神社の世紀

 神社空間のブログ

(16)伊勢津彦捜しは神社から【事忌神社】

2011年01月22日 00時12分09秒 | 伊勢津彦

 将来、伊勢津彦捜しの歴史が書かれることがあったら、事忌神社をめぐる知の冒険のことも、奇妙な挿話として語られるかもしれない ── 。

 伊勢国安芸郡に「事忌(こといみ)神社」という式内社がある。所在も祭神も由緒も祭祀氏族も不明だが、『神名帳傍注』は、「こといみ」の「こと」は「木霊(こたま)」の「こた」、「み」は「こたま」の「ま」とそれぞれ通音、ということで木霊を祀った神社であるとし、そこからその所在地を安芸郡林村とする説を立てた。

 この説はその後の諸書において、だいたいに受け入れられた。
 現在、津市芸濃町大字林(旧・安芸郡林村)に事忌神社という神社が鎮座しているのも、『神名帳傍注』の考証を受けて、林村に祀られていた何らかの神社が「事忌神社」に改称されたものだろう(ただし、当社の現祭神は木霊ではなく建早須佐之男命と菅原道真公)。

 しかしながら、「こといみ」と「こたま」を通音とするのは無理があるし、さらに木霊を祀った神社だから所在地が「林」村というのも非常にコジツケっぽい。

 はたして幕末から明治初期にかけて活躍した伊勢の国学者、御巫清直(みかんなぎ・きよなお)は『伊勢式内社検録』の中でこの説を批判して、「事忌を木霊に牽強する妄説」にすぎず、当社の所在地を林村のように木に関係する名前の村にするのだったら、高野尾村に樹神山長泉寺という寺院があるから、この村に配したって良いじゃないか、と一笑に付している。

 そこまでは良かった。

 が、清直は自らもこの失われた式内社の探索に乗り出したのである。

 彼によれば、応永年中に書写された『日本書紀私見聞』所引の『伊勢国風土記』に、次のような条があると言う。

「伊勢と云ふは、伊賀の事忌社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、またの名を伊勢津彦の神、またの名を天櫛玉命、この神、石城を造りその地に坐しき。ここに阿倍志彦の神、来り奪へど勝へずして還却りき。因りて以ちて名とせり。」

 まず言っておかなければならないのは、現在、日本古典文学大系本をはじめとした諸書において、『日本書紀私見聞』にある『伊勢国風土記』逸文の赤字部分は、「伊賀の穴志社」となっていて、清直が言うように「伊賀の事忌社」とはなっていないということだ。が、それを言い出すと話が終わってしまうので、ここは彼の主張を黙認しよう。

 清直は「伊賀事忌社」をとうがい式内・事忌神社に同定する。したがって、「伊賀」は国名の伊賀ではなく、伊勢国造安芸郡内にあった地名ということになる。だが、安芸郡内を捜しても「伊賀」という地名はなかった。その代わり彼は「赤部村」という地名を見つけた。

 地名の「部」は訓んだり訓まなかったりすることがある。このため、古くは「部」を訓まず、「赤部」はたんに「あか」とだけ言われていたのだろう。そして、「伊賀(いか)」と「あか」は通音なので、清直は赤部村を「伊賀」の遺称地と結論した。

 しかし、残念ながら赤部村には式内・事忌神社に当たるような神社がなかった。

 その代わり、その隣に高佐村という村をみつけた。

 そこで彼はひらめいた。

 『天地麗気記』という書物に大略、「高佐山には十二個の石室があり、伊勢津彦の石窟、または春日戸神の霊窟である。」という記事がある。
 ここで言う「高佐山」とは外宮の裏山に当たる高倉山の一名である。したがって高佐村のことを言ったものではない。しかし、伊勢津彦が石城に立てこもった伝承はもともと高佐村に伝わっていたものと考えたらどうだろうか。だとしたら、それが高倉山に訛伝したために、この山の異名が高佐山になったと考えられないか。

 そう考えた彼は早速、現地を訪れた。すると高佐村は「石城を造るとあるに形勢相似たり」だった。またその地には産土神が三社あるが、そのうちの一社は「イソの神」と称しているのでこれを捉えて、「伊勢の神の転訛にて是即伊勢津彦神なるべし」と結論した、── 。w


 「こといみ」と「こたま」を通音とした『神名帳傍注』の説もかなり強引だったが、ここに見られる清直の牽強付会もそうとうなものだ。『先代旧事本紀』の優れた考証を行うなど、国学史上の偉大な巨人と目される御巫清直、気でも狂ったか!、という無茶ぶりである。

 短絡的に見ると、彼が『日本書紀私見聞』所引の『伊勢国風土記』にある「穴志社」を、「事忌社」と誤読したことが原因ではあったろう。しかし、勢津彦の伝承に強く惹きつける力がなければ、こうも清直が大風呂敷を広げることはなかったろう。

