神社の世紀

 神社空間のブログ

かたじけなさに

2010年07月29日 23時57分53秒 | 徒然

 「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」は伊勢神宮を参詣した西行がうたったとされる有名な歌だ。ここにどのような神がいらっしゃるのかは知らないが、身にしみるようなありがたさがこみ上げてきて、思わず涙がこぼれてしまった、という意味である。

 伊勢神宮の神々しいただずまいに触れた折りに、紀行文などでこの歌が引かれるのはよく見かける。が、そのいっぽうで古来、この歌は西行の真作であったかどうかの議論もある。ちなみにこの歌があげられているのは、「西行法師歌集」の三系統ある系統中、「板本系」のみなのだそうで、これだけでもちょっと怪しい感じがする。

 私も昔はこの歌が好きだったが、今は偽作じゃないかと考えるようになっている。そう考える理由はこうだ。「かたじけなさに 涙こぼるる」とあるが、ではどうして作者がそんなにかたじけなく感じたかがここでは全然、言葉で説明されていないのだ。

 むろんこれに対しては、「ここでのテーマは伊勢神宮のあの神々しいたずまいのことで、どうしてかたじけなく感じたかなんて説明されなくてもただちに共感できるし、ましてやそのことで欠落感など感じない。」という反論があることだろう。

 だが、ここは意見が別れるところかもしれないが、私はやっぱり欠落感を感じる。それも大いに。そもそもこの歌のテーマとなっている神宮の神域の神々しさを率直にうたうとすれば、神宮を訪れたらそこにある「○○」に触れていたく感動した、というふうになるとおもう。この場合、「○○」のところには「神々しさ」とか「神さびた趣き」とか「床しさ」とか色々な言葉が入るのだろう。それは歌人が自分の言葉でさがせば良いことだ。
 だが、この歌のどくとくな点は(そしてそのことが印象的にさせ、さらにはこの歌を有名にしているのだが)、言葉で伊勢神宮の神々しさを説明することをあえて放棄してみせていることにある。「どういう方がいらっしゃるのか分からないが、身にしみるようなありがたみがこみ上げてきて、思わず涙がこぼれた。」── 、ここには「○○」に入る言葉を探そうなんて気持ちははじめからない。ただ何が何だか言葉では説明できないありがたみに圧されて落涙してしまった、というだけなのだ。

 普通の人が作ったのだったら、これでも良いだろう。だが、詩人である西行がこれを作ったというのならば問題がある。というのも、これでは言葉で処置できないことがらの存在を認め、あまつさえ大いにそれに心動かされて涙まで流してしまった、ということになるからだ。言葉をもって世界と渡り合うことを本務とする詩人にとって、これは敗北宣言に等しい。だから私は、この歌は西行のような本物の詩人の作ではなく、ディレッタントのそれであり、もし西行が生きていてこの歌が自分のものだとされていることを知ったら気を悪くしてもとうぜんだとおもう。



内宮


三重県伊賀市 山神遺跡の磐座

2010年07月24日 01時02分04秒 | 磐座紀行

 上野市教育委員会が発行している『三重県上野市遺跡地図』に、伊賀市鍛治屋にある山神遺跡(遺跡番号244)という遺跡が載っている(ちなみに、上野市は現在、合併により伊賀市となっている。)。「遺跡の概況」のところには、「巨石の山の神の前面から皿形土器、土師器皿片(p 98)」とあり、巨石の山の神というのは磐座で、出土した皿形土器等は祭祀遺物であったことを思わせる(手びねした素焼きの皿形土器は、祭祀遺物として標準的なもの)。遺跡の時代区分は古墳時代なのでなかなか古い遺跡らしい、── 興味深い。ということで、伊賀地方を旅した機会にこの巨石を訪れることにした。じつは訪れたいと思った理由はそれだけではないのだが、そのことについては後述する。

 山神遺跡があるのは『上野市遺跡地図』で見ると、伊賀市古山界外の集落の東側にある小山である(ことになっている)。現地に到着した私は、西側からこの山に入って探索を開始した。


『上野市遺跡地図』に表示された山神遺跡(遺跡番号244)。
伊賀市古山界外の集落の東にある小山にマーキングされている。
これはこれで、いかにも古い祭祀遺跡がありそうな場所なのだが…。

 

