神社の世紀

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愛知県新城市 石座神社の磐座

2010年10月12日 23時01分16秒 | 磐座紀行


 石座(いわくら)神社は愛知県新城市にある式内社で(『延喜式』では三河国宝飯郡に登載)、『日本文徳天皇実録』の仁寿元年(851)に神階記事がみられるという古社である。社名からして磐座信仰の社であることは明らかだが、その磐座の具体的な場所については、雁峯山の山中にあったという伝承を残して忘却されたものと思っていた。ところが最近、読んだ愛知磐座研究会の『愛知発巨石信仰』によれば、今でも石座神社では奥の院に巨石が祀られており、あまつさえ新城市の有形民俗文化財に指定されているとあって、これには驚いた。早速、出かけてみることにする。



石座神社の社頭

石座神社



石座神社の社殿



社頭から境内にかけて見事な杉が多い 

 まず、石座神社を参拝する。当社はもともと雁峯山々頂にあったというが、たびたび野火の被害に遭うため、中古、現在の場所に遷ってきたらしい。したがって今の鎮座地は創祀の頃からのものではないが、境内には太い杉が林立し、古社の風格がただよう。社殿もなかなか立派だ。

 ちなみに、現在、神社から約1.5㎞南に離れた国道151号線(旧伊那街道)沿いに当社の社標が立っている。その辺りはかつて門前と呼ばれていたが、往古はこの門前から現社地の約4㎞北方にそびえる雁峯山までが当社の神域だったという。想像するとゾクゾクする。当社の鎮座地の大字は「大宮」だが、まさしく大宮だったのだ



門前のあたり。右手に社標。
 

 現祭神は天御中主命、市木島比賣大神、大山祇神、素盞嗚尊、天稚彦命、伊弉册命、倉稻魂命だが、ほんらいの祭神は天稚彦命のみで、他は合祀された神社で祀られていた神々だ。
 なお、特筆すべきこととして、当社の祭祀には古代氏族の大伴氏が関係していたらしい。これは注目される。






 参拝を終えて磐座に向かう。ここでほんらいなら、磐座への道順を紹介するべきかもしれないが、あえて省略。この磐座は今でも信仰の対象となっており、スピリチュアル系の人などが訪れるのを地元の方々は歓迎しない気がするのだ。

 磐座は雁峯山の中腹にある。雁峯(がんぽう)山はもと「神峯山」と書いたと言い、山ぜんたいが神聖視されていたらしい。あるいは神体山だったかもしれない。ただし山容は各地でよく見かける「平たい円錐形をした里山」という神奈備型のそれとだいぶ異なる。  



雁峯山、前景の杜が石座神社
現在、建設中の新東名高速道路が完成すると、
こうした景観はそうとう変貌するだろう。
 

 雁峯山についてちょっと書く。
 林道から入って、磐座へと登る小径のかたわらに沢があり、案内の看板に「みそぎ場」とあった。沢を覗くと水流の下に無数の砂利が見える。雁峯山は花崗岩でできた山で、山中のいたるところでこの石を見かけるが、この砂利も花崗岩が風化したものだ。この山は全山がこうした花崗岩の真砂に覆われているそうだが、これは兵庫県の六甲山系とよく似た地質だという。こういう土地に降った雨は地中にしみ込む間に真砂に磨かれて、山麓の井戸で酌まれるとものすごくおいしくなっている。六甲山系などがミネラルウォーターの産地になるのはこのためだ。ちなみに雁峯山も、山麓の井戸が新幹線で販売されるミネラルウォーターの採水地になったことがある。
 それはともかく、この山の麓には地下水位の高い地点がかなりあり、かつては湧水点がそこかしこにあった。今ではそういう場所もだいぶ少なくなったらしいが、いずれにしても当社の信仰には、水源の山としての雁峯山に対するものがあったかもしれない。



