★「伊吹山の神はだれですか(8)」のつづき
それにしても、この伊吹神社の信仰が本当に古代豪族の息長氏によって湖北地方から持ち込まれたものなら、当社はたいへん古い由緒をもつことになる。そんな古社なら式内社であってもおかしくない。そして『延喜式』神名帳の近江国栗太郡には「意布伎神社」という神社の登載があり、『式内社調査報告』では所在不明とされているのだ。伊吹神社のある場所も古代の栗太郡内なので、ひょっとして当社はこの所在不明の式内社なのではないか?、という疑いが生じる。そこでこの問題について検討してみよう。
草津市矢倉の伊吹神社
ひょっとして式内社?
まず、「意布伎」の読みだが、九条家本は「いぶき」である。これに対し『神社覈錄』は「おふき」で、『特選神名牒』は「おぶき」とする。九条家本は平安初期に書写されたもので、『延喜式』の写本としては現存する最古のものだが、そこに「いぶき」とあることは看過できない。しかし、これから述べる追来神社との絡みで「おふき(おぶき)」説もそれなりに侮れない。
いっぽう、さっきからも言っているようにこの式内社は所在不明とされている(少なくとも『式内社調査報告』では)。だが、論社とされるものが全くない訳ではない。それどころか、この式内社の後裔社ではないかとされる神社は4社もあるのだ。
そのひとつは、栗東市綣(へそ)にある追来(おうき)神社である。
栗東市綣にある大宝神社
追来神社は現在、この神社の境内社となっている
大宝神社
社頭のふんいき
大宝神社の四脚門
この神社は現在、大宝神社という神社の境内社だが、大宝神社は大宝元年(701)の疫病流行の際、防疫神として素盞鳴尊と稲田姫命を追来神社の社地に勧請したもので、当社はそれ以前からこの地で祀られていた地主神であった。「追来」という社名も、「意布伎」を「おふき」と読んだ場合の音に一致し、また鎌倉初期に制作され、現在、国の重要文化財に指定されている狛犬の台座には「意夫伎里惣中」と墨書されている。
境内社となっている追来神社の社殿
国の重要文化財に指定されている
ただし、大宝神社の境内社に「追来」という名のそれが登場するのは明徳二年(1493)の『相撲頭役里々次第事』が所見であるいっぽう、弘安六年(1283)に建立された追来神社々殿の棟札には「若宮殿御造替事」とあり、少なくとも弘安頃は「追来」ではなく「若宮」と呼ばれていたことになる。また、『式内社調査報告』で意布伎神社の項を執筆した宇野茂樹氏は、前述の狛犬台座にある墨書きについて「この六字の墨書きだけでは意布伎神社をこれに当てるのに十分な説得力をもたないし、また追来神社即意布伎神社とするのも早計である。」と述べている。
なお、当社の祭神は『帝王編年記』に登場する伊吹山の神、多々美彦命である。ただし、創祀の頃から祀られていたかどうかはよく分からない。
祭神は多々美彦命
タタミヒコは『帝王編年記』に登場する伊吹山の神だ
いっぽう、草津市志那町の志那神社も式内「意布伎神社」であることを主張している。
松並木の参道
境内入口
今きた参道を振り返る
志那神社々殿
永仁六年(1298)の墨書きが残り、
国の重要文化財に指定されている
同上
同上
この優美な建物は瑞垣がないので間近から鑑賞できる
永仁六年(1298)の墨書きが残り、国の重要文化財に指定されている当社の本殿を解体修理した際、床下からそれ以前の社殿で使われていたと思われる礎石が発見されたが、鑑定によると平安期のものであるという。こうしたことは当社が相当の古社であることを示すものだろう。
旧社殿で使われていた礎石
様式から平安期のものとわかるのだという
祭神は風神の志那津彦命、志那津比売命、伊吹戸主命であり、鎮座地の「志那」という地名も祭神名からきているものと思われる。ただし、『日本歴史地名大系』には、当社はもとは「白山大権現社」と呼ばれていたとあり、だとすると現祭神に菊理比命などの名前が見当たらないのが不思議である。
「伊吹山の神は誰ですか(10)」につづく
どうもです。