★「神社とはなにか(3)」のつづき
また、こうした本殿がなく自然物を祀る式内社の例は、政府があった畿内に少なく、そこから離れるのにしたがって増えてゆきそうなものだが、じっさいにはそうでもない。いやむしろ畿内でも古代に王権の本拠地があった大和には大神神社いがいにも本殿のない式内社が少なくないのである。それどころか個人的印象では、対馬や南紀のように地形的な理由で古い文化が保存されやすい地方を除くと、大和という土地は山や岩石を祭祀するアニミズムの信仰形態を残す神社がもっとも多く残っているのである。これも律令政府が常設神殿の造営によって、それまでの原始的なアニミズムの信仰を本気で断絶しようとしたのなら奇妙な現象である。
【本殿がなく自然物を神体としている大和の式内社】
葛上郡の大穴持神社
神体山の唐笠山中腹に鎮座
本殿はなく百日紅、つつじ、樫などの神樹が瑞垣の中にあるだけ
高市郡の天津石門別神社
これまた拝殿だけで本殿はなく、高さ1.8mほどの石垣上に
板石を巡らせ、その中に生えた榊が神体となっている
高市郡の飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社
当社の社殿は遙拝造になっており、背後に延びる山の尾根を拝している
城上郡の忍坂山口坐神社
拝殿背後にある高さ50cmほどの立石が神体
十市郡の畝尾都多本神社
当社の境内は全体が泣沢森(『万葉集』202)となっており、
古代・埴安池の水源地であったとも言われる
こうしたことからか拝殿背後の石垣上には神殿がなく、
代わりに瑞垣を巡らせた中にある井戸が神体となっている
(かつては井戸から榊が生えていて、枯れる前はそれが神体だったとも言う)
添上郡の天乃石立神社の神体
岩石を祀る神社の中でもっとも感銘深いものの一つ
天照皇大神が隠れていた天岩戸の扉が飛来したとも伝わる
周囲の幽邃なふんいきも特筆される
当社にある建築物は床のない簡素な拝殿のみ
さらに、社殿が造営された神社でも、果たして井上が言う通り、「祭神が常時神殿に鎮座するものとされ、この固定化された祭神そのものが信仰の対象とされる。これは、本尊を祭ってそれを信仰の対象とする寺院と、その契機において本質的に異なるところがない。」と言えただろうか。どうも、これについても慎重な検討が必要だと思う。
例えば京都の賀茂別雷神社は社伝によると、天武六年に本殿を造営したが、この建物は背後に扉があり、祭事の時はそれを開いて北北西にある神体山の神山を拝していたという。要するに神殿ではなく遙拝殿で、実質的には山を祀る自然信仰のままだったのだ。
また、この扉は後に廃されたが、それでも天正年間に本殿が新しく造営されるまで、その位置に扉形の板が打ち付けてあったという。つまり、かなり後世まで遙拝殿の痕跡を残していたことなるが、それにもかかわらず当社もまた式内明神大社で、二十二社の中の一社であり、官社の中でも別格の扱いを受けていたのである。天皇のお膝元に鎮座する最重要神社さえも、信仰面ではこのようにアニミズムとの連続性が顕著だったのだ。
井上のもう一つの著書、『日本の神社と「神道」』の中には、じしんの神社理解を以下のように要約している箇所がある(これは先行する丸山茂と三宅和朗の研究の要点をまとめた部分だが、「筆者もまたこれらの見解を基本的に指示すべきものと考える。」と述べているのでそのように読める。)。
「(1)国家の手による恒常的な祭祀施設(神殿)の成立をもって「神社」の成立と考え、(2)その一般的な成立は天武朝期の官社制の成立に重要な画期が認められるとし、かつ(3)それは従来の在地の信仰との間に明らかな飛躍・断絶と重層性が存する〈後略〉」
・井上寛司『日本の神社と「神道」』校倉書房p64
井上の主張では、このうちの(3)に見られる「飛躍・断絶」が強調され、「国家の手による恒常的な祭祀施設(神殿)の成立をもって「神社」の成立と考え」、それ以前のアニミズムの時代は「神社」成立の「前史」として切り捨てられる訳だが、これまで各地の古社の例を見てきた通り、アニミズム信仰の時代と天武十年以降の間には依然として強い連続性が認められる。したがい、官社化に伴う常設神殿の造営をもって「神社」の成立とする議論は首肯できない。
総じて天武十年以降、律令政府が各地の有力神社に常設神殿を造営して官社化したのは、それまで各地の首長たちの手にあった在地の神がみの祭祀権を律令の統制下に置くことが目的だったはずである。そこには地域勢力に対する支配を強め、天皇の権力基盤を強化する狙いがあった。ただし当然のことだが、そのような意図にかなう神社というのは、どのようなそれでもよい訳ではなかったろう。それは当時の祭政一致の地域社会において、すでに強大な宗教的権威を獲得した神が祀られている、それこそその地域でもっとも聖なる場所=神社でなければならなかったはずである。したがって、常設神殿を造営して官社化するにしても、そうした宗教的権威まで否定してしまっては元も子もなかったはずで、あくまでもそれは残したまま、在地勢力の祭祀権だけを律令の統制下に置くことが課題だったのだ。つまり、律令政府は政策的にも官社化以前からつづく祭祀の連続性を担保する必要があったのであり、そこに「飛躍・断絶」を導入して「神社」を成立させる意図はなかったのである。
もっとも、すでに引用した通りある程度は井上も、こうしたアニミズムの信仰の時代と、天武十年以降の間にある連続性を認めている。が、そうだとしてもそれを過小評価している感じがする。それはこの連続性を認めると、両者間の「飛躍・断絶」がなくなり、天武朝期の官社制の施行による「恒常的な祭祀施設(神殿)の成立をもって「神社」の成立と考え」ることもできなくなるからではないか、と邪推したくなる。
井上やそれに先行する神社研究は、それまで自然発生的に生じたとされてきた神社における常設の神殿が、そうではなくて天武十年以降、政策的に造営が進められてきたことを明らかにした点や、またその際、それ以前に行われていた原始的なアニミズムの信仰がフィルタリングされた可能性を示唆するなど、今後の神社史研究に大きな影響を与えるだろう。しかし天武十年が神社にとっての画期であるとしても、官社化に伴う常設神殿の造営をもって神社の成立とまで言い切るのは行き過ぎであったように思われる。
「神社とは何か(5)」につづく