神社の世紀

 神社空間のブログ

晩秋の湖北を訪れてみた[2012]

2012年11月27日 00時26分29秒 | 徒然

 晩秋の湖北を再訪。 

 今年は秋が来て急に冷え込み、台風の上陸も少ない。こういう年は紅葉が美しくなることが多いため、「さぞや」と期待して出かけて行ったのだが、モミジの赤が今ひとつ。

 それでも、意富布良神社の境内はやっぱり美しい。


意富布良神社は近江国伊香郡の式内社

 落ち葉シリーズ、「梅ぼ志飴」。モミジの赤がもっと鮮やかだと、「あなもたいなや」とため息がでそうになるのだが

 井口の日吉神社の社頭にある古代庭園も再訪。改修が終わりふたたび水が張られていたが、やはりモミジの色づきが前回に及ばない。ここのは真っ赤になると、水面が燃えているようになるのだ。 

 いつもひっそりしている與志漏神社に行ったら、参道の奥からドヤドヤと大勢の人たちが吐き出されてくる。!!( ̄□ ̄;)!!

 まるで有名神社の初詣みたいな光景だが、中まで入ると社殿の周りはいつものように誰も居ない。あの大群衆は近くにある鶏足寺の紅葉を見た後で近道をするために、当社境内を通り抜けていた観光客だったのだ。


ひっそり

 ここは普段はかなり鄙びた山村なのだが、社頭には交通整理員が3人も立っていた。紅葉を楽しみに湖北を訪れる観光客が年々、増えているとは感じてはいたものの、これほどまでとは思わなかった。しかもこれが平日の木曜日なのである。寺院マニアでなくて良かった。

 

鄙びた山村の路地にこんなに人が


ハイハイ、バスが通りますよ

 ちなみに、あの人達はどこからやってきたのだろうと気になって付いていったら、田んぼの向こうに青空駐車のバスがたくさん停まっていた。

 

 

 


天下春命の磐座(?)【小野原稲荷神社(埼玉県秩父市荒川小野原)】

2012年11月14日 22時30分29秒 | 磐座紀行

 秩父地方には岩を祀った形跡のある神社が多い。その中でも先日、訪れた小野原稲荷神社は印象的だった。

 当社は秩父市荒川小野原に鎮座している。秩父市街地から彩甲斐街道を山梨方面に向かうと道の駅を過ぎてから荒川にかかる橋がある。渡るとすぐに、街道に面して朱塗りの鳥居が立っているが、これが当社の一の鳥居だ。山間部にしては大きくて立派と言えるだろう。

 稲荷神社という神社は無数にあるが、創祀が中世以前にさかのぼるものはほとんどない。したがって普通なら稲荷という神社にはあまり興味をひかれないのだが、当社は付近の環境に「これは古社ではないか。」と感じさせるものがあった。就中、辺りにただよう清浄な空気感が紛れもなく古社のものである。思わずそれに惹かれて参詣した。


一の鳥居

 一の鳥居から眺めても、正面にまだ神社らしいものは見えない。分かるのはただ、奥のほうで道が山に取り付き、そこでカーブしながら上り坂がはじまる様子だけだ。こういう意外性ある奥行き感がまた古社っぽい。


社頭のふんいき

 社地は一ノ鳥居から300mほど入ったところにあるが、社頭から眺めた時の印象はかなり凡庸だ。山の斜面にあるため、境内がそれほど広くないことが察せられるし、何度か火災に遭ったせいかあまり古木が見えないせいもあるだろう。鉄筋コンクリート造りの社殿も、正直に言っていささか興ざめする。ただし、看板にある由緒を読むと、やはり古社だという直感の正しかったことが分かる。

 『参拝のしおり』にある由緒を引用する。

「今からおよそ千三百年ほど昔、孝徳天皇の大化四年という年は長い間、雨が降らなかったので、農作物が枯れそうになりました。そこで人々は高根山の中腹に集まり大きな岩を神座として雨乞いをしました。するとたちまち雨が降ってきたので人々は生き返ったような思いがしました。そして秋には豊年万作の喜びにわきました。

