神社の世紀

 神社空間のブログ

松之本遺跡で見つかった子持ち勾玉について(2/2)【大神神社(奈良県桜井市大字粟殿)】

2012年03月26日 00時46分59秒 | 大和の神がみ

 

★「1/2」のつづき 

 以下、私の個人的なノート。 

 敏達天皇十年(581)に蝦夷が辺境を荒らしたので、その首領だった綾粕らを召して、初瀬川の川中で水をすすってから三輪山に向かって王権への忠誠を誓わせた記事がある。ここから三輪山の祭祀に初瀬川が深く関係していたことが感じられる。 

 今回の調査地点はこの川から南に500mほどしか離れておらず、しかも子持ち勾玉はこの川の支流であったらしい自然流路の跡から見つかっている。時期的にも6C後半~7C前半というから、綾粕らの記事の時期と重複する。山麓から離れたこのエリアで、子持ち勾玉が見つかったり、大神神社の系列社の分布が顕著だったりするのは、三輪山が秀麗に見上げられるとともに、初瀬川の水辺に近いという条件を満たしていたからではなかったか。 

 古代における水辺の祭祀というと、神婚儀礼を伴うものが多い。とくに三輪山の神である大物主神は、記紀に多くの神婚伝承が残る多情な神であり、古代の三輪山しゅうへんでこうした儀礼が多く行われていたことは想像に難くない。就中、『古事記』雄略天皇条に見られる引田部の赤猪子の説話は、おそらく古い形ではこの神と赤猪子との神婚伝承だったと思われるが、この説話は前半の舞台が三輪川のほとりになっている。三輪川は初瀬川下流の古名であり、このエリアにごく近い辺りだったのではないか。 

 こうした神婚に関係した神社というのは母子神を祀っていた場合が多い。『延喜式』神名帳に「二座」とある神社の多くはこのパターンである。初瀬川の上流には赤猪子の出身氏族である引田部が祭祀したと言われる曳田神社という式内社があるが、当社も神名帳に二座とある。この二座とはおそらく赤猪子のモデルになった女神と、彼女と大物主神との間に生まれた御子神の母子二座だったろう

曳田神社、社頭のふんいき
Mapion

初瀬川上流の白河に鎮座、三輪山の背後にあたる

当社は赤猪子の出身氏族であった引田部によって奉祭されたと考えられている

曳田神社々殿

 『三輪流神道深秘鈔』にある「二ツ神」という神社もおそらく祭神が二座だったことからそのような社名になったのであり、やはり三輪山の神との神婚儀礼と関係して母子神を祀っていたのではないか。ちなみに同書では、「二ツ神」にしろ「松ノ本ノ神」にしろ「三輪ノ大明神」自身ではなくその「御子ノ神」を祀ったとしている。これも示唆的だ。 

 所在不明だがこのエリアにあったと伝承されている式内社の桑内神社も、神名帳に「二座」とある。当社はいっぱんに桑内連という古代氏族が祖神の建摩利根命を祀ったものと考えられているが、火明命の六世孫にあたる同神を祖神とする氏族が三輪山のお膝元とも言えるこの地域に居住する必然性はあまり感じられない。「桑内」は語形類似による「栗田」の誤写という説もあり、これもやはり三輪山の神との神婚儀礼に関係する神社だった可能性がある。
 なお、『式内社調査報告』の筆者は「二ツ神」が桑内神社であったと考えているようだが、この比定はけっこう良い線をいっているのではないか。
 

 『古事記』の神武天皇条にセヤダタラ姫と大物主神との丹塗り矢型神婚説話がある。「その美人の大便まる時に、丹塗矢に化りてその大便まる溝より流れ下りて、その美人のほとを突きき。」とあるため、三輪山の神が丹塗り矢となって流下してくる河川として古代人がイメージしていたのは、人間の身体に対し、わりとインティメートなサイズの流水だったことがわかる。
 今回、子持ち勾玉が発見されたのは埋没した自然流路の最上層からで、全体が調査されていないため正確なその規模はわからないものの、立地からいってあまり大きな河川であったとは思えない。こうした小川のほとりで古代に行われた祭祀が、セヤダタラ姫の神婚説話の背景にあったのではないか。

 

  


