神社の世紀

 神社空間のブログ

伊吹山の神は誰ですか(7)

2014年06月30日 21時19分49秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神は誰ですか(6)のつづき 

 宮古島では次の(a)(b)のような神話も見つかっており、アカリヤ仁座の登場するそれの類話と考えられている。 

(a)シツ(節)という祭りに井戸から水を汲んできて、それを浴びて、人間は若返っておった。ある日、女が井戸から水を汲んできて、重いからおろして、いらごの実を食べている最中に蛇が入り、その水で若返った。人間は蛇に敗けて死ぬようになった。
(b)昔、人間は蛇のように皮を脱いで若返っていた。蛇は一代限りのものであった。ある時、人間と蛇が賭をした。節祭りの日に平良市のムズカ川に早くいって水を浴びたほうが皮を脱いで若返るようにしようということになった。節祭りの日の朝早く人間が皮に水浴びにいくと、すでに蛇が水を浴びていた。それ以後人間は死に、蛇は皮を脱ぎ若返るようになった。
 ・『沖縄民間説話の研究』丸山顕徳 勉誠社 p158 

 それにしても、この2つの神話にはアカリヤ仁座の処で登場した「しに水」にあたる存在がみられない。あるいは、より素朴な印象を与えるこれらのほうが、アカリヤ仁座の登場するものより古い神話のフォルムを伝えているのではないか。また、この2つの神話は同じくアカリヤ仁座のそれと違って「すで水」の由来が天上界に求められておらず、地上にある井泉、なかんずく(b)の場合では「平良市のムズカ川」なる実在するとおぼしき河川名が登場している。こうした実在の泉が「すで水」としての信仰を受けるというケースは沖縄にもあったらしく、折口信夫の『若水の話』には「首里朝時代には、すで水は国頭の極北辺土の泉まで汲みに行った。其が、村の中のきまった井にも行くやうになり、一段変じて家々の水ですます事にもなった。」という一節がある。 

 それはともかく、玉井の伝承を分析した際、「生命の水」である「すで水」は伊勢の五十鈴川の水のほうで、これに対して玉井の水は「しに水」にあたるとした。しかし、「しに水」の登場しない上の(a)(b)の神話からも感じるのだが、古くは玉井のほうが「すで水」であり、五十鈴川のほうは後から附会されたように思う(どうして玉井の伝承に、伊勢を流れる五十鈴川のことが附会されたかは別考しよう)。ようするにこの泉の水は、栗太郡に住んでいた人々によって、かなり古くから「生命の水」として信仰を受けてきたと考えるのだ。 

 ではその場合、どうして玉井の水は「生命の水」として聖別を受けるようになったのか?
  ── それを考える前に、まず次のことを整理しておく。すなわち、玉井の伝承が宮古島に伝わる死の起源説話と同型である以上、最初からそれが近江に伝わっていたとは考えにくい。おそらく、いつの時点かに海人族などの流入に伴って南島から持ち込まれたものだろう。しかし、たとえそうであったとしても、そのような伝承が玉井に伝わるようになったことまでが偶然とは思えない。人の移動に伴い伝承は伝播するが、それが特定の土地に定着するには、やはりそれなりのきっかけが必要だったと思われるからである。おそらく、この神話が伝わる以前から玉井の水は「生命の水」として信仰を受けていたのではないか。だからこそ、南島に起源をもつ神話が持ち込まれた際、同質の信仰を基底材としてそれがそこに上載されたと考える。 

 では、玉井の水を最初に「生命の水」として信仰したのはいったいどのような人たちであったか? 

 ここで「姥が餅」に注目したい。 

 姥が餅を販売する現在の「うばがもちや」本店は、草津駅近くの国道1号線沿いにあるが、かつては旧東海道と八橋街道が分岐する地点に店を構えており(現在の瓢泉堂がある場所)、そこは復元された玉井のある場所から北に約1km程度、離れた地点であった。わりと近い範囲である。 

 この餅は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などにも登場し、近世以来、草津宿の名物として知られたものである。だいたい親指の先ぐらいのサイズをしたあんころ餅の一種だが、白あんと山芋を練り切りしたものが頭に載っており、これによって乳房を表している。


