神社の世紀

 神社空間のブログ

長脛彦の兄【磐神社(岩手県奥州市衣川区)】

2011年06月29日 23時07分17秒 | 陸中の神がみ

  岩手県奥州市衣川区石神にある磐神社は、『延喜式』神名帳 陸奥国胆沢郡の筆頭社である。名前の通り、本殿はなく、代わりに拝殿背後の巨岩が神体として祀られている、── というようなことは、文献やネットを調べてあったから始めから承知して出かけていったのだが、それでも拝殿背後の磐座を最初に目にしたときは、思わず「おおっ」という声が出てしまった。神さびた巨岩の存在感に圧倒されたからである。全国的に見ても、これほど顕著な印象を与える磐座はそうないだろう。

磐神社

神体の巨岩

磐座の巨岩は東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mある
辺りは田が広がり、これ以外の岩の露頭は認めらない
  人為的に搬入されたものだろうか

山や岩石や樹木などを祭祀の対象としていた
神社ほんらいの姿を伝える神社だ

 ところで境内にあった看板には「当社のすぐ右前方には安倍館があり、安倍氏は当社を守護神(荒覇吐神)として尊崇し、磐井以南に威を振るう拠点をこの地に形成したと伝えられる。」とあった。

 安倍館は、俘囚長だった忠頼の代から、前九年の役で頼時・貞任の父子が滅ぼされるまでの八十余年間、奥州安倍氏の居館だったと伝わる。

 奥州阿倍氏は平安後期における陸奥・出羽の豪族で、北上川流域で栄えていた。その出自については、朝廷に従うようになった土着の蝦夷であるとか、中央の名族、阿倍氏が奥州に下った際に残した子孫であるとか言われるが、彼らの間に伝えられた伝承では「神武東征の際、滅ぼされた長脛彦の兄、安日(あび)が放逐されて津軽に入りその始祖となった。(「あべ」は「あび」の転訛)」と伝わっていた(『平泉雑記』が伝える安倍氏自身の家伝などに、この伝承が見られる。)。

 長脛彦は記紀に見える大和の土着勢力の首領で、東征する神武天皇に激しく抵抗して殺されている。しかし、記紀には彼の兄で安日などという人物の記事はなく、これはもちろん後世の創作である。しかし、そうだとしても、どうしてこんな突飛な伝承が生まれたのか、という疑問は残るだろう。

 これに対し太田亮は、平将門・藤原純友の後裔と称した武家が多数発生したのと同様に、奥州安倍氏が長脛彦の武勇を尊び、それにあやかろうとしたためだろうとしている。しかし、中央の名門貴族だった阿倍氏との同族関係を擬態するとかだったらまだ分かるが、奥州安倍氏がわざわざ自分たちの祖として創作した人物が、よりにもよって長脛彦の兄であったというのは腑に落ちない。そもそも、朝廷に対し融和的であった彼らが前九年の役で中央政府に背くきっかけとなったのは、頼時の息子の貞任の妻に、陸奥守だった源頼義の武将の妹を迎えようとしたところ、その武将が安倍氏が蝦夷の子孫であることを理由に断ったため、と伝承されているのだ。そんな彼らが大和朝廷から異族として蔑視されていた長脛彦の兄というポジションの人物を始祖にするとはとても思えない。ここにはたんなる絵空事に終わらない深刻なものが感じられる。

 ふと思うのは、磐神社から北西に1kmほど隔たった場所に松山寺という寺院があり、そこの山門の横に女石神社という小さな神社があって、社殿背後の女石という岩石を祀っている。磐神社と女石神社は夫婦神であり、前者が後者に通うという伝承があるのだが、こうした男神から女神のところへ通婚するという伝承は三輪山型の神婚説話を思わせる。

女石神社

女石

 

 例えば崇神記によれば、イクタマヨリビメのところに、比類ない姿かたちをした男が夜ごとに訪れ、やがて姫は妊娠する。怪しんだ父母が娘に、今度、男が訪ねてきたら、紡いだ麻糸を男の裾に刺しておけと教える。姫がその通りにすると、糸は戸の鉤穴を通り抜けて三輪山に至っており、男がこの山の神、オオモノヌシ神であったことが分かったという。あるいは崇神紀によれば、三輪山の神が夜な夜な妻のヤマトトトイモモソヒメのところに通ってくる。姫が夫の顔を見たいと言うと、承知したオオモノヌシ神は、自分は明朝、櫛笥の箱に入っているが、姿を見ても驚いてはいけない、と言い渡す。明朝、姫が箱の中に見たのは小蛇だった。彼女が驚き叫ぶと、オオモノヌシ神は恥じて人の姿になり、三輪山に帰還する。姫は悔いて座り込み、陰部を箸で撞いて死亡する。このほか、オオモノヌシ神が小川で用便中のセヤダタラヒメのところに丹塗矢となって流下し、神婚するという神武記の記事もある。  