松之本遺跡で見つかった子持ち勾玉について(1/2)【大神神社(奈良県桜井市大字粟殿)】

2012年03月24日 18時03分11秒 | 大和の神がみ

 3月9日のニュースで、桜井市粟殿(おうどの)にある松之本遺跡から古墳時代後期(6~7世紀)の子持ち勾玉(まがたま)が発見されたと伝えられた。以下は産経ニュースからのコピペ。 

松之本遺跡子持ち勾玉発見地点はココ

Mapion

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ほぼ完全な子持ち勾玉 桜井・松之本遺跡から出土 奈良 2012.3.9 02:05 

 ■三輪山の神に豊作祈願? 古墳時代後期制作 

 縄文時代から中世にかけての集落跡「松之本遺跡」(桜井市粟殿)で、古墳時代後期(6~7世紀)に制作されたとみられる、豊作などを願う祭具の子持ち勾玉(まがたま)がほぼ完全な状態で見つかり、県立橿原考古学研究所が8日、発表した。橿考研は「三輪山周辺の古代祭祀(さいし)を知る手がかりになる」としている。 

 同遺跡の古墳時代の集落跡約950平方メートルを調査したところ、北東隅の水路跡で長さ約8センチ、幅約5センチ、厚さ約2・5センチの子持ち勾玉が出土した。 

 胴体の腹部と両脇、背面にそれぞれ「子」を表現した突起物が加工されており、片脇の突起物の一部が欠けているほかは、ほぼ完全な状態だった。 

 重さは約130グラムで、和歌山県紀の川市の貴志川流域の滑石を使用しているという。今回の出土場所近くで別の上半分が欠けた子持ち勾玉(長さ約5センチ)も見つかった。 

 橿考研によると、県内の子持ち勾玉の出土例は過去に56点あり、うち32点が三輪山周辺の遺跡で確認されているという。 

 今回の調査地からは5棟の掘っ立て柱建物跡が出土しており、いずれも軸線が北東約1・5キロの三輪山に向いていることから、橿考研は「三輪山の神に豊作や繁栄を願った祭祀用の子持ち勾玉ではないか」としている。 

 出土した子持ち勾玉や土器片などは10~25日、橿考研の付属博物館(橿原市畝傍町)で特別展示される。入館料が必要。問い合わせは同博物館((電)0744・24・1185)。 

 ★橿原考古学研究所が、記者発表で使った資料のPDFファイルをネット上にアップしている。調査結果の平面図や子持ち勾玉の実測図などもあるためたいへん参考になる。一緒に参照されたし。 

  → 橿原考古学研究所『桜井市松之本遺跡出土子持勾玉 報道発表資料

 

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 このニュースにもあるようにこれまで奈良県下の子持ち勾玉は、三輪山しゅうへんからの発見例が多く、とくに大神神社の境内にそれが集中していた。このため、この形式の勾玉は三輪山祭祀において特権的に使用されたと考えられている。

大神神社拝殿
比較的近年における三輪山々麓しゅうへんからの子持ち勾玉発見例としては、
大神神社境内の防災工事中に発見された3点、
三つ鳥居の解体修理中に発見された1点などがある

この外、江戸時代の文献にも三輪出土とされるものの記載が8点ある等
大神神社の境内に発見例が集中している

 今回、子持ち勾玉が発見された場所は三輪山々麓から南西に約1.5km離れた場所で、その間には両者を分断するような格好で初瀬川も流れている。しかし、同時に発見された5棟の掘っ立て柱建物跡はいずれも東北にある三輪山々頂を向いており(詳しくは、橿原考古学研究所の『桜井市松之本遺跡出土子持勾玉 報道発表資料』の図3(p6)を参照)、子持ち勾玉が三輪山祭祀の指標となる遺物であることを考え合わせると、これらの建物はこの山を遙拝する宗教施設だったことを感じさせる

三輪山

大神神社の神体山である

同上

 じつは、松之本遺跡が広がる桜井市の松之本・粟殿・上ノ庄にまたがるエリアは、神社の分布からも三輪山祭祀と関係深い地域であったことが確かめられるのだ。というのも、このエリア内には大神神社の系列社の分布が非常に顕著なのである。 