 

 

 事忌神社には去年のまだ残暑が厳しい時期に訪れた。


事忌神社の社頭

事忌神社

同上

 神社は簡素な施設の、つつましい佇まいだった。

事忌神社本殿

「村社事忌神社鎮座古跡」 

 当社は明治四十二年に一度、近隣にある黒田神社に合祀された。現在も社殿背後に建っている明治四十二年の「村社事忌神社鎮座地古跡」の石標はその時のものだろう。当社はその後、復祀し、現在に至っている。

 清直が高佐村のことを「石城を造るとあるに形勢相似たり」と言っているので、神社の周囲を捜せば巨岩を祀った磐座に出会えるのではないか、と淡い期待を抱いていたのだが、そんなものはなかった。そもそもふきんいったいが、そんな地質の場所であるように見えなかった。

 またさっきも言ったように、清直によれば高佐村には神社が三社あり、そのうちの一社が「イソの神」と呼ばれていて、彼はこの神社を式内・事忌神社に比定しているのだが、神社明細帳によれば、現・事忌神社はかつて宇気比神社という社名であったという。ぬう、よく分らん。

 そんなこんなで、事忌神社のことを思い出すと、今でも狐につままれたような気分になる

 

 

 


(14)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)酒見神社(その弐)】

2010年11月18日 01時00分02秒 | 伊勢津彦

 ★「伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)】酒見神社(その壱)」の続き

 上の1~3を総合すると、伊勢とつながりが強い酒見神社いったいの地域は、「裳咋モクイ臣」を介して、阿閉アエ氏の本貫地のあった伊賀国阿拝アエ郡と通底することになる。

 阿拝郡には穴石神社という式内社があった。とうがい式内社については有力な論社が2つあり、1つは三重県伊賀市石川にある穴石神社で、もう一つは同市柘植町にある都美恵神社だが、私は後者のほうがほんらいの式内社であると考えていることはすでに述べた(「伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社】」参照)。


 三重県伊賀市柘植町の都美恵神社は、式内・穴石神社の後裔社だろう。

伊賀市石川の穴石神社

 

石川の穴石神社は式内社ではないとおもうが、
その風致にはひかれるものがある。

 現在の都美恵神社があるのは伊賀市柘植町であり、『和名抄』の「柘植郷」はこのふきんにあったと考えられる。伊勢津彦捜しは神社から【伊勢命神社(4/4)】」でも述べたように、天平勝宝元年(749)の『伊賀国阿拝郡拓殖郷長解』には、拓殖郷の人として石部万麻呂、石部石村、石部果安麻呂という3名の磯部氏が載っている(「磯部」は「石部」にも作る。)。『姓氏家系事典』によれば、この3名も裳咋氏と同じ敢磯部であるという。

 ここでおもい出してほしいのは、『伊勢国風土記』逸文で穴志アナシの社にいた伊勢津彦が石で城を築いて立てこもっていたところ、そこに阿倍志比古アベシヒコが来て奪おうとしたが、勝つことができなかったという伝承である。


三重県伊賀市一宮の敢国アエクニ神社

同上
敢国神社は、伊賀国阿拝郡に登載のある式内大社で、伊賀国一宮。
現在の祭神は大彦命だが、ほんらいは阿倍志比古を祀っていたという説もある。

 

 式内・穴石神社はこの伝承に登場する「穴志の社」のことで、阿倍志比古は阿閉アエ氏(=敢アエ臣)の祖神だ。柘植郷は機内から東海方面に出る際の交通の要衝で、鈴鹿越えをする際の関門にあたっている。この伝承は機内勢力の先駆けであった阿閉氏の祖先が、伊賀を通って東海方面に進出しようとした際、柘植郷にいた土着勢力から強い抵抗を受けた記憶を伝えるものだろう。この伝承で阿倍志比古は、伊勢津彦に敗れたことになっているが、実際のヤマト王権は、雄略朝の頃にはとっくに関東まで勢力を広げていたのであり、柘植郷にいた土着民たちも、その頃には機内勢力に屈し、阿閉氏の支配下に入っていたはずである。

 磯部たちの先祖は古くから伊勢地方に土着していた海民であったが、漁労航海の技術に習熟していたため、王権の支配下に入ってからは「磯部」として統括されるようになった。古文献には磯部氏の名前がかなり多く残っており、彼らが海部や山部に匹敵する大集団だったことをうかがわす。
 磯部たちは近江、隠岐、讃岐、美作、佐渡などにもいたが、とくに東日本方面への分布が顕著であり、尾張、遠江、駿河、伊豆、相模、下総、常陸、美濃、信濃、上野などに磯部氏の人名や、磯部郷の存在がみとめられる。『姓氏家系事典』はこのことについて、「磯部はけだし海部と東西相対せしが如し。すなわち海部漁民は安曇氏これを率い、本邦西部に多く、これ(=磯部)は専ら東部に活動せり。しかしてその本拠は伊勢にして、伊勢に最も多きが故にまた伊勢部と呼ばれしものと考えらる。」と述べている。