姥が餅
画像は「うばがもちや」のホームページから

 どうして姥が餅は乳房を表しているのか?
 「うばがもちや」のホームページにある「うばがもち物語」によると、この餅には次のような謂われがある。永禄十二年(1569)、織田信長に滅ぼされた佐々木義賢が、3歳になるひ孫を乳母の「福井との」に託して息を引き取る。「との」は郷里草津に身を潜め、幼児を抱いて住来の人に餅をつくって売りながら暮らした。やがて忠義な乳母が売る餅は誰いうとなく「姥が餅」と呼ばれるようになり、その評判は草津名物として全国に広がった。この餅のフォルムは乳母が幼君に奉じた乳房に因んでいるのだ。 

 さて以前、白清水のところで、この清水が「生命の水」として信仰を集めたのは白濁していることが母乳を連想させたからではないか、という感想を述べた。また、それを支証する事例として、やはりダイイングゴッドとして再生儀礼に預かる大国主神の場合も、八十神の計略に遭って殺害された際には、キサガイ姫とウムギ姫の調合した「母の乳汁」をもって息を吹き返したことを述べた。


青木繁の『大穴牟知命』
八十神の迫害に遭って落命した大国主神が、
キサガイ姫とウムギ姫の治療によって蘇生する場面を描いた絵画
左にいるキサガイ姫のモデルは
青木の愛人だった「福田たね」だが、
右側で乳房を出しているウムギ姫のモデルは、
当時の青木が止宿していた旅館の娘、「宮田たけ」であるという


宮田たけ
青木は茨城県筑西市にあったこの旅館で名作『大穴牟知命』を描きあげたが、
当時の彼は「たね」との間に長男が生まれたばかりだった
しかし、「たね」は乳の出が悪く、このため「たけ」にもらい乳したという
「たけ」がウムギ姫のモデルをつとめるようになったのには、
こうしたいきさつがあったらしいが、
彼女の実家であったこの宿の名はなんと「玉之井旅館」であった

 ここで、母乳というモチーフを介した通底に基づき、「姥が餅の伝承の基層には、伊吹山の神に殺害されるダイイングゴッドの信仰と同タイプのそれが眠っている」としてこれを解釈してみる。
 ── 繰り返しになるが、このタイプの信仰とは、かつて伊吹山が望める地域で行われたもので、この地域に広がる水田の穀霊は、刈り入れの季節になると伊吹山に登ってこの山の神に殺戮され、春になり田植えの季節がはじまると、息長氏出身の巫女たちが山麓に湧きでた「生命の水」を使ってこれを蘇生させる、というものである。 

 その場合、まず、殺害される「ダイイングゴッド/穀霊」が亡くなった「佐々木義賢」にあたり、同じく彼を滅ぼした「織田信長」が穀霊を殺害する「伊吹山の荒ぶる神」にあたることになる。
 同じく、穀霊を蘇生させた「息長氏の巫女」は「福井との」にあたり、彼女の「母乳」は白清水をはじめとして伊吹山麓に湧き出るあれらの「生命の水」にあたる。「との」によって養育された「義賢のひ孫」は、「生命の水」によって再生した「佐々木義賢」であるとともに、蘇生した「ダイイングゴッド/穀霊」になるのだ。 

 乳母のものと伝わる「福井」という姓も意味深長である。『延喜式』によれば、宮中には天皇の長寿を寿ぐ聖水として、「生井」「綱長井」と並び「福井」という井泉が置かれていた。「生井」は天皇の生命を健康に保つための聖水であり、「綱長井」は長い綱のように天皇の寿命が途切れなく続くことを寿ぐ聖水であったろう。ここから、「福井」もまたたんに福をもたらすというだけでなく、ある種の生命主義に基づいた「生命の水」だったことがうかがわれる。してみると、「福井との」のイメージの中には、こうした聖水をつかさどる巫女のそれが残響しているのではないか。そして近江でそのようなイメージに相応しい巫女とは、これまで繰り返し述べてきたとおり、水の霊力を操る呪能に長けた息長氏出身の女性たちなのである。とすれば、玉井の水が「生命の水」として聖別されるようになった背景には、伊吹山麓いったいから息長氏の分派が栗太郡に移住し、彼らの信仰をこの湧水に持ち込んだ事情があるではないか。