 まず、今回の調査地点から南東に約500mほど離れた粟殿字屋敷には大神神社という神社が鎮座している。いつの頃にか本社の大神神社から勧請されたものだろう。

 ちなみに、当社を式内社の桑内神社にあてる説もあるが、『式内社調査報告』は否定的だ

桜井市粟殿の大神神社

境内が狭く、撮影に向かない神社だ

 いっぽう、近世初頭の成立と言われる『三輪流神道深秘鈔』には「二ツ神松ノ本ノ神忍坂宮イクネ大明神、イヅレモ三輪ノ大明神ノ御子ノ神トイヘリ」という記述がある(『神道大系 大神・石上』p111)。

 「二ツ神(ノ神)」、「松ノ本ノ神」、「忍坂宮イクネ大明神」という3っの神社は、いずれも三輪神の御子神であるというのだ。 

 このうち、「忍坂宮イクネ大明神」というのは桜井市忍坂にある式内社の忍坂坐生根神社のことである。当社は子持ち勾玉発見地点から離れた場所に鎮座しているが、残りの2社が問題である。

忍坂坐生根神社

当社の拝殿
大神神社と同じく山を神体として本殿がなく、
拝殿だけの構えの神社である

 まず、「二ツ神」というのはちょうど粟殿と上ノ庄の境のあたりに「二ツ神」という字名があるのでその辺りにあった神社らしい。桜井市役所のすぐ西で、今回、子持ち勾玉が発見された地点からは南に7~800mしか離れていない。そこには明治の始め頃まで12坪の土壇があり稲荷神社が祀られていたというから、これがその後裔社だったのだろうか。この稲荷神社は現在は遷されて、式内・殖栗神社の境内社となっている。 

 「松ノ本ノ神」の所在については分からないが、松之本のどこかに祀られていたことは間違いなかろう。となると、これもやはり子持ち勾玉発見地点から近い場所にあったはずである。この神社の手がかりがこうも残っていないのは、初瀬川に近い場所に鎮座していたので水害により社地が失われたせいかもしれない。 

 ともかくこのように、大神神社の系列社が3社も分布していることから、このいったいが三輪山祭祀と非常に関係の深い場所であったことが分かる。今回の発見はそうした祭祀が6~7世紀まで遡ることを示唆するものだ

 

松之本遺跡で見つかった子持ち勾玉について(2/2)」つづく

 

 

 


ハズセカイ系とは何か(2)【幡頭神社(愛知県西尾市吉良町宮崎)】

2012年03月18日 23時05分09秒 | 三尾勢海の神がみ

 ★「ハズセカイ系とは何か(1)」のつづき   

幡頭神社々殿

 尾張氏のことはともかく、幡頭神社と海民の信仰の関わりについてもっと目を向けてみる。 

 社伝によるとかつての幡頭神社には釣り針を奉納して大漁を祈願する風習があり、漁民たちは神社から借りた釣り針で漁に出かけ、大漁に恵まれると倍にして返した。このため当社の社前にはこうして奉納された釣り針が山をなしていたという。現在ではこの風習は見られないようだが、こうした信仰は当社の祭祀に海民が深く関わっていたことを感じさせる。

 

社頭のふんいき

 そもそも古代の伊勢湾と三河湾を舞台に成立したハズ世界はもっぱら海上交通によって栄えていたのであり、その舟運を支えたのは海民であった。したがってハズ世界の信仰の一大中心である当社の祭祀と彼らのつながりはその頃からあったと考えて良いだろう。そしてそう考えると注目されるのが、当社のやや沖合に梶島という名の島が浮かんでいることなのである。

幡頭神社の境内から眺めた梶島

同上

 この島は幡頭神社の境内に立つと松の枝の間からその姿を覗かせるのだが、何となく意味ありげというか、いかにも当社に関係がありそうな感じのたたずまいである。ちなみに『玄松子の記憶』も幡頭神社のページで梶島に触れ、「眼前に浮かぶ島がちょっと気になる存在。」と述べているので、これはたんなる私の主観ではないようだ。伝承によればこの島は、海で遭難した建稲種命の遺骸が宮崎海岸に流れ着いた際、乗っていた船の舵は梶島に流れ着いたのでこの名がついたという。

