神社の世紀

 神社空間のブログ

天河神社

2011年01月30日 23時59分00秒 | 徒然

 前回も言ったように、先日、奈良県吉野郡天川村にある天河神社(正式な宗教法人名は「天河大弁財天社」)に行ってきた。

天河神社

 当社はパワースポットとして有名で、霊感のある人に言わせると本殿の辺りはスゴイことになっているらしいが、霊感のない私は何も感じない。むしろ参拝中から気になる別のことがあった。

 かなり前に内田康夫原作・浅見光彦シリーズの『天河伝説殺人事件』という映画を観たことがある。原作の重要な舞台となっている天河神社は、当然、映画にも登場しており、私による当社のイメージはこの映画の影響を強く受けている。ところが、実際に訪れてみると様子がぜんぜん違った。確か映画に登場していた天河神社は、楼門があって、境内を囲む回廊があったような気がするが、それらがまったく見当たらない。これまで、吉野の山奥にあれだけの建築を備えた神社があるということにそそられてきた私としては、完全に期待をうらぎられた格好だ。

社殿へ上る階段

拝殿から本殿へ上る階段
階段の存在感を強調する建築デザインは、スピリチュアル系の宗教施設の常套手段

社殿の中の能舞台
天河神社は能との関わりが深い

本殿

雪に埋もれた磐座

境内はパワーショベルで除雪中 

 ウィキの「天河大弁財天社」の項には「1992年、杜撰な資金計画による社殿改築・境内整備が破綻し、破産宣告を受ける。」とあった。あるいはこの時の社殿改築等で、映画に登場した楼門や拝殿が撤去されたのだろうか。

 『天河伝説殺人事件』の製作は1991年だから、映画でロケされた直後に古い社殿等が撤去されて現社殿が建った可能性も全くゼロではない。しかしいくら何でもそんなことはないだろう。では、映画のほうが別の神社をロケしたのか。あるいは私の記憶が間違っているのか。

 あまりにも気になるので、ツタヤで『天河伝説殺人事件』を借りてきて確認すると、何と映画で大滝秀治が宮司をしていた天河神社は、近江の沙沙貴神社ではないか。初めてこの映画を観た十数年前はまだあまり神社マニアではなかったので分からなかったが、再見すると舞殿様式の拝殿や、垣で囲って正面に拝所を設ける流造りの本殿など、こんな神社が奈良県にあるはずがない。どう見たって最初から近江の神社だったのである。

 それにしてもどうして天河神社で撮影しないで、別の神社がロケ地に選ばれたのだろうか。

 自分のデジカメで天河神社を撮影していて思ったのだが、この神社は伊勢神宮と同じく周囲に撮影にむくスペースが少なく、今ひとつ境内が絵にならない。そのいっぽう、沙沙貴神社には立派な楼門があって回廊が巡らされているなど、いかにも絵になる神社である。沙沙貴神社が撮影地に選ばれた理由はこれが大きかろう。 

沙沙貴神社
佐々木源氏の氏神として知られる近江の古社
祭神は少彦名命
近江国蒲生郡の式内社である。

当社のシンボルとなっている楼門
映画では加藤武の警部補と大滝秀治の宮司が、この門の近くで会話していた。

 

近江に多い舞殿様式の拝殿
映画ではここで能が奉納された。
 

 ただ、いくら絵になるからと言っても、普通は原作のストーリー上、とても重要な存在となっている天河神社で撮影をせず、あえて別の神社をロケ地に選ぶようなことはしないと思う。天河神社のことを知っている観客が観たら怒り出すかもしれないし(そういう人は意外といるもんだ。)、これはなかなか大胆な決定である。さすが映像派の巨匠、市川崑の映画ということか。

 なお、タイトル・クレジットをみると天河神社もロケに協力したことになっていたが、どこに映っていたのかは分からなかった

 