雨上がりの三輪山

 オオモノヌシ神は大和の地主神である。その神がさまざまな女性の所に通婚した伝承が記紀にみられるのも、大和の土着勢力が祀っていた古い神々の生態を伝えるものだろう。奈良県磯城郡田原本町八田にある伊勢降神社の男神は、同天理市庵治町の伊勢降神社の女神の所に通ったという伝承がある。また、奈良県桜井市江包の素盞鳴神社と同市大西の市杵島神社はそれぞれ素盞鳴尊と稲田姫命の夫婦神を祀るが、両社では毎年二月十一日に「お綱はんの嫁入り」と称される祭礼が行われ、初瀬川をはさんで江包から雄綱(男綱)、大西から雌綱(女綱)を運び寄り、神前でそれぞれの大注連縄を結合させる。これらの伝承や祭礼は、神婚する大和の神々の古き生態を思わすものがある。

 神武天皇が大和に入った際、先住勢力としてそこにいたのは長脛彦たちだけではなかった。『古事記』によれば、天皇が熊野から吉野に入った際、岩を押し分けて出てきた尾のある人に出会った。彼はイワオシワクノコと名乗り、吉野のクズの祖神である。奈良県下には、盆地東部の山間部を中心に「クズ神社」という神社が多く分布しているが、これらはこのイワオシワクノコを祖神とする古代クズ族たちによって祀られたものだろう。

 クズ神社には雌雄あるものがある。桜井市倉橋の九頭竜神社と同市下の九頭神社は、前者に男神、後者に女神が祀られ、両社セットの夫婦神とされる。この2つの神社はともに社殿なく、樹木を神体に磐座があるが、夫婦神で岩石に対する信仰がみられることは、磐神社を思わせないではいられない。夫婦神のクズ神社の例としては他に、吉野町入野にある上宮神社と国樔神社などもある(ただし後者は廃社)。

桜井市下の九頭神社(女神)

社殿の施設はなく、背後の橿の木を神体に
その手前に鎮護石が置いてあるだけの神社である

倉橋の九頭竜神社(男神)の磐座

 このようにこれらの神社の事例からは、大和の土着勢力によって祀られていた神々には、雌雄あって通婚する習性のあったことが感じられる。磐神社の男神が女石神社の女神のところに通うという伝承を知ったときも、こうした大和の神社のことを想起した。

 あるいは、天皇家の祖先が大和に入った際、抵抗して放逐された先住者たちの中には本当に北上川流域まで落ち延びた者たちがいたのかもしれない。磐神社を最初に祀ったのは彼らであった。また彼らはその際、磐神社の男神が女石神社の女神のところに通婚するという信仰もまた大和から持ち込んだ。その後、当社近くに居館を構えることになった安倍氏は地主神として磐神社を祀り、この神社を最初に祀った者たちの伝承を自分たちの始祖伝承に取り入れた。安倍氏はその際、長脛彦の兄、安日なる人物を創作したが、その場合、磐神社を最初に祀った者たちの祖先が、本当に長脛彦の兄であったかどうかはあまり問題とならない。というのもこのケースにおいて長脛彦とは、「神武東征以前から大和にいた先住勢力」のアイコンにすぎないからだ。

 ほとんど『白鳥伝説』の世界だが、とにかくこうしたことで当社は興味の尽きない神社である。

 当社に訪れたのは9月の初旬だったが、岩手ではもう秋が完全に感じられた。神体の巨岩の存在感や、狛犬の可愛さなども印象に残っているが、何よりもみちのくで思いがけず懐かしい大和の神社を想起させる古社に出会えた嬉しい驚きが忘れられない。また、当社の近くで食べた郷土料理「ひっつみ」の味も忘れられない。

 

 


 

 

【磐神社】

岩手県奥州市衣川区石神99
Mapion

 

