神社の世紀

 神社空間のブログ

続・ニウツ姫の島【邇保姫神社(広島県南区西本浦町)】

2013年04月07日 21時03分10秒 | 丹生、ニウツ姫

 惜っしい惜っしい、広島~。に行ってまいりました。

 ということで、ニウツ姫の島」で紹介した邇保姫神社を再訪。前回、まだ復興中だった社殿はさすがにほとんど完成していた。あれから約2年経っているからな。


前回、参詣時(2011年5月)


復興が完了した拝殿

 ただし、本殿の周囲などまだビニール・シートに覆われていて、工事が残っているもよう。


本殿の状況


仕上げの段階というところか

  最初、見たときはびっくりした社地をめぐる打放しコンクリートの垂直擁壁。今回も強烈なインパクトを受けたが、しかし、このアングルで見るとまるで現代建築みたいな感じがする。


まるで安藤忠雄


上の画像は前回、撮影したもので

現在は石柵が追加されている

 私は鉄筋コンクリート造の社殿が苦手だが、ここの擁壁は意外と違和感なく受け容れられる。普通のコンクリート・ブロックより清潔感があって良い感じする程だ。総じて、打放しコンクリートのようなモダニズムっぽい建築語彙は神社と相性が良い。伊勢神宮をパルテノン神殿と並べて評価したブルーノ・タウトという人だって、モダニズム系の人だろう。

 ペット手水というものがあった。(^o^)

 

 

 今回、社殿が完成して気がついたのは当社の本殿が平野部のほうを背にして、台地の縁に建っていることだ。邇保姫神社が載っている高台はかつては仁保島という島であったというから、しゅうへんの平野部はその頃、海だったはずである。


台地の縁で平野部を背にして建つ社殿

 これをみていて、八十島の神を祀る摂津の生国魂神社も台地の縁で海の方角にむかって建っているのを連想させられた。当社のもともとの鎮座地は大阪城内にあったようだが、現在の立地もその頃のものを踏襲しているのではないか。生国魂神社の祭祀は、島々の霊を祀る海民の信仰に源流があるともいわれ、こうしたことからもとうがい邇保姫神社の海洋的な性格を感じる。そういう意味では『播磨国風土記』逸文のにある爾保都比売神の伝承にもっとも忠実な一面をもつ「にゅう神社」ということになりそうだ。


大阪市天王寺区の生国魂神社本殿

摂津国東生郡の式内明神大社、

「難波坐生国咲国魂神社(二座)」である

本殿は「生玉造」と呼ばれる特異な屋根の構造で知られる

 


当社の社殿は台地の縁に平野部を背に鎮座している


同上(中央の木立の向こうに本殿が写っている)

下の墓地のあたりはかつては海だったのではないか

 

 


かむとけの木から(2)【雷を捉へし縁】

2013年04月04日 18時59分51秒 | 船木氏

★「かむとけの木から(1)」のつづき 

 ところで、河辺臣と霹靂の木の記事は『日本霊異記』の冒頭におさめられた「雷を捉へし縁 第一」と似ている。 

「雷を捉へし縁 第一 

 子部の栖軽(ちいさこべのすがる)は初瀬にあった朝倉の宮で、二十三年間の間、天下をお治めになった雄略天皇の護衛の武官、天皇の腹心の従者であった。天皇が磐余の宮に住んでおられた時のこと、后と大極殿でいっしょにお寝みになっておられたのを、栖軽はそれとも知らずに御殿に入っていってしまった。天皇は恥ずかしがって、そのまま事をやめてしまわれた。
 ちょうどその時、空に雷が鳴った。天皇は照れ隠しと、腹いせの気持ちが手伝って、栖軽に、
「お前は雷を呼んで来られるか」と仰せになった。栖軽が、
「お迎えして参りましょう」とお答えした。天皇は、
「ではお迎えして来い」とお命じになった。栖軽は勅命をうけて、宮殿から出発し、赤い色の縵を額につけ、赤い小旗をつけた桙を持って馬に乗り、阿倍村の山田の前の道から豊浦寺の前の道を通っていった。軽の諸越の街なかに行き着くと、
「天の雷神よ、天皇がお呼びであるぞ」
と大声で叫んだ。そして、ここから馬を折り返して、走りながら、
「たとえ雷神であっても、天皇のお呼びをどうして拒否することができようか」
といった。走り帰って来ると、ちょうど豊浦寺と飯岡との中間のところに、雷が落ちていた。栖軽はこれを見て、ただちに神官を呼んで、輿に雷を乗せ、宮殿に運んで、天皇に、
「雷神をお迎えして参りました」
と申し上げた。その時、雷は、光を放って、明るくパッと光り輝いたのであった。天皇はこれを見て恐れ、雷にたくさんの供え物を捧げて、落ちた所に返させたという。その落ちた所を今でも、雷の岡と呼んでいる(飛鳥の都の小治田の宮の北にある。)。
 その後、何年かたって栖軽は死んだ。天皇は勅を下して遺体を七日七夜、死体のままで安置して、栖軽の忠臣ぶりをしのばれ、雷の落ちた場所に栖軽の墓を作られた。栖軽の栄誉を長くたたえるために碑文を書いた柱を立て、そこに、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記された。雷は碑文を立てたのを憎み恨んで、雷鳴をとどろかせて落ち゜7とつりんけメルキケロかかり、碑文の柱を蹴とばし、踏みつけた。ところが雷は柱の裂け目にはさまれて、またもや捕らえられてしまった。天皇はこのことをお聞きになり、雷を柱の裂け目から引き出して許してやった。雷は死を免れた。しかし、七日七夜は放心状態で地上にとどまっていた。
 天皇は勅を下してもう一度碑文の柱を立てさせて、これに、「生きている時ばかりでなく、死んでからも雷を捕らえた栖軽の墓」と書かせた。世間でいう古京の時、つまり飛鳥の京の時代にこの場所が雷の岡と名付けられた話の起こりは、以上のような次第である。
    ・講談社学術文庫『日本霊異記(上)』p37~39 中田祝夫現代語訳
   
 たとえ雷神であっても勅命に逆らえなかったというストーリーのアウトラインや、雷神が木の股や柱の裂け目にはさまれて捕らえられてしまうモチーフなど、いくつかの細部も含めて両者は類似している。おそらく、2つの説話の間にはなんらかの連絡があったのだろう。しかし、スガルが雷神を捕らえる物語は小子部の氏族伝承である。それがどうして、安芸国にあった船木の郷に伝わるのだろうか。 

 小子部(ちいさこべ)は呪能によって雷神にはたらきかけ、宮殿の建物などを落雷から守ることを職掌していたらしい。大和国十市郡の式内大社、子部神社(二座)は大神宮注進状によるとスガルが雄略天皇の命によって祀ったとされる古社だが、『大安寺縁起』によれば、舒明十一年に建立された百済大寺は当社の樹木を伐って九重塔を造ったため、祭神の恨みをかってこの塔をはじめ、金堂や石鴟尾を「焼破」したという。この「焼破」は落雷による焼失をおもわせるものがあるが、もしもそうだとすれば当時、小子部が祀る雷神を怒らせたために被災したという風評がたっていたのだろう。


小部神社(橿原市飯高町372番地)
大和国十市郡の式内大社、小部神社の有力な論社


子部神社々殿


同上


小部神社(橿原市飯高町376番地)
上の同名社からやや西に離れた場所に鎮座し、
これも式内社の論社となっている。祭神はスガル

 

かむとけの木から(3)」につづく