神社の世紀

 神社空間のブログ

消滅しつつある磐座【岡田小秦命神社(奈良県宇陀市小和田)】

2011年08月28日 03時57分21秒 | 磐座紀行

 奈良県宇陀市大宇陀小和田に鎮座する岡田小秦命(おかだのおはため)神社は、『延喜式』神名帳 大和国宇陀郡に登載ある同名の式内社である。

岡田小秦命神社遠景
中央の顕著な樹木が当社の社そう
そのやや右のバックに小さく写っているのが小和田岳山頂
 

 この神社を紹介した文献にはかならず出てくる話だが、当社には鳥居がない。伝承によるとかつては鳥居があったが、ある年、トンドの火が燃え移って焼け落ちたので、それからは造らなくなったという。また、このことと関係して、当社の氏子の間では住宅に門構えを造らない旧習がある。

社頭の様子
通常ならここに鳥居が立っているはずだが、それが無い

近くの民家の入口
これも普通ならこの辺りに門構えがありそうだが、、、
 

 鳥居の無い社頭から一歩、中に踏み込むと、巨大な杉の根が宙に浮いている。驚いて見上げるとものすごい古木だ。これほどの杉がある以上、かなり古い神社であることは間違いない。

社頭の大杉

 

 その奥につづく参道にも大きな杉が何本もあり、古社のふんいき満点である。

 やがてたどり着く社殿の前庭は深海の底に迷い込んだような水底感。外界から隔絶している。

 

  

  

  

 岡田小秦命神社の背後には小和田岳と呼ばれる小山があり、当社の神体山だと思われる。

小和田岳遠景 

 「岳」がつくような山にはだいたい嶮岨な高山か、修験道の行場になっているようなそれが多いが、この山は標高533.5mたらずで山容もいたって凡庸である。しかしそのことがかえって、神体山としての信仰のせいで「岳」をつけて呼ばれるようになったのではないか、という疑いを強くさせる。

小和田岳山頂ふきん
社殿の辺りから10分程度だが山頂ふきんはわりと急峻
周囲の林相はありふれた用材林

 

山頂にある標高533.5mの三角点
ふきんは平坦で、祭祀を行うスペースが充分確保できる
 

 余談だが小和田岳の南麓には戸隠神社という神社があり、当社も岡田小秦命神社と同じく小和田岳の山頂を背負うような格好で鎮座している。のみならず、この神社は社殿の向きが岡田小秦命神社のほぼ真逆であり(岡田小秦命神社=NNE20゜、戸隠神社=SWS210゜)、両社はこの山頂を挟んで同一軸上で背中を向け合って鎮座していることになる。戸隠神社もまたこの山を神体山として祀る神社ではないか。

戸隠神社
小和田岳南麓の宇陀市大宇陀大熊に鎮座
Mapion

戸隠神社本殿

祭神は天磐戸別命
由緒は不詳だが、背後に小和田岳山頂がくる立地から言って、
もともとはこの山を神体山として祀っていた可能性がある

戸隠神社のある南麓からの小和田岳遠景 

 それはともかく、岡田小秦命神社の由緒は不詳だが、『式内社調査報告』には「丘上に磐座であったと思われる痕跡が存在しており、相当に古い社であったと考えられる。」とある。この磐座の痕跡というのは、小和田岳山頂のやや西にある岩群のことだろう。そのなかでも中心的な存在とおぼしき岩は立石状になっており、いかにも磐座然としている。ほかにも滑落防止のために基部に別の石を噛ました痕跡のある岩などもあり、確かに人為的に据え付けられた感じがする。

小和田岳山頂ふきんの岩群中に見られる顕著な立石

谷側から見た立石

岩群の一部、滑落防止のため基部に別の岩が噛ませてある

 

 ただしそのいっぽうで、この岩群があるのは尾根上だが、周辺は比較的急な斜面になって落ち込んでおり、平坦な地形になっている山頂と比較して祭祀に向くスペースが少ない。また、滑落して失われた岩もあったろうが、岩群全体になんとなくまとまりが感じられず、またその中にもあまり格好の良い岩がない。というか、岩自体の数がそれほど多くない。じつはだいぶ前にもここに来たのだが、こうしたこともあって、当時からこれが本当に磐座の痕跡なのか一抹の不安を感じないでもなかった。ところが、今回も訪れて同じ感想をもっていたところ、ふと見た岩の近くの地面に古代のものらしい土器の破片を見つけたのである。こんな場所に生活遺跡があるとは思えないから、祭祀用の土器だろう。この岩群、やはり磐座だったのだな、と感慨深かった。

岩群近くで見つけた土器片
口縁部のもので、サイズは縦横5cmくらい

下のほうには菱形の模様がついている 

 それにしても、岡田小秦命神社へは今年の夏に再訪したのだが、岩群の周囲では台風か何かで折れた樹木が例の立岩近くに倒れている等、酷いことになっていた。幸い立岩への直撃は免れていたが、岩のなかのいくつかはそのうち谷底に転落しそうだし、このままではこの磐座も消滅してしまうだろうと思う。