 伊勢は畿内から東進してきた勢力が初めて海に出会う土地で、海路で東日本に進出する際にはその発進港となる。伊勢にいた磯部たちはその航海技術を買われて、ヤマト王権が海路で東国を目指す際の足になる機会が多かったろう。彼らが東日本に多く分布している理由はこれで説明できるとおもう。

 いっぽう、伊勢津彦の伝承も東日本に多い。しかも彼の伝承が残る国には磯部氏の存在がみとめられるケースが多いのである。伊勢津彦の本拠地であった伊勢が、磯部たちの本拠地でもあったことや、伊勢津彦を祀る穴石神社の所在地、伊賀国阿拝アエ郡柘植郷に磯部氏がいたことは上述のとおりだが、他にも次のような例がある。

 信濃は『伊勢国風土記』逸文の割註で、天日別命に敗れた伊勢津彦が逃れ去ったとされる土地だが、更級郡には『和名抄』の磯部郷があった。また、『姓氏家系事典』によれば後世、信濃には磯部姓の者が多かったという。ちなみに信濃は海が全くない土地だが、上代に海人族が多く活動していたことが特記される。

 相模国造は『旧事本紀』に、武蔵国造の祖である伊勢都彦命の三世の孫、弟武彦から出たとされている。相模には『寧楽遺文』に収められた天平十年の文書の中に「磯部白髪」の名があり、また、箱根神社の古鐘にある永仁四年の銘には「磯部安弘」の名がある。
 武蔵には『新編武蔵国風土記』の幸手宿村条に「磯部氏代々名主役を務む ── 」とあり、また、武蔵国一宮である氷川神社の社人には磯部氏がいたことがわかっている
。氷川神社といえば、古代において武蔵国造が奉斎した神社として知られる。

埼玉県大宮市高鼻町の氷川神社

氷川神社は武蔵国足立郡に登載のある式内明神大社であり、武蔵国一宮。
武蔵国造が奉斎した神社であり、
鎮座地は国造の居館があった場所と言われる。

氷川神社の神池

 

  こうしてみると巨視的にみれば、伊勢津彦の伝承の分布と、磯部氏のそれはよく重なるようにみえる。そして私はこうした状況証拠から、「伊勢津彦の信仰はもともと、古くから伊勢地方にいた海民たちのものであり、彼らが「磯部」として王権から統括されるようになってからも、こうした民間信仰は彼らの間に残りつづけた。磯部たちはヤマト王権が東国方面に勢力を拡大しようとした際、その海上輸送を担ったので、王権勢力の膨張とともに彼らの中で東国に居住する者たちが増えていった。これに伴い、伊勢津彦の信仰も東国方面に伝播した。信濃や相模などに残る伊勢津彦の伝承はこうして生じたものである。」というような見通しを立てている。


 ちなみに奈良期以降のわが国は、官道としてもっぱら陸路を重視するようになったため、海路の役割は後退していったが、律令制の衰退とともに再び海上交通は盛んとなる。こうした動きの中で中世期になると、伊勢神宮の祇官の活躍により、伊勢信仰は海上ルートを通じて諸国に伝播するようになったが、御厨ミクリヤの分布からいって、その伝播先は西日本よりも東日本のほうが圧倒的に多かった。伊勢津彦の信仰も、古代においてある程度これと似たような動きをみせていたのではないか。


★「伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)酒見神社(その参)】」に続く。 

 


(13)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)酒見神社(その壱)】

2010年11月09日 23時01分50秒 | 伊勢津彦

 

 『日本書紀』垂仁天皇二十五年条によると、それまで倭ヤマトの笠縫邑カサヌイノムラに祀られていた天照大神の御杖代となった倭姫命は、各地を放浪して最後に伊勢に入ったとき、「この神風の伊勢国は常世の浪の重浪シキナミする国なり。傍国カタクニの可怜ウマし国なり。この国に居らむとおもう。」という大神の託宣があったため、五十鈴川のほとりに磯宮という斎宮を建て、そこにはじめて天照大神が天から降りたという。言うまでもなく倭姫命の巡行伝説として知られるもので、磯宮は伊勢神宮の濫觴となった。

 この伝承は一種の貴種流離譚だが、『日本書紀』によれば倭姫命は、笠縫邑カサヌイノムラをてから宇陀の篠幡サハタに行き、それから引き返して近江に入り、美濃を巡って伊勢国に至ったとあるだけである。ところが、後世になって成立した『皇太神宮儀式帳』『太神宮諸雑事記』などの記事では、この行程がだんだん詳密になる傾向があり、倭姫命が近江や美濃で滞在していた宮の名前なども載るようになる。なかんずく『倭姫命世紀』に挙げられている巡行地の数は、27箇所にもなっている。


