神社の世紀

 神社空間のブログ

御神渡り2012【諏訪湖と諏訪大社上社(長野県諏訪市ほか)】

2012年02月07日 23時58分42秒 | 信濃の神がみ

 5日の日曜日は念願かなって、諏訪湖の御神渡り(おみわたり)を見ることができた。

 御神渡りというのは全面氷結した諏訪湖の湖面に、主として南北方向の亀裂ができることで、古来、諏訪大社の上社の建御名方命が、湖面を渡って下社の八坂刀売命のもとに通う道筋であるとされてきた。ちなみに、こうした湖や池を挟んで夫婦神の神社が鎮座し、両社の祭神が通婚するというタイプの伝承は大和の菅田神社などにもある。とにかく興味ぶかい。

 御神渡りが発生したかどうかの判定は、諏訪市小和田にある八剣神社の関係者が行う。それが確認できると、氷脈の方位などからその年の吉凶を占う「諏訪湖御神渡り拝観報告」という神事を行われる。その結果は諏訪大社の上社に報告されるが、今年は2月3日に「御神渡りの発生が期待できる。」という記事がローカル・ニュースに流れ、さらに翌4日には「御神渡りの発生が確認されたので、急きょ八剣神社の氏子総代会が開かれ、拝観の日取りが6日に決定された。」という記事が出た。しかし6日は月曜日なので拝観は諦め、御神渡りだけを5日に見物してきた。

 ちなみにの6日の信濃毎日ウェブサイトの記事には拝観式の結果が以下のように掲載された。↓

「結氷した湖面がせり上がる「御神渡(おみわた)り」が4季ぶりに確認された諏訪湖で6日朝、氷の筋を最終決定する神事「拝観式」が行われた。御神渡りを記録する八剣神社(諏訪市小和田)は式の後、1683(天和3)年から伝わる「御渡(みわた)り帳」と今回の筋を照合。ことしの世相は「厳しい中だが明るい兆しが見える」、作柄は「中の上」と占った。」

とのこと。本当にそうなってほしいよ。

 今年の御神渡りは、上社の建御名方命が下社の八坂刀売命の元へ通うために下りたとされる「下座(くだりまし)」が諏訪市渋崎で、そこから北の下諏訪町高浜に延びる筋を「一之御渡り」、また、渋崎から岡谷市湊を経由して下諏訪町東赤砂に至る筋を「二之御渡り」、さらに、下諏訪町との境に近い諏訪市湖岸通りから南西に向かう筋を「佐久之御渡り」と認定した。

 私が見たのは二之御渡りのうちの、岡谷市湊から下諏訪町東赤砂に向かう部分である。まず湊のほうに着いたが、見物客が大勢いたので場所はすぐに分かった。

大勢の見物客

湊から東赤砂に延びる御神渡り

 見ると御神渡りは見事な蛇行線を描きながら対岸の東赤砂にむかっている。これを見れば伝承のことなど知らなくても、何かが対岸へ渡った跡というイメージが自然に浮かぶのではないか。しかも甲賀三郎の伝説で明らかなように、諏訪神には龍蛇神の属性もあり、そうなるとこの蛇行線がますます巨大な蛇が通った跡に見えてくる。

蛇行する御神渡り

その遠景

御神渡りアップ

 対岸の東赤砂のほうからも眺めてみた。

東赤砂から眺めた御神渡り

同上

同上

 御神渡りが発生すると、亀裂の両側に氷が高さ30~100センチに渡って盛上りがると言われる。実際、ものの本にもそれぐらいありそうなギザギザの氷が盛り上がった写真が載っている。しかし、今年の御神渡りは亀裂だけで、氷の盛上りがほとんど発生しておらず、やや迫力不足である。しかし見られるだけでも幸運なのである。というのも温暖化等の影響で、かつては毎年見られたこの現象も、近年は発生する年のほうが珍しいのだ。ちなみに前回、御神渡りがあったのは2008年で間に3年のブランクがあり、1991年と1998年の間はなんと6年のブランクがあった。今年、こうして御神渡りが見られるのも先週、日本列島を襲った寒波のおかげなのである。

 

 