 『延喜式』神名帳 陸奥国胆沢郡の筆頭に登載ある小社、「磐神社」に比定される。読みは武田本に「いわの神社」とあり、地元の呼称も同じ。現祭神は伊邪那岐命。

 当社には本殿がなく、代わりに東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mの巨岩を神体として祀っている。拝殿はあるが、もともと当社は社殿を設けないならわしで、かつてはそれさえもなかった。今の拝殿は明治三十年頃、近郷の氏子の強い要望による寄付金で建てられたという。

 

神体の巨岩

磐神社拝殿

俺はこれまで見てきた狛犬の中では、ここのが一番

 

 神体は大きいだけでなく、いかにも長い風雪に耐えた感があり、神さびている。また、大きな機械を連想させるフォルムも非常に印象的。

 当社から1kmほど西北にかつて磐神社と習合関係にあったらしい松山寺という寺院があり、その山門のかたわらに女石神社という小社がある。社殿背後に岩石が祀られており、磐神社と女石神社は夫婦神で、前者の男神は後者の女神のところに通ったとされる。

 

松山寺

女石神社

女石

 

 磐神社の祭神は伊邪那岐命とされるが、これはもちろん創祀の頃からのものではない。女石神社の祭神と夫婦神ということで附会されたものだろう。他に石凝姥神という説もあるらしいが、これも社名に附会されたのだろう。物神としての石神がほんらいの祭神だったという見方もあるが、女石神社の女神のところに通ったとなると、ある程度、人格神化していたことになる。

 なお、磐神社にはかつて、安倍晋三総理大臣の名代で岸信夫氏が参拝に訪れたことがあるという。 

 

 

 


みちのくのエクスカリバー【尾崎神社(岩手県釜石市)】

2011年06月13日 01時01分29秒 | 陸中の神がみ

 小学生の高学年くらいの頃、テレビでこんなドキュメンタリー番組を見た。

 どこかの海岸沿いの神社が撮されている。もうどういう内容だったかなんて忘れてしまったが、その神社を撮してからカメラは、海の向こうにあるその奥の院らしき場所まででかけてゆく。「そこで取材班が見たものは、、、」のようなナレーションが入って映し出されたのは、アーサー王に引き抜かれる前のエクスカリバーのように、一本の古い鉄剣が石にブッ刺さっている様子である。それが当社のご神体なのだ。鉄剣は想像も付かないぐらい古そうで、表面は完全に錆びている。効果音とともにその剣がどアップになった決め絵の映像が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。

 あの神社はどこの神社だったのだろうか?、── 神社マニアになってから、この疑問は私の中で日増しに大きくなっていった。いや、たんに場所が知りたいだけではない。現地を訪れて、あの鉄剣を実見したい。なぜだか非常に惹かれるものを感じる。

 ところがこの神社の情報がまったく入手できないのである。奥の院にあんなご神体が祀られているとなると、ネットで話題になりそうだが、そんな情報はまったく流通していない(そのことがかえってまた興味をそそる。)。だが、ついに数年前、岩手県釜石市にある尾崎神社を紹介した次のような『日本の神々』のテキストに出会ったのである。

「当社の奥の院は、釜石湾を形成する東南端の岬、尾崎半島の青出の高地にある。創祀の年代は不明。祭神は日本武尊で、昔から神殿はなく、瑞垣を巡らせたなかに、丈余の神矛を地上に立てたものを神体として祀っている。」

 読んですぐ、これがあのテレビ映像で見た奥の院であると直感した。なんとあの神社は東北地方の神社だったのだ。これには意表をつかれた。そしてそうなると、いてもたっても居られなくなって、9月にまとまった休暇がとれた機会に早速、出かけてみた。

 尾崎神社は現在、4社の神社から成り立っており、奥の院を含む3社は、上のテキストにある尾崎半島に鎮座し、同一の「尾崎神社」として宗教法人登録されている。ちなみに、残りの1社はその対岸の釜石市浜町に鎮座する尾崎神社で、これとは別に宗教法人登録されているが、信仰上の位置づけとして別の神社ではなく、尾崎半島にある同名社の里宮にあたる。