 最初は目当ての巨石はすぐに見つかるものと思っていた。遺跡地図にマーキングされたエリアはさほど広くないからである。ところが小一時間ほど探したがそれらしいものは見あたらない。ここは民家の裏山なのであまりウロチョロしていると不審者だと思われかねない。そこで山を下りて下の民家にいたおじいさんに、この辺に巨石の山の神が祀られている場所がないか尋ねてみた。すると「ああ、それはねぇ ── 、」という感じで、ただちにその近くまで案内していただけたのである。ところが連れて行ってもらったその場所というのが、遺跡地図にマーキングされていたそれとだいぶ違うのである。東に約300mはずれているのだ。

 最初は半信半疑だったので、今まで探索していた山の中にも巨石の山の神がないか念のために尋ねたが、「そういうものは無い。」という返事だった。自分の家の裏山の話なのだから、あれば知らないはずもない。だいたい、後で気付いたのだが、『上野市遺跡地図』の一覧表にある山神遺跡の住所は「大字鍛冶屋字猪ノ坂」となっているのに、地図にマークされたエリアは大字の「古山界外」地内で、鍛冶屋から外れているのである。どうやら遺跡地図はマーキングを間違えているようだ。これはちょっとマズいのではないか。


 それはともかく、そのおじいさんに案内してもらった場所にも巨石らしきものはなかった。そこは丘陵のはずれに当たる荒れ放題のヒノキ林で、急傾斜な上、竹がそこら中に倒れていて歩くだけでも苦労した。結局、30分もしないでそこの探索は断念したのだが、2月だというのに汗だくになった(おじいさんの名誉のために言っておくと、おじいさんは目的地が見え始めたところで、指さして場所を教えてから家に戻られたのである。一緒に近くまで付いてきてくれたら自分でも場所が違っていることに気付いただろう。)。それから途方に暮れて地図を見ているうちに、さらに200mほど北にある丘の存在が気になりだし、行ってみるとやっと探していたものと思われる巨石の磐座に出会えた。

 そこは青蓮寺用水のファームポンドの東側で、標高223.9mの三角点がある所である(下のマピオン参照)。

   Mapion

 磐座は岩群によって成り立っており、中心的な存在である北側の巨岩と、それをとりまく支群により構成され、いわゆる磐境を形成している。前者はタテヨコ2.5m程度あって規模が最大であるとともに、地面から屹立していて非常に顕著である。岩群の中で唯一、注連縄がされ、北側には簡単な拝所も設けてある。中心的な存在なのだろう


山神遺跡の磐座。南側から見た全景。


同じく東側から見た全景


最も規模の大きな巨岩。南側から。


巨石です。


北側には簡単な拝所もある。


拝所のアップ。ローソク立てがあるのが変わっている。

 

 岩群は花崗岩のようだったが、ここにたどりつくまでの間、ふきんでは同じような岩はおろか、岩というものじたい全く見かけなかった。人為的に搬入されたものらしい。ちなみに例の巨岩は今も言ったとおり地面から屹立しているが、裏側(南のほうが正面だと思うのでその裏側)にまわると基部に別の岩をかませて地面から起こしてある。明らさまに人為的だ。  

 


基部に別の岩をかませて地面から起こしてある。


明らさまに人為的

 

 遺跡地図でみると、500mほど離れた場所に古墳後期の小円墳群があるらしいので、いちおう破壊された古墳の石室である可能性も疑ってみたが(封土を失って露出した古墳の石室が、磐座として信仰されるケースがある。)、現状ではどうみてもそのような形態をとどめておらず、石室だとしたらよほど徹底して壊さないとこうはならないだろう。やはり古代人による巨石信仰の遺跡なのではないか。だいたい、もしも古墳の石室だったら遺跡地図を作製したプロの調査員が気付くだろう。

 それにしても、労苦に見合う見事な磐座である。ふきんは地形も植生も凡庸なのだが、岩石の存在だけで神さびた気韻があたりにただよい出している。しかも周囲からは古墳時代の土師器片等が採集されているのだから考古学的な価値も高いはずだ。とてもただの山の神を祀ったものとは思えない。式内社クラスの古社にあってもおかしくないしろものだ、 ── ということで、私がこの遺跡を訪れようと考えた理由に戻る。