 せっかく諏訪まで来たのだから、もちろん諏訪大社の上社にも参拝。ただし時間の都合で下社は省略(笑)。

 概して雪の積もった神社の境内は絵になるものだが、上社の場合はまた格別である。ストイックな白と黒の景観が、濃密な原始的信仰のふんいきとよく合う。

 まず本宮を参拝。

諏訪社上社本宮

表皮をひん剥かれた一の御柱も寒そうだ

一の御柱の背後には、見落としそうになるが諏訪の霊石の1つ、御沓石がある

御沓石の横にある小さな滝は完全氷結

上社本宮の拝幣殿

拝幣殿の背後に本殿はなく、樹木のある上段と呼ばれる場所だけがある
原始的な信仰形態を残すものだ

 参拝客はかなり多かったが、四脚門の辺りまで来る人は少ない。撮影の難しい硯石も、雪があったおかげでかえって良く撮れた感じがする。

四脚門(よつあしもん)

この門は硯石まで登ってゆく門で、かつては大祝だけが通ることを許された

四脚門と拝幣殿の隙間から硯石を眺める

硯石
諏訪神が降臨したと伝わる社中第一の霊石で、
その名は上部表面が凹んでいて、常に水をたたえていることに由来する
はるか古代にはこの磐座を通じてその背後の神体山と、
さらにその上方
の守屋山を拝していたとも伝わる

境内東側のケヤキ類の巨樹

その根元

それを見上げる

 前宮も参拝。

 本宮では境内にある流れという流れはすべて氷結していたが、前宮では社前を横切る水眼がゴゥゴゥと音を立てて流れ、相変わらず鮮烈だった。

水眼(すいが)

同上

 前宮の本殿はデカいだけがとりえの、およそ魅力のない建物だが、その背後にまわって巨樹群に再会するとあらためて感銘を覚えた。葉が落ちて幹と枝だけの姿になったそれらは、普段にもまして神さびている。

諏訪大社上社前宮

本殿背後の巨樹群

同上

 

 


穀霊白鳥(2)【杓子の森の磐座(滋賀県米原市上野)】

2012年02月04日 21時18分28秒 | 磐座紀行

★「穀霊白鳥(1)」つづき

 以後、伊吹山の神と戦ったヤマトタケル尊の神話には、湖北地方の古代人が信仰していた穀霊の伝承が混入しており、その伝承とは「湖北地方の(稲の)穀霊は秋になって収穫の時期になると伊吹山に登り山の神に殺害される。しかし、春になって田植えの時期になると、山麓にある居寝の清水で復活を遂げ、湖北地方に広がる田に戻ってゆく。」というものだった、また、『藤氏家伝』で地元の人が藤原武智麻呂に語ったヤマトタケル尊の最期は、記紀のそれよりも古い伝承だったと前提し、いちいちそのことを断らない。

 『藤氏家伝』にある伝承でもう一つ、興味深いのは原文に伊吹山に登ったヤマトタケル尊のことが「昔、ヤマトタケル皇子、東北の荒ぶる鬼神を調伏して帰りて、この峡に至ると。そしてすなわち登るなり。登りて半ばならんとほっす。」とあるので、伊吹山の神を討とうとしたヤマトタケル尊はどうやら山の中腹辺りを目指して登っていった、と伝承されていたことである。どうして尊は山頂ではなく、中腹を目指したのだろうか。

 穀霊は田に稲がある農繁期は、人々が生活する日常の圏内にいる。いっぽう猛烈な荒ぶる神である伊吹山の神はこれとは別の、神の領域におり、両者は厳密な住み分けがなされていたはずである。その場合、穀霊が伊吹山の神に殺害され穀霊白鳥となった現場は、この山を登った穀霊が神と遭遇する、神の領域と人間の領域の境界ふきんだったと思う。