 

 

 


 

 

 

岡田小秦命神社

奈良県宇陀市大宇陀小和田226に鎮座
Mapion

 創祀年代不詳の旧村社。由緒も不詳だが、元禄の検地帳や社蔵の湯釜の銘により、近世までは牛頭天王社を称していたことが分かる。

 『延喜式』神名帳には大和国宇陀郡に、「岡田小秦命神社」という小社が登載されているが、当社の鎮座地は大字「小和田」字「岡田」で、この社名の「岡田」や「小秦」を思わせるものがある。こうしたことから、『大和志』等、多くの書物がこの式内社の鎮座地を当社のそれに比定しており、現在の当社はこの式内社の社名をそのまま称するにいたっている。

 なお、式内「岡田小秦命神社」については他に宇陀市菟田野松井に鎮座する八阪神社に比定する説もあるが、小和田の当社を式内社とする文献のほうが圧倒的に多い。

宇陀市菟田野松井の八阪神社

 ちなみに、『続日本紀』和銅六年(713)七月条に、大和国宇陀郡浪坂郷の人が長岡の野地において銅鐸を発見し、朝廷に献上したとの記事がある。『大日本地名辞書』はこの長岡の地を当社が鎮座する字岡田ではないかと述べているが、もしもそうだったとすれば、当社は弥生時代から続く聖地だったことになる。いずれにせよ、巨杉の林立する境内や、背後にある小和田岳山頂ふきんに磐座の痕跡と思われる岩があることを考えても、相当な古社であることは間違いない。

 『式内社調査報告』の筆者は「この神社には鳥居なく、鎮座の向きが北向であることは全く他の神社の常規より外れており異例とも云うべきもので注目しなくてはならない事柄である。」と述べている。確かに鳥居がないのは異例だが、社殿が北向きなのは、小和田岳の北麓に鎮座しているという地形的な理由で説明がつくだろう。

当社の社殿は北面している

 現祭神は天照皇大神を主神に、配祀神として須佐之男命と品陀別命を祀る。須佐之男命は近世に牛頭天王社だった頃のものだろう。品陀別命は合祀されたいずこかの八幡神社で祀られていたものか。

 いっぽう、当社が式内「岡田小秦命神社」だったとすれば、主神の天照皇大神もまた創祀の頃からのものではなく、ほんらいの祭神は社名にある「岡田小秦命」であったと考えられる。しかし記紀をはじめとした古文献にこの神名は全く登場しないので、神統譜は不明である。おそらくこの地方の土着神なのだろうが、『宇陀の祭りと伝承』には次のような伝承も収録されてあって、興味深い。

「小和田の氏神は岡田小秦命神社という。機織りの神様で、女の神様である。山陰から京都をまわって宇陀に来られたと聞いている。この神社には鳥居がない。そのため、小和田の家にはどこにも門がない。また、小和田の神社に鳥居がないのは、昔トンドの時に焼けたのである。小和田の家に門がなく、トンドもないのはそのためである。」
  ・、『宇陀の祭りと伝承』(桜井満、瀬尾満編、おうふう)p173

 ちなみに平成祭りデータでは、社名の読み仮名を「おかだのおはため」神社とし、「おかだのおはたみこと」神社とはしていない。祭神が女神であることを意識してのことだろう。

 

 

 


水霊が道をやってくる(2/2)【水越神社(奈良市邑地町)】

2011年08月22日 23時36分57秒 | 磐座紀行

★「水霊が道をやってくる(1/2)」のつづき

 岩神社もまた津風呂川の渓流に面して鎮座し、こうした立地条件が川上神社と共通している。また、いちおう本殿はあるものの、ほんらいの神体はその背後に露頭した巨岩だったと言われることも、本殿床下に磐座のある川上神社とよく似ている。

津風呂川の渓流に面した岩神社
宇陀市栗野字フロノ谷に鎮座し、
祭神は磐押開命、あるいは石長比売と伝わる

岩神社本殿 

社名の由来は社殿背後の岩の露頭でこれが神体だという
しかしこの岩は複数の郷土史に「社殿の背後は大岩が屹立し」
などとあるものの、実際には草が茂っているせいか良く見えない

社殿の手前にはいくつかの岩がある

 岩神社の本殿の前には真っ直ぐに延びる参道があり、その入り口には明神鳥居が立っている。が、この参道は人が参拝するものとしてはあまり役に立たない。というのも、社地へは対岸から神橋を渡ってゆくのだが、この橋を渡り終わって石段を登ったところにある石鳥居と、上述の明神鳥居は30mくらい軸がずれていて、わざわざ回り込むようなことをしないと両者が接合しないのである。

