神社の世紀

 神社空間のブログ

日に向かう山【唐崎神社(滋賀県彦根市日夏町)と日向神社(滋賀県犬上郡多賀町多賀)】

2011年11月06日 14時02分34秒 | 近江の神がみ

 先日、久々に近江の神社をめぐってきた。特にお目当てがあった訳ではなく、近江八幡から彦根にかけて点在する神社を適当に廻ってきただけだが、秋晴れの中にたたずむそれらはどこを訪れても風格があり、改めて湖国の神社のすばらしさを認識させられる旅となった。

 ところで、彦根市の荒神山々頂にある荒神山神社を訪れてから麓まで車で下りてきた時、ふと以前、とある掲示板でこの山の麓にある唐崎(とうざき)神社の看板について、気になる情報を教えてもらったことを思い出した。唐崎神社は荒神山の北麓にあり、今いる場所からグルッと回り込まなければならないのだが、せっかく近くまで来たのだからと思って足を延ばしてみることにした。着いてみると目的の看板は社頭にある立派な石段の傍らにすぐ見つかった。以下にそれを引用する。

「 本殿は淡海国四ケ所祓所の一所なり、近江の国犬上郡の日向神社の所在するところなりと伝う。聖武天皇の御宇、天平十三年三月二十日、僧行基、日向山領所在の荒神山に奥山寺を創立するに當り、社殿を唐崎の地に遷し奉りしを初とす。
 御小松院の御宇明徳元年六月六日正一位唐崎大明神の宜下あり、爾来、皇室御崇敬の神として又日夏荘鎮座の神として敬仰す。」

唐崎神社

唐崎神社々殿

社頭にある看板

 この看板で重要なのは「近江の国犬上郡の日向神社」に関する情報が含まれている前段である。これは『延喜式』神名帳の近江国犬上郡に登載ある「日向(ひむか)神社」のことであろう。すなわちとうがい式内社は最初、荒神山々頂に鎮座していたのだが、それが行基によってそこに奥山寺が開山された際、麓に遷されたのが唐崎神社の前身であるというのだ。ちなみに奥山寺はその後、三宝荒神を勧請して神仏習合色の強い寺院となったが、明治初年の神仏分離で廃寺となり神社となった。現在の荒神山神社がこれである。

荒神山神社
ここはいつ来てもパラグライダーで空を飛んでいるとき
のような静寂感がただよっている

社務所にあった竈
荒神さまは竈の神様です

 それはともかく、今回、この看板を実見してこれが大変な伝承であることに気がついた。「日向神社」という式内社は日輪祭祀の社であったと考えられているが、近江国のそれも入れて全国に以下の4社がある(『延喜式』に登載のある順番)。

    A.日向神社 山城国宇治郡
    B.大和日向神社 大和国添上郡
    C.神坐(みわにいます)日向神社 大和国城上郡
    D.日向神社 近江国犬上郡
   
 このうち、Cが大和国の一宮、大神神社の神体山である三輪山々頂の高宮神社であることはほぼ定説となった。大神神社から少し南に離れた所に通称「御子の杜」と呼ばれる場所があり、そこにある神坐日向神社がこの式内社とされていた時期もあったが、これはもともと参拝に不便な山頂の社を神主の高宮家が屋敷内に遷して氏神として祀ったものらしい。

三輪山麓の「御子の杜」にある神坐日向神社

なお、三輪山中は撮影禁止となっているので、山頂にある高宮神社の画像はない

当社祭神は櫛御方命・飯肩巣見命・建甕槌命
この3神は『古事記』崇神天皇条にある系図で、
オオモノヌシ神とイクタマヨリ姫の間に生まれた櫛御方命から、
オオタタネコに至る間に登場する

当社はとりたてて地形上の理由なく北面している
里で日中照る太陽を拝するためにこういう向きになった、
という説もある(大和岩雄)

 Bは春日大社の神体山、御蓋山々頂に鎮座している浮雲神社(本宮神社ともいう)に比定されている。現在、麓から浮雲神社へ行く道はなく、祭礼の時だけ神社関係者が春日大社と若宮神社の間を通う「御間道(おあいみち)」の中程にある遙拝所の鳥居をくぐり、その奥の急坂を登って参拝するという(鳥居の奥には道のような痕跡はほとんどない)。もちろん一般人は参拝できない。