 そこで人々は神の恵みに感謝して社(やしろ)を建て、この地の鎮守の神として敬いました。後、文禄三年(四百年ほど昔)現社地に遷座しました。こうして宝暦七年(二百四十ほど昔)伏見稲荷神社から正一位稲荷大明神の称号を拝受しました。
 そして明治元年、稲荷神社と改称しました。昭和三十六年に火災のため旧社殿が焼失したので社殿を再建しましたが、昭和四十九年再び原因不詳の火災により全焼しました。現社殿は昭和五十年に造営したものです。」

 全体にこの由緒には妙に気を惹くものがある。秩父地方にある古い神社の社伝には日本武尊の登場するものが多いが、この由緒にはそれがないことや、大化四年(648)というのも秩父地方にとってとりたてて意味をなさない年号であることなど、あまり紋切り型ではないところがかえってリアルである。高根山の中腹に祀ったという巨岩のことも磐座祭祀を思わせるし、とにかくこれを読めば明らかに古社だと了解される。

 社頭からつづく石段は比較的緩やかだが、それが直角に折れると、南面する社殿の前まではかなり急になる。そして後者の途中、明神鳥居の向かって右側に、とても独特な曲面をもつ石垣がある。


反り返った石垣


同上


同上


同上


同上

 宮屋根の反りに似ていることから、この石垣の勾配を宮勾配(扇の勾配)と呼ぶそうだが、私はこれまで他の場所でこれに似たものに出合った記憶がない。どことなく古代ローマの遺跡のような存在感があって、すごいインパクトだ。享保18年に築造されたそうだが、この年は前年の虫害によりひどい飢饉に襲われた。そこで当社は米穀を施して棄民の救済にあたり、このため人々は神恩に感謝し、進んでこの仕事に就いたのでたちまち完成したという。


当社々殿

 上に引用した由緒にもあったとおり、当社は火災に遭っため、現在の社殿は昭和五十年に建築された鉄筋コンクリート製のまだ新しいものである。ちなみに、鉄筋コンクリート製の社殿がもっとも似合う神社は稲荷神社だと思う。


看板

 さて、当社の濫觴と伝わる「神座として雨乞いの行われた大きな岩」はどこだろう、と思っていると、上のような看板が見つかる。さっそく磐座を期待してこの奥社に向かう。社殿の左手から細い道を登って5分ほどのところだ。


奥社


奥社内部

 奥社があるのは社殿背後の尾根が突起状に高まったところで、一の鳥居の辺りから眺めるとちょっと神体山を思わすものがある。


鳥居と石標の間にある高まりが奥社のある地点

 しかし、この奥社のところに岩石らしきものは見当たらなかった。そこでこの宮の前を通り過ぎて、同じ道をもう少したどると、尾根に沿って横たわる枕状の大きな岩の露頭に出合う。大きすぎてとてもカメラには収まらなかったが、これがかつての磐座かもしれない。


磐座? とても気になる岩の露頭


同上


同上
 


同上
 

 岩の近くはたまたま用材林が伐採されていて見晴らしが利いた。武甲山がくっきりと眺められてハッとさせられる。あるいはこの岩は、この山を遙拝する祭祀と何か関係があったかもしれない。 


岩の近くから眺める武甲山
 


同上
 

 武甲山と言えば秩父神社の神体山だが、当社の祭神については諸説ある中で八意思金神の子、天下春命とするものがある(現在の公式の祭神は、八意思兼命と知知夫彦)。天下春命は武蔵国多摩郡や相模国愛甲郡の式内社の小野神社でも祀られているが、そうすると当社の鎮座地である小野原の「小野」も、こうしたことと関係があるかもしれない。  


秩父神社

 

【小野原稲荷神社データ】 

埼玉県秩父市荒川小野原327に鎮座31
Mapion
 

祭神は宇迦之御魂命、大宮比売命、神倭磐余彦命 

 由緒は上に引用した通りだが、当社は中世期にも栄えていたらしく、そのことが分かる「例大祭の由来」を『参拝のしおり』から引用する。 

「今からおよそ八百年ほど昔、源頼朝は畠山重忠に命じて建久三年正月二十八日当社に参詣させ、天下太平をお祈りさせました。じつはその数日前、一月二十一日に、平忠光が頼朝の暗殺を企てて捉えられる、という事件が起こったのです。それで頼朝は神のご加護を祈ったものと思われます。その祈りが神に通じたものか、頼朝はその年の七月十二日には征夷大将軍となって鎌倉に幕府を開くことができました。
 それから毎年家臣をつかわして当社に参詣させたということです。こうしたゆかりで正月二十八日を祭の日と定めたと言われます。〈中略〉昭和十六年頃から例大祭は三月二十八日と定められました。」