「宇陀の篠幡」に比定される奈良県宇陀市山辺三にある篠幡神社 

 

 愛知県一宮市今伊勢町本神戸にある酒見神社は、尾張国中嶋郡の同名の式内社に比定されている。が、当社は式内社であることより、『倭姫命世紀』の尾張国中嶋宮に比定されていることのほうで有名だろう


酒見神社

同上

 

  以下は『平成祭りデータ』にある酒見神社の御由緒(本文とはとくに関係なし)


「御祭神、天照皇大御神、倭姫命、酒弥豆男神、酒弥豆女神

 其の昔、倭姫命は勅名を受けられ天照皇大御神の霊代を永久にお祀り出来る地を求めて旅される途中、尾張の神戸である、当村にお出でになられたのは今から2000有余年前の事で、ご一行は現在の無量寺にあったと云われる神戸屋敷にお泊りになり、御神体は宮山の此の地にお祀りになられました。そして村民の奉仕により社殿が建設せられたのが、当酒見神社の始めであると伝えられています。当時の神戸村は40戸で1戸平均5人と見て200人の村民がこぞって建設に当り出来上った社殿は、総丸柱、草屋根にて高く、下から見れば恰も天井の如く、梯子をかけて御神体を其の中程に祀る、下は腰板をつけず、吹抜きにて只下に板敷をはるのみであり、後世に吹抜きの宮と呼ばれたと云います。現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であり、この社殿は全国でも珍しい吹抜きの社殿であります。

 

本殿の東側にある皇大神宮遙拝所
4本の丸木柱で屋根を持ち上げているだけの「吹き抜けの宮」をモデルにしている。

 

 次にご覧頂きたいのは、本殿向かって左側にある倭姫命御愛用の姿見石であります。これも非常に貴重なもので現在の鏡の代りで倭姫命が当村にお出で遊ばされるに当たり、わざわざ石工に作らせられたものであると伝えられています。

 さて、当神社は其の名のとおり酒に最も縁の深い神社であり、日本に於いては清酒の醸造が最初に行われた所であります。その際に使われた甕が今も本殿裏の両側に埋められております。これは当神社第一の宝物であります。時は紀元1514年、今から1138年前、第五十五代文徳天皇、斉衡3年9月、大邑刃自、小邑刃自、の酒造師が勅命を受け伊勢皇太神宮より当宮山に遣わされ伊勢神宮にお供えする御神酒を造らせになりました。その際に持ってこられた、大甕2個が地下1メ-トルに埋められております。日本は地球の温帯に位置し春夏秋冬の区別がはっきりしているので、良い季節に醸造を行えば良いのですが、支那(中国)では大陸気候なので寒暖の差が激しく朝晩では夏と冬程度違います。そこで地熱を利用できる方法が取られ、地下1メ-トルの所に甕をいけ、そこで醸造が行われたのであります。即ち、支那式醸造法で行われた甕が此処にあるのです。


 この外境内正面右側に岩船という石があります。当神社宝物の一つでもあります。なる程石で出来ていて船の型をしているので船の名がつけられていますが、実は清酒を造る日本に於ける最初の試みに酒を絞る台として使用された酒船であります。石質が極めて軟く房州石や大谷石の類で酒甕と一緒に御使者がお持ちになったと伝えられております。」

 
船磐

当地で醸造した伊勢神宮に奉納する白酒・黒酒を搾るのに使われたという。

かつての磐座であった可能性も考えられる。

 

 『日本書紀』から『倭姫命世紀』に至る過程で、倭姫命の巡行地が増量された背景としては、天照大神よりも古い日神祭祀の聖地を伊勢に結びつけるために語り出されたとか、諸国にある伊勢神宮の神領や分社を結びつけるために創作されたのだろうとか言われる



神明造りの酒見神社本殿

  酒見神社のしゅうへんにも、(鎮座地の「本神戸」という地名が示すように)酒見御厨という神宮の神戸があった。『一宮市今伊勢町史』によればこの神戸は、8世紀以前から成立していたもので、天慶三年(940)からの新神戸も加わって、後世まで有力な神領だったという。

 伊勢神宮の神領というと、院政期以降は伊勢地方はもとより、東国方面にまでその数が増えてゆくのだが、建久三年(1192)の神領目録、『二所太神宮神領注文』に「国造貢進」の註のあるものは十世紀以前に成立したもので、神領の中でも成立時期が古い。これらは「往古神領」と呼ばれるが、8世紀以前に成立していた酒見御厨はその往古神領の中でもさらに飛び抜けて古かったことになる。当社しゅうへんの地域と、伊勢とのつながりはどうして生じたのだろうか。