 山神遺跡の磐座から南に1kmほど離れた蔵縄手には田守神社という式内社があるのだが(伊賀国伊賀郡に登載の小社)、『三国地志』などによれば当社はもとから今の場所にあった訳ではなく、かつては鍛冶屋村にあったという。いっぽう、この磐座の住所はさっきも言ったが「鍛冶屋字猪ノ坂」である。とすると、おなじ鍛冶屋のエリア内にあるこの磐座はとうがい式内社のものではなかったか…


田守神社
現在の祭神は彦屋主田心命・別雷神・木花咲耶媛命。
が、もともとは雷神を祀る神社だったのだろう。

 

 ところが話はそんなに単純ではないのである。

 今も言ったとおり、かつての当社が鍛冶屋村にあったことは『三国地志』などに記事のあることだが、これについてはもっと正確に言う必要がある。すなわち、かつて「鍛冶屋村の吉田井上」に吉田神社という神社があり、その境内に「二宮雷大明神(以下、「雷神社」という。)」という神社が一緒に祀られていたのだが、『三国地志』が式内・田守神社としているのはこの神社なのである。

 山神遺跡の磐座の話からはやや外れるが、吉田神社と雷神社のその後の沿革についてもいちおう触れておく。
 社伝によれば、「鍛冶屋村の吉田井上」にあった吉田神社は長元年間(1028~1036)、何らかの理由により現在、田守神社がある蔵縄手の地に遷座してきた。この時、雷神社は吉田神社と一緒に移ってきたが、当初は合祀されてしまい、相殿神として吉田神社の社殿の中で祀られていた。ところがある時、村内に悪疫が流行したことがあり、雷神社を相殿神扱いしていることへの祟りとされ、これがきっかけとなってまた境内社として別の社殿をかまえるようになった。それが明治期の神社合祀令のとき、ふたたび吉田神社の社殿に戻され、さらに今度は主神に昇格して神社名も田守神社となったのが現在の田守神社なのである(つまり現在の田守神社の社殿は、雷神社に乗っ取られたかつての吉田神社のものなのだ。)。

 では、遷座前に吉田神社と雷神社(=式内・田守神社)が一緒に祀られていた「鍛冶屋村の吉田井上」とはどこだったのか。

 『上野市遺跡地図』に「雷神社跡」というのが載っており、住所は「鍛冶屋字奥吉田」となっている。おそらくこの場所が「鍛冶屋村の吉田井上」だろう(詳しい場所は下のマピオン参照。ちなみにそこは田守神社の裏手に当たり、現在は墓地として利用されているらしいので訪れるのは控えた。)。ちなみにさっきのおじいさんも、山神遺跡の磐座まで案内してくれる途中、「昔の田守神社はあの辺にあった。」と指さして教えてくれたことがあり、その場所はこの「雷神社跡」辺りだった。

   Mapion

 この場所は磐座のある場所から南に800mほど離れている。したがい、式内・田守神社が創始の頃からずっとこの雷神社跡で祀られていたとすれば、山神遺跡の磐座がこの式内社のものだとするのは難しい。しかし、式内社であるにもかかわらずかつての雷神社が吉田神社の境内社だったのは不自然であり、もともとは別の場所にあったのではないか、という疑いが残る。規模の立派さから言っても、山神遺跡の磐座は古代においてこの地域における信仰の一大中心だったろう。そして、かつて同じ大字内にあった式内社がこれと全く関係がなかったとは考えられない。

 雷神社跡は鍛冶屋の集落を見下ろすような場所にあり、鎮守の社として好立地である。いっぽう、山神遺跡の磐座がある場所は、大字鍛冶屋の北のはずれで集落から離れている。こうしたことから、山神遺跡の磐座を神体として祀っていた式内・田守神社(=雷神社)が、上代のいつの頃にか参拝に便利で立地に妙のある吉田神社のところへ遷されたのではないかと考える

  •  ちなみに、『三国地志』の筆者は『惣國風土記』にある記事と現地の伝承をもとに「東谷村の桜駒」という場所を雷神社の古跡として考証している(東谷は雷神社跡のすぐ南東にある集落)。私はこの考証を粗雑だと感じるが(だいたい、『惣國風土記』は偽書である。)、雷神社が吉田神社の境内社であったことに不自然さを感じなければ、『三国地志』の筆者もこうした考証は試みなかったに違いない。