 しかしこの参道が人のためのものではないと感じさせる理由は以上のことだけではない。というか、むしろこっちの要因のほうが大きいのだが、この参道の中央部の、ちょうど人が通るところには土が盛ってあって人が通れなくしてあるのだ。これはこの道が人が通るためのものではなく、神霊が通るためのものであることを表しているのだと思う、── 別にこれは俺の個人的な意見ではなく、岩神社を紹介している別の方のブログにも同じ感想があったので、このように感じる人は少なくないはずだ。

この画像ではちょっと分かりづらいが、
参道の中央に土が盛ってあり人が通れなくしてある

本殿前に延びる参道
杉の向こうは石垣の下を川が流れている

 その場合、この参道の先が津風呂川に面している以上、その神霊は川からやってくることになる。そしてそうなると、ますます当社は川上神社と似てくる。

 


 

 水越神社を参詣したとき、当社の参道は川上神社や岩神社のそれと同じく、布目川からやってくる神霊の通る道だったのではないかと思った。

 その場合、川からきた神霊はどこにゆくのだろうか? 本殿のところに留まるのだろうか。そんなことを考えながら社殿のほうを見ているうちに、本殿背後の小山が気になりだした。

水越神社本殿背後にある尾根の斜面
Mapion

 この小山は上のマピオンを見てもらうと分かるが、背後の山地から細長く伸びてきた尾根で、当社の社殿はその先端に位置している。たいして大きな山ではないので神体山と呼べるようなものではないが、それでも一応、この言葉を使うとすると、こうした社殿の立地からして、かつてこの尾根は神体山として信仰の対象になっていたのではないか。

 この尾根にはシラカシを主にしたカシ類と、シロダモ、サカキおよびヤブツバキなどで構成される樹木が生い茂っている。当地域の極相林として貴重な存在で、奈良市から天然記念物指定も受けているが、こういう植生が残されていることも、この尾根が神体山として神聖視され、古代からずっと人の手が入らなかったことを感じさせる。

 さて、舞殿などがある前庭からこの尾根を見上げると、何ともスムーズに斜面が立ち上がっている。川から上って鳥居をくぐり、例の直線的な参道をずっと進んできた布目川の水霊はもしかすると社殿のところで止まらないで、そのままスーッとこの斜面を上って尾根の中に引き込まれいったのではないか、 ── 思わずそんな運動感覚を覚えた。俄然、この尾根への興味が増してくる。俺も引き込まれるようにしてこの尾根を登ってみると、少し行った辺りに3m四方ほどの大きな岩があった。ふきんには他に岩石が見当たらないので、これだけ単独に露頭しているのは不自然である。人為的に搬入されたものらしい。上が平たいフォルムも類型的であり、これは磐座だと思われる。

 川上神社や岩神社でみてきたように川からくる水霊は岩石を好む。この磐座も布目川からくるそれのものではないか。

水越神社社殿背後の尾根にある磐座
中央にある小さな円い点は大きさの比較のために俺が置いた一円玉
このアングルでみるとまだ三分の一くらいは土中に埋もれていそうだ

 

 

 


 

 

 

水越神社

奈良県邑地町3168番地に鎮座
Mapion

 布目川に臨んだ社地や巨木の杉、神体山らしい社殿背後の尾根など、自然信仰的なふんいきを濃厚にただよわす神社。境内の静かで清澄なただずまいが深い感銘を与える神社でもある。式内社ではないが、古社であることは間違いない。私が参詣したときもそうだったが、他の人のブログ等を見ても境内の清掃はいつも行き届いている。地元の方による厚い信仰を感じさせる

 祭神は天忍雲根神。
 この神は『中臣寿詞』に所出し、天児屋根命の命で、天の二上の神漏岐命(かむろぎのみこと)と神漏美命(かむろみのみこと)により、皇孫には「うつし国(地上の国)」の水に「天都水(高天原の水)」を加えて奉る旨、奏上している。

 天忍雲根命は、古都の年末を代表する神事として有名な「春日若宮おん祭」で知られる春日若宮神社の祭神だが、他の神社でこの祭神を祀っている例は非常に珍しい。

平成祭りデータにある由緒は以下の通り。

「中南氏所蔵の「棟札数記」によると永禄5年(1562)以前の創立であることが立証されている。祭神は天忍雲根命。境内に春日神社、東神社、秋葉神社、津島神社、天満神社、八王子神社、金比羅神社、稲荷神社、御霊神社、鎚森神社がある。慶長17年(1612)在銘の石灯籠、元録2年(1682)在銘の手水鉢、享保3年(1718)在銘の石灯籠などがある。境内社春日神社本殿一棟は昭和30年12月26日、奈良県教育委員会文化財指定になっている。檜皮葺一間春日造、見世棚造の社殿、蛙股を入れ一部後世変更の部分があるが、大部分は創建当時のもので左右跳勾棚をめぐらしている。室町時代中期と推定されている。境内の社そうは昭和60年3月7日、奈良市教育委員会文化財指定になっている。水越神社神事芸能は平成2年3月9日奈良県教育委員会無形文化財に指定されている。」

