神社の世紀

 神社空間のブログ

神社とは何か(4)

2012年07月23日 22時53分06秒 | 神社一般

★「神社とはなにか(3)」のつづき

 また、こうした本殿がなく自然物を祀る式内社の例は、政府があった畿内に少なく、そこから離れるのにしたがって増えてゆきそうなものだが、じっさいにはそうでもない。いやむしろ畿内でも古代に王権の本拠地があった大和には大神神社いがいにも本殿のない式内社が少なくないのである。それどころか個人的印象では、対馬や南紀のように地形的な理由で古い文化が保存されやすい地方を除くと、大和という土地は山や岩石を祭祀するアニミズムの信仰形態を残す神社がもっとも多く残っているのである。これも律令政府が常設神殿の造営によって、それまでの原始的なアニミズムの信仰を本気で断絶しようとしたのなら奇妙な現象である。

【本殿がなく自然物を神体としている大和の式内社】

葛上郡の大穴持神社

神体山の唐笠山中腹に鎮座
本殿はなく百日紅、つつじ、樫などの神樹が瑞垣の中にあるだけ

高市郡の天津石門別神社

これまた拝殿だけで本殿はなく、高さ1.8mほどの石垣上に
板石を巡らせ、その中に生えた榊が神体となっている

高市郡の飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社

当社の社殿は遙拝造になっており、背後に延びる山の尾根を拝している

城上郡の忍坂山口坐神社

拝殿背後にある高さ50cmほどの立石が神体

十市郡の畝尾都多本神社

当社の境内は全体が泣沢森(『万葉集』202)となっており、
古代・埴安池の水源地であったとも言われる
こうしたことからか拝殿背後の石垣上には神殿がなく、
代わりに瑞垣を巡らせた中にある井戸が神体となっている

(かつては井戸から榊が生えていて、枯れる前はそれが神体だったとも言う)

添上郡の天乃石立神社の神体

岩石を祀る神社の中でもっとも感銘深いものの一つ

天照皇大神が隠れていた天岩戸の扉が飛来したとも伝わる

周囲の幽邃なふんいきも特筆される

当社にある建築物は床のない簡素な拝殿のみ

 さらに、社殿が造営された神社でも、果たして井上が言う通り、「祭神が常時神殿に鎮座するものとされ、この固定化された祭神そのものが信仰の対象とされる。これは、本尊を祭ってそれを信仰の対象とする寺院と、その契機において本質的に異なるところがない。」と言えただろうか。どうも、これについても慎重な検討が必要だと思う。 

 例えば京都の賀茂別雷神社は社伝によると、天武六年に本殿を造営したが、この建物は背後に扉があり、祭事の時はそれを開いて北北西にある神体山の神山を拝していたという。要するに神殿ではなく遙拝殿で、実質的には山を祀る自然信仰のままだったのだ。 

 また、この扉は後に廃されたが、それでも天正年間に本殿が新しく造営されるまで、その位置に扉形の板が打ち付けてあったという。つまり、かなり後世まで遙拝殿の痕跡を残していたことなるが、それにもかかわらず当社もまた式内明神大社で、二十二社の中の一社であり、官社の中でも別格の扱いを受けていたのである。天皇のお膝元に鎮座する最重要神社さえも、信仰面ではこのようにアニミズムとの連続性が顕著だったのだ。

 井上のもう一つの著書、『日本の神社と「神道」』の中には、じしんの神社理解を以下のように要約している箇所がある(これは先行する丸山茂と三宅和朗の研究の要点をまとめた部分だが、「筆者もまたこれらの見解を基本的に指示すべきものと考える。」と述べているのでそのように読める。)。 

「(1)国家の手による恒常的な祭祀施設(神殿)の成立をもって「神社」の成立と考え、(2)その一般的な成立は天武朝期の官社制の成立に重要な画期が認められるとし、かつ(3)それは従来の在地の信仰との間に明らかな飛躍・断絶と重層性が存する〈後略〉」
    ・井上寛司『日本の神社と「神道」』校倉書房p64 

