神社の世紀

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伊吹山の神は誰ですか(10)

2014年10月13日 21時57分59秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神はだれですか(9)」のつづき

 草津市志那中町の惣社神社も意布伎神社であることを主張する神社である。


草津市志那中町にある惣社神社
Mapion


惣社神社々殿


同上

 祭神は志那津彦命と志那津姫命だが、社蔵の鰐口には「奉懸意吹總社宮願主志那氏敬白、文明二年(★1470)庚寅十二月吉日敬白」と刻まれており、この中に見える「意吹神社」の4文字が意布伎神社と関連づけられている。ただし、『式内社調査報告』の宇野茂樹氏は、「この意吹は小字名の気吹をさす可能性がある。」としている。

 さらに草津市志那町にある三大神社も意布伎神社であることを主張している。


草津市志那町の三大神社
Mapion


三大神社々殿

 祭神は志那津彦命と志那津姫命の2柱で、大宅主命を配祀する。国の重要文化財に指定された石灯籠には正応四年(1291)の年記があり、鎌倉初期に制作された鞍も社宝として伝わるなど、当社もなかなかの古社であることが伺われる。


重要文化財に指定されている石灯籠
正応四年(1291)の年記がある

 注目されるのは、条里制が施行された頃、栗太郡条理内に「伊吹里」という里があったが、石灯籠について草津市教育委員会が解説した看板によると、この「伊吹里」は当社の鎮座地辺りに比定されているとのこと。その場合、ここに見られる「伊吹」という地名が「意布伎神社」の社名と何か関わりがあるとすれば、三大神社がこの式内社であった可能性は高くなる。もっとも、前述の志那神社と惣社神社も当社からあまり離れていないので、この両社も「伊吹里」ちかくに鎮座していたことになり、いずれかの神社が「意布伎神社」であったてもおかしくない。が、しかし、『式内社調査報告』の宇野茂樹氏はここでも、「三社はともに所在地が隣村で、琵琶湖に近く、それぞれ意布伎神社を主張しているが、根拠となるものがなく、意布伎神社の所在は不詳といはざるを得ない。」としている。にべもない調子だ(なお、宇野氏は「伊吹里」のことについては何も触れていない) 

 さて、『式内社調査報告』を読んだ人なら知っていると思うが、この本では各式内社ごとにそれに比定される神社の位置を落とした地図が最初のページに載っていて、論社がある場合はさらに「ABC…」などといった形でそれらも含めて地図に落としてある。ところが、ごくたまに地図が載っていない式内社がある。これは論社すらなく、まったく所在が不明になっている式内社がそうなるのだが、「意布伎神社」の項は地図が載っていない。したがい、宇野氏はこの式内社については論社の存在を完全に否定していることになる。 

 総じてここで私は、草津市矢倉町の伊吹神社が「意布伎神社」の後裔社である可能性を検討しているので(管見では当社を「意布伎神社」に比定する説が他にないこともあって)、宇野先生がこうして他の論社群をバッサバッサと切り捨ててゆくのを読んでいると心強いものを全く感じない、と言えばウソになる。しかし公平に言って、追来神社が社蔵する鎌倉初期に造られた狛犬の台座には「意夫伎里惣中」と墨書きされているのだし、他の3社も「伊吹里」という古地名があった地域に鎮座するなど、いずれの社も「意布伎神社」の論社として扱われる資格をじゅうぶんにもつと思う。
 むろん、これら4社のどれかを式内社に比定できる確実な根拠はないので、宇野先生の言う通り「意布伎神社の所在は不詳といはざるを得ない。」。しかし、そこから一気に論社の存在までを否定するようでは行きすぎになると思うがいかがか。だいたい、式内社であることを主張する根拠がこの4社よりはるかに薄弱な神社が、『式内社調査報告』で論社として取り上げてられているケースは他にいくらでもあるのだ。

 

「伊吹山の神は誰ですか(11)」につづく

 

 

 



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