 尾崎半島はリアス式海岸どくとくの複雑な形をしているが、この半島の北東部からさらに細長い岬が約3km弱、海に向かって突き出ている。尾崎神社の奥の院はその先端ふきんに鎮座しているが、周囲の海岸は断崖になっており、船では上陸できそうもない。おそらくこういった参拝の不便さによるものだろう、奥の院から西へ2kmほど離れた青出し浜に後世、「奥宮」が設けられた。そこには小さいものの浜辺があり、船で参拝できるからである。しかしこの奥宮も人家から離れて不便だったため、さらに西へ2kmほど離れた尾崎白浜の漁村に「本宮」ができて、現在ではこれが(尾崎半島にある)尾崎神社の表の顔になっている。まず、この本宮を参拝する。

尾崎神社本宮
Mapion

社地から見下ろした尾崎白浜の漁港

 本宮は白浜漁港を見下ろす高台に鎮座しており、遠くからも社殿と鳥居が見えるものの、そこまで登ってゆく参道の入口は分りづらく、ウロウロと捜してしまう。やっと北側から進入する階段を見つけて参拝できたが、奥の院や奥宮と比較すると、風致はいささか凡庸であった。

 本宮を後にしてから海に沿って東に進み、青出し浜にある奥宮に向かう。車で行ける道はすぐに終わってしまい、そこからは延々と歩くことになる。ルートはそのうち海を離れ、山林の中に入ってゆくが、青出し浜まで行くには、山尾根を一つ越えなければならなかった。

 この道はいちおう、東北自然歩道として整備されているのだが、この奥宮に到るまでの道はかなり荒れていた。広い杉林のなかで道の痕跡が無くなり、今、歩いているのが道なのか、それとも植林された杉の列と列の間がたまたま道のように見えているだけなのか心細くなることもあった。このため、たまに思い出したように立っている東北自然歩道の看板が見つかるとホッとするのだが、しかしこの看板がまた別の意味で不安を煽るのである。というのも道中、熊の出没を警告する看板をよく見かけるのだが、この道で出会う東北自然歩道の看板はどれもこれも不自然にその一部が裂けているのだ。人間を憎む熊の仕業であったように思われる。

東北自然歩道、と言っても道なのかどうかよく分からん。

裂傷のある看板

 そんなこんなで、2kmほど歩いて奥宮に着いたときは嬉しかった。しかも途中の道が荒廃していたので、奥宮も荒れ果てていると思いきや、境内はわりと綺麗にしてあった。定期的に人の手が入っているらしい。日当たりの良い小さな谷に鎮座する社地は、小さいながらも箱庭のような別天地で、すこぶる居心地がよい。神社の境内をちょっと下ると小さな港があるので、当社に来る地元の方々は、私のように徒歩ではなく、船に乗って参拝するのだろう。

 

尾崎神社奥宮
Mapion

 

魚霊碑

神明造りの社殿

祭神の日本武尊にちなんだ鉄剣の奉納品

こうした鉄剣の模造品が奉納されているのは、
岩手県の神社でよく見かけるが、
さすがに当社はその数が多い。

奥宮の小さな港

 そこから奥の院までは歩いて、歩いて、歩いて、歩く。とにかくやたらに歩いた気がする。ついに奥の院に到達した。石柵でできた瑞垣の中には拝殿も何もなく、ただ石に古い鉄剣がブッ刺さったものだけが神体として祀られていた。明らかに子供の頃、テレビで見たあの場所だ。

 

尾崎神社奥の院の宝剣

 

 さっきも言ったように、この奥の院は尾崎半島の先端部に鎮座しているが、古代のわが国には、こうした半島や岬地形の先端に、海上から神が来臨するという形式の信仰があった。「岬」という語も、もともとは神が来臨することを憚って、先端の地形を示す「さき」に、美称の「み」をつけて生じたものという。

尾崎神社奥の院
Mapion

 

 

 尾崎神社の創祀年代は不詳だが、この奥の院がそういう古い信仰の遺跡であることは間違いない。現在、奥の院は海に向かって北東の方向を向いているが(NE50゜)、これは海からの来訪神を迎えるための装置だった痕跡だろう。
 ちなみに、東北地方の太平洋岸側には宮城郡七ヶ浜町の鼻節神社、宮城県気仙沼市の御崎神社、岩手県陸前高田市の黒崎神社など、同じような立地を示す古社が他にもいくつかある。いずれも海からの来訪神を祀ったものだろう。もっとも、奥の院があってそこに剣が祀られているという神社は当社だけであるが。