 兼康保明は「伊吹山山頂出土の石鏃」の中で、伊吹山々頂からは石鏃のような縄文時代の遺物は出土するが、弥生時代のそれは出土例がないことについて次のように述べた。

「私は稲作以前と以後では、人間の山に対する思いが異なっていたのではないかと、密かに思っている。稲作以後の古代人にとって、生活空間としての山は、里から手が届く範囲の高さを指したのであろう。〈中略〉そしてそれよりも上は、平地からの比高差が五〇〇~六〇〇メートル以上もあれば、生活とは直接縁の無い、まさに神の住む領域であったのだろう。おそらく、峠越えなど特定の道を別にすれば、山には垂直分布による、人と神との住み分けがあったのではなかろうか。」
 ・森浩一・門脇禎二編『ヤマトタケル(第2回春日井シンポジウム)』収録の、兼康保明「伊吹山山頂出土の石鏃」、同書p160より引用

 伊吹山で垂直分布による神と人の住み分けがあったとすれば、両者の領域のボーダー・ラインはどこにあったろうか。伊吹山は3号目辺りより上は樹木が育たず、山頂まで草場だけとなる。この論考で兼康氏は、この森林限界がボーダー・ラインで、湖北の古代人とってそこより上は神の領域だったという考えを述べているが、だいたい妥当な意見ではないか。

 その場合、湖北の穀霊が伊吹山の神に殺害されるためにこの山を登る時も、山頂ではなくこの3号目ふきんを目指したに違いない。『藤氏家伝』にあるヤマトタケル尊の伝承で、伊吹山の神を討とうとしたヤマトタケル尊が山頂ではなく、この山の中腹をめざしたのもこうしたことによるのだろう。

 伊吹山3号目には杓子の森と呼ばれる場所があり、そこに鎮座する白山神社のかたわらに磐座がある。「杓子(しゃくし)」も、「石神(しゃぐじ)」の意ではなかったかと言われ、ふきんには白鳳年間の開基と伝えられる松尾寺という寺院もある。古代からつづく磐座祭祀の聖地を意識して創建されたものだろう。

 私はこの磐座が、湖北の穀霊が伊吹山の神に殺害される神話となにか関係のある祭祀が行われていた場所で、ヤマトタケル尊/穀霊が殺害された現場も、この磐座のある場所ではなかったか、と妄想している。

杓子の森は伊吹山スキー場のゲレンデとしてかなりの伐採を受けており、
現在、森が残っているのは白山神社とそこへ登る長い参道の周りのみとなっている
しかし、かつてはふきん全体に広大な原始林がひろがっていたのだろう

右手に写っている鳥居が参道入口
左手の遠景に少しだけ頭を除かしているのが冠雪している伊吹山々頂

ゲレンデの脇に添って延びる参道部分の杓子の森

杓子の森の南端、白山神社と磐座のある辺り

杓子の森の入口

鳥居を潜ってすぐの辺り
西側(右側)は谷になって落ち込んでいる

長い参道を抜けると白山神社の社殿と磐座のある場所にたどり着く

磐座と白山神社々殿

北側から写した磐座

東側から映した磐座全景

この磐座は一見、2つの岩から成っているように見えるが、、、

じつは鞍部のような部分で繋がっている

磐座の岩は石灰岩
伊吹山は石灰岩でできた山なので、山中いたるところでこの岩を見かける

デザイン・チェアーのようなフォルムだ

西側から写した磐座

磐座の西側にもいくつかの岩が散在

白山神社の由緒は未入手、松尾寺の鎮守だったのだろうか

社殿の石段に付いた流水紋の装飾が妙に印象的

白山神社はしばしば水神系であることを感じさせるが、
なにかそのことと関係があるのだろうか

あまり人が来そうな場所ではないが、
社地は定期的に清掃を受けている感じ

社殿の前面には石灰岩を並べて結界が造ってある

同上

社殿のすぐ上方には松尾寺がある

松尾寺

 看板によると松尾寺は役行者の高弟だった松尾童子が、
天武天皇の白鳳二年(673)に開基したもので、伊吹山五護国寺の一とされる
はじめは法相宗の寺院で、往時は五十余の山坊が寺域にならんでいたという

松尾寺の奥に杓子の森

杓子の森の森の辺りからゲレンデを通して竹生島のほうを眺める

山腹と湖面の間にある横に広がった小高い山脈は七尾山
この山の尾根上には顕著な古墳群があり
その被葬者を息長氏に求める説がある

竹生島