神社の世紀

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穀霊白鳥(2)【杓子の森の磐座(滋賀県米原市上野)】

2012年02月04日 21時18分28秒 | 磐座紀行

★「穀霊白鳥(1)」つづき

 以後、伊吹山の神と戦ったヤマトタケル尊の神話には、湖北地方の古代人が信仰していた穀霊の伝承が混入しており、その伝承とは「湖北地方の(稲の)穀霊は秋になって収穫の時期になると伊吹山に登り山の神に殺害される。しかし、春になって田植えの時期になると、山麓にある居寝の清水で復活を遂げ、湖北地方に広がる田に戻ってゆく。」というものだった、また、『藤氏家伝』で地元の人が藤原武智麻呂に語ったヤマトタケル尊の最期は、記紀のそれよりも古い伝承だったと前提し、いちいちそのことを断らない。

 『藤氏家伝』にある伝承でもう一つ、興味深いのは原文に伊吹山に登ったヤマトタケル尊のことが「昔、ヤマトタケル皇子、東北の荒ぶる鬼神を調伏して帰りて、この峡に至ると。そしてすなわち登るなり。登りて半ばならんとほっす。」とあるので、伊吹山の神を討とうとしたヤマトタケル尊はどうやら山の中腹辺りを目指して登っていった、と伝承されていたことである。どうして尊は山頂ではなく、中腹を目指したのだろうか。

 穀霊は田に稲がある農繁期は、人々が生活する日常の圏内にいる。いっぽう猛烈な荒ぶる神である伊吹山の神はこれとは別の、神の領域におり、両者は厳密な住み分けがなされていたはずである。その場合、穀霊が伊吹山の神に殺害され穀霊白鳥となった現場は、この山を登った穀霊が神と遭遇する、神の領域と人間の領域の境界ふきんだったと思う。

 兼康保明は「伊吹山山頂出土の石鏃」の中で、伊吹山々頂からは石鏃のような縄文時代の遺物は出土するが、弥生時代のそれは出土例がないことについて次のように述べた。

「私は稲作以前と以後では、人間の山に対する思いが異なっていたのではないかと、密かに思っている。稲作以後の古代人にとって、生活空間としての山は、里から手が届く範囲の高さを指したのであろう。〈中略〉そしてそれよりも上は、平地からの比高差が五〇〇~六〇〇メートル以上もあれば、生活とは直接縁の無い、まさに神の住む領域であったのだろう。おそらく、峠越えなど特定の道を別にすれば、山には垂直分布による、人と神との住み分けがあったのではなかろうか。」
 ・森浩一・門脇禎二編『ヤマトタケル(第2回春日井シンポジウム)』収録の、兼康保明「伊吹山山頂出土の石鏃」、同書p160より引用

 伊吹山で垂直分布による神と人の住み分けがあったとすれば、両者の領域のボーダー・ラインはどこにあったろうか。伊吹山は3号目辺りより上は樹木が育たず、山頂まで草場だけとなる。この論考で兼康氏は、この森林限界がボーダー・ラインで、湖北の古代人とってそこより上は神の領域だったという考えを述べているが、だいたい妥当な意見ではないか。

 その場合、湖北の穀霊が伊吹山の神に殺害されるためにこの山を登る時も、山頂ではなくこの3号目ふきんを目指したに違いない。『藤氏家伝』にあるヤマトタケル尊の伝承で、伊吹山の神を討とうとしたヤマトタケル尊が山頂ではなく、この山の中腹をめざしたのもこうしたことによるのだろう。

 伊吹山3号目には杓子の森と呼ばれる場所があり、そこに鎮座する白山神社のかたわらに磐座がある。「杓子(しゃくし)」も、「石神(しゃぐじ)」の意ではなかったかと言われ、ふきんには白鳳年間の開基と伝えられる松尾寺という寺院もある。古代からつづく磐座祭祀の聖地を意識して創建されたものだろう。

 私はこの磐座が、湖北の穀霊が伊吹山の神に殺害される神話となにか関係のある祭祀が行われていた場所で、ヤマトタケル尊/穀霊が殺害された現場も、この磐座のある場所ではなかったか、と妄想している。

杓子の森は伊吹山スキー場のゲレンデとしてかなりの伐採を受けており、
現在、森が残っているのは白山神社とそこへ登る長い参道の周りのみとなっている
しかし、かつてはふきん全体に広大な原始林がひろがっていたのだろう

右手に写っている鳥居が参道入口
左手の遠景に少しだけ頭を除かしているのが冠雪している伊吹山々頂

ゲレンデの脇に添って延びる参道部分の杓子の森

杓子の森の南端、白山神社と磐座のある辺り

杓子の森の入口

鳥居を潜ってすぐの辺り
西側(右側)は谷になって落ち込んでいる

長い参道を抜けると白山神社の社殿と磐座のある場所にたどり着く

磐座と白山神社々殿

北側から写した磐座

東側から映した磐座全景

この磐座は一見、2つの岩から成っているように見えるが、、、

じつは鞍部のような部分で繋がっている

磐座の岩は石灰岩
伊吹山は石灰岩でできた山なので、山中いたるところでこの岩を見かける

デザイン・チェアーのようなフォルムだ

西側から写した磐座

磐座の西側にもいくつかの岩が散在

白山神社の由緒は未入手、松尾寺の鎮守だったのだろうか

社殿の石段に付いた流水紋の装飾が妙に印象的

白山神社はしばしば水神系であることを感じさせるが、
なにかそのことと関係があるのだろうか

あまり人が来そうな場所ではないが、
社地は定期的に清掃を受けている感じ

社殿の前面には石灰岩を並べて結界が造ってある

同上

社殿のすぐ上方には松尾寺がある

松尾寺

 看板によると松尾寺は役行者の高弟だった松尾童子が、
天武天皇の白鳳二年(673)に開基したもので、伊吹山五護国寺の一とされる
はじめは法相宗の寺院で、往時は五十余の山坊が寺域にならんでいたという

松尾寺の奥に杓子の森

杓子の森の森の辺りからゲレンデを通して竹生島のほうを眺める

山腹と湖面の間にある横に広がった小高い山脈は七尾山
この山の尾根上には顕著な古墳群があり
その被葬者を息長氏に求める説がある

竹生島

 

 

 



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