(4)伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社(2/2)】

2010年07月20日 08時58分41秒 | 伊勢津彦

 

 ★「都美恵神社(1/2)」の続き



 都美恵神社


 現在の都美恵神社は丘の上に社殿を持ち上げ、その前面に築かれた石垣が高いテラスのような外観をつくっている。下から見上げていた時はわからなかったが、石段を登って拝殿のところまで行くと、本殿は拝殿よりもさらに一段高い、奥まったスペースにあった。ところが地形上の制約からこの本殿の載っているスペースがたいそう狭く、そのため、そこに並んでいる社殿がいかにも窮屈そうなのである。しかも拝殿の立派な規模と比較すると、本殿のそれはいかにも小さすぎて、ほとんど気の毒にさえおもえる。これもまたスペースによる制約のせいだろう。このため参拝をしている間中ずっと、どうしてここまで無理して高いところに社殿を構えるのか不思議に感じていたのだが、参拝を終えて振り返ると、旧社地があった霊山の姿が目に飛び込んできて納得した。別の場所でも書いたが、あきらかにこの社殿は、旧社地が遠望できることを意図して高い場所にしつらえられているのである





本殿は拝殿よりもさらに一段高い、奥まったスペースにあった。




 拝殿の前から眺める霊山



 この拝殿から眺める霊山の姿は胸をうつ。まるで都美恵神社は、霊山にあった旧社地の穴石谷が忘れられないで、遷座後もずっとそこを見守っているかのようだ。思わず「望郷」という言葉が浮かんできた(こんなことを書くと感傷的になっていると思われるかもしれないが、現地に立つと本当にそんな感じなのだ。)。

 当社の旧社地があった穴石谷は霊山のどこにあったのだろうか。『日本の神々』は、「社蔵の由緒書きによれば、正保三年までは町の南々東三キロの霊山北麓」にあったと書くが、その具体的な場所までは触れていない。が、かつて穴石谷に鎮座していた都美恵神社は、洪水によって社地が決壊したために現社地に遷座してきたのだから、今でもその痕跡が地形上に残っているのではないか。そう考えて、霊山北麓で大規模な山崩れの痕跡がある谷がないか地形図に当たってみた。そうしたところ、ちょうどそんな谷が見つかったのである。

 そこは、伊賀道の駅がある名阪国道のサービスエリアから約1kmほど南にある谷で、霊山の北麓にあたっている(くわしい場所は下のマピオンを参照)。

Mapion

 この谷は現在、少し入ったところに大きな砂防ダムがあって、そこから奥は入れなくなっている。いちおう、谷を三方から囲む急斜面の上には、それを取り巻くように林道が巡らせてあるが、そこからもこの砂防ダムの奥になっている部分に下りる道はついていない。つまり、この地点は現在、人が入れなくしてあるのだ。上の林道から眺めた感じでは、内部は原生林と化しつつあるようだった。

 この地点は上から見ると谷のまわりが砲弾を逆さにしたような形に深く落ち込み、ちょうどナイアガラの滝(カナダ滝のほう)のような地形になっている。あきらかに過去に大規模な山崩れがあり、土砂が流れ出たことを示すものだ。そして、この谷じたいに名前があるのかどうかはわからないが、この谷を流れる川は「崩川」という。おそらく、こうした災害に由来する名前だろう。私が地形図等で探した範囲では、霊山北麓で大規模な土砂災害の記憶を留める地形はここにしかない。とすると、穴石谷はここにあったのではないか。

 

 崩川ダムの近くで見かけた大きな石

 一通り上の林道をまわってみてから、下の谷に下りて砂防ダムを近くから見上げられるところまでやってきた。ダムには、「崩川ダム」というネームプレートが貼ってあり、高さ14mとか幅123mとかのデータが書いてあったので、何かの資料になるかとおもって撮影してきた。ところが、うっかりして肝心のダムの全景画像を撮ってこなかった。これは悔やまれる。ダムを見上げながら私は、伊勢津彦が立て籠もった石城はこの奥にあったのではないか、今でも石城の残骸だった巨岩が中を探せば残っているのではないか、などといった妄想を膨らませていたのだ。今になってみると、谷底から見上げていたこのダムのイメージが、伊勢津彦が立て籠もって、阿倍志彦を敗退させたという石城のそれと妙にダブってしょうがない