 

 

 


孤独な場所で(8)【孤独な場所で】

2012年11月11日 20時56分10秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(7)」のつづき

 かつて、春日山にあったという隼神社は、この山のどこに鎮座していたのだろう。


春日山
古都の東に楯のような山稜がつづく

 おそらくそこは、湧水が見られる場所であったように思われる。 

 京都市中京区にある隼神社は、奈良市の同名社を平安遷都に伴って勧請したものだが、明治になってから現在地に遷座する前は、今よりも300mほど北に鎮座していた。『式内社の研究』には、かつてのこの旧社地が、「いったいの畑のアチコチに水が湧いていた。」とあり、ここから当社の祭祀に湧水が関係していたことが感じられる。したがって、春日山に鎮座していた頃の隼神社も、周囲に湧水が見られたことが類推されるのだ。


京都市中京区壬生梛ノ宮町の隼神社
当社は平安遷都の際に奈良から当地に遷ったもので、
奈良にある隼神社は元社にあたる
現在は元祇園として知られる梛神社の境内社となっている


「式内隼神社旧蹟」の石標
旧社地は現社地から
四条通を渡って、
坊城通を300mほど北上した場所にあり、
現地には「式内隼神社旧蹟」の石標が立つ

 春日山中でそういう古い祭祀に関係のある清泉というと、龍王池のことが思い浮かぶ。 

 龍王池は春日山稜線の南端に近い標高約380mの山林中にあり、佐保川と能登川の水源にあたる。北側にある小高い場所には十八段の石階をひかえて南面する朱塗りの社殿が鎮座するが、ちょうど池を見下ろすような格好のこの小さな神社が、式内大社の鳴雷(なるいかつちの)神社である。神名帳では大和国添上郡の筆頭に登載されている。


龍王池


鳴雷神社
現在は春日大社の末社となり、施設はこの社殿だけとなっているが
平安中期までは二月と十一月の祭礼に
「絁(あしぎぬ)」をはじめとした莫大な供物が奉納され、
中臣氏の官人が差遣されていた
これは春日祭と軌を一にするもので、
朝廷からの崇敬のほどを示すものである

 龍王池はそもそも、鳴雷神社の神体として原始的な水源祭祀の対象となっていたものだろうが、中世以降は龍神信仰と習合し、雨乞いの聖地として近隣諸国から多くの崇敬を集めていた。その霊験に関する記録は枚挙にいとまがないというが、現在は参道らしい参道もなく、周囲の樹林を水面に映すたたずまいは静謐そのものである。 

 池は直径8.5mの円形で石積みで周囲を護岸してあり、外観は鏡に似ている。「野守の鏡」をテーマにした謡曲『野守』が飛火野を舞台にしていたり、神功皇后が戦勝を祈願して山頂に鏡を納めた鏡山の麓に鎮座する鏡神社が勧請されたりと、春日山のしゅうへんに伏在するこうした鏡への偏執は注意をひく。 

 それはともかく、隼人たちの呪能を神格化して祀ったらしい隼神社が、かつて龍王池しゅうへんにあったと考える場合、鳴雷神社の存在は意義深い。
 『延喜式』巻28大儀の条には「隼人の服装」についての記述があるが、その様子は『日本霊異記』(上巻一)にある、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が雄略天皇の勅命で雷神を捕えた時の姿、「緋(あけ)の蘰(かずら)を額(ぬか)に著け、赤き幡鉾(はたほこ)をあげ」と酷似する。井上辰雄はここから、隼人には雷神の鎮魂という職掌があり、小子部連との結びつきはそこから生じたと推測したが、その場合、鳴雷神社は社名からしてほんらいは雷神を祀ったものだろうから(現祭神は天水分神)、井上が推測したような職掌を介して、隼人たちの呪能がこの場所で展開したことが考えられる。 


小子部栖軽を祀ると言われる奈良県橿原市の小部神社
大和国十市郡に登載ある式内大社の論社でもある


奈良県明日香村にある雷丘
『日本霊異記』にある伝承で栖軽が雷神を捉えた場所である

 龍王池の東側には水中に下りる石段がついている。堆積物が多くて確かめられないが、おそらく池の底に下りられるのだろう。水中で行われる何らかの儀式に使われたと思われる。


