わが国では古来、<祟りを恐れる>という言い方で、滅ぼした部族の神や、あるいは滅ぼした人物を大きく祀る伝統があった。国譲りをさせられた大己貴命を祀る出雲大社をはじめ、菅原道真を祀る天満宮、平将門を祀る神田明神、西郷隆盛を祀る南洲神社などなど、その例は枚挙にいとまがない。こうしたことをかんあんすると、伊勢地方にも伊勢津彦を祀る有力な古社があっておかしくないのだが、はなはだ遺憾なことに現在、そのような神社は見当たらない。
しかし伊勢に伊勢津彦を祀った古社(あるいは祀ったというような伝承等)がないにも関わらず、なぜか隣国の伊賀にそれがあるのだ。『伊勢国風土記』逸文によれば、伊賀の穴志アナシの社にいる神で、出雲の神の子である出雲建の子の命、別名、伊勢津彦、またの名を天櫛玉命が石で城キを築いてそこにいた。そこへ阿倍志彦の神がきて、その土地を奪おうとしたが敗退した。この石城イシキから伊勢という地名がおきた、とある。
さて、『延喜式』神名帳 伊賀国阿拝郡には穴石神社という小社が登載されており、これが風土記逸文にいう「穴志の社」に当たる。だが、この式内社には現在、以下の2つの論社があり、いずれがほんらいの式内社であったのか定説はない。
(a)穴石神社 三重県伊賀市石川
(b)都美恵神社 三重県伊賀市柘植町
このうち、(a)の穴石神社はかつて天津社という神社だったが、社殿の左側に「穴石神」という石塔が祀られていたことから、『標註伊賀名所紀』の入交省斎によって式内・穴石神社に比定された。これを受けて明治39年に社名を改めたものが、現在の穴石神社である。ちなみに入交よりも早く『三国地志』も当社を式内社に当てている。
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穴石神社
独特の静謐なふんいきがあって、なかなか良い神社です。
いっぽう、穴石神社のもう一つの有力な論社は(b)の都美恵神社である。社蔵の由緒書によると、この神社はかつて柘植町の南南東3kmの地点にある「穴石谷(あしだん)」いう場所にあった。しかし、寛永二十一年(1644)に洪水の被害に遭って社地が決壊したため、正保三年(1646)に現在地に移ってきたという(下の註も参照)。さらにふきんの柘植川右岸に鎮座していた敢都美恵宮をも合祀し、大正十一年、都美恵神社と改称されたが、それ以前は一時、穴石神社を称したこともあったらしい(さらに以前は石上社と呼ばれていた)。
ちなみに、敢都美恵宮は『倭姫命世紀』の「敢都美恵宮」に比定される古社であり、倭姫命が巡行した元伊勢伝承地のひとつである。現在、相殿神として祀られている倭姫命はこの神社の祭神だったというが、伝承面でこの地域が伊勢と関わりのあることをうかがわせて興味深い。
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都美恵神社
前述の『標註伊賀名所紀』は(b)の都美恵神社について、この神社はもともと「石上社」と呼ばれていたが、近頃になって穴石社と称するようになった。しかしこれは根拠のないことで、「まどふべからず」、すなわち「だまされるな。」と一蹴している。また、『式内社調査報告』はこの箇所を引用した後で、愚直なほど率直にそれにしたがっている。
だがさっきも言ったとおり、当社は洪水に遭って正保三年に遷座してくる前は、霊山北麓の「穴石谷」という場所に鎮座していたのであり、この地名までも作為でないとすれば、当社が穴石社を名乗ることには立派な根拠があったことになる。また、都美恵神社には「正保三戌年八月二十七日」の年記がある棟札があり、そこに「式内穴石神社を造替奉る」とある。この棟札は伊賀市指定の文化財となっているもので、これも重要な手がかりだろう。
私は、(b)の都美恵神社のほうが式内・穴石神社であると考えている。その理由は、『標註伊賀名所紀』が否定的に捉えた、かつての当社が石上社と呼ばれていたということにある。
