神社の世紀

 神社空間のブログ

あまてるみたま考(4)【政治の季節】

2013年03月11日 23時58分15秒 | あまてるみたま紀行

★「あまてるみたま考(3)」のつづき 

 ところで『國學院雑誌』に『天照御魂神考』が発表されたのは1961年であるが、当時の時代背景について考えてみたい。


1960年の安保闘争で国会を取り巻くデモ隊

  1961年の直前にあたる1959~60年と言えば、安保闘争の嵐が吹き荒れていた頃である。この政治闘争はほんらい、日米安全保障条約の締結に反対するためのものであったが、条約の締結が強行採決されるとますますエスカレートするようになり、国会の周囲を大デモ隊が取り巻くなど、空前の政治の季節が到来した。こうした中で当初の条約締結に反対するという目的は後退し、それに代わって反米的な思潮が浮上してくる。そしてこれとパラレルに、思想界ではわが国の土着的な文化を見直す気運が高まった。たとえば『定本柳田國男集』の刊行がはじまったのがこの時期だったことなど、その現れの1つである

 ただし、それだけなら今日のグローカリズム(グローバリゼーションに対する反動として、ローカルな価値観が噴出してくること)と似たような現象だが、安保闘争は左派系が指導したためか、こうした土着文化の見直しは反天皇制的な色合いを強くもっていたのである。このため、「天皇=稲作=弥生」を突き抜けて再評価の対象となった土着文化とは「縄文」だった。縄文文化の本格的な見直しが進んだのはこの時期だったのである。最近、縄文というキーワードは(しばしば「共生」というそれと組み合わさって)きわめて広く流通しているが、こうした文化状況のえん源は安保闘争に求められるのだ。

 ちなみに近年の再評価が著しい岡本太郎は、1952年に『縄文土器論』を発表し、縄文土器を美術品として鑑賞することに先鞭をつけたとされるが、その中で彼は縄文を弥生に対置し、前者をより高く評価している。彼にあってこのスタンスは終生、変わらなかったが、1978年に行われた『縄文文化の謎を解く』という対談には、それがよく現れた次のような発言がみられる。

 ── 縄文土器の形式美についてですが、先ほど岡本先生は空間感覚だと言われましたが、他にどんな特徴がみられましょうか。

「たとえば隆線紋ね。はげしく縦横に躍動している。ときに追いかぶさり、ときに重なりあったりして下降し、旋回し、一条の線が永遠にくぐり抜けている。つまり定着していない。つねに流動しているんです。そういう感じは弥生式以降まったくなくなって、何か全部が定着したという感じなのに、縄文中期の隆線紋は永遠にくぐり抜け、無限に旋回している。その線自体がその時代の運命を象徴しているともいえますね。
 弥生式土器の紋様が動きを止め、ぴたっとおさまってしまっているのは、水田耕作が発達してからの農耕民の生活感覚がそのまま造形に出てきている、と考えるほか仕方がない。」 

「だからぼくは腹が立つんだけれども、縄文時代にあれだけ世界に類いのない個性を貫きながら、ある時代以降このくらい個性を失った民族もないくらい独自性を失っている。」 

「つまり日本人の中には、一方に形式主義的な定着した弥生の美意識があり、他方に永遠に流動して止まない縄文から始まる美意識とがあって、弥生の美意識は貴族とかインテリ社会では評価されるけれども、あの無条件に流動し旋回する縄文土器や浮世絵につながる美意識は、むしろ一般市井の庶民の中にあるんではないかと思う。」
  ・『岡本太郎著作集9太郎対論』p143~144

 岡本のこうした縄文再評価は容易に「弥生=天皇制」に対抗する「縄文イデオロギー」と解釈できるため、デモ隊に加わった側の人たちから歓迎された。 

 もっとも岡本という人はたんじゅんに右だ左だという枠組みに収まらないスケールをもっていたとおもう。それはこうした縄文文化再評価の気運に乗って、単なる芸術家以上の存在になっていたとはいえ、やがて彼が一大国家プロジェクトであった大阪万博会場を飾るモニュメントの製作を国から依嘱されたことによく現れている。たいした政治力だ。怪物だったのだ。