 井上の主張では、このうちの(3)に見られる「飛躍・断絶」が強調され、「国家の手による恒常的な祭祀施設(神殿)の成立をもって「神社」の成立と考え」、それ以前のアニミズムの時代は「神社」成立の「前史」として切り捨てられる訳だが、これまで各地の古社の例を見てきた通り、アニミズム信仰の時代と天武十年以降の間には依然として強い連続性が認められる。したがい、官社化に伴う常設神殿の造営をもって「神社」の成立とする議論は首肯できない。 

 総じて天武十年以降、律令政府が各地の有力神社に常設神殿を造営して官社化したのは、それまで各地の首長たちの手にあった在地の神がみの祭祀権を律令の統制下に置くことが目的だったはずである。そこには地域勢力に対する支配を強め、天皇の権力基盤を強化する狙いがあった。ただし当然のことだが、そのような意図にかなう神社というのは、どのようなそれでもよい訳ではなかったろう。それは当時の祭政一致の地域社会において、すでに強大な宗教的権威を獲得した神が祀られている、それこそその地域でもっとも聖なる場所=神社でなければならなかったはずである。したがって、常設神殿を造営して官社化するにしても、そうした宗教的権威まで否定してしまっては元も子もなかったはずで、あくまでもそれは残したまま、在地勢力の祭祀権だけを律令の統制下に置くことが課題だったのだ。つまり、律令政府は政策的にも官社化以前からつづく祭祀の連続性を担保する必要があったのであり、そこに「飛躍・断絶」を導入して「神社」を成立させる意図はなかったのである。 

 もっとも、すでに引用した通りある程度は井上も、こうしたアニミズムの信仰の時代と、天武十年以降の間にある連続性を認めている。が、そうだとしてもそれを過小評価している感じがする。それはこの連続性を認めると、両者間の「飛躍・断絶」がなくなり、天武朝期の官社制の施行による「恒常的な祭祀施設(神殿)の成立をもって「神社」の成立と考え」ることもできなくなるからではないか、と邪推したくなる。 

 井上やそれに先行する神社研究は、それまで自然発生的に生じたとされてきた神社における常設の神殿が、そうではなくて天武十年以降、政策的に造営が進められてきたことを明らかにした点や、またその際、それ以前に行われていた原始的なアニミズムの信仰がフィルタリングされた可能性を示唆するなど、今後の神社史研究に大きな影響を与えるだろう。しかし天武十年が神社にとっての画期であるとしても、官社化に伴う常設神殿の造営をもって神社の成立とまで言い切るのは行き過ぎであったように思われる。

 


神社とは何か(5)」につづく

 

 

 


神社とは何か(3)

2012年07月21日 11時27分31秒 | 神社一般

★「神社とは何か(2)」のつづき 

 こうした神社観は従来のものとかなり違うので、もしもこれが広く受け容れられれば、神社のイメージを大きく変えるだろう。しかし率直な疑問として、例えば大和の大神神社は三輪山を神体としているので本殿がないが、当社は現在、宗教法人登録されているのはもちろん、神社庁からは別表神社にも指定されている。これほどの神社が「神社」ではないのだろうか。 

 井上はこうしたことについて次のように述べている。 

「これまで見てきたように、常設神殿の創出や祭神の改編と固定化、あるいは官社としての位置づけなど、律令制の成立にともなって成立した「神社」は、それ以前とは大きく異なるものであった。しかし、人びとの神々との具体的なかかわりかた、あるいはその信仰内容という点からすると、そこに明らかな連続性も認められる。祭神を祭るための常設神殿が設けられ、常時そこに神が鎮座するとされるにもかかわらず、依然として神は目に見えないものとされ、祭礼の度ごとに神楽や奏楽などによって神を招き降ろすための儀礼が必要とされたことなどは、そのもっともわかりやすい一例といえよう。
 そうしたこともあって、律令政府の思惑やたびたびの命令にもかかわらず、官社としての神社の実態、とりわけ常設神殿の造営が容易に進まなかったことを指摘しておかなくてはならない。藤原氏の氏神として、あるいは春日造りの神殿形式などで知られる大和の春日大社の神殿が八世紀後半の神護景雲二年(七六八)になってようやく創建された(「神社」として整備された)というのも、その一例である。」
    ・前掲書p43~44
 
