神社の世紀

 神社空間のブログ

伊吹山の神は誰ですか(8)

2014年08月05日 23時47分28秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神は誰ですか(7)」のつづき

 もっとも、こんなように「姥が餅の伝承の基層には、伊吹山々麓で行われていたダイイングゴッドの信仰が眠っている。」などと言い出すと牽強付会の説と思う人がいるかもしれない。しかし、そういう人には次のことを指摘したいのである。すなわち、(さっきも言ったが)かつての「うばがもちや」は旧・東海道と八橋街道が分岐する地点に店を構えていたが、そこから300mほど南に「伊吹神社」という神社が鎮座するのである。  


『近江名所図絵』にある「うばがもちや」の大店

店内には多くの旅人たちがいる
この大店は旧・東海道と八橋街道が分岐する地点にあった
Mapion


瓢泉堂
かつての「うばがもちや」があった場所は現在、
縁起物のヒョウタンを扱う瓢泉堂という店になっている


稲荷神社々頭(旧・東海道側)
草津市矢倉二丁目7-36に鎮座
稲荷神社は上の「うばがもちや」があった場所から
旧・東海道を300mほど南下した処に鎮座している
伊吹神社はこの稲荷神社の境内社
Mapion

 この伊吹神社は稲荷神社という神社の境内社になっているが、しかし、これが普通の境内社でないのだ。というのも、この神社の社殿は本社である稲荷神社のそれと同サイズで、両社が下画像のように並んでいるのである。これでは何も知らないで参拝した者は、鳥居の扁額がなければどちらが本社で、どちらが境内社か見分けがつかないだろう。境内社とはいえ伊吹神社は、本社の稲荷神社と同じくらい重視されているらしい。


伊吹神社(左)と稲荷神社(右)
同規格の社殿が基壇の上に並んでいる


同上


稲荷神社の鳥居扁額
左に「伊吹大明神」とあるため、並列社殿の左側が伊吹神社と分かる
右には「朝日大明神」とあるが、これは稲荷神社のことだろう
どうして稲荷神社が「朝日大明神」なのかは不明
当社の境内で伊吹神社の話をうかがった方に
このことも聞いておけば良かった

 それにしても、「いぶき」などという名の神社は「稲荷」や「八幡」などと違って、そう矢鱈にあるものではない。この草津にある伊吹神社以外で、近江にある「いぶき」という名の神社を探すと、(境内社を含めて捜した場合でも)下記のA~Dしかみつからなかった。ちなみに、伊吹山の美濃側にも「伊富岐神社」という神社があり、近江にあるのではないがこれもEとしてあげておく。 

   A.伊夫岐神社(祭神:伊富岐大神、素盞嗚尊、多多美比古命)滋賀県米原市伊吹
   B.伊吹神社(祭神:素盞嗚尊)滋賀県米原市上平寺
   C.伊吹神社(祭神:伊吹神)滋賀県長浜市山階町
   D.伊吹神社(祭神:日本武尊)滋賀県高島市朽木荒川
   E.伊富岐神社(多多美彦命)岐阜県不破郡垂井町伊吹 

 このうち、Dいがいはいずれも伊吹山の山麓か、それを遠望できる地域内に鎮座している。またその祭神も、A・Eで祀られている「多多美比古命(多多美彦命)」は『帝王編年記』に登場するこの山の神であり、A・Cで祀られている「伊富岐大神」「伊吹神」もそうである。してみると近江にある「いぶき神社」のほとんどが伊吹山の神霊を祀ったものであり、その信仰圏はこの山が遠望できる地域からあまり外に拡がらないことが分かる。


Aの伊夫岐神社(米原市伊吹)
伊吹山の神を祀る代表的な神社
近江国坂田郡の式内社である


伊夫岐神社と伊吹山


Eの伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町伊吹)
美濃国不破郡の式内社
祭神の「多多美彦命」は『帝王編年記』に登場する伊吹山の神
 


伊富岐神社々殿
 


同上
静謐な境内
 


同上
 


同上

 
当社のシンボル、神木の大杉
 


同上

当社は関ヶ原の兵火にかかって社殿を失っているが、

神体だけはこの木の股に隠して安泰だったという
 


同上
 

 その点、この草津市にある伊吹神社は伊吹山がまったく見えない地域に鎮座する「いぶき神社」として特異である。何か特別な由緒があってこの場所に鎮座していると思うのだが、手持ちの資料を調べた範囲ではほとんど何もわからなかった 