平成23年初もうで

2011年01月27日 06時02分43秒 | 徒然

 今さら初もうでも何もないだろーが、と言われそうだが、22日の土曜日に大和の諸社をまわったのが、本当に俺の今年の初もうでだったのだから仕方がない。

 日中は奈良県南部のまだ行ったことのない神社をまわった。五條市湯谷市塚町の岩神神社は現地までは行ったものの、捜しきれなくて断念したが(ななかまどさんに聞いてから行けばよかった。)、後は荒木神社、丹生川上神社下社、天河神社、伊波多神社、櫛玉命神社、檜原神社を順調に参詣してきた。どノーマルのタイヤで行って大丈夫かと不安だったが、心配したほどの雪もなく、なんとか無事に天川村から戻ってこれた。

 意図したわけではないが、今回、行った神社には水との関係を感じさせるものが少なくない。参詣中からそのことがずっと印象に残った。水かぁ、今年は水についてもっと真剣に考えようかな、と思い立って新年の抱負とする。

 

 で、大神神社。

 到着したのは五時半ごろだったが、着くと睡魔に襲われたので、社頭の駐車場でシートを倒して寝てしまう(最近、ちょっと睡眠時間が足りてないからなぁ。)。ちょっと一寝入りのつもりが、起きたらば八時過ぎになっていた。何だかものすごく良い夢を見たらしいが、内容はまったく覚えていない。ただ、そうとうドーパミンが分泌されたようで、起きてからもワクワクした気分だけはずっと残った。着いたときはたくさん停まっていた他の車もほとんどいなくなっている。

 さっそく参拝に向かう。

 社頭
暗くて見苦しい写真だが、ストロボも三脚もなしにこれだけの
画像を撮ったことを考えれば、今のデジカメの性能はおそろしい。 

 鳥居をくぐって、両側に常夜灯が灯された参道に足を踏み入れる。それほど光量は多くないので、すぐ外側に原初の混沌をたたえた闇が広がる。この雰囲気、私は身が引き締まる感じがして好きだが、怖いという人がいても不思議はないだろう。

大神神社、夜の参道

 足許で砂利を踏むザクザクという音が夜のしじまを縫ってながれてゆく。いつもは向こうからも、参拝を終えて帰還する人のたてる同じ音が聞こえてくるものだが、この日は結局、社殿に着くまで誰とも会わなかった。まだ八時過ぎくらいの時間帯なのだから、こうしたことも珍しい。

 ヘビの手水舎につく。夜のここにいると、闇に覆われた三輪山のほうからオオモノヌシ神にじっと見られているような感覚におそわれる。

へびの手水舎

おなじみのヘビ

水面 

 社殿には兔の大絵馬がまだ飾ってあり、正月の名残を感じさせた。他の参拝客は熱心に祈っている二十代後半くらいの美人が1人だけ。思わず、まだ本当に八時くらいなのか、と腕時計を確認してしまう

大神神社社殿

同上 

 参拝を終えて、摂社の狭井神社へと向かう。この時も途中、誰にも会わなかった。というか、狭井神社にも他の参拝客はまったくいなかった。普通はくすり井のところで水をくんでいる先客がいるものだが、今回は終始、完全に貸し切り状態である。こんな日もあるのだなぁ

狭井坐大神荒魂神社

同上

同上

 狭井神社の参拝を終え、拝殿の裏にまわってくすり井にゆく

くすり井

ボタンを押すと水がでてくる。正面は飲む人用で、
水をくむ人は他の場所を使わなければならない。
よく工夫されたデザインだな、といつも感心してしまう。

 持参してきたペットボトルを慎重にセットしてから、ボタンを押して水をいれる。容器にだんだん水が溜まってゆく様子を見ていると、心が落ち着く。山頭火に「水音しんじつおちつきました」という句があったなあ

 

 総じて私はあまり神頼みということをしない性格だが、去年の秋、うちの部署に突然ものすごい予算がついて、それ以来、仕事に追われまくる日々を送っている。業務量は倍以上になのに、私の向かいの席にいた筆頭の主幹は4月から鬱病で休職のまま、── その分の業務もこなさなければならない。肉体的にも精神的にも正直キツイっす。夜中にこんなブログの原稿を書いているのも、はっきり言って逃避なのだ。(-_-;)