 

伊吹山の神は誰ですか(8)」につづく

 

 

 


伊吹山の神は誰ですか(6)

2014年06月30日 21時19分31秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神は誰ですか(5)」のつづき 

 次のような伝承が玉井にはある(以下の引用で「野路の玉川」とあるのは、本論で言うところの「玉井」である。)。 

「正月の十五日、伊勢の五十鈴川の水で煮た小豆の粥を祝うのが、宮中でのしきたりになっていた。神宮の神域を流れる五十鈴川の水を使うと、小豆がよく煮えるとされていて、毎年その水を汲むための使いがさし向けられた。
 ある年、その使いに立った男が、野路の玉川のほとりを過ぎようとして、あまりの水の美しさに足を停めた。そして、わさわざ伊勢まで行くには及ばない、この川の水でも間に合うのではあるまいか、と考えたのである。男は玉川の水を汲んで帰り、黙って主水司に渡した。さて粥を煮てみると、その年に限って小豆がうまく煮えない。糺明の結果、伊勢まで行っていないことが明らかとなり、男は遠流に処せられた。
 罪びととなって同じ道を下ってきた男は、玉川のほとりを再び通りがかった。そして、この川の水がこんなに美しくさえなかったら、と長歎したのだった。玉川はその日から濁りはじめたのだという。記録によると江戸時代の寛政の頃には、すでに幅三メートル足らず長さ五メートルの小池になっていたようである。」
 ・『近江の伝説』駒敏郎・中川正文 角川書店 p68~69 

 ここに見られる1月15日、すなわち小正月の日に小豆粥を祝う習俗は実際に宮中で行われていたものである。今後の検討の際、重要になるのでこれを簡単に説明しておこう。『延喜式』にはこの日、宮中で米粥に小豆・粟・胡麻・黍・稗・葟子が入ったものを食べ、一般官人には米粥に小豆だけが入ったものを振舞う旨の規定があった。小正月に小豆粥を食した記事は『土佐日記』や『枕草子』にも見られ、現在でも東北地方の一部には同様の習俗が残るという。その趣旨は邪気を払い新しい一年の健康を祈念するものとされるが、年の改まる節目の時期に生の更新を図り、心身ともに強壮になって新しい年を迎える再生儀礼の一種と思われる。とうに無くなったこんな古い習俗の登場するこの伝承は、それだけでもユニークで興味深い。 

 それはともかくアイヌには、怠惰な若者が水を汲みに行くのを嫌がって神々の怒りに触れ、地上から引き離され月の中に置かれたため、月面にこの若者の姿がみえるという神話がある。 

 このアイヌの神話は、宮廷の使いが五十鈴川まで小豆粥を煮る水を汲み行くが、伊勢まで行かないで途中の玉井の水で済ませてしまい、やがてそのことが発覚して遠流に処せられたという玉井の伝承と似ている。もし両者がほんらい同型の説話であったとすれば、玉井の伝承にも月が関係していたのではないか。むろん、この伝承は一見すると月が登場しない。しかし小豆粥を食す習俗は小正月(正月十五夜)に行われるのであり、この日付は月との関係をうかがわす。また、玉井を歌った天仁元年(1108)の「むすぶ手も涼しかりけり月かげに底さへ見ゆる玉の井の水」に月が登場するのも注意をひく。 

 もしも玉井の伝承とこのアイヌの神話が類話の関係にあるとしよう。その場合、ニコライ・ネフスキーが宮古島で採話し、『月と不死』で紹介したあの有名な死の起源説話こそは、これらの伝承の原型ではなかったか。 