梶島
Mapion

同上

 志田諄一は『風土記を読む』で、全国各地には「かし島」という名の島の分布が見られるが、それはいずれも古代に港があった場所だと論じている(以下の議論は拙サイトの「『築島』と爾佐能加志能爲神社」で述べたことをリメイクしたものです。)。

 「鹿島の語源は、船をつなぐ杭を打った「かし(「か」は「状」などの字のへんに羊、「し」は哥へんに戈、以下同様。)島」からきているようである。『肥前国風土記』杵島郡の条に、景行天皇が船をとめたとき、船かし(船つなぎの杭)から冷水が自然に湧き出た。または船が泊まったところが、ひとりでに一つの島となったので、天皇はこの郡をかし島の郡とよぶがよい、といった。いま杵島(きしま)の郡とよぶのはカシシマが訛ったのである、とみえる。この地は有明海に面し、杵島郡の南隣が藤津郡鹿島とよばれている。
 したがって、本来は船をつなぎとめる杭を打つ島(場所)を意味するカシシマが、一方はキシマ、他方はカシマに転訛したのである。」
 ・志田諄一『風土記を読む』p 131

 「鹿島という地名も、河口や海と関係が深い。鹿島の地名の分布をみると日本海側では石川県七尾市付近があげられる。『和名抄』には能登国能登郡加嶋郷とみえる。七尾湾と富山湾に面しており、『延喜式』主税には「加嶋津」とあり、敦賀津とともに日本海航路の拠点であった。
 太平洋岸では静岡県富士市付近が「賀島(かしま)」とよばれていた。この地は富士川と潤川河口地域にはさまれた駿河湾に面している(『吾妻鏡』治承四年十月二十日条)。静岡県天竜市付近も鹿島とよばれていた。天竜川と二俣川が合流する地で、河口港として栄えた。和歌山県日高郡南部町の浜にも、鹿島と呼ばれる小島がある(『万葉集』巻九)。九州の佐賀県鹿島市は古代には「鹿島牧」が置かれた地で、有明海に面した港である。このようにカシマの地名はいずれも海や河口に沿った港に関係のある地域に分布している。」
 ・前掲書p130

 おそらく幡頭神社の沖合に浮かぶ梶島も「かし島」や「か島」の一種なのだろう。梶島は現在、無人島だが、上陸した人のブログを見ると桟橋や古い井戸の跡などが残っているようなので、かつては小さな漁村か何かがあったらしい。ハズ世界が栄えた頃は海民たちの集団がこの島に居住し、浜辺には多くの船が並べられていたのではないか。

梶島と対岸の間はひっきりなしに漁船が通過する

 なお、梶島は『万葉集』にある藤原宇合(ふじわらのうまかい)の「暁の 夢に見えつつ 梶島の 磯越す波の しきてし思ほゆ(巻九1729)」に見える「梶島」の有力な候補地である。この比定が正しかった場合、宇合はこの望郷の歌を、蝦夷討伐で東国へ出征する途次に詠んだ可能性が高いが、その際、彼が海路をとったのであれば、宇合を乗せた船は梶島に停泊したことも考えられる。

 梶島、右手前に宇合の歌碑 

梶島は『万葉集』にある藤原宇合(ふじわらのうまかい)の
「暁の 夢に見えつつ 梶島の 磯越す波の しきてし思ほゆ(巻九1729)」
にある「梶島」の有力な候補定地の一つ 

宇合はこの望郷の歌を、蝦夷討伐で東国へ出征する途次に詠んだという
対岸の浜辺にはこの歌の立派な歌碑が建っている

宇合の歌碑

 

「ハズセカイ系とは何か(3)」につづく

 

 

 


ハズセカイ系とは何か(1)【幡頭神社(愛知県西尾市吉良町宮崎)】

2012年03月04日 14時22分48秒 | 三尾勢海の神がみ

 伊勢と三河には古くからつながりがあった。三河に伊勢神宮の御厨が多く分布していることなどもこうしたことの現れである。そしてそのようなつながりが、伊勢湾と三河湾を介した海上交通によるものであったのは言うまでもないだろう。さて、2つの湾しゅうへんの地図を広げ、古代の航海技術で伊勢と三河を結ぼうとすると、知多・渥美の両半島先端部と湾内に浮かぶ島々を飛び石にして渡るルートの存在が想像されてくる。以下の引用文は赤塚次郎の「海部郡と三河湾の考古学」のものだが、これを読むと実際に古代においてそのようなルートが存在し、就中、かつての三河国幡豆(はず)郡の領域がこれにあたっていたことが示唆される。