 酒見神社を考える場合、ふきんにある今伊勢古墳群、なかんずく車塚古墳の存在を無視することはできない。この古墳群は酒見神社から500mほど北方にあり、かつては19基の古墳から成っていた(現存するのは7基のみ)。主墳とみなされる車塚古墳が推定全長70mの前方後円墳であったとすれば、当古墳群中で最も規模が大きかったのみならず、尾張地方でも十指に入る古墳であることになる(ただし、車塚古墳は円墳であったとする有力な説もある。)。この古墳には酒見神社の祭神を葬ったという伝承があり、また、倭姫命がここに登って伊勢の方向の見当をつけたとも言われるため見当山古墳という名もある。

 現在、北面する酒見神社の社殿の軸を延長すると、ほぼその線上に車塚古墳が載ってくる。今、言ったような伝承が残ることからいっても、この古墳には当社の祭祀に関係のあった人物が葬られている可能性がある。



酒見神社の社殿は、とくに地形上の制約がないのに北面している。

 

  その場合、注目されるのがこの古墳のある字の「目久井(資料によって「めくい」とも「もくい」とも訓んでいる。)」である。車塚古墳はこの字によって「目久井古墳」ともよばれるが、この地名はもともと、古代氏族の「裳咋(もくい)氏」にちなむものだ

 


車塚古墳の現況(北側)

一宮市教育委員会が立てた車塚古墳の解説看板

この古墳には円墳説もあることに触れていないのはフェアじゃないな。

 

  『続日本紀』の天応元年(781)五月条に、尾張国中嶋郡の裳咋モクイ臣船主フナヌシが次のように言上した記事がある。すなわち、「私たちは伊賀国の敢アエ朝臣と同祖であり、曾祖父の宇奈より以前はみな敢臣の姓であった。ところが庚午戸籍が造られた際、祖父の得麻呂が誤って母方の姓にしたがって裳咋臣とされてしまった。謹んで改姓してほしい。」
 これを受けた朝廷は船主ら8名に「敢臣」の姓を賜った。

 『続日本紀』を通読すると船主と似たような言上をして改姓を願い出た者たちの記事が散見さる。これらは自分の家柄に箔をつける目的で、名家の血統に自家のそれを擬制させようとしたものであり、したがって、こうした言上は必ずしも史実として受けとる必要はない。以下は『新編一宮市史・本文編(上)』からの引用である。

「阿部氏の一族で伊賀国阿拝郡の豪族阿閉氏=敢臣の勢力が尾張に及んでおり、その支配下の民衆、おそらくは敢石部(敢磯部)の首長の一人が裳咋臣であったのだろう。彼らは支配と従属の関係から進んで同族系譜で血縁を擬制するようになっていたはずであるが、奈良時代後期の改賜姓の盛行するなかで、裳咋臣が時流に乗って本宗家のの敢臣と氏姓の同一化をはかったというのが事実に近いのではあるまいか。」

 つまり、敢臣への改姓を願い出た裳咋氏は、もともとは敢臣の配下にあった磯部氏であったらしいのだ。

 ここで要点をまとめてみる。  

  1.  酒見神社は倭姫命の巡行地の1つ、尾張国中嶋宮に比定され、ふきんには8世紀以前に遡る酒見御厨という伊勢神宮の神領があるなど、この地域は伊勢とのつながりはかなり古くからあった。
  2.  酒見神社のふきんに「目久井」という字があり、車塚古墳という古墳がある。この古墳とその被葬者は、立地や伝承面から推して、当社の祭祀に関係していた可能性がある。
  3.  『続日本紀』天応元年条の記事には、酒見神社と同じ尾張国中嶋郡にいた「裳咋モクイ臣船主」という首長が登場するが、彼の家柄はほんらい、伊賀国阿拝郡の豪族、阿閉氏の配下にあった磯部たち、すなわち敢磯部であった。「目久井」という地名もおそらく、上代のそのふきんに彼らが活動していたことを示すものだろう。

 なお、酒見神社と同じ尾張国中嶋郡には裳咋神社という式内社があり、この神社は現在、愛知県稲沢市目比(もくい)町に鎮座している。祭神は裳咋臣船主だ

稲沢市目比町に鎮座する裳咋(もくい)神社。

『延喜式』神名帳 尾張国中嶋郡に登載のある同名の神社に比定される。

祭神は裳咋臣船主。

裳咋神社の社殿

 

 ここでとりあえず、酒見神社ふきんの地域と伊勢とのつながりは、上代のこの地域に敢磯部という磯部の一派が活動しており、彼らが伊勢からそうしたつながりを持ち込んだために生じた、と考えても良いだろう。隠岐の伊勢命神社の場合や、豊橋市の車神社の場合と同じく、古くから伊勢と関わりのある土地のきんぺんを探すと、上代に磯部が活動していた痕跡の見つかるケースが多いのだ。