 とにかくそういう中で今回、「そうだご縁をいただきに大神神社に行こう。」と思い立って、今回の奈良への小旅行を敢行した。くすり井の水は毎朝、コーヒーを淹れて職場にもっていくつもり。これで4月まで何とか乗り切ろう

 狭井神社から大神神社への道。いつものことだが、ここを歩いて戻る頃にはそれまで抱えていた心のわだかまりやモヤモヤの類が雲散霧消している。やっぱり来て良かった

 再度、大神神社を参拝。感謝 ── 。  

 神杉のところで祝詞をあげている女性に出会った。  

  帰路、カーナビの指示に従っていたら、たまたま石上神宮の前を通りかかった。大神神社に参拝して、石上神宮に行かなかったら片詣りになるな、と思ってこちらも参詣。ここでも途中、一組のカップルとすれ違っただけで、後は全然、人に会わない。一月の中旬というのは神社仏閣に参詣する人が減る時期なのか。

 ここは楼門は閉まっているので、その外から参拝

 

 定番のアングル。奥の楼門ではなく、手前の手すりにピントを合わせるのがコツなのさ

 

 摂社、出雲建雄神社。気になる伝承、気になる祭神

 

 お気に入りの手水石。

 それにしても今回の神社参詣記を書いていて痛感したが、今のデジカメの性能はすごい。あまり照明の当たらないこの石だって三脚を使ってないんだから。これまで神社参詣は日が落ちたら終了だったが、これだけの画像が撮れるなら外灯さえあれば夜間もいけるかも

  

 

 


(16)伊勢津彦捜しは神社から【事忌神社】

2011年01月22日 00時12分09秒 | 伊勢津彦

 将来、伊勢津彦捜しの歴史が書かれることがあったら、事忌神社をめぐる知の冒険のことも、奇妙な挿話として語られるかもしれない ── 。

 伊勢国安芸郡に「事忌(こといみ)神社」という式内社がある。所在も祭神も由緒も祭祀氏族も不明だが、『神名帳傍注』は、「こといみ」の「こと」は「木霊(こたま)」の「こた」、「み」は「こたま」の「ま」とそれぞれ通音、ということで木霊を祀った神社であるとし、そこからその所在地を安芸郡林村とする説を立てた。

 この説はその後の諸書において、だいたいに受け入れられた。
 現在、津市芸濃町大字林(旧・安芸郡林村)に事忌神社という神社が鎮座しているのも、『神名帳傍注』の考証を受けて、林村に祀られていた何らかの神社が「事忌神社」に改称されたものだろう(ただし、当社の現祭神は木霊ではなく建早須佐之男命と菅原道真公)。

 しかしながら、「こといみ」と「こたま」を通音とするのは無理があるし、さらに木霊を祀った神社だから所在地が「林」村というのも非常にコジツケっぽい。

 はたして幕末から明治初期にかけて活躍した伊勢の国学者、御巫清直(みかんなぎ・きよなお)は『伊勢式内社検録』の中でこの説を批判して、「事忌を木霊に牽強する妄説」にすぎず、当社の所在地を林村のように木に関係する名前の村にするのだったら、高野尾村に樹神山長泉寺という寺院があるから、この村に配したって良いじゃないか、と一笑に付している。

 そこまでは良かった。

 が、清直は自らもこの失われた式内社の探索に乗り出したのである。

 彼によれば、応永年中に書写された『日本書紀私見聞』所引の『伊勢国風土記』に、次のような条があると言う。

「伊勢と云ふは、伊賀の事忌社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、またの名を伊勢津彦の神、またの名を天櫛玉命、この神、石城を造りその地に坐しき。ここに阿倍志彦の神、来り奪へど勝へずして還却りき。因りて以ちて名とせり。」

 まず言っておかなければならないのは、現在、日本古典文学大系本をはじめとした諸書において、『日本書紀私見聞』にある『伊勢国風土記』逸文の赤字部分は、「伊賀の穴志社」となっていて、清直が言うように「伊賀の事忌社」とはなっていないということだ。が、それを言い出すと話が終わってしまうので、ここは彼の主張を黙認しよう。