『伊勢国風土記』逸文によれば伊賀の穴志の社(=穴石神社)にいた伊勢津彦は、石で城を造ってそこにいたという。これは巨岩による磐座祭祀が行われていたことの神話的表現だろう。要するこの式内社は、ヒモロギとして岩石を祀っていたのだ。ところが(a)の穴石神社しゅうへんには岩石がみとめられず、磐座祭祀が行われていた形跡がない。
いっぽう、かつての都美恵神社は石上社と呼ばれていたが、現在、拝殿後方の石垣上にある延宝二年の石灯籠には「石神大明神」と彫られており、「石上社」とはほんらい、「石神社」であったことがわかる。このことから正保三年に穴石谷から遷座してくる前の当社は、石神として岩石を祀っていたことがうかがわれる。この石神こそ、伊勢津彦が立てこもり、阿倍志彦を敗退させたという石城ではなかったか。
都美恵神社の社殿背後にある延宝二年の石灯籠
「石神大明神」の銘がある。
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もっと想像を逞しくしてみる。
「石もて城を造り」という風土記逸文の書きぶりから言って、そこで石神として祀られていた岩石はかなり顕著なものだったのだろう。おびただしい岩石が折り重なって偉容を呈し、まさに城か砦のようだったのではないか。
社伝によれば都美恵神社の旧社地である「穴石谷」は、霊山の北麓にあったという。寛永二十一年(正保元年?)の洪水というのも、決壊した河川の氾濫ではなく、山津波や土石流のような土砂災害だったとおもわれる。
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山麓からみた霊山
岩石の多く含まれた地層がしだいに浸食されると、残された巨岩が谷に集まって印象的な光景をつくることがある。
奈良県柳生町柳生の天石立神社(式内社)は地面から屹立した板状の岩を神体として祀っており、磐フェチ(磐座マニア)のメッカだが、ここを訪れた人は社地付近から見下ろす谷の中に、おびただしい岩石がルイルイと折り重なっている光景に強い印象を受けたとおもう。柳生の剣士はあの岩の上で剣の修行をしたというが、ああいう景観はこうしてできあがったものだ。
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天石立神社の神体である板状の巨岩(上画像)と、ふきんの谷にみられる巨石群(下画像)
大和の大神神社の神体である三輪山は山中に多くの岩石がみられ、古代から磐座として信仰の対象になってきたことで名高い。現地を踏査した者の証言などによると、三輪山中には山頂から山麓まで磐座を思わせる岩石の集積が線状に連なっており、こうした「磐座線」が何本か指摘できるという。
もっとも顕著な磐座線は拝殿背後の三ツ鳥居から延びるもので、とくにそこから200mほど入ったところにある巨岩は、古くから神酒が注がれてきたために黒く変色しているという。
寺沢薫氏の論文、「三輪山の祭祀遺跡とそのマツリ」(和田萃氏編『大神と石上』所収)所載の図面によれば、三ツ鳥居から延びる磐座線は山の中腹辺りまで延びてから一度、中断し、そこからちょっと高いところでまたはじまってから山頂近くでもう一度、中断し、さらに山頂にも磐座があるという構成になっている。これは古記録などにみられる辺津磐座・中津磐座・沖津磐座に対応するものだろう。
三ツ鳥居から巨岩まで間は、古来、禁足地とされてきた区域であり、これまでにおびただしい祭祀遺物がみつかっている。禁則地内には磐座をおもわせる岩石が多くみとめられるらしいが、上記図面によれば拝殿背後の磐座線は谷の中にある。これもまた浸食によって露頭してきた岩石が谷底に集まって形成されたものではないか。
ちなみに大神神社では、土石流が発生する危険があったので、拝殿付近の排水工事をやったことがある。このことは都美恵神社の旧社地である穴石谷が洪水で決壊したという伝承を連想させる。いずれにせよ、こうしたことから穴石谷には、浸食によって露頭してきた岩石のたくさん集まっている場所があり、伊勢津彦がたてこもった石城とはこのようなものではなかったか。
★ 「都美恵神社(2/2) 」につづく