太陽の塔

 話を元に戻す。こうしてみると、天皇家の氏神であるアマテラスの前身として火明命=天照御魂神を再発見しようとした『天照御魂神考』が、天皇制以前の土着文化として縄文を再評価しようとするこうした思潮と軌を一にして執筆されたことがわかる。この論文には明らかに時代の産物としての一面があるのだ。また、岡本は松前より11歳年長だったが、両者とも戦時中は従軍して死線をさまよう経験をしたことも無視できない。 

 いずれにせよ、こうして再評価された縄文文化が現在では普遍的な価値を認められているのとどうよう、『天照御魂神考』で松前が発明した「隠された神」というタイプの言説もまた、古代史に興味をもつ人たちの間でこれからも再生産がつづくだろう(私もそのうちやるつもり)。

 

「あまてるみたま考(5)」につづく

 

 

 


あまてるみたま考(3)【隠された神】

2013年02月27日 21時59分26秒 | あまてるみたま紀行

★「あまてるみたま考(2)」のつづき 

 ところで一般的に日本神話とは、記紀のほか、『風土記』『古語拾遺』『先代旧事本紀』などの上代古典にみられる神話群のことを指して言われるが、こうした文献は(とくに記紀は)中央政府の意向によってかなり潤色が加えられたと考えられている。こうしたことを問題とする立場から日本神話批判の試みも多く行なわれているが、松前の『天照御魂神考』もその1つであった。ただしそこには、普通の日本神話批判には見られない際だった特徴がある。

 この論文は次のような一文で開始される。「『延喜式』神名帳をみて気がつくことは、天照御魂神という神格を祀る神社が、畿内諸処にみえることである。」 ── まず最初に神社のことが話題になるのだ。これが神話学の論文としてかなり異例なのである。

 普通、神話学の論文というと、世界各地に伝わる神話のモチーフに類似したものが見られないか博捜し、その比較検討から伝播の可能性を追求するものなので(いわゆる比較神話学の手法。吉田敦彦とか大林太良などが典型)、天火明命の神話を扱うなら、まずはその前提として上代古典に見られるこの神の神話を抽出するのが先決である。ところが、さっきも言ったとおり、記紀等に見られるこの神の記事は系譜関係だけで、その具体的な活動はほとんどみられない。したがって比較神話学の手法だけでこの神にアプローチするのは相当に難しかろう。

 いちおう、『日本書紀』一書(第八)には「天照国照彦火明命」、『先代旧事本紀』には「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」とあり、これらの表記には「天地を照らす」という意味の「天照国照」がついているため、ここからもこの神が太陽神であったことはある程度、示唆されたとおもう。しかし、もし根拠がこれだけだったら、現在のように天火明命が太陽神であるという説は広く知られるようにはならなかったとおもう。この神が太陽神であるということを示すにあたっては、やはり松前の論文によって「あまてる神社」という式内社群でしばしばこの神が祭神として祀られていることが示される必要ががあったのだ。神社による日本神話批判が可能であること、 ── これはなかなか盲点をついている。 

 さて、こういった神社による日本神話批判が成立する条件はどういったものであろうか。

 そこでは記紀紀等の編纂された時代よりも古い時期に創祀された神社がとりあげられなければならない。また、その神社の社伝や祭神が附会のたぐいではなく、古くから伝わっていることが確認できることも求められるだろう(とくに神社の祭神というのは後世になってよく変わるものなので、現在の祭神をそのまま鵜呑みにするのはたいへんに危険だ。)。

 ただし、これらはあくまでも神社による日本神話批判を外部から支えるテクニカルな条件にすぎないとおもう。むしろ内側からそれを支える条件が重要なのだ。それは次に説明する「隠された神」というタイプの言説の姿をとる。

 かつて古代世界で広い信仰を集めていた偉大な神があった。しかし、それを祀っていた政治勢力は大和王権に敵対したために滅ぼされ、その神への信仰も王権から危険視されるようになった。このため、表だってその神の祭祀を続けることはできなくなり、記紀神話からもその神の事跡は抹殺されるか、飛騨の両面宿儺のように恐るべき怪物としての零落した姿しか止めなくなっている。しかし、地方の神社で祀られている祭神や社伝までは中央政府の手も届かなかったので、現在でもそこにはその神の記憶がかろうじて残っており、そういった神社を探訪して伝承等を丹念に拾い出せば、その忘れられた神の本当の姿を蘇らせることができる。その神社に伝わる伝承は、その神の形姿を記紀による歪曲から救い出す証人なのだ、── このようなものが「隠された神」と呼びたいタイプの言説である。

 神社による日本神話批判を成り立たせるためには、多かれ少なかれこのタイプの言説を導入する必要がある。どうしてか?

