神社の世紀

 神社空間のブログ

『シュレック』のアイツ?

2011年05月31日 01時22分11秒 | その他

 先月のはじめ、徳島市上八萬町にある宅宮神社の随身門で奇妙なものに出会いました。  

 

 

  そんだけ。(-_-;)

 


 

 

 

 

一応、言っておくと宅宮神社は
『延喜式』神名帳 阿波国名方郡の
「意富門麻比賣神社」に比定される古社で
日本唯一の家宅の神として信仰を集めています。

 

 

 

 

 


緑の真珠【大島神社(宮城県気仙沼市)】

2011年05月04日 01時31分15秒 | 陸前の神がみ

 「緑の真珠」は地元出身の詩人、水上不二が気仙沼湾に浮かぶ大島のことを、「大島よ 永遠に緑の真珠であれ」と讃えた詩の一節で、この島の代名詞となっている。

 数年前の九月、この島に渡ったのは、陸奥国桃尾郡の式内明神大社「計仙麻大嶋神社」の有力な論社となっている大島神社という神社に参詣するためだった。しかし訪れてみると大島神社はあまり大きな神社ではなく、式内明神大社にしては風致もいささか乏しかった。むしろ、神社より船から眺めた大島の景色や、山頂からの眺望のほうがずっと印象に残っている。

大島と亀山

 

亀山々頂からの眺め(北東のほう)

同上(南のほう)

 大島へは大島汽船の旅客船で渡らなければならない。船が出港し、最初は近くを伴走するカモメの大群に気を取られていたのだが、やがて大島が近づいてくると、その景色の美しさにシビレた。カキやホタテの生け簀がそこら中に仕掛けてある群青色の海に、緑滴る美しい島が浮かんでいる。しかもその色彩は油彩のように透明で輝かしい。まさに緑の真珠である。

本土から大島へ渡るまで間、船の横をずっとカモメの大群が伴走する

がおーっ

生け簀

 しかし、その大島も今回の地震による津波で大きな被害を受け、さらには大規模な火災が発生したり、全島で3500人近い住民のうち、一時は実に2000人もの人々が孤立したりと、痛ましい出来事が重なった。アメリカ海軍航空隊による空輸と、アメリカ海兵隊による支援活動がなかったら、島民の苦しみはさらに増していたことだろう。

 そういった中で、大島汽船の船も流され、島民の方々の足はどうなっているのか案じていたところ、4月28日付けの気仙沼大島観光協会のブログに次のような記事が載っていた。

「本日より広島県江田島市より無償貸与して頂いたカーフェリー「ドリームのうみ」が気仙沼~大島に就航しました。これで物流の道がひらけ大島の復旧・復興が前進すると思います。全国の皆様、江田島市の皆様に心から感謝申し上げます。」

「大島汽船の最新の時刻表です。
明日から大型連休。いつもなら家族連れなどで賑やかな大島!!
今年は復旧・復興に向けた連休になります。
がんばろう!!!!!!!!」

 大島の方々、がんばって下さい。江田島市の方々、私からも感謝を捧げます。

 

 


 

 

【大島神社プロフィール】

社頭の様子

島神社は大島北部に聳える亀山(標高235m)の8号目くらいに鎮座している。
住所は宮城県気仙沼湾亀山1
Mapion
リフトで行ける亀山々頂には観光客が多く集まるが、
大島神社まで足をのばす人はあまりいないようだ

大島神社々殿

俗称は「御田神様(おたのかみさま)」
海上安全とともに田の神の信仰がある
祭神は倉稲魂神

 

 当社は陸奥国桃生郡の式内社、「計仙麻大嶋神社」の論社である。とうがい式内社の記録上の初見は、『三代実録』貞観元年(859)に陸奥国の志波彦、拝幣志、零洋崎、志波姫などの諸社とともに昇叙した記事が見えることで(従五位下→従五位上)、『延喜式』神名帳では明神大社として登載されている。渡會延經の『神名帳考證』や伴信友の『神名帳考證』をはじめ、『封内名蹟志』、『新撰陸奥風土記』のような近世の代表的な地誌なども当該式内社をこの神社に比定していており、最も有力な論社と言えるだろう。