 『尾崎神社縁起』によると、尾崎半島は日本武尊が東征した折りの最終地点であり、この鉄剣はその足跡の標として尊が安置したものという。以来、尾崎神社は日本武尊を祭神とし、奥の院にあるこの宝剣を神体として祀ってきた。

 その後、文治五年(1189)に源頼朝によって閉伊郡の領主に任ぜられた源頼基は領民を慈しむと供に、当社を厚く崇敬していたが、死ぬ間際に「我れ東海の守護神とならむ、亡骸は尾崎の宝剣の傍らに葬れ」と遺言し、その通りに葬られた。そしてこうしたことから、当社には源頼基も祭神として合祀されるようになった。

 日本武尊にしても源頼基にしても、当地の出身者ではなく、もともと中央政界に関係していた人物で、それがみちのくまで流れてきたという経歴を持つ、典型的な貴種流離譚の主人公だ、── ここがミソである。というのも、そこに着目すれば、尾崎神社で彼らが信仰されるようになったのも、海からの来訪神という基層信仰に、「外部から来訪する」という共通項を介して、日本武尊や源頼基の信仰が後世になって重層されたため、と理解できるからだ。

  それにしても尾崎神社の奥の院で、錆びついた宝剣を見てつくづく実感したのは、金属のもつ暗さであった。

 金属には暗さがある。そういう暗さは、金属でできた旧式の道具とか、野ざらしになって放置されている古い機械だのに露呈する。そういえば、子供の頃、祖母が持っていた重くてデカい旧式な鋳鉄製のハサミがなぜか気になり、いじくり回していて、何度も叱られた。俺にはそういう暗さに惹かれるところがある。小学生のときにテレビで一度だけ見たこの宝剣のことをずっと覚えていて、今こうしてその前に立っているのも、そんな性向によるものだろう、── そんなことを悟った。また、それがきっかけとなり帰還してから「『宝剣小狐丸』と夜のほうに」を書いた(一気呵成に書いたものだから、今、読み返すとダラダラ長くて、死ぬほど生硬で読めたものではないが)。こうしてみると、この時の旅行は思わぬ自分捜しの旅だったことになる

 


 尾崎神社

 

 尾崎神社は海上安全の神として信仰を集める古社で、創祀年代は不詳だが、鎌倉期以前にはすでに尾崎半島先端部に鎮座する奥の院での祭祀がはじまっていたと思われる。創祀の頃は、海の神、岬の神としての信仰だったと思われるが、後世になってそうした基層信仰に、日本武尊や源頼基への信仰が重層されるようになったのは本文中で触れたとおり。

 奥の院には神体として鉄剣が祀られているが、ここは祭祀遺跡というより、墓所のような感じを受ける場所で、じっさいここは源頼基の廟所とされ、遺言により彼の亡骸が鉄剣の傍らに葬られているとされる。

 ただし、『岩手県神社名鑑』や現地にあった看板には、奥の院は源頼基の廟所とあったが、近世の諸記録などにみられる伝承を要約した『日本の神々』の記述は以下のようなものである。

(★源頼基は死ぬ間際になって遺言し、)「釜石尾崎は東南の磯において最も長く海中に突出した地であるゆえ、わが亡骸は藤衣の装束として棺に納め此処の水中に鎮め廟所となすべし」と言い、近臣は遺命によって水葬して海陸の守護神としたが、その後棺が敗れて遺骸は三分し、頭部は釜石尾崎に、脚部は閉伊崎に、胴部は気仙御崎に漂着したので里民はこれを厚く葬り、藤樹を植えて祀ったのが東奥の三崎の霊地であるという。また一説によれば頼基の水葬遺骸は山田町船越の田の浜に漂着し、これを葬ったとされる頼基の墓が同地の荒神社の小丘に現存し、海上安全の守護神としての信仰が今に続いている。そしてのちの正応二年(1289)神霊の託宣により、頼基の頭部を葬った白浜青出に一宮を建てて尾崎明神に合祀したと伝えるのが今の本宮である。『日本の神々12東北・北海道』p167」

 なお、当社の里宮である尾崎神社が釜石市浜町に鎮座している。これはもともと、尾崎神社の神輿渡海神事の御旅所として当時の釜石の豪商、佐野家の庭に設けられたもので、後に海岸に遷されてからは遙拝所、または御拝殿とよばれ、昭和になってから里宮に昇格した。その後、昭和八年に津波の被害で流出し、一時、高畑山に遷座していたが、同二十七年、現社地に鎮座したものである。 

