奈良県で最大規模の中世城郭です 撮影日;2015.11.01
信貴山(標高433m)山上に築かれた山城
平成5年4月12日、平群町の史跡に指定されています
信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地
信貴山城は、朝護孫子寺の境内地として破壊を免れました
南都北方に築城された多聞城の記録からみて、最高所の雄嶽山頂には小規模な天守(高櫓)が建てられていたと考えられています
近世に描かれた古城図に「松永屋敷」の記載があり、北側に延びる主尾根には土塁を配した門の取り付く広い郭が並び、松永久秀の居館施設が建てられていたと推測されています
石垣は1箇所のみで土留めに用いられるのみで、基本的に土で造られた城郭です
信貴山雄嶽山頂にある護法堂が信貴山城の主郭部です
松永久秀は山上に南北700m・東西550mに及ぶ城郭を築いて、大和経略の拠点としました
長禄4年(1460)12月、応仁の乱で畠山義就軍が龍田城を攻めて筒井順永の後詰軍に敗れ、信貴山に陣を退いたというのがこの城の文献上の初見と思われているそうです
城郭史としては、楠木正成の築城伝説があります
天文5年(1536)6月までに木沢長政が入城して大規模に築城しました
同11年3月の河内太平寺の戦いで敗死、信貴山城も落城(炎上)しています
その後、永禄2年(1559)以降に三好長慶麾下で力をつけた松永久秀が大和の支配を目指して入城整備し、当城と南都北方に築城した多聞城を拠点に大和の支配に乗り出す
同11年(1568)6月に三好康長に攻められて信貴山城が落城するが、まもなく足利義昭を奉じて上洛した織田信長に帰属し、その加勢を受けて回復している
天正5年(1577)、上杉謙信の上洛軍に合わせて石山本願寺攻めの陣を退いて籠城し、織田信忠軍の大軍に包囲されて10月10日に落城
久秀は信長の望んだ平蜘蛛(ひらぐも)茶釜と共に爆死したとされます
★所在地;平群町信貴山頂周辺
★交通;朝護孫子寺門前より 徒歩25分
★駐車場;有ります(有料)
★見学;自由
★問合せ;
信貴山城へは、朝護孫子寺の境内にある行者堂から山上の空鉢護法堂に通じる参道が登り道です