 

 

 


水霊が道をやってくる(1/2)【水越神社(奈良市邑地町)】

2011年08月21日 20時35分13秒 | 磐座紀行

 水越神社は奈良市邑地町に鎮座する旧指定村社。市内東部の山間部に鎮座し、布目川右岸にある社地へは対岸から神橋を渡って参拝するという、文字通りの「水越神社」である。  

神橋の向こうの社地

 

 橋を渡ってすぐに鳥居があり、真っ直ぐに伸びる参道の奥に社殿が見える。  

社頭の様子

 

 鳥居をくぐると杉が植えられた神域の広さに驚かされる。低い石垣と側溝に隈取りされた参道は非常に直線的。  

かなり直線的な参道

 

 社殿が近づいてくると、参道の軸と本殿の軸がずれていることが分かる。しかしこういうブレは古社では珍しくないものだ。   

参道軸と社殿の軸のずれ 

 

 社殿の前庭に入ると、本殿の載っている壇との間にある短い斜面に生えた杉の大木に目を奪われる。巨木サイトなどにも紹介されているもので、特に向かって右手の夫婦杉の存在感が圧倒的。しばらくその光景に見入ってしまう。  

巨杉(きょさん)

しまった、この杉を見上げたところを撮ってくるのを忘れた

 

 そしてそんな風に巨杉を見上げながら感嘆しているうちに、ふと気づくのである。今、自分がいる場所をつつみこんでいる静寂に。辺りには道路も通っており、生活音も聞こえてくるのだが、それらをかき消す静寂さだ。  

静寂

静寂

静寂 

 

 

 

 水越神社は天押雲根命という水神を祀っている。もともとは布目川の水霊を祀る神社だったのだろう。

 そのような自然信仰の神社としてまず注目されるのは、鳥居が川に面して建っていて、そこから社殿のところまで真っ直ぐに参道が延びているところが、川への(あるいは川からの)アプローチを強く感じさせるということだ。

 こういう川へのアプローチを強く感じさせる神社というと、俺はすぐに出雲の川上神社という神社のことを思い出す。この神社は松江市上本庄町に鎮座する出雲国島根郡の式内社で、水神のタカオカミ神を主神として祀っており(相殿神として大己貴命と稲田姫命も祀っている。)、社前を本庄川の渓流が流れる立地からも、この川の水霊を祀ったものと見られる。

本庄川の渓流に面した川上神社

神社前の渓流の様子。岩が多い

 当社本殿の床下には板で囲って見えなくしてあるが、大己貴命の休息石という磐座があり、これが当社のご神体である。

川上神社本殿

本殿の床下にある大己貴命の休息石は、
周囲を板で囲って外からは見えなくしてある

大己貴命がこの川辺を通過した時、この岩で焚き火をして休息した
その後、暴風雨による洪水があった時、濁流の中に大光が認められたので、
水が引いた後でそこを調べるとこの岩の上に焼け残りの薪材が残っていた、
などの伝承がある

 川に面した入り口から拝殿までの間は扁平な自然石を並べた石畳がついており、とくに社殿の近くにある石はサイズが大きい。これと似たような石畳は他の神社であまり見た記憶がないが、社前を流れる本庄川へのアプローチを強く感じさせるものである。

川上神社の石畳

社殿に近いほうがサイズも大きい

社殿のほうからドンデン返したところ(逆方向のカット撮影を意味する映画用語)
境内の入り口に鳥居が建っていないところに注目

 当社には鳥居がない。境内でお話をうかがった70歳くらいの男性によると、かつて周りにいた自分より年輩の人にも聞いたが、その人たちも昔から鳥居はないと言っていたそうなので、古くから鳥居を設けなかったことは確かだ。またその方は、この石畳は本殿下のご神体の石と何か関係があるのではないかと仰っており、そのことがとても印象に残っている。

 俺はこの石畳が本庄川からやってきた水霊が社前で上陸し、本殿下の磐座まで移動する通り道なのではないかと思った。鳥居は外部から社地を結界するためのものだから、神霊じたいが外部からやってくる場合、その入り口に鳥居を建ててはならないことになるのだろう。

 そういえば川からくる水霊の通り道というと、奈良県宇陀市栗野にある岩神社で見た参道も思い出される。

 

水霊が道をやってくる(2/2)」につづく

 

 

 