「御間道」の中程にある浮雲神社の遙拝所
祭神は武甕槌命・経津主命・天児屋根命

 Aは一般的に京都市山科区にある日向大神宮のこととされるが、このことについてはやや詳しく説明する必要がある。すなわち、かつて当社の境内に日向宮というものがあり、明治の『特選神名牒』がこれを式内社に比定したのである。つまり同書が式内社に比定した日向宮は、日向大神宮ではなく、その境内社であったのだ(ちなみに『特選神名牒』には日向大神宮が「日岡村神明社」という名で出てくる。当時はそういう名で呼ばれていたらしい。)。しかも『特選神名牒』はこの日向宮がはじめから日向大神宮の境内にあったとは考えていない。『山城国名勝志』に「木幡山の右、伏見城の左、関東山の続きに日向山あり」とあるのを引用し、かつての日向宮はこの「日向山」に鎮座していたのが、日向大神宮の境内に遷ってきたのではないかと推測しているのである。この推測はBやCが神体山の山頂に鎮座しているだけにかなりの説得力がある。

 こうしてみると、『日本の自然神』で菱沼勇が説いたように「日向神社というのは、山の頂とか丘の上にあって、太陽との距離の近い場所にあり、日と向かいあって、これを祭るのに都合のよいところに設けられた神社であったように思われる。(同書p243)」のだ。

 では現在、近江の式内・日向神社に比定されている神社がそうした山の上に鎮座しているかと言うとそうではない。しかもこれが多賀大社の末社なのである。

多賀大社
近江では日吉大社に次いでメジャーな神社

 この多賀大社の末社になっている日向神社は、多賀大社境内の西の外れに鎮座している。ちなみにそこは樹々が茂って薄暗く、多賀大社本社に参拝客がひっきりなしに訪れる休日でもあまり人を見かけない寂しい場所だ。

多賀大社の末社となっている日向神社
『近江輿地志略』等、多くの文献がこの神社を式内・日向神社に比定している
現在の祭神は天津日高日子火之瓊々杵尊

末社とはいえ、構えはなかなか立派

 それはともかく、多賀大社は平地に鎮座しているのでもちろん当社が鎮座しているのも平地である。祭祀上、とくに関連のみられない多賀大社の境内にあるというだけでも、この日向神社がもとからこの場所にあったのか疑問を感ずるが、他の日向神社が山頂に鎮座する例の多かったことから類推すると、近江の日向神社もどこかきんぺんの山の上に故地を捜したほうが良さそうな感じがする。さればこそ菱沼の前掲書も、「近江国犬上郡の日向神社は、いまは式内・多何神社(一般には多賀大社として知られる)の末社としてその社域内にあるが、もしかすると、かつては近くの山か丘の上にあったのが、後になって現在地に遷祀されたのかもしれないのである。」と述べているのだ。そしてこうしたことを鑑みるに、近江国の日向神社はかつて荒神山の山頂にあったとする唐崎神社の看板の伝承は、ますます深刻に感じられてくる。菱沼の読みはかなり良いところをついていたのではないか。

 ちなみにかつて荒神山々頂にあった奥山寺の本尊は大日如来であったというが、これはこの寺院が創建される前に日向神社がそこで祀られていたなら、日輪祭祀が行われていたことの痕跡であったかもしれない。

荒神山(北東から)
周囲を完全に平地で囲まれた独立峰で標高284.1m
Mapion

同(南から)

 ところでこの4社の日向神社というのは古代史を考える上で結構、重要な存在ではなかろうか。というのもCの日向神社が鎮座しているのが三輪山々頂だからである。

三輪山

 三輪山といえば古代ヤマト王権が深く祭祀に関わっていたオオモノヌシ神の鎮まる神体山である。そしてその山頂に鎮座しているのだから、この日向神社もまた王権祭祀に直結するような性格のものであったに違いない。ちなみに、記紀神話にはじめて登場する場面でオオモノヌシ神は、海を照らしながら大国主神の前に出来している。この描写はこの神に太陽神としての神格があったことを感じさせるが、それが持統朝になり、自らの祖神として皇室が新たに女性の太陽神を製作する際、こうした太陽神としての神格がオオオモノヌシ神からアマテラスへと簒奪されたのではないか。

 総体的に見れば、A~Dの日向神社は大和勢力が東山道や北陸道を通じて東方へ進出してゆくルート上に散らばっている。これは三輪山々頂の日向神社が、王権の進出とともに各地へ勧請されていったことを示すものだろう。そしてそれはアマテラス誕生以前の、だいぶ古い時代のできごとだったに違いない。