「みそぎ場」の水 

 磐座は長径8mほどのもので、横にまわると2つに割れていた。注連縄がされ、正面には簡単な拝所が設けてある。大きな動物が伏せたような形をしており、上がやや平たい。各地の磐座でよく見かけるタイプだ。岩質は今、言った花崗岩。そばには他にもいくつか大きな岩があったが、「巨石累々」という程でもない。正直に言って私は、磐座じたいよりそれをつつむ周囲の空間にひかれた。



みそぎ場の処から、廻り込むような形で… 

 この磐座のある場所は小さな尾根に載っており、東側は谷になっていて、そこにさっきのみそぎ場の沢が流れている(ちなみに、みそぎ場の処から、廻り込むような形でこの尾根に登ってゆく道の感じが個人的に好きです。ワクワクさせられます。)。磐座の周りは緩やかな傾斜のスペースになっており、祭祀を行うのに都合が良さそうだ。ふきんはそれなりに手入れされた杉の用材林で、水と緑に恵まれた自然の中に、ポッコリと箱庭のようにこの古代祭祀遺跡が浮かんでいるのだ。神さびているという感じではないが、じつに清浄である。磐座の周囲は地元の人の手によって綺麗に清掃してあり、信仰を感じさせた。帰りの車を運転しながら、ああいう場所を大切に守っている地元の方々の気持ちは本当に良くわかる、という感慨がずっと後を引いた。




「石座石」を遠巻きに眺める。



同上



同上



「石座石」



同上
以下、「石座石」を左回りに廻りながら撮影






 

 


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
三河大伴氏と石座神社 (柴田晴廣)
2014-06-01 19:28:33
kokoroさん
 私の母の旧姓は冨永で、文書等で残っておりませんが母方の祖父(1896~1995)が先祖は石座神社の祭祀に係っていた旨話していました。
 上記のように祖父は冨永(本姓は三河大伴)を名乗っていたわけですが、冨永は元野田城主で、菅沼に乗っ取られ城主が首を刎ねられたことから、城主に近い者は、それ以降、富の字の「ヽ」をとり、「首無の冨永」としたそうです。祖父の話では野田城主になる以前に石座神社の神主だったということです。
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石座神社 (kokoro)
2014-06-01 22:48:13
 柴田さん、こんばんは。

 石座神社の祭祀氏族が大伴氏であることは土地の人からお聞ききして知りました。当時、非常に興味ぶかく感じ、もっと掘り下げてみたいと考えておりましたが、そのままになっています。今回、野田城主と石座神社の関係を、三河大伴氏の子孫である柴田さんから聞いて再び感銘を受けました。情報の提供ありがとうございます。
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祖父の伝承について (柴田晴廣)
2014-06-01 23:15:15
 富永氏が野田館垣内城主となるのが、足利高氏の時代の富永直郷のときです。ですから、富永氏が石座神社の神主だったのはそれ以前ということになります。
 古い話であり、祖父の話の信憑性を確かめるべく、種々検証した結果信憑性ありと判断しております。
 富永氏はこの7代後の千若丸の夭逝により、田峯城主菅沼定忠の三男を城主に迎えます。
 一般に伝えられるものでは、千若丸は乱心自刃したとされています。
 ところが菅沼家の菩提寺幸雲山宗堅寺(新城市宮の後)には富永氏の墓石と位牌があり、これは菅沼氏では若死にする者が多いことから、富永の墓石と位牌を菩提寺に祀ったといわれています。
 普通に考えれば、富永の祟りで若死にするから、富永の菩提を弔ったということになると思います。
 母の実家は豊川下流域の70軒ほどの集落で、その集落で一番多い苗字が冨永及び富永です。
 母の実家は冨永の本家といわれています。
 祖父の葬儀の折、なぜ冨永と富永があるのかと集落のひとが話していました。祖父の話は一子相伝だったようでほかの人は知りませんでした。
 母は女兄弟ばかりでその実家の従妹も女ばかりということで、祖父は私に話しを伝えたようです。
 話す前に何度も「わしがいまからいうはなしをおしゃあ(方言でお前の意味)信じるか」と何度も念押しして、「信じる」というと、はじめて話し出しました。
 宣伝のようになり恐縮ですが、拙著『穂国幻史考』の第2話が祖父の話を元に検証したものです。
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