霧につつまれたハリネズミ【多久神社(島根県出雲市多久谷町)】

2011年08月15日 00時30分02秒 | 出雲の神がみ

「神奈樋山。郡役所の東北六里百六十歩。高さ百二十丈五尺、周り二十一歩。峯の西に石神がある。高さ一丈。周り一丈。道の傍に小さい石神が百余りある。古老が伝えて言うことには、阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこのみこと)の后の天御梶日女命(あめのみかぢひめのみこと)が、多宮(たく)の村までいらっしゃって、多伎都比古命(たきつひこのみこと)をお産みになった。そのときお腹の中のこどもに教えておっしゃったことには、「おまえのお母様が今まさに生もうとお思いになるが、ここがちょうどよい。」とおっしゃった。いわゆる石神は、これこそ多伎都比古命の御依代だ。日照りのときに雨乞いをすると、必ず雨を降らせてくれるのだ。」
 ・『出雲国風土記』 萩原千鶴現代語訳 講談社学術文庫p176~177

 これは『出雲国風土記』楯縫郡条にある神奈樋山の記事である。この山は出雲市多久谷町の大船山に比定されており、その麓に鎮座している式内社の多久神社では、多伎都比古命と天御梶日女命が祀られている。

多久神社
『延喜式』神名帳 出雲国楯縫郡の小社

多久神社本殿

社頭の様子

 風土記の記事にある「石神」は長い間、所在が失われていたが、昭和36年頃に再発見された。大船山々頂から北西の支脈にある烏帽子岩がそれである。位置や大きさが風土記の記述と合っていたこともあるが、ふきんから古墳時代前期の祭祀用の土器が見つかったことが決め手となったようだ。これに伴い、大船山も風土記の神奈樋山であることが確実となった。つまり楯縫郡の神奈樋山は、石神が発見されたことではじめて特定できたのである。このことは意義深い。

  「かむなび(神奈備)」とは神が籠もる山や森林などのことである。同風土記には大船山以外にも意宇郡、秋鹿郡、出雲郡に「かむなび山(神名火山、神奈樋野)」の記事があり、それぞれ松江市の茶臼山、同市の朝日山、斐川町の仏経山に比定されている。いずれも周辺の平野部にそびえ、ランドマークとなるような山で、その地域で生活していた古代人から信仰を集めるようになったのも、自然な成り行きであったことを感じさす。

茶臼山
『出雲国風土記』意宇郡の神奈樋野に比定される

朝日山
『出雲国風土記』秋鹿郡の神名火山に比定される

 これに対し大船山は、宍道湖に面した平野から眺めると周辺の山塊に埋没してしまってあまり目立たない。この山は多久谷をさかのぼって初めて顕著な山容を見せるのである。その姿を目にできる範囲は限られてくるので、ランドマークと呼ばれるにはふさわしくない。こうした他の3つの「かむなび山」と大船山の違いは何を意味するのだろうか。思うに大船山においては石神への信仰のほうが一次的なもので、山への信仰は二次的であったのではないか。つまり、石神があったからこそ大船山は「かむなび山」として信仰を受けるようになったのであり、その逆ではないのである。また、そう考えると風土記の石神に比定される烏帽子岩のことがますます重要に感じられてくる。

大船山

大船山がこのように秀麗なフォルムを見せるのは
多久谷町のある谷間をある程度、
奥に入った場所で眺めたときだけである

 なお、『出雲国風土記』には山や河川、島などのデータが郡ごとに列挙されているが、意宇郡以外の「かむなび山」はいずれもその記載順序が筆頭である。ここから出雲の「かむなび山」とはたんなる特定の神社の神体山というに留まらず、その山のある郡の地霊そのものが鎮まるスケールの大きな存在であったことがうかがえる。

 

 

 大船山では祭祀用の土器が3箇所から見つかっている。一つは石神に比定される烏帽子岩周辺で、他の二つは「長滑らの滝」という小さな滝の近くである。風土記によれば、石神は多伎都比古命の依代であるというが、この滝からは烏帽子岩が見えるという。おそらく神名、「たきつひこのみこと」に含まれる「たき」とは長滑らの滝のことで、この神はその神格化なのだろう。

 風土記の記事には、石神は日照りのときに雨乞いをすると必ず雨を降らせてくれたとあり、多伎都比古命は祈雨神として信仰されている。大和国高市郡にはウス滝と呼ばれる滝を神格化して祀る飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社という式内社があり、皇極女帝が祈雨をした場所の有力候補となっている。同種の信仰だろう。

 なお、発見された土器片は烏帽子岩周辺で見つかったものは古墳時代前期のものであるのに対し、長滑らの滝周辺で見つかったものはやや新しく同中期~後期頃とみられるという。石神への祭祀のほうが、滝へのそれより先行していたようだ。

 

 

 天御梶日女命(あめのみかぢひめのみこと)については別の場所で改めて書くことにして、その夫神で多伎都比古命の父神でもある阿遅須枳高日子命について触れておく。『古事記』にはこの神、アヂスキタカヒコネ神(アヂシキタカヒコネ神)は、その親友で返し矢によって死んだアメノワカヒコの喪屋を弔問した際、容姿が似ていたので親族からアメノワカヒコと勘違いされ、これに立腹して持っていた剣で喪屋を切り伏せ足で蹴り放った伝承がある(『日本書紀』にも類話がある。)。