水中に下りる石段

 ここからは私の夢想だ。

 都が奈良にある頃、隼人たちの巫女の1人が龍王池につれてこられた。
 文武四年に彼らが覓国使を剽却した際、事件の首謀者の筆頭には「薩摩の比売(ひめ)」なる人物が見られる。おそらく隼人たちの首長だったのであろうが、女性の名であるところから判断すると、すぐれた呪能を発揮する巫女的な指導者であったと考えられる。今、龍王池に連れてこられたのも、そのような人物であった。

 彼女の故郷は南九州にあった。しかし、当時の朝廷は隼人たちの呪能を高く評価し、それを積極的に利用しようとしたため、この巫女の場合もその霊力を買われて出仕させられ、現在、ある祭祀に臨んでいるのである。

 その日は中秋の名月の夜であった。おりしも沖天の満月が龍王池の水面に映る。やがてその巫女は池に入って、この故国から引き離された孤独な場所で、自分たちの部族が祀る月神との婚儀を果たす。古代人は月と潮の満ち引きの関係を知っていたと言われる。月はヒコホホデミノ命が海面を溢れさせて兄に復讐した潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)の等価物だった。位の高い隼人たちの巫女は、月神と交わることで、海や河川や霧や降雨などとなって自然界に遍在する水への支配力を取り込むことができるのだ。今、龍王池に連れてこられた隼人の巫女の場合、求められているのは、こうした月神から取り込む水への支配力によって、遣唐使船団の、海路の安全を保障することにあった ── 。

 やがて、龍王池の畔にはこうした祭祀にちなんで、月神と、この巫女の間の神婚儀礼によって生まれたとされた御子神が祀られるようになった。これが隼神社の創祀である。当社の現祭神は火酢芹命(=月神)と角振神の父子二座であるが、古社で父子二座というのは珍しい。あるいは、この巫女と角振神の母子二座がほんらいの祭神であったかもしれない。

 その後、この龍王池の畔にあった隼神社は何らかの理由で、今の角振新屋町に遷座した。それに伴って、かつて満月を映す龍王池に入って月神との婚儀を遂げた隼人の巫女の記憶は、角振新屋町に近い猿沢池へと転移し、天皇の寵愛が薄れたことを嘆き、中秋の名月の晩にこの池に身を投げた采女の悲話として伝承されるようになった。

 

孤独な場所で(9)」につづく

 

 

 


孤独な場所で(7)【二つの鏡神社】

2012年11月01日 23時17分42秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(6)」のつづき

 広嗣の乱後、10年もしないで聖武帝は譲位する(749)。新帝となった孝謙帝のもとで藤原仲麻呂が台頭し、かつての広嗣の政敵たちもこれに前後して政界の浮き沈みを経験するようになる。 

 天平十七年(745)、玄は筑紫観世音寺別当に左遷され、その翌年、任地で没する。驕りのせいからか、彼は世間から疎んじられるようになっていたらしい。『続日本紀』に載せる卒伝によれば、「藤原広嗣が霊の為に害せらる」とあり、当時、その死が広嗣の怨霊によるものという風評のあったことが分かる。天平勝宝八年(756)には橘諸兄も讒言を受けて政界を引退し、翌年には没する。


頭塔
南都鏡神社と同じ奈良市高畑町にある

『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄を連れ去り、
後日、頭のみが興福寺に落ちていた、
これは広嗣の怨霊の仕業であった、という伝承が見られる
頭塔には、この玄の首を葬ったとの伝承がある

(じっさいは七段に築造された土製の塔であり、
奈良時代の僧、実忠によって造営された)

 玄よりは人望のあった吉備真備も、天平勝宝二年(750)には筑前守・肥前守に左遷されていた。
 唐津の鏡神社は、藤原広嗣を二ノ宮の祭神として祀っているが、社伝によればこうして北九州に配流されていた際、真備によって創建されたと伝わる。広嗣が斬られたこの地で、その霊を慰めるためであったという(境内にある看板の由緒記による)。