 (前言を翻すようだが)通常、神社による日本神話批判などというものは考えられない。常識的に言って神社とは日本神話に登場する神々を祀るためのものだから、これを足場にいくら日本神話批判を行っても、A社の新聞記事を確かめるために、同じA社の新聞を何部も買い込んできてチェックするようなハメに陥ってしまう。また、もし地方の古い神社で記紀神話には見られない伝承に出合ったとしても、ローカルで荒唐無稽なものとみなされ、無視されることになるだろう。あまつさえ、それに注目して記紀神話の内容を疑ったりしたら、とんでもないトンデモとして失笑される。

 しかし、その神社で祀られている神が「隠された神」であったとすればどうか。その場合、その伝承は忘却された偉大な神を記紀による歪曲から救い出す証人であるのだから、それを足場に神社による日本神話批判が可能となる。つまり、「隠された神」タイプの言説とは、そうした社伝等に記紀神話の外部に出てメタ作業を行う足場としての地位を与えるのだ(いわば、A社の新聞記事を確かめる目的にとっての、B社、C社の新聞記事の地位を与えることになる。)。

 松前の『天照御魂神考』はこうした「隠蔽された神」タイプの言説の嚆矢だったとおもう。そのことがもっとも先鋭化するのは、天火明命がプレ・アマテラスだったことを示唆する箇所である。

 すなわち松前は、天火明命が尾張氏の祖神であることから、もともとこの神は伊勢から尾張にかけての海域で活動していた海部たちの間で信仰されていた神であったと考えた。そしてその上で、伊勢で祀られているアマテラスは新しい神であり、ほんらいはこの海部たちの信仰する男性太陽神が広く伊勢湾沿岸で信仰されていたが、やがてそれが大和朝廷によって皇室神話の中に吸い上げられ、伊勢神宮の整備が進行すると共に、皇祖神アマテラスへと昇格したとした。

 ここには、アマテラスが記紀における唯一の太陽神となったため、そのモデルとなった天火明命の神話が隠された可能性が示唆されている。記紀神話にこの神の活動の記述が乏しいのも、こうした事情によってそれが意図的に取り除かれた可能性も考えられよう。

 

あまてるみたま考(4)」つづく

 

 


名前の大胆すぎる式内社はとても巨岩好き(2)【天照大神高座神社(大阪府八尾市教興寺)】

2013年02月07日 21時25分04秒 | あまてるみたま紀行

★「名前の大胆すぎる式内社はとても巨岩好き(1)」のつづき

 そう思ってこの山のしゅうへんに古そうな神社がないかと調べると、南麓に五社大明神社という神社が見つかった。式内社ではないし、国内神名帳にも登載はないが、愛知県の埋蔵文化財地図では現社地のやや北方を古墳時代の祭祀遺跡に指定している。かなり古い神社だろう。ということで、とりあえずこの神社に注目してみる。


五社大明神社
Mapion

 『愛知懸神社名鑑』によると当社は「昔、熱田神宮の高倉明神を祀っていたので高倉地と呼ばれた。また熱田高蔵宮の奥宮であったとも伝える。明応二年(一四九三)再建の棟札があり、承応四年(一六五五)にも再建したと。明治五年、村社に列し。同四十年十月二十六日、供進指定を受けた。同四十五年、同所の日吉神社と、大正七年、近くの高蔵社と厳島社を合祀した。」という。


五社大明神社
社頭のふんいき


社殿


同上

 この由緒にある「熱田神宮の高倉明神」とか「熱田高蔵宮」というのはさっき紹介した高座結御子神社のことである。愛智郡の式内明神大社で、その創祀は熱田神宮と同じ頃までさかのぼると言われる。おなじく式内明神大社となっている日割御子神社と孫若御子神社とともに熱田神宮の御子神とされ、現在はその摂社であるが、他の二社が熱田神宮の神域内にあるのに対し、当社だけは神宮から北に800mほど離れた高蔵の森の中に鎮座する。境内は高蔵貝塚や高蔵古墳群といった遺跡群の所在地として知られ、古代人の著しい活動の跡がみとめられる。その奥の院が五社大明神社だというのだ。