 『出雲国風土記』仁多郡三沢郷には、アヂスキタカヒコネ神が髭が長く伸びるようになってからも昼夜、泣き止まず、言葉も発しなかった、親神のオオオクニヌシ神が船に乗せて八十島を巡って楽しませようとしたが、それでも口をきかなかった、やがてオオオクニヌシ神の夢でアヂスキタカヒコネ神が口をきいたので、翌朝、子神に尋ねると「御沢」と答えた、その場所を尋ね当てると水が湧き出たのでみそぎした、今でも国造が『出雲国造神賀詞』奏上のために朝廷に参向する際はここでみそぎする、という話を載せる。

三澤神社
『延喜式』神名帳 出雲国仁多郡の式内小社
アヂスキタカヒコネ神(阿遅須枳高日子命)を祀り、
『出雲国風土記』仁多郡三沢郷の記事との関係をうかがわす
ふきんには風土記に登場した三澤の池もある

三澤の池

 成人してからも泣きやまず、言葉も発しないというと記紀にある垂仁天皇の御子であったホムチワケの説話が連想される。おそらく出雲地方に伝わっていたアヂスキタカヒコネ神の伝承が皇室神話に取り入れられ、ホムチワケ説話が成立したのだろう。
 なお、同神門郡高岸郷にもアヂスキタカヒコネ神がひどく泣くので高床式の建物を造り、そこに立てた梯子を上り下りさせて養育した記事がある。

 

 

 神奈樋山の石神の記事で、多伎都比古命を出産する天御梶日女命は「汝の命の御祖の向位に生まむと欲ほすに、此処し宣し」と言っている。

 この部分の解釈は「向位」が難解なので諸説ある。例えば「向位」を「尚泣(~のごとく泣く)」の誤写とみて、「おまえの父(のアヂスキタカヒコネ神)のように泣きなさい。」とする説もある。うまい解決だとは思うが、仁多郡三沢郷や神門郡高岸郷の原文でアヂスキタカヒコネ神は「哭」いているにもかかわらず、ここでだけ「泣」いたとするのが気になる。

 最初に引用した萩原法子の現代語訳では主語の「御祖」を天御梶日女命のことと捉え、「おまえのお母様が今まさに生もうとお思いになるが、ここがちょうどよい。」としている(「御祖ミオヤ」は父と母いずれにも解釈できる。)。しかし文脈から言って、この「御祖」を出産しようとする天御梶日女命本人とするのは無理があるだろう。これはやはり父神のアヂスキタカヒコネ神とするべきだと思う。

 個人的には「おまえの父の位(鎮座している場所)と向き合って生もうと思うが、ここがちょうど良い場所だ。」とするのに惹かれる。もっとも、そのままでは意味が取りがたいが、『出雲国風土記 フシギ発見の旅ガイドブック』(ザ・出雲研究会編)によると、石神からは神門郡高岸郷の比定地である出雲市天神町がよく見えると言う。

 さっき紹介したとおり、高岸郷には泣き止まないアヂスキタカヒコネ神を喜ばすために上り下りさせた高い梯子のある高床式の建物があったと『出雲国風土記』にある。
 おそらくこの建物は同神を祀る神殿で、古代の出雲大社本殿と同じく、柱によって空中に高く持ち上げられ、そこに登る高い梯子もついた壮大な建造物だったのではないか。大船山から高岸郷までは約20km離れているが、もしかすると石神のある場所からもそれが望めたのかもしれない。

 石神を訪れたときはこうしたことを確認したかったのだが、生憎、霧のせいでかなわなかった。濃霧の中で蔦状の植物におおわれた石神は、なんだかロシアのノルシュテインの『霧につつまれたハリネズミ』という切り絵アニメに登場した主人公のハリネズミみたいで、妙にいじらしく感じられた。

大船山の烏帽子岩、風土記の石神に比定される
ふきんからは古墳時代前期の祭祀用の土器がみつかっている

烏帽子岩周辺の山腹には大小多くの岩が見られ、
風土記の「道の傍に小さい石神が百余りある。」の記述を思わせる

『霧につつまれたハリネズミ』ユーチューブの視聴ページ ↓

http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=6wOvaq8RqQA


 

 

多久神社

 

島根県出雲市多久谷町274番地
Mapion

 『延喜式』神名帳 出雲国楯縫郡に登載のある小社に比定される
 祭神は風土記に登場した多伎都彦命と天御梶姫命で、猿田彦命と鈿女命を合祀する。後者は明治三十九年に合祀されるまで、ふきんに鎮座していた拝田神社で祀られていた。