「大昔、宮古の島の人の世の出初めの時、月の神と天の神は、人間の命を幾代かけても末長く続かせようと思召され、アカリヤ仁座をお呼びになって、水を入れた二つの担桶を授けて仰せらるるには、これを下界に持ち下り、人間にはスデ水(蘇生の水)を浴びせ、幾代かわるも末長くスデ代わて常世の命あらせ、蛇には心さまの悪しき者なればスニ水(死の水)を浴びせよ。と、真正なる曇なき御情を人類に授けようとされた。
 アカリヤ仁座は、み旨に従って、二つの水桶を担って下界へ下った。もとより長い水のりを来たこととて足腰も疲れたので、担桶を下して憩いつつ道の側に放尿していた。すると其のひまに、一疋の蛇がすばしこくやって来て、人間に浴びせるためのスデ水の桶に入ってジャブジャブと浴みてしまった。アカリヤ仁座は打驚き、さてどうすればよいことであるか。まさか蛇の浴び残りを人間に浴びせる訳にもいかない。よんどころないことである。スニ水なりとも人間に浴びせよう、気の毒に思いつつも人間にはスニ水を浴びせて天上へ帰った。そして自分の非を悔いて正直に事の仔細を申し上げると、月の神、天の神はことの外お憤りになり、永久につきせぬ命を授けんと思いし此の心は汝の不覚によりあだになりしぞ。汝の其の許し得ぬ科あれば、人間の下界に住いなす限り、宮古の島の存する間、その担桶をになって月の世界に立ちて居れと、審き給うた。それで月の世界には今まで審きのままにアカリヤ仁座は担ぎ桶を担って、つきせぬ罪に問われて立っているという。 そして、スデ水を浴びた蛇は、幾世かわるも脱皮しては新生命をうけつぎ、スニ水を浴びせられた人間は永久に行き度くても、一度死ねば再び帰る能ほず運命づけられてしまった。それでアカリヤ仁座は、審きの庭で罪に問われつつも、何とかして人間に蘇生の道を得させ度さに、毎年、シツの深夜には柄杓を取ってスデ水を汲んでは撒きちらすので、今でも其の夜は小雨が降るといわれている。」
 ・『万葉びとの世界』桜井満 雄山閣 p138~139 

 ここに登場する蛇は「すで水」を浴びることで、「幾世かわるも脱皮しては新生命をうけつ」ぐ不死の存在となっている。古代人は蛇や蟹などの生物は脱皮(脱殻)の度に若返る不死の霊力をもつと考えていた。沖縄から奄美にかけて新生児の額に蟹を這わせる出生儀礼が分布するが、これなどもほんらい、新たに生まれてきた子が蟹のもつそうした霊力によって長寿になることを願ったものだろう。
 ちなみに、こうした習俗は、その裏に、かつて人間も脱皮し、その度に再生ないし若返ったので死ぬことはなかったが、何らかの事故(たとえば「すで水」の代わりに「しに水」を浴びてしまった等の)に遭ってそのような能力を失い、死すべき運命になったという古い信仰の存在を暗示している。 

 それはともかく、正月の習俗の中にはこうした脱皮する生物を食すことで、その霊力を体内に取り入れて生の更新を図ろうとするものがある。たとえば、伊勢エビは豪華おせち料理の定番だが、これなどもほんらい、脱穀するエビの霊力を年が改まるにあたって摂取し、生の更新を図る由来があったように思われる


高級おせち料理の食材には欠かせない伊勢エビ
(ウィキペディアの画像を拝借)
今回の画像はこれだけになってしまった
 

 また、正月料理に出される縁起物の中で、生の更新のために食される「脱皮する生物」は必ずしも動物とは限らない。伊勢エビに比べると地味な存在だが、おせち料理には里芋(八つ頭)も入る。里芋と言えば、正月ではないが中秋の名月にこの芋を供える「芋名月」の風習もある。大林太良によれば、正月と八月十五夜に縁起物としてこの芋を食す習俗は、日本各地から中国の江南地方にわたって分布するというが、これについて論じる中で彼は次のように述べた。 

「ここで興味深いことは、広東省においては、儀礼的食品として里芋を食べることを、里芋の汚い皮を剥ぐという表現で表していることが多いことである。私は、これは脱皮による再生のモチーフを元来表していたのではないかと考えている。つまりⅡ章で論じたように、人間も里芋の皮を剥くように脱皮して再生、ないし若返ったのだという信仰があったのではなかろうか?〈中略〉新年と八月十五夜に里芋の皮を剥いて食べることは、神話的な元古における脱皮能力を儀礼として再現し、反復することなのである。これによって食べる人の生命は、この節日にあたって更新され、活性化されるのである。」
 ・『正月の来た道』大林太良 小学館 p151 