 ダムのふきんでは高さ1~2mの大きな石がいくつかかたまっているのを見かけた。この石のある辺りは現在、用材林となっているが、昔は田だったようである。耕作に不便なので山林に転用されたのだろう。もしかすると、かつて同じような石はもっとあったが、耕作の支障となるので運び出されてしまった可能性もある。また上の林道を歩いているとき、その舗装されてない林道が雨が降った時に沢になるらしく、一部の路面が筋状にえぐれていた。そしてそんな場所はどこも水が流れた時に洗い出された大小の石がおびただしくむき出しになっていたのである。ふきんの地質が石を多く含むものであることを示すものだろう。したがって、穴石谷がこの谷にあったとすれば、穴石谷には浸食によって露頭してきた岩石のたくさん集まっている場所があり、伊勢津彦がたてこもった石城とはこのようなものではなかったか、とする私の推測とも合致しそうだ。

 ただし、『日本の神々』がひく社蔵の由緒書きには「(柘植)町の南々東三キロの霊山北麓」とあるが、その場合、方位は合致するが距離はそれほど離れていないのが気になる。というのも、とりあえず柘植中学校のある辺りが柘植町の中心であるとして、そこから計るとこの地点はだいたい2km強しか離れていないからだ、── あるいは穴石谷は崩川のもっと上流にあるのか・・・。いずれにせよ私は、この川の流域で過去に土砂災害があった痕跡の残る場所を探せば、穴石谷が見つかるのではないかと考える。機会があればもっと踏査を続け、神職の方などにもお話をうかがってみたいとおもう


訂正

2010年07月12日 22時47分58秒 | その他

 昨日、アップした『伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社(1/2)】』は、後半に出てくる

奈良県柳生町柳生の天石立神社(式内社)は地面から屹立した板状の岩を神体として祀っており、<後略>」

という文章の前に入るはずだった

岩石の多く含まれた地層がしだいに浸食されると、残された巨岩が谷に集まって印象的な光景をつくることがある。

が抜けていて、意味が取りにくくなっていました。

 訂正します。


 お詫びとして、重要さのわりにはあまり有名ではない(?)磐座の画像を一枚。




 香川県東かがわ市にある本宮山の「くじら岩」です。

 本宮山は讃岐最古ともいわれる大内郡の式内社、水主神社の神体山ですが、登ってゆくと、ふきんに全く岩石がみられない山頂ふきんに突然、5m以上はありそうなこの岩が現れて驚かされます。それにしても「くじら岩」とはよく言ったもの。


(3)伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社(1/2)】

2010年07月11日 10時08分30秒 | 伊勢津彦

 わが国では古来、<祟りを恐れる>という言い方で、滅ぼした部族の神や、あるいは滅ぼした人物を大きく祀る伝統があった。国譲りをさせられた大己貴命を祀る出雲大社をはじめ、菅原道真を祀る天満宮、平将門を祀る神田明神、西郷隆盛を祀る南洲神社などなど、その例は枚挙にいとまがない。こうしたことをかんあんすると、伊勢地方にも伊勢津彦を祀る有力な古社があっておかしくないのだが、はなはだ遺憾なことに現在、そのような神社は見当たらない。

 しかし伊勢に伊勢津彦を祀った古社(あるいは祀ったというような伝承等)がないにも関わらず、なぜか隣国の伊賀にそれがあるのだ。『伊勢国風土記』逸文によれば、伊賀の穴志アナシの社にいる神で、出雲の神の子である出雲建の子の命、別名、伊勢津彦、またの名を天櫛玉命が石で城キを築いてそこにいた。そこへ阿倍志彦の神がきて、その土地を奪おうとしたが敗退した。この石城イシキから伊勢という地名がおきた、とある。

 さて、『延喜式』神名帳 伊賀国阿拝郡には穴石神社という小社が登載されており、これが風土記逸文にいう「穴志の社」に当たる。だが、この式内社には現在、以下の2つの論社があり、いずれがほんらいの式内社であったのか定説はない。

   (a)穴石神社    三重県伊賀市石川
   (b)都美恵神社  三重県伊賀市柘植町

 このうち、(a)の穴石神社はかつて天津社という神社だったが、社殿の左側に「穴石神」という石塔が祀られていたことから、『標註伊賀名所紀』の入交省斎によって式内・穴石神社に比定された。これを受けて明治39年に社名を改めたものが、現在の穴石神社である。ちなみに入交よりも早く『三国地志』も当社を式内社に当てている