尾崎神社(浜町)
岩手県釜石市浜町三丁目二三番二七
Mapion

祭神は日本武尊と綿津見社

拝殿の中にあった新日鐵釜石製鉄所が奉納した巨大な剣

 近世まで当社の例祭は修験別当の宰領により、毎年三月三日に神輿渡御の神儀を行ない、本宮から青出崎の奥の院に神幸していた。また、九月二十八日には、本宮から浜町の本社まで神輿渡御の神事が行われている。

 

 

 


聖山のお皿様【赤日子神社(愛知県蒲郡市)】

2011年06月06日 00時25分33秒 | 磐座紀行

 先日、安産祈願のために箒を奉納する信仰がないかと思って愛知県蒲郡市の宝喜神社を参詣した記事をアップしたが、同じ蒲郡市内には、三河国宝飯郡の式内社、赤日子神社が鎮座している。
 赤日子神社はヒコホホデミノ命、トヨタマ彦命、トヨタマ姫命、の三柱の海神を祀る古社で、トヨタマ彦命いがいの二柱は、安産祈願のために箒を奉納する信仰の見られる対馬の和多都美神社でも祀られている。じつはそうした信仰が宝喜神社に見られないかと思って出かけたのも、たんに社名が「ほうき」というだけではなく、蒲郡市内にワダツミ系海人たちによって奉斎された古社があったからで、彼らによってそうした信仰がこの地に伝えられていないか、などということもちょっと考えていたのである。赤日子神社へは宝喜神社を訪れたのと同じ日に参詣してきた。

 当社は市内の神ノ郷町というところに鎮座している。海が近いのにどこかの高原にいるような気分になれる高燥な土地で、空の美しさが印象に残った。
Mapion

 赤日子神社は参詣するまで何となくこぢんまりした神社というイメージをいだいていたのだが、じっさいに着いてみると拝殿の建物や社頭にある石灯籠などがものすごく大きく、村の鎮守というレベルをはるかに越えた構えの神域であった。どうやら国家神道の時代に整備されたものらしい(当社は旧県社)。総じて、国家神道の時代に大規模に整備された神社は、今、訪れると壮大というより、むしろレトロな感じを受けることのほうが多いが、当社からはなぜかそうした印象をあまり受けなかった。祭神や蒲郡の風土から受ける海のイメージが、広々とした風通しの良い境内のふんいきとよく溶け合っていたせいかもしれない。

赤日子神社

 境内から出て北西のほうに目をやると、平たい円錐形をした山がみえる。各地の神体山で何度も目にしてきた山容だ。地図で確認しないでもこれが聖(ひじり)山だとわかった。当社の神体山である。この山の山頂には赤日子神社の奥宮があるが、そこには拝殿や本殿といった建物のしつらえはなく、岩石だけが祀られている。今回、蒲郡を訪れた最大の目的は、この磐座を訪れることであった。

聖山
Mapion

 聖山の登山口は山の中腹にあり、そこまでは白龍池の背後を廻る道路をつかって車で行くことができる。詳しいアクセスは、「蒲郡市 聖山」等で検索すれば登山のブログなどに紹介があるだろうから省略。

 登山口から奥宮の「お皿様」までは20分程度かかる。ちなみに、途中の林相はありふれた用材林や二次林らしき広葉樹林だった。

 お皿様はこの赤日子神社奥宮にある磐座の通称である。聖山のほぼ山頂にあり(裏手を登ればすぐに山頂)、全長はだいたい高さ4m×幅7mくらいある。神さびているというよりもっとプリミティブな感じを受ける磐座で、対馬などに残された古い祭祀遺跡とふんいきが似ている。

お皿様全景

 お皿様の岩石は、一見して自然の露頭ではなく、人工的に構成された組石とわかる。各パーツの岩ももともとここにあったものではなく、どこからかに搬入されたものだろう。ちなみに私が登っている間、聖山ではあまり岩石を見かけなかったので、かなりの距離をここまで運び上げた可能性がある。もっとも、ここにあった古墳の横穴式石室が破壊され、その石材が利用された可能性も考えられるが、しかし現状ではどう見ても横穴式石室のように見えないし、『蒲郡市埋蔵文化財地図』もお皿様を古墳とは見なしていないようだ(★)。