高座結御子神社
Mapion


本殿


境内の古墳

 しかし、五社大明神社の現祭神は大碓尊、素盞嗚尊、菊理比売命、日本武尊、天目一命の五柱である。いっぽう、これもさっき紹介したとおり、高座結御子神社の祭神は高倉下命なので、その奥の院なら、五社大明神社も高倉下命を祀っていなければおかしい。 

 あまつさえ、境内にあった「五社大明神社の謂」という石碑には、「社伝は明らかではないが祭神がいずれも尾張氏の祖神であることより推して、その創立の古いことが知られる。創立当初の位置は不明である。明応二年(一四九三)再建の棟札があり、大永八年(一五二八)今の地に遷宮されたと伝えられるも、いずれの地からは不明である。」などとあった。 が、しかし、五社大明神社の祭神はいずれも尾張氏の祖神ではない。そもそも、大碓尊と日本武尊が兄弟である以外、この五柱にはまったく脈絡がなく、出鱈目に寄せ集めたようなメンバーである。はたして本当に往古からの祭神なのだろうか。あるいは、石碑のテキストの作者は、何か別の根拠に基づいてこれを書いたのではないか(例えば、当社には祭神が尾張戸神社と同躰であるという秘伝がある、とか。)、などとも疑いたくもなる。創祀年代だけでなく、最初に鎮座した場所も分からない等々、知れば知るほどつかみ所がなくなる神社だ。 

 そこで今度は配祀神に注目する。当社の配祀神は大己貴命、高皇産霊尊、市杵島姫命だが、その中に高皇産霊尊が入っている。このことは上田百木や栗田寛が高座結御子神社の祭神をこの神としていたことを想起させる。何か関係があるのではないか。 

 さきほど引用した由緒の最後に「(明治)四十五年、同所の日吉神社と、大正七年、近くの高蔵社と厳島社を合祀した。」とあったが、おそらく当社の配祀神はこの合祀された神社で祀られていたものだろう。その場合、合祀の順番と配祀神の順番はリンクしているようだから、高皇産霊尊は高蔵神社という神社の祭神だったことになる。では合祀される前の高蔵神社はどこに鎮座していたのか。 

 高蔵(たかくら)山の南麓で五社大明神社からもほど近い場所に高蔵(こうぞう)寺がある。中央本線の駅名としておなじみの寺院だ。さて、『尾張国名所図会』には次のようにある。「高蔵社は(高蔵)山頂にあり、俗に熱田高蔵宮の奥院と称し、其供僧を高蔵寺と云ひ、開創不詳、永正七年、僧玄慶中興とぞ。」
 この高蔵社が高蔵神社のことであるのは間違いないが、これを見ると五社大明神社が高座結御子神社の奥の院であるとか、そのために高倉地と呼ばれたという伝承は、もともと高蔵山の山頂にあったこの神社に伝わっていたものとわかる。それが合祀の結果、現在のように五社大明神社の伝承として伝わるようになったのだ。


高蔵寺

承平三年(933)の創建と伝わる天台宗山門派の寺院
灯明山を号し、かつては十二坊があったのが永禄の頃、
兵火に架かって焼け残った一坊が、現在の高蔵寺という
本尊の薬師如製造は平安後期の作

 高座結御子神社の奥の院と伝わる高蔵神社で、高皇産霊尊が祭神として祀られているということは、もしかすると前者の祭神がこの神であるとする伝えがあり、そのことが上田百木の考証に影響したのかもしれない(とは言っても、社名がたまたま高皇産霊尊の神名と似ていたから言い出されたにすぎないとは思うが。)。

 

名前の大胆すぎる式内社はとても巨岩好き(3)」につづく

 

 

 