 





穴石神社
独特の静謐なふんいきがあって、なかなか良い神社です。

 いっぽう、穴石神社のもう一つの有力な論社は(b)の都美恵神社である。社蔵の由緒書によると、この神社はかつて柘植町の南南東3kmの地点にある「穴石谷(あしだん)」いう場所にあった。しかし、寛永二十一年(1644)に洪水の被害に遭って社地が決壊したため、正保三年(1646)に現在地に移ってきたという(下の註も参照)。さらにふきんの柘植川右岸に鎮座していた敢都美恵宮をも合祀し、大正十一年、都美恵神社と改称されたが、それ以前は一時、穴石神社を称したこともあったらしい(さらに以前は石上社と呼ばれていた)。
 ちなみに、敢都美恵宮は『倭姫命世紀』の「敢都美恵宮」に比定される古社であり、倭姫命が巡行した元伊勢伝承地のひとつである。現在、相殿神として祀られている倭姫命はこの神社の祭神だったというが、伝承面でこの地域が伊勢と関わりのあることをうかがわせて興味深い。
 

  •  穴石谷にあった都美恵神社が洪水の被害に遭った年号だが、境内にあった由緒書きの石碑には、「寛永二十一年(一六四四)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年(一六四六)今の地に移されたことは、種々の古文書から明らかである <後略> 」とある。しかし寛永は二十年までで、「寛永二十一年」という年号はない。ただし、いちおう「寛永二十一年」は「正保元年」に当たり、西暦1644年にはなる。

     いっぽう、『日本の神々』は「社蔵の由緒書によれば、正保元年(一六四四)までは町の南南東3キロの霊山北麓の「穴石谷」という所にあったが、洪水のため、社地が決壊して現在地に移り、正保三年(一六四六)現在地東南の柘植川右岸から敢都美恵宮を合祀したという。(『日本の神々6』p243)」としている。
     「寛永二十一年」を「正保元年」に修正したらしいが、この書き方だと洪水被害に遭って穴石谷から遷座してきたのが正保元年で、敢都美恵宮が合祀されたのが正保三年であることになって、石碑のほうの由緒書きと食い違う。
     ちなみに、石碑には「都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治四十二年四月)後、大正十一年七月に現社号に改称されたもので倭姫世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、二所皇太神宮遷幸要略等にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもので <後略> 」ともあり、これでゆくと敢都美恵宮が合祀されたのは明治になってからという感じだ。

     どっちが正しいのか分からないが、とりあえず本文では由緒書きの石碑にしたがっておいた
     



都美恵神社


 前述の『標註伊賀名所紀』は(b)の都美恵神社について、この神社はもともと「石上社」と呼ばれていたが、近頃になって穴石社と称するようになった。しかしこれは根拠のないことで、「まどふべからず」、すなわち「だまされるな。」と一蹴している。また、『式内社調査報告』はこの箇所を引用した後で、愚直なほど率直にそれにしたがっている。

 だがさっきも言ったとおり、当社は洪水に遭って正保三年に遷座してくる前は、霊山北麓の「穴石谷」という場所に鎮座していたのであり、この地名までも作為でないとすれば、当社が穴石社を名乗ることには立派な根拠があったことになる。また、都美恵神社には「正保三戌年八月二十七日」の年記がある棟札があり、そこに「式内穴石神社を造替奉る」とある。この棟札は伊賀市指定の文化財となっているもので、これも重要な手がかりだろう。


 私は、(b)の都美恵神社のほうが式内・穴石神社であると考えている。その理由は、『標註伊賀名所紀』が否定的に捉えた、かつての当社が石上社と呼ばれていたということにある。

 『伊勢国風土記』逸文によれば伊賀の穴志の社(=穴石神社)にいた伊勢津彦は、石で城を造ってそこにいたという。これは巨岩による磐座祭祀が行われていたことの神話的表現だろう。要するこの式内社は、ヒモロギとして岩石を祀っていたのだ。ところが(a)の穴石神社しゅうへんには岩石がみとめられず、磐座祭祀が行われていた形跡がない。