「その結果として常設神殿が存在しないなど、本来の神社としての条件を備えていない、いわば非「神社」ともいうべき施設が多数を占めた。そのため「神社」という概念そのものがきわめて曖昧なものとなってしまった。これは、律令政府の掲げる理念や目標・建て前と社会の実態とのズレという、より本質的な問題とも密接に関わるところで、律令政府がその当初からきわめて深刻な問題を抱えて出発したことを示すものとして注目される。
 律令政府としてはこれを放置することができず、律令制を維持・運営していくための新たな対応策を講じなければならなかった。八世紀末から九世紀以後における古代神社制度の転換は、そうした律令制の対応を示すものであったといえる。 

 古代神社のありかたが大きく変化した最初は、平城京から長岡京を経て平安京への遷都がおこなわれていた直後の延暦十七年(七九八)のことである。
 それまでの官社を、官幣社と国幣社とに分け、地方の神社を神祇官ではなく各国の国司の管轄下に置くこととした。また、これにともなって、祈年祭の班幣も国幣社に関しては国司からおこなわせることとした。これは、桓武朝期における律令制再建築の一環をなすもので、地方の実情をよく知る国司を動員することによって律令政府のめざす神社整備の政策を推進しようとしたものであった。
 この政策はそれなりの誠功を収め、これ以後官社(官国幣社)の整備はおおいに進み、常設神殿をもつ神社が一般的となっていった。」
    ・前掲書p45~46 

 とあるのだが、だとすれば康保四年(967)に施行された律令の施行細則に当たる『延喜式』の神名帳に登載された神社にはすべて社殿がなければおかしい。しかし、式内社の中には大神神社をはじめ、現在でも本殿の代わりに山や岩石を神体として祀るものが少なからずあるのである(『延喜式』が制定された頃は、現在よりさらに多かったろう)。

【本殿がなく、自然物を神体として祀る式内社の例】

若狭国遠敷郡の弥和神社

神社の施設はこの簡素な拝所だけ
神体は背後にある野木山

野木山

陸奥国桃生郡の石神社

常陸国那賀郡の石船神社

社殿は拝殿だけで本殿はなく、瑞垣で囲われた大石が祀られている

瑞垣の中の大石

加賀国江沼郡の宮村いそ(「山」へんに「石」)部神社

本殿はなく、瑞垣で六角形に囲まれた神地が拝されている
神地の中には樹木が生え、その根元には神霊が寄り付いた石があるという

対馬上県郡の天神多久頭魂神社

本殿はなく、天道山と呼ばれる神体山を廃する遙拝施設があるだけ

遙拝施設

神体山の天道山
二基の石塔は対馬の天道信仰に特有のもの

 もしも常設神殿の造営によって、それまでの自然物を祀っていた神社との間に断絶を生じさせ、新たに「神社」を成立させることが律令政府の方針であったとすれば、何故こうした神社が『延喜式』神名帳に載っているのだろうか。むしろ積極的にそこから排除されてもおかしくないのではないか。しかも、それら本殿のない式内社の中には大神神社をはじめ、諏訪大社(上社本宮)、金鑚神社など、明神大社に列する等、極めて神階の高いものがあるのだ(ちなみに、大神神社は中世期においても二十二社に加列している。)。 

 

神社とは何か(4)」につづく

 

 

 

 


神社とは何か(2)

2012年07月15日 11時44分28秒 | 神社一般

★「神社とは何か(1)」のつづき

 中世史家の井上寛司は近年の書物で、従来と全く異なる神社の定義を提出している。井上による当該の書物は、『日本の神社と「神道」』と『「神道」の虚像と実像』であるが、特に後者は講談社現代新書から出版されたもので、かなり広く読まれていると思う。その第一章「神社の誕生」からちょっと長めに引用してみる。 