 清直は「伊賀事忌社」をとうがい式内・事忌神社に同定する。したがって、「伊賀」は国名の伊賀ではなく、伊勢国造安芸郡内にあった地名ということになる。だが、安芸郡内を捜しても「伊賀」という地名はなかった。その代わり彼は「赤部村」という地名を見つけた。

 地名の「部」は訓んだり訓まなかったりすることがある。このため、古くは「部」を訓まず、「赤部」はたんに「あか」とだけ言われていたのだろう。そして、「伊賀(いか)」と「あか」は通音なので、清直は赤部村を「伊賀」の遺称地と結論した。

 しかし、残念ながら赤部村には式内・事忌神社に当たるような神社がなかった。

 その代わり、その隣に高佐村という村をみつけた。

 そこで彼はひらめいた。

 『天地麗気記』という書物に大略、「高佐山には十二個の石室があり、伊勢津彦の石窟、または春日戸神の霊窟である。」という記事がある。
 ここで言う「高佐山」とは外宮の裏山に当たる高倉山の一名である。したがって高佐村のことを言ったものではない。しかし、伊勢津彦が石城に立てこもった伝承はもともと高佐村に伝わっていたものと考えたらどうだろうか。だとしたら、それが高倉山に訛伝したために、この山の異名が高佐山になったと考えられないか。

 そう考えた彼は早速、現地を訪れた。すると高佐村は「石城を造るとあるに形勢相似たり」だった。またその地には産土神が三社あるが、そのうちの一社は「イソの神」と称しているのでこれを捉えて、「伊勢の神の転訛にて是即伊勢津彦神なるべし」と結論した、── 。w


 「こといみ」と「こたま」を通音とした『神名帳傍注』の説もかなり強引だったが、ここに見られる清直の牽強付会もそうとうなものだ。『先代旧事本紀』の優れた考証を行うなど、国学史上の偉大な巨人と目される御巫清直、気でも狂ったか!、という無茶ぶりである。

 短絡的に見ると、彼が『日本書紀私見聞』所引の『伊勢国風土記』にある「穴志社」を、「事忌社」と誤読したことが原因ではあったろう。しかし、勢津彦の伝承に強く惹きつける力がなければ、こうも清直が大風呂敷を広げることはなかったろう。

 

 

 事忌神社には去年のまだ残暑が厳しい時期に訪れた。


事忌神社の社頭

事忌神社

同上

 神社は簡素な施設の、つつましい佇まいだった。

事忌神社本殿

「村社事忌神社鎮座古跡」 

 当社は明治四十二年に一度、近隣にある黒田神社に合祀された。現在も社殿背後に建っている明治四十二年の「村社事忌神社鎮座地古跡」の石標はその時のものだろう。当社はその後、復祀し、現在に至っている。

 清直が高佐村のことを「石城を造るとあるに形勢相似たり」と言っているので、神社の周囲を捜せば巨岩を祀った磐座に出会えるのではないか、と淡い期待を抱いていたのだが、そんなものはなかった。そもそもふきんいったいが、そんな地質の場所であるように見えなかった。

 またさっきも言ったように、清直によれば高佐村には神社が三社あり、そのうちの一社が「イソの神」と呼ばれていて、彼はこの神社を式内・事忌神社に比定しているのだが、神社明細帳によれば、現・事忌神社はかつて宇気比神社という社名であったという。ぬう、よく分らん。

 そんなこんなで、事忌神社のことを思い出すと、今でも狐につままれたような気分になる

 

 

 


背徳の山

2011年01月12日 23時20分40秒 | その他

 『奈良県史 第5巻 神社』に、桜井市竜谷にある三輪神社のことが出ている。

 

 自分の目を疑って何度も確認したけど、どう見ても「背徳」だ。一瞬、『ホーリー・マウンテン』みたいなのを妄想してしまったよ。

 ま、そんだけの話。

 

 


飛鳥の神がみ:飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(2/2)

2011年01月09日 20時26分59秒 | 飛鳥の神がみ

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(1/2)のつづき

 多くの式内社と同じく、式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(あすかかわかみにますうすたきひめのみこと・じんじゃ)も中世期に祭祀が断絶し、その所在が失われた。