 いっぽう、かつての都美恵神社は石上社と呼ばれていたが、現在、拝殿後方の石垣上にある延宝二年の石灯籠には「石神大明神」と彫られており、「石上社」とはほんらい、「石神社」であったことがわかる。このことから正保三年に穴石谷から遷座してくる前の当社は、石神として岩石を祀っていたことがうかがわれる。この石神こそ、伊勢津彦が立てこもり、阿倍志彦を敗退させたという石城ではなかったか。



都美恵神社の社殿背後にある延宝二年の石灯籠
「石神大明神」の銘がある。


 もっと想像を逞しくしてみる。
 「石もて城を造り」という風土記逸文の書きぶりから言って、そこで石神として祀られていた岩石はかなり顕著なものだったのだろう。おびただしい岩石が折り重なって偉容を呈し、まさに城か砦のようだったのではないか。

 社伝によれば都美恵神社の旧社地である「穴石谷」は、霊山の北麓にあったという。寛永二十一年(正保元年?)の洪水というのも、決壊した河川の氾濫ではなく、山津波や土石流のような土砂災害だったとおもわれる。

  •   霊山について少し詳しく述べておくと、この山は伊賀市東部にある山で、都美恵神社の神体山だったらしい。『三国地志』によれば、かつて山頂には嵯峨天皇の勅願により最澄が開基した霊山寺という寺院があり、一時は源頼朝の信仰を得て栄えたが、織田信長の伊賀攻略の時、兵火に遭って滅んだという。その後、延宝年間になって黄檗宗の寺院として再興され、現在も山の中腹にある。山頂ふきんには『三国地志』の記事を裏付けるような古い石塔の残骸などがみられ、鎌倉初期のものとみられる経塚も三基みつかっている。信仰の山なのだ。



山麓からみた霊山

  岩石の多く含まれた地層がしだいに浸食されると、残された巨岩が谷に集まって印象的な光景をつくることがある。
 奈良県柳生町柳生の天石立神社(式内社)は地面から屹立した板状の岩を神体として祀っており、磐フェチ(磐座マニア)のメッカだが、ここを訪れた人は社地付近から見下ろす谷の中に、おびただしい岩石がルイルイと折り重なっている光景に強い印象を受けたとおもう。柳生の剣士はあの岩の上で剣の修行をしたというが、ああいう景観はこうしてできあがったものだ。
 



天石立神社の神体である板状の巨岩(上画像)と、ふきんの谷にみられる巨石群(下画像)



 大和の大神神社の神体である三輪山は山中に多くの岩石がみられ、古代から磐座として信仰の対象になってきたことで名高い。現地を踏査した者の証言などによると、三輪山中には山頂から山麓まで磐座を思わせる岩石の集積が線状に連なっており、こうした「磐座線」が何本か指摘できるという。

 もっとも顕著な磐座線は拝殿背後の三ツ鳥居から延びるもので、とくにそこから200mほど入ったところにある巨岩は、古くから神酒が注がれてきたために黒く変色しているという。
 寺沢薫氏の論文、「三輪山の祭祀遺跡とそのマツリ」(和田萃氏編『大神と石上』所収)所載の図面によれば、三ツ鳥居から延びる磐座線は山の中腹辺りまで延びてから一度、中断し、そこからちょっと高いところでまたはじまってから山頂近くでもう一度、中断し、さらに山頂にも磐座があるという構成になっている。これは古記録などにみられる辺津磐座・中津磐座・沖津磐座に対応するものだろう。

 三ツ鳥居から巨岩まで間は、古来、禁足地とされてきた区域であり、これまでにおびただしい祭祀遺物がみつかっている。禁則地内には磐座をおもわせる岩石が多くみとめられるらしいが、上記図面によれば拝殿背後の磐座線は谷の中にある。これもまた浸食によって露頭してきた岩石が谷底に集まって形成されたものではないか。

 ちなみに大神神社では、土石流が発生する危険があったので、拝殿付近の排水工事をやったことがある。このことは都美恵神社の旧社地である穴石谷が洪水で決壊したという伝承を連想させる。いずれにせよ、こうしたことから穴石谷には、浸食によって露頭してきた岩石のたくさん集まっている場所があり、伊勢津彦がたてこもった石城とはこのようなものではなかったか。

★ 「都美恵神社(2/2) 」につづく