 ただ私は、伊勢津彦との関係でもっと踏み込んだ議論をしてみたい

 

 『伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)酒見神社(その弐)】』へつづく

 

 

(12)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(1/2) 愛知県豊橋市の車神社】

2010年11月01日 00時00分29秒 | 伊勢津彦

 伊勢と磯部の関係について、話を続けておく。

 奈良盆地を中心とした北緯34度32分上に、古代人による日輪祭祀の遺跡が並んでいるという説があり、ここからこの東西線が太陽の道と呼ばれていることはわりと知られているとおもう。

 淡路国津名郡の式内社、伊勢久留麻(いせくるま)神社もこの太陽の道上にあり、社名についた「伊勢」が太陽の祭祀を連想させる。鎮座地ふきんには「引野(ひきの)」という地名もあり、太陽の滞空時間を延ばす祭祀が行われた場、「日招ぎ野」の転訛ではないかともいわれる。

 
兵庫県淡路市の伊勢久留麻神社


三重県鈴鹿市白子町の久留真神社

 ただし、社伝によると伊勢久留麻神社は、三重県鈴鹿市白子にある伊勢国奄芸郡の式内社、久留真(くるま)神社を勧請したもので、社名の「伊勢」も伊勢の元社から勧請されたことを示すものである。となると、伊勢の久留真神社も太陽の道上になければならないとおもうのだが、残念ながら当社は北緯34度49分上に位置しており、太陽の道から17分も北にずれている。


 閑話休題。

 太陽の道のことはともかく、伊勢湾の西岸に鎮座する久留真神社の信仰が、淡路にまで運ばれたことの背後には、古代海人たちの活動があったとおもわれる。だが、その海人とはどういう人々であったか。

 久留真神社から伊勢湾と三河湾をはさんで対岸に当たる、愛知県豊橋市植田町に車神社という神社が鎮座している。   

車神社

 車神社は、愛知県豊橋市豊橋市植田町字八尻36-2に鎮座。旧村社。
 主祭神の武甕槌命のほか、宇迦御魂命、罔象女命、大雀命、玉柱屋姫命、伊佐波止美命を配祀する。配祀神は明治初年に合祀された稲荷神社等のものだろう。
 特殊神事として「オシイバチ」がある。宮座の膳部による年占行事の一種らしい。



 祭神は武甕槌命で、『愛知縣神社名鑑』によれば「神亀二年(715)の創建で社記によれば満潮の夕方に尊い人(正仁明神)がうつぽ船に乗ってこの地に上陸し、西南方三町のところに暫く留まれた。今この所を御休処また皇子ケ原という。後ち貴い人の霊を祀って車大明神と名付けた。車を埋めた処を車塚という。<後略>(p653)」とある。

 「車を埋めた処を車塚という。」というのが取って付けたようだが、これはほんらい、「貴人が乗っていた車を埋めた場所を車塚といい、のち、その車塚に貴人を祀るようになったので車大明神と名付けた。」というような文脈で社伝の中に収まっていたのではないか。当社の社殿は現在、前方後円墳の墳丘上に載っているが、あるいはこの古墳が車塚と呼ばれていたのかもしれない。 

 
車神社の社殿 


社殿は前方後円墳の後円部に載っている。


 とはいえ、仮にそうだとしても、この伝承は風変わりな社名を説明するための附会だろう。当社のある植田町のすぐ西にある大崎は、かつて桑名に御座船を出し、伊勢への参宮人を乗せる船の港もあった。また植田町しゅうへんにある柱、高師、野依にはそれぞれ、『神鳳鈔』(14世紀後半に成立したとされる伊勢神宮の神領目録)に載っている御厨ミクリヤがあった。つまり、当社の鎮座地ふきんは古来、伊勢とのつながりが極めてつよいのである。そしてこうしたことから、現在は忘却されているが、車神社はもともと、鈴鹿市の久留真神社がこの地に勧請されたものと考える。

 当神社の社殿が前方後円墳上に載っていることはすでに記した。この古墳は車神社古墳と呼ばれ、6世紀前半~半ばにかけて築造されたものである。
 古墳があるのは梅田川左岸にある台地の縁で、河口部に近い。こうした立地は、この古墳の被葬者がたんに梅田川河口部を勢力圏とした地域支配者というだけではなく、ふきんの舟運をも統括していたことを感じさす。その場合、その舟運は三河湾と伊勢湾を介し、伊勢との連絡もあったろう。そして、その担い手は海人たちで、彼らの中に磯部がいたのではないか。

 

 
車神社古墳の後円部(西から)


前方部から後円部に向かって撮影 

 車神社古墳は前方部を北に向けた全長36mほどの前方後円墳で、本格的な調査はまだ行われていないが、内部主体は横穴式石室とみられる。明治時代に社殿を造営した際は、鉄刀、ガラス製勾玉、碧玉製管玉、須恵器等のほか、装飾馬具の鈴杏葉が3点、採集された。こうした遺物などから築造年代は6世紀前半~6世紀半ば頃と考えられている