 『類聚三代格』に納める貞観 十年(868)の太政官符には、封戸(税収を祭礼や社殿の維持管理の費用に充てるために、神社に寄進された神戸)のない神社の修理費用は、その祖神を祀った神社で封戸のあるものから出す旨の規定があり、例として、「たとへば、飛鳥神の裔、天太玉・臼瀧・賀屋鳴比女神四社、これらの類これなり。」とある。ここにある「臼瀧」は式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社のことなので、当社はすでに平安前期の頃、社殿の修理費用もままならない状態にあったことがわかる。

 いっぽう、現在の飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は、明治より以前は「宇佐八幡神社」と呼ばれていた。現在でも当社の社殿内は、中央に祀られる主神の宇須多伎比売命の両側にそれぞれ神功皇后(左)と応神天皇(右)が配祀してあるそうだが、この明治以前の宇佐八幡神社で祀られていたものだろう。

 『高市郡神社誌』によれば、当社には天文二十二年(1553)の湯窯が社蔵されており、そこに「宇佐八幡宮」の銘があったというから、この神社が八幡宮として信仰を受けていた時期は遅くとも中世後期に遡ることになる。では、それ以前の現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社がはたして式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社であったかどうかだが、実はこれは不明というほかない。というのも当社をこの式内社に比定したのは、『大和志』『神社覈録』『特選神名牒』等だが、『日本の神々』の大矢良哲氏も述べているように、何か確実な根拠があってそうされた訳ではないからだ。ただ、飛鳥川の上流域に鎮座し、山を拝する原始的な信仰形態を残しつつ、いかにも古社らしい風致をたたえ、足許を流れる稲淵川の岩盤には社名の由来とおぼしき滝もみられる等の漠然とした状況証拠から言い出されたことで、他に有力な論社もないなかでこれまでとくだんの異議が出されなかったにすぎない。 

  今、言った当社ふきんにある滝について説明しておく。前述のとおり、式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は貞観十六年(874)の太政官符には、「臼瀧」と表記されているが、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の石段の登り口から道路を渡り、下を流れる飛鳥川をのぞき込むと、岩盤が臼のような形に抉られてできた滝がある。この場所は「ハチマンダブ」と呼ばれるが、社名になっている祭神の「宇須多伎比売命(うすたきひめのみこと)=臼滝ヒメ」はこの滝を神格化したものではないかと言われる。

ハチマンダブ

同上

同上

臼っぽいです

 かつてかんばつがあると稲淵の集落では、このハチマンダブで火振りという雨乞い神事を行った。また、当社では戦前まで、大和に例の多い雨乞い神事のナモデ踊りも行われていたという。

 こうした雨乞い神事の存在は、皇極帝が祈雨儀式を行った「南淵の河上」とはこの場所のことではなかったか、という疑いを強めさせる。じっさい、『高市郡古跡略考』には「宇佐宮(★飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社のこと)ノ下なる川中ニ少しき淵あり。底ニ駒の足跡あり。皇極請雨の所にや」とハチマンダブのことがみえている。すでに紹介したとおり女帝が祈雨のために行幸したのは式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社とされるため、もし彼女が行幸した場所がハチマンダブであったとすれば、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社がこの式内社であったことは間違いなくなる。またその場合、ハチマンダブは「臼滝ヒメ」の神体ということになろう。

 しかしある時からふと疑問に思いはじめたのだが、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は山を神体として祀る祭祀形態の神社なのに、そのいっぽうでこの滝も神体であったとなると、当社には神体が2つあったことなる。そんなことがありえるだろうか?  そもそも各地の神社の中でも、一つの神社のなかに川辺の祭祀と神体山へのそれが同居しているような事例じたいをあまり聞かない気がする。

 また、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社がある場所は、宮都が次々に営まれた飛鳥地方の中心部からみれば確かに「飛鳥川上」であるものの、その離れ具合はやや半端な感じがする。単なる個人的な主観にすぎないと言われればそれまでだが、皇極女帝が祈雨した場所は当社よりもっと上流の、大字で言えば栢森や畑辺りにあったほうがしっくりくる。ちなみに、当社の鎮座地の大字「稲淵(いなふち)」は皇極天皇が祈雨したのは「南淵の河上」の、「南淵(みなふち)」が音転したもので、確かに当社は稲淵でも上流側のほうに鎮座している。しかし、「南淵の河上」といったらここよりさらに上流を指していても不自然ではない、  ── 上述の疑問も併せ、いつの頃からか私はそんなことを考えるようになった。 