名前の大胆すぎる式内社はとても巨岩好き(1)【天照大神高座神社(大阪府八尾市教興寺)】

2013年02月06日 21時59分46秒 | あまてるみたま紀行

 『延喜式』神名帳 河内国高安郡に「天照大神高座神社 二座 並大社」とあり、大阪府八尾市教興寺にある同名社がこの神社に比定されている。平成祭りデータによれば、「当社は元伊勢国宇治山田原に御鎭座ありましたが、今より約1500百年余年前雄略天皇23年当地に御鎮座になりました。古来皇室、国民の崇啓頗る厚く、天皇の行幸、奉幣数次に及び清和天皇の貞観元年には神階正一位を授け給ひ、醍醐天皇の延喜の制に官幣の大社に列し給ひし等御事歴高大なる古社であります。」という。


天照大神高座神社
Mapion

 この神社は生駒山系の岩盤が浸食されてできた谷の中に鎮座し、社地のそこかしこにはむきだしの巨岩が見られる。この岩盤に岩窟があり、本殿はその中に納まっているが、『河内国名所図会』などを見るとその外観はあからさまに女陰状である。当社の祭祀の源流は、この陰石を神体とした原始的な自然信仰にもとめられるだろう。


社殿


ギギたる巨岩


本殿は岩窟の中にあるというが、現状ではよくわからない

 それにしても皇祖神アマテラスの名をそのまま社名につかっているのは、式内社では当社だけだ。『式内社調査報告』の棚橋利光は「天照大神高座神社といふ名前は大胆な社名と思ふ。」と述べているが、たしかにこれには引っかかるものがある。しかも神名帳には「元號春日戸神」、すなわち元は春日戸(かすがべ)神という名前だったと注がしてあるのだ。このため、棚橋は天照大神高座神社と春日戸神社という別々の神社が併存していたと考えたが、そのいっぽう、『日本の神々』の大和岩雄は、もともと1社の神社であったが、社名の変更があったと考えた。どちらかといえば後者のほうが率直な解釈だと思うが、しかしその場合はどうしてそのような変更があったかが問われるだろう。が、この疑問はしばらく措く。

 平成祭りデータによれば現在の祭神は天照大神のみだが、神名帳には二座とある。もう1座はどんな祭神を祭っていたのだろうか。これにはいろいろな説があって、例えば『神社覈録』は伊勢津彦命と伊勢津姫命の二座と考証している(つまり天照大神は祀っていなかったということになる)。

 伊勢津彦というのは『伊勢国風土記』逸文に登場する伊勢の土着神のことだが、この説は伊勢の高倉山(外宮の裏山)に伊勢津彦の住居と伝わる岩窟があるという『神宮雑事録』の記事から言い出されたものらしい。この岩窟は高倉山の山頂近くに現存するが、高倉山古墳という6世紀後半に造られた円墳の横穴式石室である。その規模は全国有数で奈良の石舞台古墳にも匹敵するというが、鎌倉期には開口していたらしく、かつては天照大神が籠もった岩戸であるとか伊勢津彦の住居などと言われていた。天照大神高座神社は伊勢神宮で祀られている皇祖神の名前がつき、社地では大きな岩窟を祀っていて、あまつさえ社名に「たかくら」とあるため、こうした共通項を介して伊勢の高倉山にあるこの岩窟の伝承が附会されたものだろう。

 なお、『特選神名牒』は天照大神と高蔵神の二座で、後者は伊勢津彦のことであるとしているがこれもどうだんである。

 いっぽう、高皇産霊大神とする説もある。これは上田百木が尾張国愛知郡に式内明神大社の高座結御子神社という神社が鎮座することから言い出したもので、『神祇志料』もこれにしたがっている。しかし、高座結御子(たかくらむすひみこ)神社の祭神は高倉下命であり、高皇産霊神ではない。これでは社名が高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)に似ているのと、「たかくら」という社名が共通していることから言い出された単なる附会になってしまう。しかし、『神祇志料』の栗田寛がそんな凡庸な説に荷担するだろうか


