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(5)伊勢津彦捜しは神社から【梛神社(1/2)】

2010年08月08日 11時04分51秒 | 伊勢津彦
 伊勢津彦は伊勢の土着神であった。神名に「伊勢」という地名がついていることが、そのことを紛れもなくしている。
  •  もっとも『伊勢国風土記』逸文では、彼の名にちなんで神武天皇が国の名を伊勢としたことになっている。が、これは風土記によくある無理な地名起源説話だろう。 

 ところで、風土記には記紀には見られない神々がたくさん登場する。彼らのほとんどは風土記の中でも登場するのは一回きりで、その存在は極めてローカルである。さて、伊勢津彦もそうした神の一例なのだが、そのいっぽうで彼はその信仰圏がローカルに留まらない広がりを感じさせるという点で、極めて例外的な存在である。

 『先代旧事本紀』国造本紀によると、相模国造は武蔵国造の祖、伊勢津彦の三世の孫、弟武彦から出たとされている。同じく国造本紀によれば武蔵国造は出雲臣の一族で、兄多毛比命を祖とすることになっている。『伊勢国風土記』逸文によれば伊勢津彦は出雲の神の子で、別名を出雲建子命とも言ったというのだから、相模と武蔵の国造は出雲氏の一族であると共に、伊勢津彦の裔であったと解釈できる。

 なお、『武蔵国造系図』には、アメノホヒ神の子、アメノミナトリ命に二子があり、一人は伊佐我命で、出雲国造・土師氏らの祖であるが、もう一人が出雲建子命で、一名伊勢津彦と言い、はじめ伊勢国度会郡に住んでいたが、神武天皇の御世に東国に来て、武蔵国造の祖になったという記事がある。すなわち、天日別命に敗れて伊勢を去った伊勢津彦は、その後、東国に定着してそこの豪族となっていたことになる。

 これらの伝承はとても興味深いが、そこには何らかの史実が反映しているのだろうか。それともたんなる後世の作為なのだろうか。
 以前も紹介した松前健の『国譲り神話と諏訪神』は、「建御名方と伊勢津彦」の章でこれを後世の作為としている。

「伊勢津彦東海退去の物語は、海辺の祭儀の縁起譚に過ぎないもので、別に何等かの種族の移動や氏族の東遷の史実が背景となっているわけではないから、その東海の果の常世郷に消え去った神の行方を、史実的、地理的に探求しようとする試みは、およそ無益なユーヘメリズムに過ぎないのである。しかし、日本人は、古来しばしばそうした神の行方を、現実のどこかの地に比定しがちであったし、また地方の有力豪族などでも己れの家系に箔をつけるため、その氏族の先祖を、そうした有名な神(それも多くは行方不明を伝えられた神)と同一視しがちであった。(『日本神話の形成』所収p457)」

 しかし、たとえ伝承の中とはいえ、伊勢津彦は神武天皇によって派遣された天日別命の軍勢に逆らっており、このため、私は自家の血統に箔をつけるため、相模と武蔵の国造家が彼を祖神として採用したという説に疑問を感じる。むしろ、これらの伝承には何らかの史実が反映していると考えるほうが自然ではないか。

 相模国造に伊勢津彦を祖神とする伝承があったことについては後でまた触れるが、いずれにせよ、伊勢津彦はその信仰圏に広がりがあり、伊勢ローカルな存在ではなかったのである。

 さて、『播磨国風土記』にも「イセツヒコ」という名前の神が登場する。同風土記の揖保郡条によれば、伊勢野という土地の地名起源説話として、この野に民家が建つといつも平穏に住むことができなかった。そこで、衣縫の猪手、・漢人刀良らの祖にあたる人が、ここに住もうとして山麓に神社を建て、山上の峰にいる伊和大神の御子である伊勢都比古の命と伊勢都比売とを祀った。その後、伊勢野の民家は安泰に暮らせるようになり、ついに村里となって伊勢野と名付けられた、とある。

 この『播磨国風土記』に出てくる「伊勢都比古命」は、『伊勢国風土記』逸文の伊勢津彦と同じ神だろうか?このことについては同神説と同名異神説があり、いずれも定説とはなっていない。

 同神だったとすると、まず疑問に思えてくるのは、伊勢の土着神である伊勢津彦が、どうして距離的にも離れていて、人文歴史地理的に言ってもあまりつながりが感じられない播磨にいたのかということである。しかし、すでに言ったとおり、伊勢津彦の伝承は相模や武蔵や信濃にもあるのであって、その信仰圏は伊勢ローカルに留まらないものであった。したがって、伊勢津彦が播磨にもいた可能性は否定できないのである。

 『伊勢国風土記』逸文に登場する伊勢津彦には女神の記事がなく、彼は独身者だっという印象を与える。ところが、ここに登場する「伊勢都比古命」には伊勢都比売という伴侶がいて、ペアで祀られていたらしい。この差異はどうか。
 天平三年(731)撰という奥書のある『住吉大社神代記』には、舟木の遠祖で太田田命の子である神田田命の孫に、伊瀬川比古乃命という者があり、伊瀬玉移比古命の娘を妻にして伊勢国舟木にいるという記事がある。「伊瀬川比古乃命(いせつひこのみこと)」というのは伊勢津彦のことらしいが、してみると彼には妻がいたことになる。したがって『播磨国風土記』の記事との矛盾はない。