 最近、『飛鳥の祭りと伝承』で次のような記述に出会った。

「飛鳥川上流域には多くの滝や淵が見られる。畑の集落の南を流れる畑谷川とその支流には、有名な男淵と女淵がある。男淵は小字トチガフチにある。上畑の集落から東南の方向で、細谷川の本流ではなく、冬野からの支流が細谷川に合流する少し手前にある。そこには九メートルほどの滝がかかっている。女淵はそこから約一・五キロメートル下流の小字ウスタケ(栢森では小字メブチ)にあって、約五、六メートルの滝がかかっている。この女淵付近が畑と栢森の境の地になっている。ウスタケとは「臼瀧」の意で、稲淵の飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社のウスタキと同じだろう。おそらく臼瀧という地名は、滝や淵があって窪地になっている所をいうのであろう。(『飛鳥の祭りと伝承』桜井満・並木安衛編所収の「飛鳥川上流の民俗」瀬尾満、桜楓社p91~92)」

 この筆者は大事な論点を見落としている。さっきも述べたように、現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社が同名の式内社であったという確実な根拠はない。あくまでもいくつかの状況証拠から漠然とそう言い出されたに過ぎない。

 いっぽう、女淵のふきんに現在、神社はないが、「ウスタケ」という字が残っている以上、式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社はかつてその付近に鎮座していたと考えるべきだろう。つまりこの式内社は、女淵(=臼滝)を神体として祀る祭祀の神社だったが、後世になり廃絶したのだ(平安初期にしてすでに社殿の修理費用もままならないほど衰微していたことはすでに見た通り。)。

 女淵は栢森の集落から入谷へ行く道を上り、途中で細谷川を遡るほうに分岐してから少し入ったところにある。現在では道標や川辺に下りる階段などが整備されていて訪れやすい。現・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社から見るとさらに上流域に当たり、直線距離だと東南東に1kmほど離れている。この場所はちょうど畑と栢森の入谷の三大字の境界ふきんに当たるらしく、それで畑から見れば字「ウスタケ」で、栢森から見れば字「メブチ」となるようだ。

 女淵は周囲を岸壁に囲われ薄暗く、私が訪れたときは水が濁っていたこともあって、覗き込んでも底が見えなかった。案内の看板には、かつて6mほどの青竹を突っ込んだが底に届かなかったという伝承が紹介されている。平面形はだいたい円いので滝壺が臼に似ている。本物の「臼滝」はハチマンダブのほうではなくこちらのほうであり、女淵こそ式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の神体だったのだ。

女淵
Mapion

同上 

臼っぽいです 

 ハチマンダブと同じく、この女淵も近世まで雨乞いの霊験が著しい場所とされ、ひでりがあると、下畑と上畑の集落はそれぞれ女淵と男淵で雨乞いの神事を行い、栢森の集落も女淵には雨乞いをしたという。下の看板にもある通り、皇極女帝が祈雨神事を行ったのが女淵だったという説もあるようだ。  



看板

 伝承も豊富で、女淵とその上流にある男渕にはそれぞれ女と男の龍神が棲んでおり、その底は竜宮につながっているといわれていた。また、『大和の伝説』には、「畑の某が男淵にいるウナギを龍神の使いとは知らず、毒を流して多く取り、腹を割いて料理し、岡村に売りに出たまではよいが、その祟りで、その父がウナギ料理の出刃包丁で割腹し、血染めになって死んでいた。これから、男淵に手をつける者は、誰もいなくなった。」という怪談じみた話が載っている。男淵と女淵はかつて強烈なタブーで守られていたことが分かるだろう。

 いずれにしても、女淵に「ウスタケ」という字名が残っている以上、式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の所在はまずこの場所に求められなければならないように思われる