★ なお、『ひじりの里 神ノ郷史話』ではお皿様を『蒲郡市埋蔵文化財地図』の神ノ郷3号墳に比定しているが、『蒲郡市史(本文編1)』p78に載っているこの古墳の写真は、お皿様のそれではない。『ひじりの里 神ノ郷史話』の誤解だろう。

 お皿様の外見で特徴的なのは、上部中央に怪獣の首のような岩の柱が突起していることである。さすがに登って確認はしなかったが、後述するお皿様の名前の由来となったくぼみはこの岩柱の頭頂部にあり、お皿様への信仰の中心となっている。

怪獣の首のようなお皿様の突起部

 赤日子神社は伊勢の多度大社とともに、雨乞いに霊験ある神社として有名というが、当社の雨乞い神事はお皿様の前で行われた。『ひじりの里 神ノ郷史話』に勇壮なその様子が紹介されているので、引用する。

「さて、この雨乞い行事は先ず、神前において氏子総代が御神火を作るのである。禊ぎをした数人が長さ三尺、幅一尺、厚さ一寸位の枯れた女竹を持ってもみこむのだ。だんだんくぼむ、くずが熱のためにぶすぶすえぶる。ここへガマの穂をやると火がつく。仲々の業で三人がかりで一時間くらいはかかる。やって得た火を神前に供える。又一方では神社の巽にあるオオタラヒ(清水が出て小さい池をなす)で雌雄二匹のタニシを手槽に入れてくる。これでお山登りの用意はできた。夕方を待って村人はタイマツを作って集る。
 このタイマツとは、長さ二尺程表棹・萱などを枯竹で包んだもので、昔はミノカサでお山登りをしたのだそうだ。このお山というのは氏神の戌亥聖山で、登山口を毘沙門口と呼んでいる。御神火をタイマツに点火した村人は夕闇を勇しく登り始める。火の行列約十五町程登ると、天之磐座がある。この広前に奉燈して天を焼く。この磐座のくぼみにタニシを逃がし、御神酒をお供えして祈願をする。実に壮観といおうか勇壮といおうか絶筆につきぬものがある。〈中略〉
 下山した村人は氏神様へ帰って来て拝殿に参籠する。この行事は祈願の初日と七日目に行われるのである。この間には、きっと霊験があるといわれている。(p40~41)」

 「お皿様」という奇妙な名前については次のような由来がある。

「この磐座に皿程のくぼみがある所から俗にお皿様といって、こんな伝説がある。このお皿様にはいつも水が満ちて居たが、ある時、村の童子がこの岩に登り他童のとめるのもきかず小便をひっかけた。すると不思議やくぼみにひびが入ってみるみる水がしみこんでしまった。童子連は恐れをなして逃げ去ったと。以後このお皿様には水の満つることがない。(p41)」

 くだんの悪童は血を吐いて死んでいたとも伝わっている。今でこそ民話的な装いをしているが、この伝承はかつてのお皿様が、聖なるものにつきものの厳重なタブーの対象であった記憶を伝えるものだろう。

お皿様の基部は祭壇になっている。

 かつてここで行われた雨乞い神事では、お皿様にたまった水に雌雄のタニシを放す行事が行われたというが、先日、紹介した宮城県気仙沼市に鎮座する大島神社の磐座もタニシにまつわる伝承があった。タニシは古来、水田農耕となじみの深い貝であっただけに、これを農耕神の使いとする信仰が各地にあったようだが、大島神社の磐座もお皿様と同じように山頂近くの、あまり湧水などありそうもない場所にある。そのほか、大島神社には赤日子神社と同じく、ともに海上安全のような航海神の信仰がみられた。こうした両社の共通性は、黒潮ルートによる信仰の伝播も思わせてなかなか興味ぶかい。

 


 

赤日子神社

 愛知県蒲郡市蒲郡市神の郷町森58蒲郡市神の郷町森58に鎮座
Mapion

 創祀年代は不詳だが、後述のアカヒコムラの時代にまで遡る可能性がある。
 文献上は『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851)十月十日条に、三河国の十一神に従五位下が授けられた神階記事があり、その中に「赤孫神」の名が見えているのがもっとも古い。つづいて『日本三代実録』貞観七年(865)十二月二十六日条に従五位上、同貞観十八年(876)六月八日条に正五位下がそれぞれ授けられた記事がある。『延喜式』神名帳では、三河国宝飯郡の小社として登載されている。
 なお、『日本総国風土記』には「参河国宝飯赤孫郷赤日子神社圭田三十九束三毛田、所祭海神綿積豊玉彦神也、天智天皇甲戌九月、始奉圭田加神礼、有神家巫戸等」とある。