 また、「伊勢都比古命」は伊和大神の御子であったとあるが、伊和大神は播磨国一宮、伊和神社で祀られていた神で、その伝承は揖保川流域を中心に多数、『播磨国風土記』のなかに登場する。大和朝廷が進出する以前に、このいったいで勢力を伸ばしていた伊和君一族の奉斎する神だった。そのような神が、はたして伊勢津彦の父神であったなどということがありえるのか。

 伊和神社は『延喜式』神名帳には「伊和坐大名持御魂神社」という名前で載っている。「大名持御魂」、すなわち出雲系のオオナムチ神の神霊を祀る神社である(実際に現祭神は大己貴命となっている。)。おそらく伊和大神があまりにも古い神格なので、『延喜式』が編集されていた頃には本来の由来が忘れられ、オオナムチ神と混同されるようになっていたらしい。いっぽう、さっきも言ったが『伊勢国風土記』逸文によれば伊勢津彦は出雲の神の子で、別名を出雲建子命とも言ったという。したがって出雲系の神であることを介して、伊勢津彦が伊和大神の御子であったという伝承が生じた可能性は否定できない



播磨国一宮の伊和神社。

 5ha以上ある社地はうっそうとした社そうに覆われており、昭和44年の調査では目通り3mを越す巨杉が84本確認されたという。ふきんからは銅鐸も見つかっており、えん源の深さを感じさせる。社殿が北面していることでも有名。

 当社は播磨と山陰地方を結ぶ要路上に鎮座し、現祭神として大己貴命を祀っている。このため、社殿北面の理由は祭神の故地であった出雲方面に向かせたため、という説もある。が、しかし社名からいってほんらいは『播磨国風土記』に頻出する伊和大神を祀るものだったはずである。伊和大神は大己貴命と別の神で、それが後世になって混同されるようになったのだろう。

 


 こうしてみると、『播磨国風土記』の「伊勢都比古命」が伊勢津彦であったかどうかは、なかなか簡単には決着の付く問題ではないことがわかってくる。だが、伊勢津彦が播磨という、伊勢から西の、海路で行くなら紀伊半島をグルッと迂回しなければならない土地にもいた可能性があるということを、私は非常に興味深くおもうのである


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11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
伊勢津彦は伊勢の付く地名に住む人 (次郎)
2014-08-21 10:29:52
伊勢津彦は伊勢の地名、伊勢崎、伊勢原、伊勢林に住む、S姓の人、諏訪氏はその別れ?
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Unknown (kokoro)
2014-08-24 08:41:21
 次郎さん、初めまして。拙ブログを読んでいただいてありがとうございます。

 ご質問の内容によくつかめない処もありますが、伊勢崎、伊勢原は古代までさかのぼるような地名ではないようです。
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さっそく回答ありがとうございます。 (次郎)
2014-08-26 17:21:08
伊勢と地名にする以前、なにか語り継がれた伝承がある?
S田=江田・英多=県=方で御名方、伊勢津彦=タケミナカタならばS田=伊勢津彦?また意味がわからない?伊勢崎70世帯、伊勢原に40世帯、重田姓!
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伊雑神社は (次郎)
2014-08-26 20:39:23
重田姓は、雑賀衆にもあるらしく、伊勢の伊雑神社に関係あるか、また、伊勢津彦が、伊賀に、甲賀の近くに重田がおおい?
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直感で (次郎)
2014-08-26 21:05:20
伊勢神社にしろ、出雲、金平、天満宮、善光寺、諏訪それぞれの支配者の情報集積所としてつくられた。そんなき賀します。
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Unknown (kokoro)
2014-08-27 22:10:57
 次郎さん、こんばんは。

 確かに諏訪、善光寺、出雲、伊賀、甲賀などには、何となく伊勢津彦の臭いがありますね。

 私が掘り下げるとしたら相模しゅうへんになるでしょうか。
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日頃ありがとうございます。 (次郎)
2014-08-31 07:14:02
たびたびすいません。この山、いやトンネルの方が有名ですか?!八風山トンネル、八風山、伊勢津彦が、伊勢を飛び立つ八風峠、降りた山、八風山?
南の方に、タケミナカタの子、孫オギハギを祭る新海神社があり、重田と新海の分布で、?!?、その時また!
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Unknown (kokoro)
2014-08-31 17:35:14
 次郎さん、こんにちは。

 残暑の時期に八風峠に登られるのでしたら、帽子とペットボトル等、熱中症対策が必要です。広い河原をずっと歩く箇所があったりして、河原石の照り返しがきつかったです。日焼け止めもあったほうが良いです。

 それと秋に登る場合はクマ鈴等、クマ対策が必要かもしれません。

 老婆心ながら。
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お疲れでやす (次郎)
2014-09-01 20:38:17
ありがとうございます、文章を読んで歴史を感じるタイプで、勝手に新しいこと探したと、喜ぶのでご迷惑おかけします、なぜ、金刺と諏訪氏が何故同じ諏訪神社なのか、疑問で調べてます。石附次郎の末裔、もちろん自称。
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お疲れでやす (次郎)
2014-09-01 20:38:19
ありがとうございます、文章を読んで歴史を感じるタイプで、勝手に新しいこと探したと、喜ぶのでご迷惑おかけします、なぜ、金刺と諏訪氏が何故同じ諏訪神社なのか、疑問で調べてます。石附次郎の末裔、もちろん自称。
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