 つまりここで大林は、新年に里芋を食べる習俗のことを、おせち料理の伊勢エビと同じようなものとして捉えているのだ。私もこの大林の議論に大賛成である。というのも、ここから小正月の日に小豆粥を食す習俗の由来について見当がついてくるからである。すなわち、よく煮て柔らかくなった小豆をつぶすと外皮を残して中から餡が出てくる。古代人はそこに里芋と同じような脱皮の表象をみたのではないか。その場合、彼らは類感呪術によって「脱皮による生の更新」を図るために小豆粥を食したことになる(伊勢エビや里芋のように)。 

 ここで玉井の伝承に話をもどす。
 古代人が煮えた小豆に脱皮の表象を見たとすれば、「宮廷の使いが五十鈴川のそれの代わりに玉井の水を渡したため、宮中で小豆粥を作ろうとしても例年のように良く煮えなかった。」というのは、小豆の脱皮が不全に陥ることであり、ひいてはそれを食す人間たちに「脱皮できない/死なねばならない」運命がもたらされることと等価となる。そしてそのように考えると、小豆がよく煮えるとされる「五十鈴の水」は「すで水」、そうではない「玉井の水」は「しに水」に該当し、使いの者の犯した罪は、人間たちに「しに水」を浴びせたアカリヤ仁座のそれと等しくなる。「すで水」を浴びて不死となった蛇にあたる存在は脱落しているものの、以上の検討から、玉井の伝承はもともと宮古島に伝わる死の起源説話と同型の神話であったように思われる

 本土のしかも内陸部にあたる近江に、宮古島に伝わる神話の類話が残っているというのはやや突飛に感じられるだろうか。しかし、古代の近江はヒボコの伝説でも明らかなように、渡来人や海人族を含む多くの人々が流入してくる土地であった。そういった人たちが伝えた多様な文化の中に、こうした古い神話も紛れ込んでいたのだろう。 

 

伊吹山の神は誰ですか(7)」につづく

 

 

 


伊吹山の神は誰ですか(5)

2014年06月30日 21時19分08秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神は誰ですか(4)」のつづき


現地の看板

 ところで、米原市が立てた看板には、白清水は「古くから、白清水または玉の井と呼ばれています。」とある。白清水が「玉の井」とも呼ばれていたというのは、おそらく『近江輿地志略』の記事に基づいて言っているのだろう。しかし、この有名な地誌が白清水のことを「玉井」という見出しで取り上げているのは確かだが、そこには「土俗専ら白清水といふ。」とあり、土地の人はもっぱら白清水と呼んでいたことが述べられている。 つまり、もともとそんな別名はなかったのだ


『近江輿地志略』の玉井の見出し
「野瀬野ケ原にあり。土俗専ら白清水といふ。然れども…」

 ではどうして『近江輿地志略』は白清水のことを「玉井」の見出しで記載したかというと、そこには「土地の人はもっぱら白清水と呼んでいるが、『類字名寄』には〝玉井〟とあり、これを裏書きする歌も多いので〝玉井〟の名を出す。」というようなことが書いてある。『類字名寄』は『大名寄』の異名もある『類字名所和歌集』のことだと思うので、白清水の別名が「玉井」であるというのはどうやら古歌による考証に基づいているらしい。ところが不思議なことに、白清水を詠んだ古歌などいくら捜しても見当たらないのである。近江で古歌に歌われた「玉井」といえば、『近江国注進風土記』にあげられた栗太郡の「玉井」ぐらいなので、おそらくそれとの混同らしい。 

 『近江国注進風土記』は、『山槐記』の元暦元年(1184)九月十五日条に所収されている文献で、近江国の国司が同国の名勝を朝廷に注進したものである。取り上げられている場所は、野洲郡の「三上山」、浅井郡の「朝日里」、甲賀郡の「蔵部山」などのように、古歌に歌われている場所が多い。栗太郡の「玉井」の場合も、天仁元年(1108)11月21日の鳥羽院大嘗会悠紀方和歌に「むすぶ手も涼しかりけり月かげに底さへ見ゆる玉の井の水」がある(江帥集)。 

 それはともかく白清水がある坂田郡は湖北地方で、玉井がある栗太郡は湖南地方である。普通では考えられないこんな混同が、どうして定評ある『近江輿地志略』でおきたのか?、── この疑いは一考の価値がある。 