稲荷神社の杜(旧・東海道側から)
路線商業地化と宅地化が進むこの地域にあって
この杜の存在はとても貴重だろう


同上

 そこで、伊吹神社を訪れたとき、境内の清掃をしていた地元の方に当社の祭神や由緒について聞いてみたのだが、生憎、その時の返事は「この神社のことはどれだけ調べても分からない。」というものだった。もっともそれは、「そうそう、それなんだけどねぇ、、、。」といった感じの、いかにもちょっと残念そう答え方であった。地元でも当社のことが気にかかり、折々、調べてみるが結局、分からずじまであった様子が窺える。 

 ただ、その方は続けて、「言い伝えはあるのだけれど。」と前置きしてから、「膳所藩主だった本多の殿様が、膳所城の鬼門鎮護の神として勧請したのではないかと言い伝わっている。」とも仰っていた。地図で確かめると確かに伊吹神社が鎮座しているのは、膳所城からみて鬼門にあたる方角である。しかし、言い伝えとは言っても最初に「どれだけ調べても分からない。」と言っている訳なので、これは「そうではないか。」という推測が伝わっているということなのだろう。

 いずれにしても、こうしたことから地元では、伊吹神社の神紋を膳所藩主だった本多家の家紋である「立葵」としているとのことだった。ちなみに、稲荷神社の紋も立葵であるとのことで、これはかつての当社が膳所藩(本多家)から社領五石が寄進されていたことと関係がありそうである。総じて本多家が関係していた神社は、当社に限らず「立葵」を神紋とするケースが多い。


稲荷神社の屋根瓦に入っていた立葵の神紋
この紋が入った屋根瓦は現在、稲荷神社の屋根にしか使われていなかったが、
かつては伊吹神社の屋根にも使われていたという
紋入りの瓦は特注品でコストがかかるため、
現在では全て稲荷神社のほうに寄せてしまった由

 それはともかく、以上のようなことで、この草津市にある伊吹神社の祭神や由緒については地元の方でもよく分からない様子だった。しかし近江にある他の「いぶき神社」の事例から言っても、当社は伊吹山の神霊を祀ったものと考えるのが自然ではないか。そしてそうだとすると、過去にそのような信仰を伊吹山麓からこの場所に持ち込んだ者たちがいたことになり、それが息長氏だったのではないか。 

 以下、憶測を逞しくする。
 その場合、この栗太郡に来た息長氏の分派が「生命の水」として信仰していたのが玉井だったのではないか。現在では想像も付かないが、残された歌から伺われるかつての玉井は、そのような信仰を受けるに相応しい清冽な清水だったのである。いっぽう、やがてこの地域に、南島の「死の起原説話」を伝えるまた別のグループも流れ込んできた。この際、「すで水(=「生命の水」)」という共通の信仰を介して、彼らの神話がこの泉に上載されて生じたのが例の玉井の伝承である。

 さらに、彼らの持ち伝えた神話には「かつては人間も蛇と同じように脱皮して再生していたため不死であった。」という特徴的なモチーフがあったため、これに基づき、玉井の水で小豆を煮て長寿を寿ぐ儀礼が生まれた。再生と長寿を祈願するために、こうして玉井の水をつかって小豆を煮た儀礼食はやがて、東海道を行き交う旅人達に草津名物として知られる姥が餅の源流となった。しかし、その場合においても、姥が餅を売って佐々木義賢の孫を養育した「福井との」のイメージの中には、後世に上載された南島神話を突き抜け、もっと古層にわだかまる息長氏の巫女のそれが湧出しているように思われる。あたかも、白清水の伝承において、照手姫のイメージの中に彼女らのそれが記憶されていたように。 

 ついでに言っておくと、玉井の伝承を分析したところで、当該伝承において「すで水」にあたるものとして登場した五十鈴川の水は後世の附会ではないか、と述べた。では、どうしてそのような附会が生じたかを考えるに、近世後期以降、街道筋の名物として聞こえたあんころ餅としては、「姥が餅」と並んでおかげ詣りで賑わう伊勢の「赤福」があったから、何となくそこからの連想で、伊勢を流れるこの河川のことが附会せられたのではないか。

 

伊吹山の神は誰ですか(9)」につづく