 現・多久神社が式内・多久神社であったかどうかは明らかでない。
 『日本の神々』の藪信男は次のように書いている。
「多久神社は、江戸時代の諸書によって多久村の大慶寺境内の大船大明神に比定され、結局、この大船大明神が現在の多久神社のもととなる。大慶寺は現社地の南方一.七キロの山裾「寺谷」にある日蓮宗の巨刹で、寺伝によると、十六世紀中頃に有名な「鍋冠ナベカブリの日親」が創建したものという。江戸自体の比定が正しいか否かは確かめようがないが、風土記の伝承から多久神社が古代の神奈樋山とその巨石への信仰に結びつくものと推定され、しかも多久神社の有力な候補が他にない以上、「大船」の名を冠するこの神社を多久神社の後身としたのはあながち無理な考証とはいえまい。むしろ神仏習合という背景を考えるなら、この地方の名社であるゆえに新興の大寺院に鎮守として取りこまれた可能性は充分に考えられるであろう。」
 ・『日本の神々 7 山陰』p85

 この大船大明神については、現在もこの地に住む松本一族の祖先が天命六年に書き残した古文書に次のような伝承が書き記されているという。「当明神は近江国に出現され、その後近江国松本村からわれわれの祖先が船でお供をして当村に勧請した。その船は今、岩となって大船山に残っている。」

 近世までの当社は大慶寺が祭祀等の全てをとりしきっていたが、明治四年に社名を多久神社と改め郷社に列してからは、大慶寺境内から現社地に遷座し今に至っている。

 秋の例大祭では「簓ササラ神事(簓舞)」が奉納される。これは前記の松本氏一族の祖先が近江から伝えた田楽の一種で、世襲により一族の子孫によって舞われる。昭和四十九年、島根県より無形文化財指定。

 

 

 


ニウツ姫の島【邇保姫神社(広島県南区西本浦町)】

2011年08月11日 00時30分03秒 | 丹生、ニウツ姫

 意外かもしれないが、広島市街にニウツ姫を祀った古社がある。南区西本浦町に鎮座する邇保姫神社がそれで、『安芸国内神名帳』安南郡の四位に登載ある同名の神社に比定されている。社伝によれば、「神功皇后が三韓御出兵を終えてお帰りの時、この所に一夜御宿陣になり、御霊験を頂いた爾保都比売神(★ニウツ姫の異字体)を御鎮祭報賽され鎮護綏撫の神祐をお祈りになった。翌日御出発の際、邪気祓いのため白羽の矢をお放ちになったところ、この山に矢が止ったので矢を納めて島の鎮守とした。」という。

邇保姫神社

 ここで「御霊験を頂いた爾保都比売神」とあるいきさつは、次に挙げる『播磨国風土記』逸文に詳しい。

「息長帯日女の命(★神功皇后)が、新羅の国を平定しようと思って西行なさった時、多くの神々に祈願なさった。その時、国土を生成された大神の御子である尓保都比売の命(★にほつひめのみこと、ニウツ姫の異字体)が、国の造の石坂比売の命に寄り託き神がかりし、教えて「私を手厚く斎奉ったなら、私はよい効験を出して、『比々良木の八尋鉾根の底付かぬ国』『嬢子の眉引きの国』『玉匣かが益す国苫枕宝有る国』『白衾新羅の国』(★いずれも新羅のこと)を赤い浪の威力でもって平定なさろう。」とおっしゃった。このようにお教えになって、ここに魔除けの赤土をお出しになった。そこで息長帯日女の命は、その土を天の逆鉾にお塗りになり、船尾と船首にお建てになられた。また船の舷側と兵隊の鎧をこの赤でお染めになった。こうして海水を巻き上げ濁しながらお渡りになる時、いつもは船底を潜る魚や船上高く飛ぶ鳥たちもこの時は行き来せず、前を邪魔するものは何もなかった。こういう次第で、新羅を無事平定され帰還されたのである。そこで、尓保都比売の命を紀伊の国の管川にある藤代の峰にお移しし、お祭り申し上げたのである。」
 ・小学館日本古典文学全集『風土記』より、上垣節也の現代語訳

 つまり神功皇后の新羅を平定する航海に効験のあったニウツ姫を、帰国してから祀ったのが当社なのだ。

 ところでのこの記事の最後のほうに、皇后が帰還してからニウツ姫を紀伊国の管川にある藤代峰に移して祀ったとある。『丹生大明神告門』には紀伊国内をはじめ、ニウツ姫が大和の吉野・十市・巨勢・宇智の各郡に忌杖をさして廻ってから、最終的に丹生都比売神社が鎮座する天野に至ったとある。このため、ニウツ姫の本社である丹生都比売神社は紀伊山地の山フトコロに抱かれた天野という美しい隠れ里に鎮座している。播磨で託宣したこの女神がどうしてこのような場所で祀られるようになったのかは興味深いが、なかなかの難問だ。