「日本に固有の宗教施設である神社は、弥生時代やそれ以前の時代にさかのぼる農耕儀礼のなかから自然発生的に成立したものだとする理解が、一種の社会常識として今日も広く受け容れられている。こうした考えは、第二次世界大戦後に建築史家の福山敏男によって定式化され、それが「神道」の理解とともに一般に広まったものであった。
 福山が指摘するのは、神社が自然信仰(アニミズム)そのものであり、その延長線上に位置するということにある。福山は次のように指摘する。 

「極めて古い時代には、主として農耕の季節的な行事などに結びついて、祭の時に臨んで一定の神域に於て神霊の来臨を仰いだと思われるが、次第にその祭事が恒例化して、毎年一回とか二回とか定まったときに仮設の神殿が造られ、祭事が終わると取り壊されていたものが、更に固定化して恒久的な性質を持つ神殿建築やそれに付随する種々の建物が出来るようになったらしい。」 

 そして、これに対応して神社は
  (a)神籬(臨時の神の座とされる常緑樹)・磐境(神を迎え、祭るために岩石などを用いて設けられた祭場施設)」
    (b)神殿のない神社
    (c)仮設の神社
    (d)常設の神社
 と、それぞれ変化・発展していったという。」
    ・井上寛司『「神道」の虚像と実像』p22~23
   
 こうした現在、一般的に行われている「神社」の理解を確認した上で井上は、「しかし、こうした神社についての理解は、いくつかの重大な問題点を抱えていると考えなければならない。」とした上で次のように述べる。 

「いちばん検討されなければならないのは、「神社」という呼称・用語そのものが、律令制成立過程のなかで新たに生まれたもので、それ以前にはさかのぼらないということである[西田長男 一九七八]。
 神社が成立するには、もちろんそこにいたる長い歴史が存在すると考えなければならないが、しかしそれはあくまでも前史であって、神社そのものとは区別する必要がある。神社とそれ以前の祭祀施設(ヤシロ、ミヤ、モリ、ホコラなどと称された)とを不用意に結びつけて理解したために、神社とはなにかがきわめて曖昧なものとなってしまった。(p24)」 

「では、神社とはなんなのか。そのもっとも重要な特徴は、福山が(d)として指摘したように常設の社殿をもつ宗教施設だということにある[三宅和朗 二〇〇一]。常時そこに神(祭神)が鎮座する者として、これを信仰の対象として種々の祭礼や儀礼が執りおこなう。こうした恒常的な神殿をもつ宗教施設、それこそが神社にほかならないのである。
 神社をこのように捉えなおしてみると、そこにはいくつかの重要な問題が含まれていることがわかる。
 神社とは、信仰形態という点でそれ以前と大きく異なるもので、そこに大きな質的な変化が認められる。神社成立以前の、福山のいう(a)~(c)では、神が神霊であるなど、人間の目には見えないものとされ、したがって祭礼の度ごとに神を招き降ろし、榊・岩石や人などの依代に憑依させることが不可欠とされた。これは、原始的社会以来の伝統にとづくアミニズム(自然信仰)特有のカミ観念を前提とする信仰形態ということができる。これにたいし、神社成立後にあっては、祭神が常時神殿に鎮座するものとされ、この固定化された祭神そのものが信仰の対象とされる。これは、本尊を祭ってそれを信仰の対象とする寺院と、その契機において本質的に異なるところがない。」
    ・井上寛司『「神道」の虚像と実像』p24~25 