 まず考えられるのは、次のようなことではないか。
 白清水には小栗判官照手姫のそれだけではなく、伊吹山の神に害されたヤマトタケル尊が、その水によって正気にもどったという「居醒めの清水」伝説も伝えられていた(このことはすでに述べた。)。ところで『古事記』には、居醒めの清水がもともと「玉倉部の清水」と呼ばれていたが、ヤマトタケル尊がこの泉の水で正気にもどったため、「居醒めの清水」と呼ばれるようになったというようなことが書いてある。したがって、白清水が本当に「居醒めの清水」であったか、あるいはそうでなくてともそれに附会されたかした場合は、過去に「玉倉部の清水」と呼ばれた時期があったかもしれない。ここから、「玉」という語を介した連想により、玉井と白清水が混同された可能性が考えられよう。 

 しかしそれだけでは(もし今の憶測が当たっていたとしても)動機としてまだ弱い感じがする。
 そこで栗太郡の玉井にも、白清水のような「生命の水」の信仰があったのではないか、と考えてみた。もしそうだとすれば、玉井にも小栗判官照手姫と似たような再生譚が残っていておかしくないため、両者の混同が生じやすくなるからである。そこでこの泉にそのような「生命の水」の信仰の名残と見なせる伝承なり神社なりがないか検討してみる。 

 まず玉井のあった場所だが、角川のほうの地名辞書は不明としているものの、平凡社の『日本歴史地名大系』のほうは、草津市を流れる十禅寺川近くの小池のことと言われている、と述べている。 

 十禅寺川は立命館大学のびわこ・くさつキャンパスの裏にある牟礼山付近に発し、西流して草津市野路町などを流れながら矢橋で琵琶湖に注ぐ小河川である。その延長はせいぜい5~6km程度だが、やはり『日本歴史地名大系』によれば、「千載集」に載る源俊頼の「あすもこむ野ぢの玉川はぎこえて色なる浪に月やどりけり」をはじめ、平安時代以来、多くの歌に詠まれた「野路の玉川」は十禅寺川のことで、萩の名所として「萩の玉川」とも称されたという。その優美な風情から「日本六玉川」の一つに数えられたこともあったが、現在では流域に新幹線、JR東海道本線、名神高速、国道1号線のような幹線交通が集中し、往事の面影は完全に消え失せている。


東海道ふきんを流れる十禅寺川
かつて「日本六玉川」の一っに挙げられていた


「日本六玉川」の紹介がある看板

 さて、かつて十禅寺川と旧・東海道の交点ふきんには、この川の伏流水が湧き出してできた小池があり、『近江輿地志略』などではこの小池のことが「玉水」と呼ばれていた(現在でもふきんに「玉水」の字が残るという。)。この池は往還の名所として東海道を行く旅人たちによく知られていたものの、今では消滅したようだ。しかし、現地を訪れると箱庭のようなこの池が復元してある。


復元された「玉井」?
旧東海道と十禅寺川の交点近くにある
Mapion

 なお、そこで見かけた看板や角川のほうの地名辞書では、「野路の玉川」とは十禅寺川ではなくこの池のほうであるとしており、『日本歴史地名大系』の記述と異なっている。


現地の看板
「野路の玉川」はこの池のことであるとしている


現地の石標
古そうな石標にも「玉川」とあるが  …

 しかし、「玉川」と言うからには池ではなく川だろう。また今、言ったように享保八年(1723)の『近江輿地志略』ではこの池のことが「玉水」として紹介され、「玉川」にはなっていない。そこでここでは、『日本歴史地名大系』にしたがい「玉川」とは十禅寺川のことであるとして話を進める。

 そのいっぽう、さっき『日本歴史地名大系』で「玉井と言われている」として紹介した「十禅寺川近くの小池」というのはおそらくこの池を指していると思う。その場合、近世まで「玉水」と呼ばれていたことや、かつては景勝地として有名だったことなどを勘案し、この池を『近江国注進風土記』の言う栗太郡の「玉井」とする比定は穏当だとおもう。ということで今後はこの池を「玉井」として話をすすめる

 

伊吹山の神は誰ですか(6)」につづく