 荒神山の山頂からやや下った琵琶湖を見下ろす尾根上に荒神山古墳という前方後円墳がある。墳丘の発掘調査の結果、全長124mという県下第二位の規模をもつとともに、葺石が施された3段築の墳丘に埴輪列が巡らされるという典型的な畿内型の古墳であることが判明した。築造年代は古墳時代前期後半の4C後半から5C前半にかけてであると考えられている。日向神社が最初に鎮座していたのが荒神山々頂であったとすれば、あるいはこの古墳の被葬者は当社を三輪山から勧請し、最初に祀った人物であったかもしれない。

荒神山古墳の墳丘(後円部)

荒神山々頂から西方のながめ
琵琶湖岸が近くまで迫っている
 

 近江以外の日向神社は、鎮座する山の西側に奈良盆地や京都盆地がひろがっているが、荒神山の西側に平地はほとんどない。山麓から西に進めばすぐに湖岸に出、その向こうは琵琶湖である。それどころか、荒神山の西麓には曽根沼という大きな沼さえあるので、もしかすると古代のこの山は琵琶湖に浮かぶ島だったかもしれない。こうしたことをどう解釈するかだが、やはりヤマト王権の東方進出が湖水の舟運を介して行われたことを示唆しているのではなかろうか。

 

 


  

 

【唐崎神社】

滋賀県彦根市日夏町4778に鎮座。「とうざき神社」
Mapion

主祭神:大己貴神・大山咋神・日本武尊・表筒男命・中筒男命・底筒男命
 合祀神:惶根尊・天忍穂耳尊・宇迦之御魂神・少毘古那神・
大日霏貴尊・品陀和気尊・須佐之男命・菅原道

 当社の来歴はよく分からない。『滋賀県神社誌』にある由緒には以下のようにあるだけで、それ以上のことは載っていない。

「創祀年代不詳であるが、近世初頭にはすでに存在していた。現在の場所へは昭和三年に配置されている。明治九年十月村社となり、明治四十年十月神饌幣帛料供進指定となる。(各合祀神の由緒について説明した後段は省略)」

 これを見ると当社が現在の場所に配置されたのは昭和三年ということになっているが、ではそれまでどこにあったのかはよく分からない。ただし、本文中でも取り上げた社頭にある看板によると、荒神山々頂にあった日向神社が奥山寺が創建された際、麓へ遷座したのが濫觴であったという。

 社名からすると近江国の四所祓所の一つで、日吉大社の摂社となっている大津市の唐崎(からさき)神社を勧請したらしいが、だとすると祭神の中に大津市の唐崎神社で祀られている女別当命(わけすきひめのみこと)の名前がないのが不審である。いっぽう、主祭神の筆頭は大己貴神だが、この神は神体山をもつ神社でよく祀られているので、もしかすると当社が荒神山々頂で祀られていた日向神社の後裔社であるとする伝承と何か関係があるのかもしれない。

 春の例大祭では大太鼓が担がれ、社頭にある石段を登るという。

 

 


 

 

【日向神社】

滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地の多賀大社境内西方に鎮座。「ひむかの/ひうが神社」
Mapion

祭神:天津日高日子火之瓊々杵尊

 『近江輿地志略』以来、多くの文献が犬上郡の式内小社「日向神社」に比定している。多賀大社の境内社であるが、いつから現在地に鎮座するようになったかは不明。『多賀神社誌』には「鎮座の年代は詳らかではないが、称徳天皇の天平神護元年二年、神封二戸を寄せられ、延喜式に一坐小社として登載せられている。何時の頃より本社被摂に入ったかも明らかでないが、一説に本社の地主神にましますであろうといふ。」とある。

 日向神社は多賀大社の摂社であり後者の敷地内に鎮座しているが、独立の境内をもっており、例えば社殿の並びにある子安神社や神明両宮は多賀大社ではなく、日向神社の末社扱いとなっている。また、神職もかつては多賀大社のそれである犬上氏とは別に、大岡氏が祭礼等を務めていた。大岡氏は多賀大社と日向神社の両社で神職を務めていたが、「日向神主」と呼ばれており、古くは日向神社の専職であったらしい。ちなみに『大岡氏系図』にある初代宗久の卒年は元仁元年(1224)である。

 なお、『三代実録』仁和元年七月十九日条に見える、近江国犬上郡の「神人氏岳」を式内・日向神社と関係づける議論もあるが、神人氏には様々な系統があったのでいちがいなことは言えないとおもう。