「このことから、偶像崇拝的な信仰形態の成立、福山いうところの(c)から(d)への転換は自然史的な過程ではなく、人為的・政策的なものであったことが推測できる。実際のところ、天武十年(六八一)から始まって、律令政府は再三にわたって神社(神殿)を造営するよう命じていて、それが律令政府の国家的な政策にもとづくものであったことがわかる。その起点となった『日本書紀』の天武一〇年正月己丑(十九日)条には、「畿内及び諸国に詔して、天社・地社の神の宮を修理せしむ」(原漢文)と記されている。
 天神・地祇の神々を祭る神の宮(神殿=神社)を造営せよとの天武天皇の命令を伝えたもので、ここにいう「修理」は「神社」と同じく律令用語のひとつとして新しく生まれたもので、造営のことを意味している。
 天皇(国家)の命に基づいて造営された常設神殿をもつ宗教施設こそが成立期の神社の姿であり、国家(具体的には、国家の公的祭礼の執行と全国の神社・神官の統括・管理を任務とした神祇官)の保護と管理・統制の下に置かれたところから、一般にこれを官社(神祇官社)と称した。」
    ・井上寛司『「神道」の虚像と実像』p25~26 

 要するに神社とは常設の社殿をもつ宗教施設で、その成立は初期の律令国家がそれを造営したことに求められるというのだ。そこには、当時の祭政一致社会の中で、各地の神社を官社化=有・社殿化することにより、中央権力による地域支配が強化できるという目論見と、外来の仏教への対抗宗教として神道を特権化するには、「ハコもの」として寺院に対抗できるような宗教建築の整備が必要だった、という背景があった

 

神社とは何か(3)」につづく

 

 

 


神社とは何か(1)

2012年07月04日 22時31分29秒 | 神社一般

 神社が古代にさかのぼる原始的な在来信仰をルーツとして、長年月にわたって、さまざまな契機を取り入れながら日本人の宗教生活上に命脈を保ったことは言うまでもない。そしてこのように優れて歴史的な存在である神社について、その起源が問われるのはむしろ当然のことだと思う。じっさい、神社いっぱんについて触れられた書物を読むと、必ずといっても良いほど起源のことが触れられている。また、個別の神社でも創祀についてわかっている場合は、由緒においてそのことが必ず記されているものだ。神社とは何かについて考えるにあたっても、まず起源の問題について考えることから始めたいと思う。

 神社の起源を問う前に、まず神社が成立する以前はどのような祭祀が行われていたかを見ておく。 

 古い時代の祭祀は、祭りが行われた後は祭場を元の状態に復元し、儀式に使用された道具もそのつど、廃棄されたという。考古学者も土坑の中から祭具がまとまって見つかるのは、使用済みのそれを捨てた跡として通常の祭祀遺跡と区別している。
 だがその場合、祭りを行う場所は決まっていたのか、それとも祭礼毎に選定し直される一回性のものであったのかという疑問が生じる。 

 神社いっぱんに関して書かれた書物の中でもこのことに関してはわりとブレがあるようである。例えばたまたま手元にある2冊の書物でも、『神社』(岡田米夫、近藤出版社)には「ヤシロは屋代で、神を祭る場所(神庭)をさしており、古くはこの祭場そのものは特定地であっても、祭礼に臨んでそこに神を迎えるための簡単な建築物を設け、祭が済むとこの一般的(←「一次的」の誤植?)な仮屋は撤去したのである。(p11)」とあるが、いっぽう『日本の聖地ベスト100』(植島啓司、集英社新書)には「アジアの国々では、聖地はアド・ホック(暫定的)なもので、祭りが終わるときれいに片づけられ、たちまち普通の場所へと戻される。ある特定の祭りの期間だけ聖地として崇められるが、それが終わるとたちまち村の一角へと格下げされてしまう。それこそ聖地の本来のありかたであった。「不動の聖地」という考え方が生まれるのはもっとずっと後の時代になってからのことであろう。(p10~11)」とある。両書とも祭礼が終わると祭壇や祭具の類が撤去されたとする点は共通しているが、祭礼の場所が特定したものだったかどうかについては考えが分かれている。 