 当社の鎮座する植田町からは梅田川をはさんですぐ北の牟呂、駒形、大山、草間あたりにかつて磯部村という村があった。磯部村は明治十一年に牟呂村と草間村が合併して成立したものだが、『磯部村誌』をみると、この村は往古、磯部村と称していたが文武天皇の頃に牟呂村と改称したとあるため、古くからこの辺りに「磯部」という地名があったのは間違いないようだ。これは古代のこの地域で、磯部たちが活動していたことを示すものだろう。
 なお、現在、この地名は車神社から梅田川を隔ててちょうど反対側の、「磯部下地町」に遺称されている。

 ちなみに、『和名抄』には渥美郡に「磯部郷」の名がみえており、現在の豊橋市伊古部町辺りとされるようだ。伊古部町は太平洋岸だが、植田町からは南に4㎞ほどの距離である。ここにも磯部たちがいたのだろう。

 こうしてみると伊勢から久留真神社の信仰をこの地域に持ち込んだのは、かの地から移住してきた磯部たちではなかったか。車神社古墳の被葬者も、彼らを統括していた磯部氏の者であった可能性がある。そしてこれを敷延すれば、伊勢から淡路に久留真神社の信仰を持ち込んだのも、磯部たちであったようにおもわれる。



(11)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢命神社(4/4)】

2010年10月02日 13時53分33秒 | 伊勢津彦


 それはともかく、『式内社調査報告』には「社家の記録」として、さらに興味深い伝承が載っている。

「當社最初の御鎮座地は久見港を距る約五町許り西南方に位する字假屋の地にして、この地を特に宮地と選定したるに付ては、古老傳説あり。則ち伊勢族移住の初に當りては神社の設けなかりし如し。然るに一夜神光 海上より輝き來りて假屋の地に止りしが、その降臨夜々出現止まざりしに、偶伊勢族の一人神託を蒙りしを以て、假に一小祠を建て伊勢明神を奉齊せしより、神火の出現甫めて止たりと云ふ。之實に伊勢族が祖神を勧請して冥護を祈りし神話を傳へたるものなり。(『式内社調査報告』第二十一巻p994)」

 大略はさっき引用した『神国島根』にあるものと同じだが、ここには新たに伊勢から来た「伊勢族」なるものが登場し、伊勢命神社は移住してきた彼らによって創祀されたことになっている。

 この伝承は社名の「伊勢」に附会して作られた後世のものかもしれない。しかし、伊勢命神社の鎮座する地域で、古代に伊勢と関係の深い集団が活動していたことは、次のようなことから確かめられるのである。すなわち、正倉院文書にある天平四年(732)の『隠岐国正税帳』には、当社の鎮座する役道部(隠地郡)郡の条に、「大領外従八位上大伴部大君、少領外従八位下勲十二等磯部直万得」とあり、ここからこの郡で大領に次ぐ地位にあった人物が磯部氏であったとわかるのだ。

 磯部氏がいたことが、どうして伊勢とつながりのある集団が古代のこの地域で活動していたことになるのか?

 磯部氏は『新撰姓氏録』河内国皇別に「磯部臣。仲哀天皇の皇子、誉屋別命の後なり。」とあり、磯部を統括する伴造氏族であった。『古事記』応神天皇段には山部、山守部、伊勢部を定めたという記事があり、「伊勢部」というのは磯部のことだとおもわれる。彼らは漁業に従事する海民の集団だった。また、誉屋別命は応神天皇の兄にあたり、磯部臣がこの人物を祖とするのも、磯部(伊勢部)の設置が応神朝だったという伝承と関係するのだろう。

 それはともかく、「伊勢部」と表記されたことからも暗示されるとおり、磯部氏は伊勢地方に多くいた。佐伯有清の『新撰姓氏録の研究』によれば、孝徳天皇の時代の人である磯部直をはじめ、『伊勢国風土記』『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』『続日本紀』等に登場する伊勢にいた磯部氏はじつに25名にも上っている。これは古文献で確認できる人数としては諸国の中でもっとも多い(二番目に多い美濃国は16名)。

 また彼らのうち、『続日本紀』和銅四年(711)三月六日条に登場する磯部祖父と磯部高志は、「度相ワタライ神主」の氏姓を賜ったとある。この賜姓は言うまでもなく、彼らが外宮の禰宜であったことによるもので、ここから彼らの子孫で代々、外宮の宜官を務めた度会氏も磯部氏であったことがわかる。また、『皇太神宮儀式帳』の奥付には「大内人宇治土公磯部小継」とあり、代々「玉串大内人職」として内宮に務めた宇治土公氏もまた磯部氏であったらしい。磯部氏は在地勢力として伊勢神宮の祭祀につよくコミットしていたのだ。