「知多半島の先端部およびその周辺(島々)は奈良の平城京から出した木簡により、古くは幡豆郡に含められていたことがわかっている。〈中略〉伊勢の海を渡る海上ルートは三重県の志摩地域から東に浮かぶ島々を通り、神島・伊良湖岬へ、そこから北上して三河湾を浮かぶ島々をわたり羽豆岬(知多半島最先端)あるいは矢作川河口部へ、というコースが古くから根づよく存在していた。古代の文書資料からも佐久島、日間賀島、篠島もかつて幡豆郡に所属し、また碧南市南部(大浜)、あるいは衣浦(衣ヶ浦)も含めて幡豆郡に含まれていた可能性が考えられている。つまり三河矢作川下流域はもとより、知多半島の三河湾沿岸部および半島先端部、さらに三河湾に浮かぶ島々と渥美半島先端はひとつの世界であった。」
 ・森浩一ほか編『海と列島文化(8)伊勢と熊野の海』所収
  赤塚次郎「海部郡と三河湾の考古学」p244~245

 今後ここで、このような世界をハズ世界と呼ぶことにしたい。

伊勢・三河両湾しゅうへんの古墳時代の領域
★赤塚次郎「海部郡と三河湾の考古学」から転載(前掲書p245)

この図版には筆者による以下のキャプションがついている
「伊勢湾をとりまく地域は大きく二つの領域にまとめることができる。島嶼
部・半島部・海岸部地域である伊勢湾入口にあたる「ハズ」の領域と、濃
尾平野北部の湿原・山麓側をまとめる「野」の領域である。」

 『延喜式』神名帳にはハズ世界の指標となる神社が二社見えている。ひとつは尾張国知多郡の羽豆神社で、これは知多半島の最先端に当たる羽豆岬に鎮座している。

羽豆岬

羽豆岬に鎮座する羽豆神社
Mapion

境内にはSKE48のファンが奉納した絵馬が多く見られた
「羽豆岬」という曲のMVに当社が一瞬、出てくることから
ファンの聖地になっているのかな

 もうひとつは、三河国幡豆郡の幡頭神社で、これは西尾市東部の小半島、宮崎の先端部に鎮座する。社地ふきんからは前方に佐久、日間賀、篠の三河三島をはじめ、渥美・知多両半島の先端部が、さらに大気の状態がよければその遠方に伊勢・志摩の山並みが望める。ハズ世界を一望できる絶景の地に、この神社は鎮座しているのだ。

三河国の幡頭神社

幡頭神々殿
Mapion

幡頭神社鎮座地ふきんの海に出てハズ世界を一望
やや霞んだ大気の向こうに篠島、日間賀島、知多半島が見える

 社地から北に2.5kmほど離れた場所には正法寺古墳という前方後円墳がある。4C後半~5C前半に築造されたもので、墳長規模約94mは西三河最大とされる。平成13・14年に行われた墳丘の発掘調査では三段築の墳丘に葺石が施され、円筒埴輪が巡らされている典型的な畿内型の古墳であることが確認された。

正法寺古墳遠景
Mapion

正法寺古墳墳丘
(前方部から後円部にかけて)

墳丘から流れ落ちて裾部に溜まった葺石

 正法寺古墳が立地しているのは舌状台地の端部である。築造された当時、この台地の下は海で、すぐ足許まで波が押し寄せていた。つまりその頃の正法寺古墳は三河湾に向かって突き出た岬の先端にあったのだ。明らかに伊勢と三河を結ぶ舟運からのランドマークになることを意識した立地であり、おそらくその被葬者はハズ世界の王であった人物で、そのような舟運を支配して力と富を蓄えるいっぽう、ヤマト王権が伊勢から東国へ進出する際には海上輸送によってそれを支えたのだろう。古代における幡頭神社の祭祀はこの古墳の被葬者と、彼が従えていた海民の集団に密接な関わりがあったに違いない。