 このことに関し私は、古代人が祭礼が終わるたびに祭具類を破棄していた時代は、祭礼の場所も一定していなかったと考えている。彼らが祭具類を廃棄したのは、聖なる時空は日常のそれと隔絶していることを強く意識したためだったと思う。聖なる存在は畏怖すべき存在である、したがい、その痕跡や記憶が日常の時空に残ることを極力、避けねばならない、── ここにはそんな思考態度が感じられる。その場合、彼らは「聖地」の誕生を恐れた。祭礼が終了するたびに祭具を廃棄していた古代人は、その場所もまた特定化させず、1回ごとに選定し直したのだ。およそ神社的なものからこれほど遠いものもないだろう。  

 では、こうした神社成立以前に行われていた場所性の極めて希薄な祭祀から、どのようにして神社が誕生したのだろうか?

 神社の起源については定説となった説明がある。すなわち、原初の神社には社殿がなく、代わりに山や樹木や岩石のような自然物を信仰の対象にしており、現在のように常設の社殿が設けられるようになったのは後世になってからだ、というものだ。じっさい、現在でも古社の中には奈良県の大神神社のようにそうした原始的信仰のスタイルを残したものがいくつかある。

奈良県の大神神社は拝殿だけで本殿はなく、
背後にある三輪山を神体として祀っている

 注意しておきたいのは、常設の社殿ができたということが神社成立の絶対条件ではない、ということだ。それはあくまでも今日のわれわれがイメージするような神社の成立にすぎず、そのいっぽうで社殿がなく自然物を崇拝していた頃の神社は神社でなかった、ということにもならない。社殿があるかどうかは、神社成立の絶対条件ではないのである。 

 では、神社の起源は山や岩などに対する古代人の素朴な信仰に求められるものとして、そのことの何が神社を成立させる決定的な契機となったのだろうか? 

 前掲書『日本の聖地ベスト100』には、さっき引用した部分の少しあとに続けて次のようにある。 

 「聖地が特別なものであるということを示すには、結界を張り、そして、それを恒常化するために、四方に榊(柱)を立て、しめ縄をはりめぐらすだけでなく、そこを特別な場として固定する目印を必要とするようになる。それをプリミティブな順に挙げると以下のようになる。
  (1)神籬
  (2)磐座
  (3)磐境
  (4)神奈備
  (5)社・神社
 もちろん、それらのいくつかは区別がはっきりしないし、同時に存在することもある。(p11)」

 ここで著者は、古い時代の祭場はアド・ホック(暫定的)なもので、その場所は一定していなかったという上述の議論を前提に、そこから聖地が生まれるには場所を固定するための目印が必要であったとしている。そしてその例として神籬や磐座から神社(ここでの「神社」とは社殿のことだろう。)までが並べられているのだが、それらの間にはどれだけ原始的であるかという程度の差があるだけで、目印としての機能するという意味では本質的に同じものとして扱われている。

 要するに山や石や樹木が原初の神社となりえたのは、たんに古代人がそれらに信仰心を抱いたからというだけでなく、それらが地面に定着していて場所を固定化する機能を持つためなのだ。そしてそれによって祭祀の場所が特定されることが、神社成立の契機なのである。これはなかなか透徹した議論ではないか。少なくとも従来から行われてきた、自然物に対する原始的なアニミズムの信仰がそのまま神社に発展した、という説明では取りこぼされてきた面に光を当てているように思われる。 

 このことと併せて次のようなことも注意される。すなわち、原初の神社が神体として祀っていた自然物は、山、岩石、樹木、湧泉のようにすべて地面に定着したものなのだ。いっぽう巨大な入道雲や美しい夕焼けや猛烈な嵐や稲妻も、古代の人びとに畏怖の念を呼び起こしただろうが、寡聞にしてそうした気象現象を神体として祀った神社の例は全く聞かない(風雨や雷の神を祭った神社というのはあるが、神体としてそれらの自然現象じたいを祀っていたという例はない。)。これはこうした現象が地面に定着したものではないため、場所を固定化する働きを持たなかったからなのだ

 

神社とは何か(2)」につづく