神社の世紀

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太陽神の城跡【龍仙山神籠石(2/2)】

2011年07月03日 22時57分18秒 | 磐座紀行

 ★「太陽神の城跡【龍仙山神籠石(1/2)】」のつづき 

 はじめて神籠石が目に飛び込んできた瞬間、私の最初の感想は「あ、これは猪垣ではないな。」だった。というのも龍仙山神籠石については祭祀遺跡説、猪垣説、城砦説などがあるからだ。
 ちなみに、かつて南紀の森の中から謎の石垣が見つかり、除福の遺跡ではないかなどと騒がれたこともあったが、結局、近世の猪垣だったと判明したことがあった。そんなことも頭にあったため、龍仙山の神籠石も実見するまでは猪垣ではないか、と疑っていたのである。

 だが、実見してわかったが、これが猪垣であった可能性はほとんどない。列石の高さはおおむね50~80㎝程度だし、石と石の間の隙間も広いので、これではとても猪を阻むことはできないだろう。ましてや城砦としての役割などとうてい果たせそうもない。

 となると龍仙山の神籠石はやはり、祭祀遺跡であった可能性が高くなる。そもそもこの列石が害獣や外敵を防ぐ目的で築造されたなら、石を横にして高く積んだほうが、施工が楽だし、安定したろう。しかし前述の通り、列石中には立石が多く見られるのであり、その外観は非常に磐境を思わせる。
 また、この山の山頂には大日如来の石仏が祀られ、また山頂から西側へやや下った平坦地にも、不動明王と役行者の石仏が祀られている。現在、神社や寺院は残っていないものの龍仙山は明らかに信仰の山である。こうしたことも祭祀遺跡説を支持する。

龍仙山々頂

山頂で祀られている大日如来

山頂から西側へやや下った箇所にある
不動明王と役行者が祀られた石窟

上の2ケ所に登る道が分岐する地点には鳥居が立っている

 筑紫申真の『神々のふるさと』によれば、この山の神籠石には、「昔、龍仙山の上にいた鬼族が、里人との境界をつくるため、里人を使役して築かせた。」という伝承があるという。確かに神籠石には結界をつくって聖と俗を限ろうとした意図が感じられる。同書によると、神籠石から奥の山地は鬼や天狗の住む「天ケ原(てんがはら)」として特別視されているというが、こうした異界の住民たちは、古代の神々が修験道の影響を受けて零落したものかもしれない。

 ちよっと気になったのは、筑紫の前掲書には、龍仙山の山頂に岩船と呼ばれる高さ5mの巨岩があり、ふきんには小さな池があって、池の主は片目の鯉であるとか、ボラであるとか言われる、そこに近づいて池の主を見てしまうと目が潰れるという禁忌があるため、岩船の近くには誰も近づかないとあったが、しかし山頂にそれらしいものは見あたらなかった。もっとも、山頂ではないどこか別の場所にあるのだとは思うが。

  興味深いのは、地元の人の間には正月一日の早朝、この山に登って山頂から太陽を礼拝する風習があるということである。同じ山頂に大日如来の像が祀られていることも含め、こうしたことは龍仙山が太陽信仰の山であったことを感じさす

龍仙山々頂には「ご来光を拝して」として、
「息白く人群立ちて 東の雲むらさきに 光さしそむ」東吉之助
   の句碑が立っている

山頂からの眺め、
眼下に広がるのは五ケ所湾
その向こうの海は紀州灘

 これと同じような太陽祭祀は鳥羽市石鏡町でも行われている(現在でも行われているかどうかわからないが)。元日の早朝、戸ごとに浜へ出て水垢離をし、昇る太陽を拝するというものだ。ちなみに石鏡(いじか)の名の起こりは、この漁村の東方海上に石鏡島という小島があり、その中央にある大きな洞窟に上る朝日が収まる様子がまるで鏡のようであったからという(現在、台風の被害でこの洞窟からはかつてのように日の出を望めなくなった)。これはまるで出雲にある加賀の潜戸のようだ。

加賀の潜戸
『出雲国風土記』に佐太大神がここで生まれた伝承があり、
その内容には日光感精説話を思わせるものがある
潜戸の向こうに写っているのは的島

潜戸内部

潜戸から見た的島の方向は夏至の太陽が昇るラインにあたるという

的島
穿たれた岩穴は風土記に登場する金の弓矢の威力を連想させる

 出雲と言えば、出雲の日御崎神社にも元旦の日に太陽を拝する神事が伝わっている。大晦日の晩に当社の宮司が裏山に登り、日本海に昇る太陽を拝するという。日御崎神社は天照大神を祀る式内社であるが、これなど龍仙山の太陽信仰のルーツを思わせる。

 もっと近場でこれに近い信仰としては、熊野那智大社のそれがあげられる。当社では宮司が元旦の夜明けに東方にある光ケ峯に登り、着ている特別の衣装で太平洋に昇る瞬間の日光を包み込み、一目散に神社に持ち帰るというのだ。宮司の談話によれば、これは那智大社でもっとも重要な神事という。
 那智大社というと、一般的には那智滝への信仰から始まった神社とされている。しかし、じつはこの滝は光ケ峯から昇る太陽をミアレさせる装置にすぎず、当社の基層信仰は古い日輪祭祀だったとも言われる。

 神伊勢志摩地方では皇祖神としてアマテラスが祀られるようになる以前から、土着の海民たちの間でプレ・アマテラスとでも言うべき日神祭祀が行われていたといわれる。あるいは元旦の日に山頂から日の出を拝する龍仙山の信仰は、そうした失われた信仰の残滓かもしれない。ここからは色々と想像がひろがる。

 蛇足ながら個人的には、『伊勢国風土記』逸文にある次のような記事がふと頭を過ぎる。

 「伊勢という国名は次の話に由来する。伊賀の穴志の社にいる神、出雲の神の御子である出雲建の子の命、別名、伊勢津彦、またの別名、天櫛玉命。この神がその昔、石で城を築いてその地にいた。そこへ阿倍志彦の神が来て奪おうとしたが、勝つことができず退却した。この石城から伊勢という名がきている。」

 『伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社】』でも触れたとおり、この穴志の社は現在、三重県伊賀市拓殖町にある都美恵神社のことで、伊勢津彦が立てこもった「石城」は旧社地、「アシダン」にあった。その場所は正保元年の水害で失われたため、現在では伊勢津彦のいた石城がどういうものであったかは分からないが、しかし「石城」とされる以上、たんなる磐座ではなく、岩石を使った何か城砦を思わせる構造物であったらしい。いっぽう、龍仙山の神籠石は城塞説があることからも分かるとおり、「石城」とよばれてもおかしくない外観がそなわっている。あるいは伊勢津彦とここの神籠石には何かつながりがあるかもしれない。

 そういえば、天日別命に破れた伊勢津彦は、夜間に周囲を真昼のように照らし出しながら伊勢を退去したのだった。ここには彼に太陽神としての神格があったことが暗示されている。伊勢津彦の故郷は洋上にあった。あるいは伊勢志摩にいた海洋民たちは、海彼から伊勢津彦を呼び込むランドマークとして龍仙山に神籠石を築いたのかもしれない。

 

 

 



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