丹生都比売神社
紀伊国伊都郡の式内明神大社

楼門と並んで当社のシンボルになっている太鼓橋

丹生都比売神社本殿

拝殿を兼ねた楼門の地面に見られる赤土
ニウツ姫のモノザネだ

初夏の天野

 ニウツ姫の神格については松田壽男の唱えた水銀朱の神であるという説の人気がたいへん高く、これを定説だと信じている人も少なくないが、他にも水神を本質とした農業神ではないかという説もあったりして、現在でもこの神の神格については議論の余地が残されている。

 本館のほうの「赤い浪の威力」でも論じたが、『播磨国風土記』逸文にあるニウツ姫の記事を率直に読めば、マジカルな力を備えた赤土の女神であることは間違いないものの、神功皇后はそれを用いて航海の安全を確保しているので、ニウツ姫には航海神としての神格もあった感じがする。ニウツ姫は神功皇后が播磨の沖合を航行中に、国造だった石坂比売命に憑依したのだから、もともとは播磨沿岸の海民の間で信仰されていたのではないか。

 ただし、丹生都比売神社や備後国の式内・邇比都賣神社、大和、伊勢、近江、若狭、但馬、越前にある式内「丹生神社」等の系列社をみてゆくと、比較的海から離れた山地部に鎮座するケースが多く、航海神を祀っていたという雰囲気は感じられない。もっとも、住吉神や宗像神を祀る古社が海から離れた山間部に鎮座しているケースもあるので、それだけではどうとも言えないだろうが。

 さて、当社の鎮座している黄金山いったいはかつて広島湾に浮かぶ島で、仁保島と呼ぱれていた。瀬戸内海に浮かぶ島々には厳島神社や大山祇神社のような航海神が祀られてきたことから類推すると、おそらく当社もまた航海神として創祀されたのだろう。この神社は、『播磨国風土記』逸文の伝承地と同じく瀬戸内海地方に鎮座し、立地から言っても航海神を祀ったことを感じさせるので、ニウツ姫の神格について考えさせるものをもっている。

 

      

 

 邇保姫神社へは平成22年のゴールデンウィーク中に訪れた。ところが、当社は平成19年9月27日の不審火で本殿と拝殿を失ったため、現地ではその再建工事のまっただ中であった。神社は近くにあるビル(社務所?)の一階に仮遷座していたので一応の参拝はできたものの、誠に残念なことである。焼失した社殿は近世に再建されたものらしいが、写真で見るとかなり大きな建造物で、原爆の爆風にも耐え、被爆者の救護にも利用されたという。神職や氏子の方々は、さぞや断腸の思いだったろう。

邇保姫神社は、社地近くのビルに仮遷座中だった

仮拝所

再建工事現場

  


  

邇保姫神社

広島市南区西本浦町12-13に鎮座、「にほひめ」神社
Mapion

 『安芸国内神名帳』安南郡の、四位十八前の中に登載のある「邇保姫神社」に比定される。周囲には丹生と同義語の仁保の地名がある。
 
  祭神は爾保都比売神。相殿神として帯中津日子神、息長帯比売神、品陀和気神を祀る。
  
 本文中で引用した部分と重複するが、平成祭りデータにある由緒の全文は以下の通り

 
  「神功皇后が三韓御出兵を終えてお帰りの時、この所に一夜御宿陣になり、御霊験を頂いた爾保都比売神を御鎮祭報賽され鎮護綏撫の神祐をお祈りになった。翌日御出発の際、邪気祓いのため白羽の矢をお放ちになったところ、この山に矢が止ったので矢を納めて島の鎮守とした。
 仁和元年(885)8月上旬、宇佐八幡宮を勧請し正八幡宮と称した。正応元年(1288)三浦公より社領30石を賜ったが、その後、福島正則公の時、悉く召上げられた。社殿は文暦2年(1235)に再建、さらに現在の本殿は建築様式上、享保年間(1716~36)の再建と考えられる。
 なお、楽音寺蔵の安芸国神名帳(平安末)において安南郡の四位十八前の内に邇保HIME明神と記せるは当神社のこととされる。(注)HIMEは土が三つ。」

 焼失した社殿に変わる新社殿は平成22年の末頃、竣工したもよう。なお、この復興事業の一環として、法面の崩落防止のため、標高21mあった境内の地盤を15mまで削った。これにより、98段あった参道の石段が60段程度まで短縮され、敷地の有効面積も1.3倍になるという。しかし、ニウツ姫の祀ってある神社の地面は、この赤土の女神のモノザネであった特別な地面だと思うので、6mも削ってしまったらもったいない気もする。もっとも、工事現場で見かけた土はあまり赤くなかった。

今回の復興神社で出現した社地を取り囲む垂直擁壁

境内への進入路も整備されたようだ