 現祭神は、彦火火出見尊、豊玉彦命、豊玉姫命の三柱で海神を祀り、上代のこの地域で活動した安曇系海人族によって奉斎されたと思われる。ちなみに三河国の式内社には、海や舟運との関係を強く感じさせるものがいくつかあるが、当社もその1つ。

当社はワダツミを祀る神社

 昭和三十七年に当社から東南に約100mはなれたミカン畑から、多数の弥生式土器が出土し、赤日子遺跡の存在が明らかになった。土器は寄道式と呼ばれる形式のもので、編年でいうと弥生後期の3世紀半ば、ちょうど卑弥呼が亡くなった頃のものだった。その後、平成十年代になってからの発掘調査で、赤日子神社の芝居小屋跡に隣接するミカン畑から、環濠の一部と思われる深さ約1m、幅2mの東西に延びる溝が検出され、当社境内から南東にかけての地下に、大規模な環濠集落の遺跡が眠っていることが明らかになった。遺跡の全容は解明されていないが、赤日子神社の創祀年代はこのアカヒコムラの時代にまで遡る可能性がある。

瑞垣の中を覗くと、本殿手前の石灯籠の根本にシャコ貝の貝殻が置いてあった。
ワダツミの故郷からもたらされたものだろう。

 いっぽう、「アカヒコ」の社名から、伊勢神宮に貢納された三河赤引糸との関わりを指摘する言説もある。
 『今昔物語集』に「參河の國に犬頭糸を始むる語」の説話もある通り、三河地方の養蚕は歴史が古く、このため、この地方には養蚕と関係の深い神社がいくつもある。また、三河湾沿岸部には伊勢神宮の神領が多く分布し、海を介して古くから伊勢神宮とのつながりが強かった。こうした背景からか、『領義解』などには伊勢神宮の神官の神衣は、三河赤引糸を使って織る旨の規定があり、荒木田經雅は『大神宮儀式解』でこれに着目して、「あかひこ」は「赤引(あかひき)」の転訛ではないかと記している。
 もっとも、赤引糸の「赤」は借字でほんらいは「明(あか)」であり、赤引糸は「光って美しい清浄な糸」の意であるが、そのいっぽう率直に考えれば「アカヒコ」は祭神名だろう。とすれば、意味上異なる2つの語の間に、転訛関係を想定するのはどうか、という気もする。

 当社は養蚕の守護神としても崇敬され、現在、当社拝殿の西側には養蚕祖神を祀った塚がある。

拝殿西側にある三河養蚕祖神を祀る塚

塚というか自然石を組んだもの

 平成「祭り」データにある由緒は以下の通り。

「総国風土記参河国宝飯赤孫郷赤日子神社圭田30束3毛田 天智天皇甲戌9月始奉圭田加神礼有神家巫戸等(1267年前) 延喜式神名帳に参河国宝飯郡六座並小赤日子神社文徳実録に仁壽元年冬10月乙巳授三河国赤孫神社従五位下(1076年前)三代実録に清和天皇貞観7年12月26日癸酉授三河国従五位下赤孫神従五位上(1062年前)国内神名帳に正二位赤孫大明神式内座宝飯郡早くより朝廷の御崇敬厚く国司領主地頭等尊敬も厚く寄進状十数通あり 明治5五年郷社に列せらる 明治12年7月改めて十有五ヶ村(三谷、牧山、五井、平田、小江、府相、新井形、竹谷、鹿島、拾石、西迫、柏原、清田、水竹、坂本)の郷社として崇敬せられたり 往昔当社より年々伊勢大御神の神衣を織奉る赤引の絲の調物を奉献りしにより其名著し当社は雨乞に霊験顕芳なりとて伊勢の多度神社と併称せられ又養蚕の守護神として其名高し 明治40年10月神饌幣帛料供進指定神社に列せられたり 大正5年三月14日に県社昇格す 昭和7年1月久迩宮邦英王殿下より神社号御染筆の額御賜進あらせらる 昭和9年10月」

赤日子神社社殿