 ちなみに、陸奥国には式内社が100社、登載されているが、そのうち明神大社は15社である。
 陸奥国にある式内社というと、何となく大和朝廷が中央から持ち込んだ機内系の神がみが多そうな感じがするが、『日本の神々』にある新野直吉の「東北に伝来した神々」によれば、陸奥100座、出羽9座の式内社のうち、外来神は24座のみで、残りは在来神82座、不詳3座という。しかもこのうち、明神大社となっているのは明らかに地主神ばかりで、大島神社もまた、機内勢力がこの地に及ぶ前から在地の人達によって祀られていた地主の神だったように思われる。

 当社の神体は一枚岩の巨岩だが、社殿の中に格納されている。拝殿の中に上がらせてもらうと、奥のほうにタテ2m×ヨコ4mほどの赤黒い岩が祀られていた。楯を横にしたような外観で、上部には注連縄がしてある。同じような色合いの岩をこの島の海岸にある岩場で見かけたため、大島の骨格を形作る岩石の一部が露頭したものらしい。この島の地霊を祀るに相応しい磐座だ。神体の画像のアップは遠慮しておくが、本殿背後に同じ種類と思われる岩があったので、代わりにその画像を下に掲載しておく。

本殿の背後にあった岩
社殿の中で祀られているものと同じ種類の岩であるように見えた

海岸の岩場

 気仙沼の語源ともなった、「計仙麻大嶋」の「計仙麻(けせま)」は、アイヌ語による複数の解釈が提出されている。あるいは、当社を最初に祀った古代人も、現在のアイヌ人の先祖に当たる人たちであったかもしれない。

 『日本の神々』の三崎一夫は、当社の性格について次のように論考している。

「大島は、気仙沼湾の中央にある周囲二二キロに及ぶ大きな島であり、昭和三十年までは大島村として一村をなしていた。その北部にある亀山の山頂からは、陸中海岸国立公園に指定されている四囲の景観の眺望をほしいままにすることができる。当社の鎮座するこの亀山は海上航行の目標にされており、手漕ぎ漁時代は、沖合の船から見てこの山が水平線より没する海域を「亀山つぶし」と呼んでいた。
 このような山が漁民によって聖地とされることは、牡鹿郡の金華山にその顕著な例をみることができる。現在当社は祭神を倉稲魂としているが、往事この神は太田神と呼称されていた。『封内風土記』も田ノ神または「島明神」と記しており、お田の神と考えられ生産神として崇められていたことを知ることができる。しかし祭置された当初は海の神、すなわち航行の安全と大漁を祈る神であったと推察される。」
 ・『日本の神々 12 東北・北海道』p99~100

 気仙沼湾はこの島が外海からの楯となってくれるので、あまり荒れることはないという。また、この島の最高峰、亀山は漁労に従事する者にとって、洋上から船の位置を見定める「山アテ」に使われる。そのような島が漁民達たちからの信仰を集め、亀山の高所にある岩石を神体に、その地霊が祀られるようになったのは自然なことだろう。

 いっぽう、三崎も触れているとおり、近世の当社は太田神(御田神の転訛だろう)、御田神、田ノ神ノ社などと呼ばれ、現在でも通称は「御田神様(おたのかみさま)」である。祭神が倉稲魂神で、田の神としても信仰を集めている。このことについて、『平成祭りデータ』にある由緒から、関係する部分を引用しておく。

「大島神社は別名『御田の神様』と言われ、御祭神は『倉稲魂神』という。なぜ、此の四方を海で囲まれた大島の神社が『御田の神様』なのか。大島神社の伝承の一つに、神霊として奉る巨大な石の上にお田植の季節になると『たにし』が上り、毎夜青い光を放っていたと言う。昔の人々がこう言う異変事を神事として祭ったことから、お田の神様と言う名がつけられた。地理的には農耕の神としてよりも海上安全、大漁満足を祈願する海の人々の参拝が多いが、家内安全、交通安全、商売繁盛祈願の人々の参拝も絶えない。」

 タニシが田の神であるとか、田の神の使いであるという信仰は各地に見られるが、当社のふきんには湧水などがみられないため、これはちょっと不思議な伝承である。。

亀山