 社伝によると、ヤマトタケル尊が東征した際、副将軍としてこれにしたがった建稲種命が駿河湾で逝去し、その遺体が当社の鎮座する宮崎に漂着、里人はこれを手厚く葬った。その後、大宝二年(702)に文武天皇が霊夢によってこの地に建稲種命の墳墓があることを告げられ、勅命によって社殿を造営し矛を納めて神体としたのが当社の創祀であるという。

 建稲種命(たけいなだねのみこと)は『古事記』に尾張連の祖とある「建伊那陀宿禰」と同一人物で、ヤマトタケル尊の妻だったミヤズ姫の兄である。鎌倉期の成立だが内容的には平安期のものとされる『尾張国熱田太神宮縁起』によると、彼は尾張氏の居館があった氷上邑の出身でヤマトタケル尊の東征に従軍したが、帰国にあたっては陸路を通る尊に対し海路をとった。しかし駿河の海で尊に献上するミサゴを捕らえようとした際、風波が強くなって船が沈没、自らも水死したという。幡頭神社の社伝はこの伝承の後日談という体裁をとっているらしい

名古屋市緑区大高町火上山にある尾張氏の居館の伝承地

尾張国愛智郡の式内社、氷上姉子神社の旧社地で
ヤマトタケル尊とミヤズ姫が出会ったとされるのもここである

氷上姉子神社
ミヤズ姫を祭神として祀る

 現在、建稲種命は三河と尾張の両ハズ神社の祭神であり、ここから両社と尾張氏とのつながりを説く論がある。しかしこれはあまりにも伝承を鵜呑みにする態度だろう。

 祭神の遺骸が流れ着き、それを葬ったのが神社の起源となったというタイプの社伝は他社にも見られる。就中、以前、このブログでも紹介した岩手県陸前高田市の尾崎神社の縁起などは建稲種命の伝承によく似ている。それによれば、閉伊郡の領主だった源頼基は没後に水葬されたが、後に棺が破れて遺骸が三分し、そのうちの頭部が流れ着いたのを里人が手厚く葬ったのが尾崎神社の起源であるというのだ(遺骸の他の部分も、それぞれの場所で里人によって手厚く葬られ、いずれも神社となっている。これらの神社はいずれも岬や半島の先端に鎮座していることが注目される。)。

 この陸前高田の尾崎神社は社伝だけではなく神体として剣を祀っていること、岬の先端部に鎮座してていること、ふきんの漁民から海上安全や大漁祈願の信仰を集めていること、日本武尊尊の東征と関係づけられていること等、幡頭神社の祭祀と共通する点が非常に多い。明らかに舟運を介して伝播した同種の信仰が、それぞれの社の基層にわだかまっていることを感じさせる。

尾崎神社の奥の院では神体として剣を祀っている

 かつて漁民の間では著名な「流れエビス」の信仰が行われていた。漂流死体を「えびす様」として喜び、それを手厚く葬れば豊漁がもたらされるという信仰である。おそらく幡頭神社や尾崎神社の社伝は、こうした信仰や、半島や岬の先端に航海神を祀るというこれまた全国各地に事例の多い海民のそれから生じたものだろう。そこに見られる建稲種命の名前は後世の附会と考える。

 総じて尾張と三河の両ハズ神社を信仰していたのはほんらい、正法寺古墳の被葬者をはじめ、古代ハズ世界を担った人たちであり、尾張氏はそこに関係していなかった。ちなみに尾張氏がアユチ潟(『万葉集』の「年魚市潟」)を見下ろす熱田台地に進出し、伊勢湾内奥部の一大勢力となった時期は、この台地に断夫山や白鳥といった大型の前方後円墳が築かれる6C前半代頃だろう。いっぽう、ハズ世界の勢力がもっとも伸張していたのは正法寺古墳が築かれた4C後半~5C前半頃だろうから、両者の間には時期的に約1世紀の開きがあったことになる。ハズ神社が尾張国と三河国に見られることからも暗示されるように、ハズ世界が栄えたのは尾張氏の勢力が興隆し、両国の範囲が固定化するよりも以前のことだった

 

断夫山古墳
全長151mの前方後円墳で東海地方最大の規模を誇る

継体天皇の后であった目子媛の父、
尾張連草香に被葬者を求める説がある 

 

 

ハズセカイ系とは何か(2)」につづく