  伊勢神宮は古くは磯宮と呼ばれ、祭祀に使われる神饌はそのほとんどがふきんの海士・海女たちによって貢上される魚介類(とりわけアワビ)・海藻・塩に限られた。これは、かつて伊勢の海民たちを統括していた磯部氏が、神宮の祭祀に参加していたこと抜きには考えられないことだろう。 

 古文献から分かる磯部氏の分布は、移動性に富んだ海民の習性を反映してか、かなり拡散的である(伊勢のほかに、伊賀・尾張・遠江・駿河・相模・下総・美濃・上野・越前・隠岐・讃岐に磯部氏の人名がみられ、また、『和名抄』の越前と下総には磯部郷がある。さらに北陸道諸国や近江などには「○○磯部神社」という式内社が多い。)。しかし、彼らの本慣地が伊勢であったことは間違いない。その場合、天平の頃、この氏族出身の磯部直万得が伊勢命神社が鎮座する隠岐国隠地郡の少領の務めていたことから、当時のこの地域に伊勢とつながりのある集団がいたことが明らかになる。社家の記録にある「伊勢族」も、伊勢から来た漁民と、部民として彼らを管轄していた磯部氏のことであった可能性が高い。

 藤原宮跡から出土した木棺のなかに、隠岐国知夫利郡三田里の人として「磯部真佐支」という人名がみられる。知夫利郡は隠岐諸島のうちの知夫里島のことだが、ここから当時、この島にも磯部氏がいたことがわかる。

 ところで知夫利島には、天佐志比古命神社という式内社があるのだが、「磯部真佐支」の「佐支」は、当社の祭神、「天佐志比古命」の「佐志」と何か関係があるのではないか。その場合、当社もまた伊勢命神社と同じく磯部が祭祀に関係していた可能性がある。



天佐志比古命神社

同上



天佐志比古命神社の本殿
 

 伊勢命神社の鎮座している地域には、伊勢とつながりのある集団が古代に活動していたことはこれではっきりしたとおもう。が、この神社の祭神が伊勢津彦であったことまで明らかになったとは言えない。両者を同一神とするにはさらに、磯部氏と伊勢津彦の相関性を示す必要がある。そこで今度はそのことについてみてゆこう。



伊勢命神社の本殿

  『伊勢国風土記』逸文には伊勢津彦が伊賀国の「穴志社」に坐すとある。この穴志社は『延喜式』神名帳の伊賀国阿拝郡に登載ある穴石神社のことだが、当社には論社が2つあった。しかし『伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社】』でも述べたが、私は三重県伊賀市柘植町にある都美恵神社のほうが、ほんらいの式内社であったと考える。そして当社が鎮座する場所は古代の阿拝郡拓殖郷だった。
 さて、天平勝宝元年(749)十一月二十一日付『伊賀国阿拝郡拓殖郷長解』には阿拝郡拓殖郷の人として、石部万麻呂、石部石村、石部果安麻呂という人名が載っており、この3名は磯部氏である(「磯部」は「石部」にも作る。)。つまり、古い文献によって伊勢津彦が祀られていたことの確かめられる唯一の神社が鎮座していた土地に、磯部氏がいたことが確認できるのである。これは重要だ。というのも、磯部氏がいた以上、彼らによって統括される磯部たちもこの地に居住していたことになり、伊勢津彦の信仰が彼らによるものであったことが示唆されるからだ

 すでに紹介したとおり、『先代旧事本紀』国造本紀に、相模国造は武蔵国造の祖、伊勢津彦の三世の孫、弟武彦から出たとある。そのいっぽうで、『寧楽遺文』にある天平十年の「白布墨書銘」には余綾郡大座郷大磯里の人で磯部白髪という人物がみえており、相模にも磯部氏がいたことは見逃せない。

 松前健は、「伊勢津彦東海退去の物語は、海辺の祭儀の縁起譚に過ぎないもので、別に何等かの種族の移動や氏族の東遷の史実が背景となっているわけではないから、その東海の果の常世郷に消え去った神の行方を、史実的、地理的に探求しようとする試みは、およそ無益なユーヘメリズムに過ぎないのである。」と言っているが私はそうはおもわない。

  伊勢の磯部氏が部民として統括していた漁民たちは、大和の勢力が侵入する前から伊勢で活動していた。伊勢津彦の信仰もほんらいは彼らによるものだったろう。やがて王権の勢力下に入った彼らは、朝廷サイドに立つ磯部氏によって統括されるようになるが、その信仰は伊賀の穴石神社を中心に残った。

 伊勢命神社は、磯部氏が伊勢から引き連れてきた漁民たちによって祀られた神社である。伊勢津彦の信仰が彼らによるものであった以上、当社の祭神である伊勢命とは伊勢津彦のことであったようにおもわれる。