高座結御子神社
ふきんは名古屋の中心部に近い市街地

 そこで注目されるの『日本書紀伝』の鈴木重胤が、当社を尾張国春日部(かすがべ)郡から遷祀されたものと考証していることである。この春日部郡は現在の愛知県春日井市、瀬戸市、尾張旭市、守山区、名東区等を含む範囲のことで、天照大神高座神社が元は春日戸(かすがべ)神を号したことから言われているのは言うまでもないが、神名帳は春日井郡内に物部神社という神社を載せているいっぽう、天照大神高座神社がある高安郡もすぐ隣は物部氏の本拠地のあった渋川郡があり、しゅうへんには物部系の関係氏族が祀った古社が多く分布することなども傍証されている。ちなみに、高安郡の隣の若江郡には渋川神社という式内社があるが、尾張国にも、春日部郡の隣の山田郡にやはり渋川神社という式内社が鎮座する。
 では、尾張国春日部郡から遷祀されたとする場合、当社の元社は郡内のどこにもとめられるだろうか。

 春日部郡内の式内社にそれらしいものは見当たらない(非多神社、乎江神社、外山神社、片山神社、訓原神社、牟都志神社、味鋺神社、物部神社、伊多波刀神社、高牟神社、内内神社、多気神社の13社がある。物部系が多い。)。しかし、春日井市の東部に広がる低い山地部が庄内川に寄った辺りに標高194mの高蔵(たかくら)山という山があり、これが天照大神高座神社の「高座(たかくら)」と関係ありそうな気がする。


高蔵山
Mapion

名前の大胆すぎる式内社はとても巨岩好き(2)」につづく

 

 


あまてるみたま考(2)【ということで、この10社のうち】

2013年01月28日 23時00分02秒 | あまてるみたま紀行

★「あまてるみたま考(1)」のつづき

 いっぽう、(4)(5)(6)(10)いがいの神社についても詳しくみてみる必要がある。 

 (2)水主神社(神名帳には十座とある。)の祭祀氏族はこの地にいた水主直だったと考えられるが、『新撰姓氏録』山城国神別には「水主直 火明命之後也」とあり、ここから水主坐天照御魂神社はほんらい、この古代豪族が天火明命を始祖とした10代の祖神たちを祀ったものと考えられる。ちなみに、同じく『新撰姓氏録』山城国神別によれば、当社のある「水主村」にいた榎室連がやはり天火明命を祖神としている。 


水主神社


同上

 この他、(1)木島坐天照御魂神社については『神祇志料』、(3)他田坐天照御魂神社については『特選神名牒』『神名帳考証』(延經)が、それぞれその祭神を火明命としている。


木島坐天照御魂神社


木島坐天照御魂神社の三鳥居
当社のシンボル


他田坐天照御魂神社

 (9)の阿麻氐留神社については書き始めると長くなるので説明ははぶくが、結論から言うと当社で祀られている天日神命という祭神は対馬系の日神である。が、これがまったく天火明命と関係がなかったかというと、両者の間にはある程度、習合が進んでいたフシもみられるのである。


阿麻氐留神社


同上

 ということで、この10社のうち、祭神が火明命とする徴候の全くみられないのは(7)天照大神高座神社と(8)伊勢天照御祖神社だけということになる。そして、この2つの神社は伊勢との強い関係を感じさせるという共通点がある。すなわち、(8)は社名に「伊勢」がついているし、(7)も伊勢神宮で祀られている皇祖神の名が社名についている(当然ながら祭神もアマテラスである。)。しかも後者には伊勢国宇治山田原に鎮座していたものが、雄略天皇二十三年に遷座してきたとか、伊勢津彦と伊勢津姫の二座が伊勢国度会郡の高倉山から勧請されてきたといった伝えがあり、伝承面でも伊勢とのつながりが強い。このような関係は、ほかの8社にはほとんどみられないものであり、この二社は「あまてる神社」の系列というより、隠岐の伊勢命神社とか備前の伊勢神社をはじめとした「いせ神社」の系列に属するのではないか、という疑いを生じせしめるものである。以下ここではとりあえず(7)と(8)を「あまてる神社」の系列社から除外する(もっとも(7)が「あまてる神社」の系列でないかどうかは保留としておく。)。


天照大神高座神社

 こうしてみると、「あまてる神社」という式内社群を貫通する赤い糸として、天火明命という神名が同定されてくるのである。「あまてる」は太陽光線の霊格を表す名前と考えられるため、ここから松前は前述の『天照御魂神考』で、天火明命は太陽神であると説いた。

あまてるみたま考(3)」につづく