とあり、勇気つけられる。

また、石原裕次郎の「わが人生に悔いなし」という歌にも、「鏡に映る わが顔に グラスをあげて 乾杯を たった一つの 星をたよりに はるばる遠くへ 来たもんだ 長かろうと 短かろうと わが人生に悔いはない」とあり、自分の人生の応援歌になっている。

日本人の平均寿命が延びてきているといっても、我々が見るべきは、健康寿命の数字であり、想像以上に短いといえる。それを考えると定年が65歳とすると定年後の自由人生活は7年しかなく、寂しい限りである。周りにも70すぎても仕事をしている人がいるが、可哀そうに思える。いざ、これからと思った頃には、寿命が尽きるのである。自分の場合は、60から自由人生活に入っているが、あっという間の10年であり、50代でリタイアできていればよかったのにとさえ思える。

もうこの時に及んでは、あと2年しかないではなく、あと2年もあるとのポジティブ思考で毎日の生活を大切にしていきたいと考えている。まさに、竹内まりやの「人生の扉」の心境である。

「。。。信じられない速さで時が過ぎ去ると知ってしまったら、どんな小さなことも覚えていたいと心が言ったよ。。。満開の桜や色づく山の紅葉をこの先何度見ることになるだろう ひとつひとつ人生の扉を開けては感じるその重さ ひとりひとり愛する人たちのために、生きてゆきたいよ。。。」

365日の紙飛行機」   https://www.youtube.com/watch?v=UO6FY4kJ4Y4

わが人生の悔いなし」  https://www.youtube.com/watch?v=K_-7aMAdFXI

人生の扉」  https://www.youtube.com/watch?v=LozxA_hC1RU
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