唐津の鏡神社で藤原広嗣を祀る二ノ宮の本殿

 この社伝は結構、信憑性があるのではないか。これまで見てきたとおり、広嗣はその反乱のきっかけとなった上奏文で、真備と玄のことを攻撃していたし、そのためもあってか、『東大寺要録』には広嗣の乱が鎮圧された後の玄が千手経一千巻の書写・供養を発願して広嗣の霊の鎮撫に努めたとある。この記事はその際に写経された「千手千眼陀羅尼経残巻」が一巻だけが現存するため史実であることが確かめられるのだが、生前の玄が広嗣の怨霊を恐れていたことを伺わすものである。そして、そこまでしたにも関わらず玄は広嗣の怨霊によって殺されたという風評がたっていたのだから、真備もそれを恐れ、これを慰めるために広嗣を祭神とする神社を創建したのはありそうなことなのだ。

 ちなみに、『松浦廟宮本縁起』には天平十七年(745)、真備が当社を祀り、さらに彼が大宰少弐に任ぜられた天平勝宝六年(754)、奏して神宮寺に神田を寄進したとある。

 翌・天平勝宝三年(751)、藤原清川を遣唐大使とする遣唐使が企画される。この時、56歳の吉備真備も副使に任命され、再び入唐をめざす。『万葉集』4241の注にあるbの祭祀(「春日にて神を祀る」)はこの時に行われたものである。彼もまたそこに参列したことだろう。

 この時の遣唐使は往路は順調であったが、帰路は前回と同じく多難なものとなった。4隻の遣唐使船は天保十二年(753)十一月、蘇州を出航して帰途に就くが、第1・第2・第3船は冬の強い季節風に遭って沖縄に漂着する。南風が吹くのを待って再度、出航し、第2・3船はそれぞれ薩摩国阿多郡と屋久島に漂着できたが(ちなみに吉備真備は第3船に乗船していた。)、第1船はベトナム北部まで流された後、現地人の襲撃により乗員180余名の大半が殺害された。生存したのは大使の藤原清河と阿倍仲麻呂をはじめとした十余名だけであるが、この2人はその後、唐までは戻ったものの、望郷の念にさいなまれながらそこで没している。第4船も途中で船火事に遭うなどのアクシデントに見舞われ、薩摩国石籬浦にたどり着いた時は蘇州を発ってから150日以上が経っていた。

 それにしても、こうしてみるとこの度の遣唐使船はその帰路、全ての船が南島や薩摩国の領域内に漂着していることがわかる。これは多治比広成が遣唐大使だった、前回の遣唐使の場合にも見られる傾向であり、おそらく、隼人たちの反乱が収束し、その統制も進んだために、唐から日本を目指す遣唐使船はもはや現地の隼人たちを恐れずに南島や南九州に上陸できるようになったことを示すものだろう。南島や南九州は、最初から目的地として設定された訳ではなく、あくまでも漂流して南に流された場合のセイフティ・ネットではあるが、それにしても唐から帰国する航路での有効性は相対的に高まっていたのである。

 こうした中で、天平四年(733)の遣唐使と天平勝宝二年(750)のそれのほぼ中間に挟まる天平十二年(740)の藤原広嗣の乱は、遣唐使と隼人たちの間に不協和音を響かせ、たいへんなインパクトをもったはずである。また、その首謀者である広嗣は、吉備真備や玄のような遣唐使の経歴をもつ者に対して屈折した感情を抱いて刑死し、没後は怨霊となって後者を害したなどと言われた。おそらく、遣唐使の祭祀の地であった春日山の南麓に唐津の鏡神社が勧請されたのは、こうした負のインパクトを介してではなかったか。広嗣の怨霊を慰撫することで、その荒ぶる霊力を取り込み、遣唐使の守護神として祭り上げようという逆転の祭祀である。

 そして、このように御霊神となることで遣唐使にとって両義的な存在となった場合、藤原広嗣は隼人たちと遣唐使の祭祀の地であった春日山南麓を結びつける契機ともなりえたのだ。


南都鏡神社
奈良市高畑町468に鎮座
Mapion

祭神として藤原広嗣、天照皇大神、地主神を祀る

ウィキなどにもあるわりと一般的な社伝によれば
大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守として
唐津の鏡神社を勧請したものと伝わる

福智院
Mapion

ただし神社の発行している「御由緒」には、
当初は奈良市奈良町にある福智院の前身、平城清水寺の境内において
玄の弟子である報恩により崇められ、
その創建は天平年間であったとある

あるいは吉備真備が遣唐副使に任命された際、
自ら創建した唐津の鏡神社を勧請したことも考えられる


福智院の石仏


南都鏡神社の紅葉

 

孤独な場所で(8)」につづく